刑事、最後の仕事

大隅 スミヲ

刑事、最後の仕事

 男は自分の手の中にある黒鉄くろがねかたまりを見つめていた。

 小さくため息をつき、もう変えることのできない運命を受け入れる決心を固める。

 あと5分。それがタイムリミットだった。

 もう一度だけ、ため息をついた。

 ため息をつくとその数だけ幸せは逃げていく。

 以前、そんな話を聞いたことがあったが、心理学的にはため息をつくことで心をリセットできるため、やった方が良い行為だそうだ。

 男は少し震えた手で黒鉄の塊を持ち上げると、筒の先を自分の口の中へと導いた。


※ ※ ※ ※


 灰谷はいたにさんがいなくなった。

 突然、そんな話を聞かされた高橋たかはし佐智子さちこは、どうしたらいいのかとパニックになりかけていた。

 落ち着け、落ち着くんだ、佐智子。

 自分にそう言い聞かせて、ペットボトルの飲料水をひと口飲む。

 左腕にしている腕時計に目を向けると、時間が迫っていることがわかった。

 報告をしてきた制服姿の若い男に、灰谷さんの行きそうな場所を探すように指示をして佐智子も灰谷さんを探すためにその部屋を出た。


 灰谷はいたに由紀夫ゆきおは、佐智子の職場の先輩だった。短く刈り上げた白髪交じりのごま塩頭。首からは老眼鏡をいつもぶら下げている。愛煙家であり、たばこの値段が上がるたびに禁煙を口にしているが、一度たりとも有言実行をしたことはない。職業、警察官。警視庁新宿中央署盗犯係所属の巡査部長。それが灰谷さんだった。


「そっちにいたか?」

「いや、いません」

 刑事課の人間たちが総出で灰谷さんを探す。


 灰谷さんは本日をもって、定年退職を迎える。

 その送別会を刑事課員たちでやろうという話になっていたのだが、肝心の灰谷さんがどこかへ姿を消してしまっており、ちょっとしたパニックとなっていた。


 犯人を見つけ出すことに関してはプロフェッショナルの刑事たちが、本日退職をするひとりの刑事を見つけ出すことが出来ない。これはちょっとした問題であった。


※ ※ ※ ※


 灰谷由紀夫は誰もいない資料室にいた。鍵は内側から掛けてあるため、誰も入ってくることは出来ない。資料室には、過去の事件に関する資料が大量に保管されている。

 灰谷はその中からひとつのファイルを手に取ると、懐かしそうに中身を読みはじめた。


 その事件は、灰谷が新宿中央署に異動してきて初めて担当した事件だった。灰谷の所属する盗犯係は泥棒などの窃盗犯罪の捜査などを主に担当する部署であり、そのファイルに書かれている人物は空き巣の常習犯の男だった。

 灰谷は3日間の張り込みを経て、その空き巣を現行犯逮捕した。

 犯人の男は、灰谷と同じぐらいの歳であり、まだまっとうな職に就こうと思えばつける年齢でもあった。

 取調室で男の生い立ちを聞き、同情しそうにもなったが、罪を犯していることは事実であるため灰谷は心を鬼にして男を検察に引き渡した。

 結局、その男は刑務所を出所した後も再犯をし、再び灰谷に逮捕されている。


「なつかしいな」

 灰谷はそう呟くとファイルを閉じて、元のあった場所へ戻した。


 小さく電子音が鳴った。灰谷が左腕にしているデジタルウォッチだった。

「もう時間か」

 寂しそうにいうと、座っていた椅子から立ち上がった。

 部屋を出る際、灰谷は頭を深々下げてから、資料室の鍵を閉めた。


※ ※ ※ ※


 刑事課強行犯捜査係長である織田おだ智明ともあきは、新宿中央署の裏にある駐車場へと繋がる非常階段にいた。

 普段喫煙者たちは、ここに出て煙草を吸っている。そのため、踊り場には灰皿代わりの缶詰の空き缶が針金で固定されて置かれているのだが、空き缶の中に灰谷の吸っている銘柄は入ってはいなかった。


 織田は禁煙して3年目になる。

 この場所に来ると無性に煙草を吸いたくなることがあったが、いまは何も感じなかった。

 よくこの場所で灰谷と一緒に捜査の話をしながら煙草を吹かしたものだ。

 そんな思い出に織田は浸る。


「あれ、織田さん」

 一つ上の階のドアが開き、部下である高橋佐智子が姿を現す。

 彼女は強行犯捜査係の巡査部長であり、織田の部下でもあった。


 高橋は鉄階段を降りながら、織田に話し掛けてくる。

「灰谷さん、みつかりましたか?」

「いや、ここには来ていないようだ」

「そうですか。どこへ行っちゃったんでしょうね、灰谷さん」

「まあ、あの人も色々とやり残したことがあるんじゃないのか」

 織田はそう答えながら、灰谷の居そうな場所を考えていた。


「資料室とか、どうだろうか」

「あ、その可能性ありますね。ちょっとわたし行ってみます」

 高橋はそう言うと、非常階段を駆け下りて行った。


※ ※ ※ ※


 灰谷が刑事課の部屋に戻ってきた時、そこはもぬけの殻となっていた。

 なぜ誰もいないのだろうか。そう思うと同時に、その方が好都合だとも思えた。


 刑事課の部屋を抜けて、奥にある小会議室へと入っていく。

 小会議室のブラインドは下りているため室内は薄暗かったが、電気をつけることなく灰谷は一番奥にあった椅子へと腰をおろした。


 もう、時間がなかった。

 灰谷はポケットから黒鉄の塊を取り出すと、手に取ってその塊を見つめた。

 小さくため息をつき、もう変えることのできない運命を受け入れる決心を灰谷は固める。


 腕時計へと目を落とす。

 あと5分。それがタイムリミットだった。

 もう一度だけ、ため息をついた。


 灰谷は少し震えた手で黒鉄の塊を持ち上げると、筒の先を自分の口の中へと導いた。


※ ※ ※ ※


「灰谷さんっ!」

 会議室の扉を勢いよく開けた佐智子は、一番奥の席に灰谷が座っていることを確認して声を掛けた。

 佐智子が会議室の中に入ると、後ろにいた他の刑事課員たちも一斉に会議室へとなだれ込んでくる。

 30名近い刑事課員たちが灰谷を囲む。

 灰谷は椅子に腰をおろし、口に黒鉄の塊――拳銃の銃口――を咥えている状態だった。

 会議室の中にいる全員に緊張が走る。


 乾いた音が会議室内に鳴り響いた。


「灰谷さんっ!」

 周りを取り囲むようにしていた刑事課員たちが一斉に灰谷に殺到する。


 灰谷は屈強な刑事たちに揉みくちゃにされながら、笑みを浮かべた。


 灰谷が口に咥えていたのは、拳銃を模したクラッカーだった。

 そのクラッカーは精巧に作られており、引き金を引くことで火薬音と銃口から紙テープが吹き出すという代物だ。


 灰谷は口でクラッカーの紙テープを受けるという宴会芸を得意としていた。


「最後のおれの技をお前たちに見せてやるよ」

 灰谷は前日にそんな宣言をしていた。

 そのくせ、当日になったら姿が無いので刑事課員たちは心配になって灰谷を探し回っていたのだ。


 小さな電子音が鳴った。

 午後六時。

 日勤と呼ばれる勤務者たちの退勤時間だった。


「灰谷さん、お疲れ様でした」

 佐智子は花屋で買ってきた花束を灰谷に渡した。

 その場にいた刑事課員たちが拍手で灰谷を見送る。


 灰谷は涙を見せることはなかった。そんなしんみりとした状況で見送らないでほしい。それが灰谷の願いだった。

 最後の最後に馬鹿な宴会芸を披露することができた灰谷は、満面の笑みで新宿中央署から去っていった。


《 完 》

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