第2話
「ただいま」
帰宅した私に、答える声はなかった。夫がいるのは、リビングから聞こえるテレビの音声が教えているというのに。
「猫、可愛かったよ」
脱いだ上着とバッグをソファに置いて。私は夫の前に立つと携帯端末を突き付けた。そこには、子猫の動画が映されている。お乳を飲んだ後、満足そうに眠るところ。追いかけっこや取っ組み合いに興じる姿。大欠伸が覗かせた真っ赤な口の中と小さな小さな白い牙。
胸が苦しくなるほど可愛らしい姿だと思うのに、夫はちらりと目を向けるだけだった。とはいえテレビに気を取られているように見えるのは振りだけだろう。
「ほら!」
見え透いた真似は許さない、と。私はしつこく画像を突き付ける。身体でテレビの画面を遮ることでやっと、彼は渋々ながら子猫の姿を目に収めてくれた。
「オレンジの首輪が女の子だって。あともう一匹、男の子──ブルーかグリーンの首輪の子にしようかな、って」
「二匹も? 大変じゃない?」
ようやく夫と目を合わせることができた。その口から出たのは、懐疑的な問いかけだったけれど。
「でも、お留守番が寂しくない方が良いでしょ? 猫ってトイレの躾もいらないそうだし。じゃれ合うところを見れるんだよ? 絶対可愛いじゃない?」
「あなたが良いなら良いけど」
気のない相槌に、私は意識して笑顔を保たなければならなかった。私がひとりで沢田さんを訪ねることになった理由が、これだ。夫は猫なんてどうでも良い──何ならずっと、消極的に反対しているのだ。
「じゃあ、ブルーの子にしようかな。この子の方が、よく遊んでて元気そうだったの」
夫が私の心を折ろうとしているのは分かっている。乗り気でない体を見せて、私がやっぱり止めようか、と言い出すのを待っているのだ。まったく子供っぽい拗ね方だ。──そんな手に、乗って堪るものか。
「ブリーダーさんに連絡するね。主人と相談して決めました、って」
「……好きにして」
睨むようにして、けれど口元だけは微笑んで。挑戦的に宣言すると、夫はぼそぼそと呟いてまたテレビの方を向いた。この件に関して、彼は私に何も言う権利はないのだ。何か言おうと口を動かすことはあっても、私の一瞥で夫は黙ってしまう。意見できる立場ではないのを、彼も承知しているのだ。従順な態度は、必ずしも私を満足させないけれど。
お母さん猫がおっぱいあげてたよ。今でも猫は子供を産めるんだね。
口から出そうになった言葉は、辛うじて呑み込んだ。夫を傷つければほんの少しだけ留飲は下がるかもしれないけれど、でも、それ以上に私の心が抉られる。何をしても私のお腹に子宮が戻ることはない。それなら、余計なことを言ってお互いに嫌な気分になることはないだろう。
* * *
現代の私たちは、夫婦で話し合った上で産科に赴き、計画的に子作りに臨む。生まれる子供はすべて望まれた生命なのだ。あらゆる意味で、今の時代に生まれた私たちは進歩しているし恵まれている。
「無精子症です」
医者の言葉を聞いてなお、私の信仰は揺らがなかった。これが昔だったら、不妊の原因の特定にどれだけ時間を費やしていたことか。今なら取るべき手段もすぐに分かるはずで。技術も進歩しているはずで。大した問題ではない、だろう。
「あの……では、えっと、どうすれば良いんでしょうか……?」
医者は穏やかな笑顔だった。夫は、戸惑いながらも次に進もうとしてくれていた。何だかんだでどうにかなるものだろうと、私は信じようとしていた。
「精子が、精巣にはあるのか、それともまったくないのかを調べないと、ですね。閉塞性と非閉塞性があって──」
医者によると、こんなに医学が進んだ現代でも、方法としては百年前とさほど変わっていないのだそうだ。即ち、精巣を切開して精子の有無を調べる。受精能力のある精子が採取できれば良し、できなければ、非配偶者間精子提供になってしまう。
「技術的には、細胞から精子を作るのも可能ではあるんですが。倫理的にね、まだ、制度が整ってなくて」
気の毒そうな表情と滑らかな口調を見事に両立させる医者を前に、私は、夫と落ち着かない目線を交わしながら待っていた。安心できる言葉がいつ出るのかと。医者は、麻酔や顕微鏡下での精子採取技術について、いかに安全かを丁寧に説明してくれたけれど、子供を持てるのか否か、はっきりして欲しかった。
「それは、これから探っていきましょう」
「そうですか……じゃあ、頑張らないとだね」
曖昧な言葉に落胆しつつも、私は隣に座っていた夫に微笑みかけた。当然のように取れる手段はすべて試すものだと思い込んでいたのだ。
「え、でも。ダメかもしれないんですよね? なのに切るんですか?」
でも、予想に反して夫は難色を示した。不確かな可能性に賭けるには費用や時間や心身の負担が惜しい。落胆するくらいなら、最初から精子提供にしたい、と。
「その辺りは、ご夫婦で相談なさってください」
頷いた医者ほど、私は冷静ではいられなかった。だってそれでは夫の子ではなくなってしまう。でも、と言い募ろうとした私を、夫はひと言で黙らせた。
「女の人は楽だから良いけど」
診察室から出た待合室で、お腹の大きな女性を見た。子宮除去手術を受けないまま成人して、生身の子宮で妊娠出産に臨む人は今時とても珍しい。とはいえ大事な身体には間違いないから、待合室にいた人たちは一斉にその女性に道を開け、席を譲った。ただ──私だけは、少しだけ遅れてしまった。夫の言葉が耳と胸に刺さったままで注意が散漫になっていて──
「あ、すみません」
「いえ、私こそ。あの、お大事に」
その女性のお腹に、手が触れてしまった。ぎこちなく会釈する私に、その女性は微笑んで通り過ぎていった。
ほんの一瞬の感触に、ひどく動揺した。羊水が詰まっているのだという知識はあっても、触るとあんなに硬いのは初めて知った。あれこそが本当の母なのだと、突き付けられた気がした。
ああやって身体を張って胎児を育むことが、私にもできたなら。不妊治療にあたって、犠牲を払うのが夫だけではなかったなら。診察室でのやり取りはまた違ったものになっていたのだろうか。
今の時代に生まれたのに、どうして子宮がある女性を羨んでしまうのだろう。
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