猫の臍は見えない
悠井すみれ
第1話
アメリカンショートヘアの子猫たちは、もう例の渦巻き模様を纏っていた。同じ模様の母猫のお腹で、五匹の子猫がもぞもぞと動き回り重なり合って乳を吸う姿を見ていると目が回りそう。
「今、生後一ヶ月です。可愛いでしょう」
ブリーダーの
「雄と雌、どっちが良いんでしょう?」
「うちの子はみんな良い子ですよ」
澤田さんが出してくれた麦茶のコップには、猫の足跡の模様があしらわれていた。ブリーダーをしているだけに、相当の猫好きなのが窺える。
「何なら二匹同時に、はどうですか?
「そうですね、その方が賑やかで良いかもしれませんね」
子供がいないことについて、澤田さんは気遣いの必要を感じていないようだった。無神経だとは思わない。今時、子供を持てない人はごく少ないのだから。私は胸に走る痛みを、麦茶をひと口啜る間にやり過ごした。
「決まってないのって、どの子ですか?」
「ええと、男の子だと、ブルーとグリーンの首輪の子。女の子は、オレンジの子だけなんですけど」
まったく同じ毛皮の色と模様の子猫たちは、首輪の色によって識別されているらしい。名前をつけるのは正式な飼い主の特権なのだ。
「雄と雌だと、避妊手術が要りますよね……?」
「ああ、避妊と去勢を済ませてからお渡しすることにしています。二ヶ月くらいで手術できるので、その後、ですね」
「そんなに小さい頃に手術しちゃうんですか……」
驚きと憐みと、一抹の非難が混ざり合った私の呟きに、でも、澤田さんはあっさりと笑う。
「発情前じゃないと意味がないですからね。人間だって、赤ちゃんの頃に取っちゃうでしょう? 同じことです」
「そういえばそうですね」
言いながら、私はそっと下腹を抑えた。そこにはごく小さな、ほとんど見えないくらいの古い傷痕がある。記憶にも残らない小さな頃に、子宮除去手術を受けた痕跡だ。
「昔は、人間の勝手だとか可哀想だとか、色んな意見があったそうなんですけど。今は、皆さんすぐに分かっていただけて──猫にとっても良い時代になりましたねえ」
にこやかに語る澤田さんには、きっと私のような穿った──あるいは捻くれた観点は思いもよらないものだろう。
人間だってお腹を痛めて我が子を産むことはもう──ほとんど──できないのに、動物がその権利を保持したままのは
そう思うと、私は子猫に埋もれる母猫にじっとりとした目を向けてしまう。私にはお腹を痛めて我が子を産むということはできないのに。こんなに小さな獣は、母になったという一点で私に勝っている。母猫よりもさらに小さなオレンジ色の首輪の子猫は、私にはない子宮をまだ持っている。
「ええ、本当に」
もちろん、猫と張り合うだなんて愚かな考えを口にしたりはしない。あまりにも突拍子もないし惨めだし、奇異の目を向けられるのはご免だった。だから私は微笑んで頷いて、猫の模様のように渦巻く思いを、麦茶と一緒に呑み下した。
* * *
すべての切っ掛けは、人工子宮による体外妊娠技術が確立したことだった。最初はもちろん不妊治療の一環として研究されていたその技術は、安全性が実証され、コストが下がるにつれて、女性を妊娠出産から解放する希望の星として注目されるようになっていった。肉体的な負担についてはもちろんのこと、産後という概念すらなくなるのだ。万全の体調で新生児との生活に臨めるし、キャリアに及ぼす影響もぐっと小さくなるだろう。
体外妊娠・出産が一般的な選択肢として普及し始めると、臍ナシ世代、という単語が流行語になった。人工子宮においては、胎児に必要な栄養を届けたり老廃物を代謝したりするのに、臍の緒に頼る必要はない。不格好な跡を持たないつるりとしたお腹は、新世代の象徴だった。
そして臍ナシ世代が人口の過半数を占めるようになった頃、更にもうひとつ、ブレイクスルーが起きた。女性の原始卵胞を休眠状態で保管し、任意の時期に卵子を造る技術の登場だ。
それも、当初は不妊治療や病気で卵巣を喪う人のために模索された技術だった。でも、対外妊娠が普及した社会においては、女性全般に注目された。だって、卵子の冷凍保存ならそれまでも選択肢にあったけれど、さらにそれより前の段階の原始卵胞からでも子供を作れるようになったのだから。
人工子宮にその技術が加われば──子宮や卵巣は、もはや不要な臓器ではないだろうか。幾らかのリスクや懸念はあるけれど、妊娠出産に加えて、女性の生涯の相当に長い期間に纏わりつく月経、それによって生じるストレスや生産性の低下と天秤にかけたらどうだろう? 物心つく前に将来の苦痛の源を取り除くことこそ、人道的ではないだろうか?
歴史や社会、保険の授業で、私たちは繰り返し教えられた。あなたたちのお腹の傷痕は、人類の進歩と女性の自由の証です。あなたたちの原始卵胞は、しかるべき施設で大切に保管されています。いつか大切な人と出会った時に、よく話し合って赤ちゃんを作りましょうね。
臍の代わりに下腹に小さな傷を帯びる私たちの世代は、幸運で幸福なのだ。かつてのどの時代よりも解放されて、自由な人生を謳歌するのが私たちの世代なのだ。切り取られた子宮も卵巣も、何ということもない。子供を持つ権利はそのままに、それに伴う苦痛を取り除いただけ。実のところ、私たちは何も失っていないのだ。
私はずっと、そう信じていた。
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