人竜

江倉野風蘭

人竜

 今から10年前の8月――わたしがまだ中学二年生だった頃。剣道部の合宿で中部地方某所へ行った時のこと。

 二日目の夜、わたしたちは宿の裏手にある山で肝試しをすることになった。

 これは剣士たる者に必要不可欠な勇気と脚力を鍛えるための稽古の一環……という触れ込みのレクリエーションで、言ってしまえばまあ伝統行事とか通過儀礼みたいなものだった。ルールもごく簡単かつオーソドックス。ただ二人でペアを作って一組ずつ山中にある小さな祠まで行き、そこに置いてある顧問お手製のおみくじを引いて、出発から30分以内に帰ってくるだけ。道中ではお化けが出るといえば出るが、それらはみんなOGの先輩方が扮装したものでしかない。本当に、厳しい稽古の息抜きに過ぎない『お遊び』だった。


 宿で夕食を済ませた後みんなであみだくじを引き、総勢12名の部員を6組に分けた。その結果わたしは幼馴染の佳奈美かなみとペアになった。

 佳奈美は幼馴染と言っても一個下の学年で、わたしにとっては妹みたいなものである。我が女学院に数ある部活動の中から敢えて剣道部を選んだのもわたしと一緒がよかったからという、何ともいたいけで可愛らしいヤツだ。

 そんな佳奈美とわたしのペアは、六組の中で一番最初に山へ乗り込むことになった。ちなみにこの順番もあみだくじで決めた。


 22時頃、虫除けスプレーを体中に噴き付けて蚊の対策をし、佳奈美と一緒に宿の前で顧問を待った。

 若い女性の顧問は数分もしないうちにジャージで出てきて、わたしと佳奈美に懐中電灯を一つずつ渡すと、「それじゃ、気をつけて行ってらっしゃい」と言ってストップウォッチをスタートさせた。

 わたしは「行ってきますッ!」と元気よく返事をし、ビビリで小心者の佳奈美を連れて登山口へと歩き出していったのだった。


 ……よもや暗闇の中で“あんなもの”が待ち受けていようなどとは、夢にも思わないまま。



 §



 山はごく簡単に登っていけた。運動部とはいえ、中学生女子の体力でも全然余裕が残っていたくらいに。

 道中でわたしたちを脅かしてきたお化けたちは(演じていらっしゃった先輩方には申し訳ないが)どれもまあまあチープなもので、前年にもこの肝試しを体験していたわたしはおろか、臆病者の佳奈美でさえも本心からはビビっていない様子だった。最初こそ派手に悲鳴を上げていたものの、次第にそれも笑い混じりの楽しそうなものに変わっていっていた。


 そして出発からちょうど15分ぐらい歩いた頃、『→コチラ』と真っ赤な文字で書かれた看板を持つお化けの老婆がわたしたちの前に立ちふさがってきた。

 矢印の指している方、登山道の右脇を見てみると、そちらには古びた石の階段があり、その上には見覚えのある注連縄が見えた。そこに目的地の祠があった。


「……オミクジ、ヒケェ……」


 OG扮するお化けババアのしゃがれ声に従い、佳奈美の手を引いて階段を昇っていった。神様に手を合わせてから、祠の前に置かれた紙箱から三角形の紙切れを一枚ずつ取り出す……折り畳まれたそれを開いて懐中電灯で照らしてみると、わたしも佳奈美も『末吉』であった。『もっと精進せよ、基礎的な鍛錬を怠るなかれ』ということらしい。「「ついてないのー」」と、幼馴染同士顔を見合わせてため息をついた。


「オミクジヒイタラ、カエレェ」

「「はーい」」


 おみくじをジャージのポケットに仕舞い、わたしは再び佳奈美の手を取って階段を降りようとした――その時。


 ガサガサッ、と。

 わたしたちの背後で何かが動いた!


「「!!!???」」


 反射的に振り返る。

 ……が、誰もいないし何もない。ただそれまでと同じように、小さく慎ましやかな祠があるだけだった。


「タブンタヌキカナニカダロウ……キニシナイデサッサトカエレェ……」


 先輩はそう言った。

 そこでわたしも佳奈美も先輩の言う通り、きっとたぬきか何かだったんだろうと順当に考え、改めてその場を去ることにした。

 階段を降り、「「お疲れ様でした」」と先輩に律儀に頭を下げ、登山道を降りていく。再びガサガサ聞こえてきても気にしない。そう、この音はたぬきが立てている音なのだから。たぬきでなければきつねだ……そう自分に言い聞かせて。


 しかしガサガサ音はわたしたちが歩いている間ずっと鳴り続け、嫌でもわたしの意識に入り込んできた。何か妙だな、これは単なるたぬきやきつねの仕業じゃないんじゃないか、そう思わせてきた。

 そしてついには。


「……テ……カ……イ……」


 こんな人の声すら聞こえてきた。

 最初わたしはそれが佳奈美の声だと思った。またビビりだした佳奈美が小声で何か言ったのかと。

 しかし佳奈美の声にしては生気がなくて音域も低かったし、実際佳奈美は何も言っていないと言った。では先輩の声なのかと言えば、それも違う。位置関係的にあり得なかったからだ。

 だったら、誰? ……わたしも佳奈美も流石に気味が悪くなり、歩くスピードを早めてさっさと下山してしまおうとした――その矢先だった。


「――いやぁぁぁぁぁぁぁあああああっっっ!!」

「「!!!???」」


 女性の、そう、先輩の悲鳴が聞こえてきたのだ。

 わたしたちの背後で、一際激しい茂みの音に混ざって!!


「せ、先輩っ!?」


 即座に引き返し様子を見に行く。が、しかし。

 先輩はそこからいなくなっていた。『→コチラ』の看板だけを残して。

 辺りを見回して先輩を探す。懐中電灯で色々な場所を照らしてみる。祠を、階段を、鳥居を、木々や茂みを。

 そして、茂みの中へ身を隠していく裸の男の両足を!!


「ッ――てめえ、この野郎!!」

紗綾さや姉っ!!」

「佳奈美、今の見たね?」


 少し遅れて追いついてきた佳奈美にそう問うと、彼女は大きく頷いた。


「よし、それじゃ下へ行って先生に警察呼んでもらって。わたしはあいつを追いかけ――」

「だめっ!!」

「っ……」

「一人じゃ危ないよ。あたしも一緒に行くっ」


 聞いたことのない大声に我ながら気圧されたためか、それもそうだな、と思った。

 確かにわたし一人行ったところで何になるのか。手頃なサイズの棒があれば多少は戦えるにしても、女子中学生と大の男でタイマンを張るのはあまりに無謀だ。

 しかし同じ女子中学生でももう一人いれば少しは希望が見えてくる。戦いは数だと昔の人も言っていたし。

 可愛い妹分を危険に巻き込むのは不本意極まりないが、事態は急を要する――そこでわたしは「逃げろって言ったら絶対わたしを見捨ててでも逃げなよ」と強く念を押した上で、太くて真っ直ぐな木の枝を二本拾い、一本を佳奈美に持たせて男を追った。



 §



 “男”は山頂の方へ真っ直ぐ向かっていた。だからわたしたちも登山道での登頂を目指した。

 山はそれほど高くなく、後から調べたところ麓から200メートル程度でしかなかったらしい。それでも子供の足で登り続けるのは少々きつく、何度も(やっぱり二人で下りて警察を呼んでもらったほうがよかったんじゃないか)と考えた。

 ただ警察だって何も瞬間移動ができるわけではない。下山して110番したとしても来てくれるまでそれなりの時間は要するだろうし、今からそうしていれば尚の事だ。

 わたしたちがまごついている間も先輩は危険に晒され続け、終いには最悪の結末を迎えてしまうかもしれない……。そう思って、ひたすら前へ前へと進み続けた。

 恐怖だけは全然感じなかった。“男”への怒りでアドレナリンが出まくっていたのであろう。


 体感で3、40分くらいだろうか。

 スマホを持ってきていなかったため正確な時間は分からなかったが、とにかくそれくらい歩き続けていると、山頂に辿り着くことができた。

 そこは草木の生い茂った山道とは対照的に広く開けており、右側には自動車で登ってきた人のための駐車場があった。一番奥にはこの山の神様を祀る古い神社が鎮座しており、そこからここまで石畳の参道が伸びている。途中には立派な石造りの鳥居が立っており――足元には、何か小さな白い毛の塊のようなものが落ちていた。近づいて見てみると、それはお化けババアに扮していた先輩のウィッグだった。

 あの男がこの奥にいるんだ。よりにもよって神社で女性に乱暴するだなんて、とんだ外道のクズ野郎め。絶対ボコボコにして警察に突き出してやらなくちゃ……。そう意を決したわたしは佳奈美とお互いに頷き合い、境内へと足を踏み入れていった。


 そして。

 そこで見たのだ。見てしまった。

 “男”の全身像を――本当の姿を。

 

「…………………………」

「……………………ぁ」


 わたしは足がすくみ、その場から動けなくなった。うめき声すら出すことができなかった……まるで金縛りにかかったかのように。ほんの数秒前まで心の中を占めていた怒りと勇気は恐怖と後悔で塗り潰されてしまった。佳奈美はあまりのおぞましさに気を失い、がくりと崩れ落ちてしまった。



 なぜならそこにいたのは“異形”だったから。

 わたしたちが見たソレは、正真正銘の“バケモノ”だったのである……!!



 全長はおよそ20メートル。人間の胴体をいくつも繋ぎ合わせた身体を持ち、ムカデのように生えた無数の腕を足代わりにしつつ鎌首をもたげている。一番先端の人は野球部めいた丸刈り頭の若い男で、人間の顔をしているが人間らしい生気はない。そのうえ無色の粘液らしきもので全身の皮膚がテカテカ光っており、これが非常に気色悪かった。もちろん服など着ておらず、完全に裸である。

 先輩はそんなバケモノの足元で倒れていた。わたしがそれに気づいたのとほぼ同時に、バケモノもまたわたしたちに気づいた。そして無数の足をぞわぞわ、わさわさと蠢かし、わたしたちの方へ近付き始めた。


「っ……!」


 わたしは勇気を振り絞って一歩踏み出し、木の枝を左手で握って中段に構えた。後ろにいる妹分を守らなくてはならなかったから。

 ただそれでも恐怖心を克服できたわけではなかった。むしろバケモノが近付いてくるにつれてどんどん増していき、わたしの膝を震え上がらせた。自分だけでも逃げ出したくなり、そのたびに佳奈美の顔が脳裏をよぎる。姉貴分として佳奈美だけは見捨てられないと勇気を奮い立たせる。それでもやっぱり怖いものは怖くて、涙が出てきそうになる。

 程なくしてバケモノがわたしの目の前までやってくる。木の棒を手で振り払い、顔をぐっと近付け、こちらの瞳の奥を覗き込むようにして見つめてくる。腐った肉のようなきつい悪臭を漂わせながら、白い部分の一切ない、ドス黒い闇に染まったかのような黒い目で。

 奴はところどころ歯の抜け落ちた口をもにょもにょ蠢かし、のっぺりした声でこう言った。


「コウコクハ、ドウナッタカ」

「……………………は?」

「コウコクハ、テン――」


「――しゃがめぇぇぇぇっっ!!」

「っっっ!!!???」


 いきなり後ろから叫ばれた。ちゃんと血の通った男性の声でだ。

 聞き覚えのあるその声に従いしゃがみ込んだ直後、乾いた銃声が鳴り響く!

 しゃがんだまま後ろをちらりと振り返ってみる……するとそこではわたしたちの宿の主人が猟銃を携えて仁王立ちしていた。

 主人は銃のスライドをガチャリと引いて構え直し、「もう一発行くぞぉ!!」と警告した。姿勢を低くすると再度の銃声。どちゅっ、という水音を立てながら肉片が飛び散る。


「よっし!! 君たち、車があるから早く乗りな!!」

「あっ……ありがとうございます!!」


 二度の射撃で目を覚ました佳奈美とともに駐車場へ走り、たった一台停められていた白いセダンの後部座席に迷わず乗った。

 それから主人が先輩を担いできて助手席に座らせ、自らは運転席でハンドルを握り――エンジンを始動させながら、たった一言こう言った。


「全員無事でよかったよ」


 どうやら倒れていた先輩もただ気を失っていただけらしかった。

 本当に、思ってもみない助けだった。生まれてこの方このときほど他人に感謝したことはなかった。


 車は10分もかけずに山を抜け出した。

 宿に戻ると仲間たちが出迎えてくれて、わたしと佳奈美は張り詰めていた緊張の糸がぷつりと切れて、わんわん泣いた。

 そしてお風呂に入って気持ちを落ち着かせた後、宿の主人や顧問とともに、わたしたちが見たものについて話し合うこととなった。



 §



 まず口火を切ったのは宿の主人だった。


「先生には先程もちょっとだけお話ししましたが、紗綾さんと佳奈美さんが山で遭遇した怪物は、ジンリュウというやつです」

「「ジンリュウ……?」」

「そう、人間の竜と書いて人竜。俺もまさか本当にいるとは思ってなかったんだがね、実際この目で見てしまったからには……」

「何なんですか、人竜って……!?」


 わたしが若干感情的になってそう問いただすと、主人はこんなことを語り出した。


 曰く。

 人竜とは、とあるカルト宗教が生み出した『生体兵器』であるという。

 宿の主人が生まれる20年ほど前、この近辺を根拠地とするカルト宗教があったらしい。その宗教は今で言うところのエコテロリズム的な教義を掲げていて、自然を破壊することしかできないホモ・サピエンスは絶滅しなければならないと主張し、子供が生まれた家庭に集団で嫌がらせをしてくるなど迷惑極まりない集団だった。しかも信者はみな高学歴のずる賢い者ばかりで、犯罪とまでは呼べないギリギリを攻めてくるため大変厄介だったそうだ。


 そんな彼らはただちまちました嫌がらせに励むだけではなく、自ら人類を滅ぼすための準備も進めていた。彼らは例の山の地下に『礼拝所』という名目の研究施設を造り、秘密裏に様々な兵器を自作していたのだ。ソ連製自動小銃のデッドコピーから爆弾、毒ガス、細菌兵器、挙句の果てには核兵器まで……そのうちの一つに、細胞分裂を促進することで人間の身体能力を著しく強化する薬物があった。それがあの『人竜』を生み出したというのだ。


 教団はその薬物を末端の信者に投与し、生体兵器として運用することで最終戦争を引き起こそうと企てた。結局その陰謀は警察に露見し、教団そのものが一網打尽にされて未遂に終わったのだが、施設にいた人竜の実験体には逃げられてしまい、その後どれだけ捜索しても見つけることはできなかったという……わたしと佳奈美と先輩が出くわしたあのバケモノは、その見つからなかった人竜の実験体だったというわけだ。このタイミングで現れたのは『たまたま』と言う他ないだろう。


「……で、私はこの話をガキの頃に親父から聞かされたんですが、全然真に受けちゃいませんでした。あの頃はちょうど新興宗教が話題になってた時代でしたし、それに絡めた不謹慎な冗談だとしか思ってなかったんですよ。そのカルトのことを知ってる人間も親父以外にはいなかったんで、完全に親父のほら話だと思って、今の今まで忘れてたんです。が……」

「人竜は本当にいた、と……。大変申し訳ない限りです。今回起きたことの全責任は顧問である私に……」


 顧問がそう言って頭を下げかけると、宿の主人は慌てた様子でそれを制止した。


「いえその、そもそもこちらが親父の話をちゃんと聞いていればこうはなりませんでしたから! 非があるのはこちらの方です、本当に申し訳ない……! ……それで目下のことなんですが、とりあえず皆さんは合宿を切り上げて、すぐにでもお帰りになった方がいいかと思います。一応退治したとはいえ、あんなバケモンが出るようじゃ稽古にならんでしょうし、実際被害者だって出てしまったわけですから……」

「そうですね……。ただバスが出せるのはどのみち夜が明けてからになりますので、明日の朝子供たちにわけを話して切り上げさせていただこうかと。残念ではありますが……」

「分かりました。……本当に、申し訳ない……」


 ……それでその場はお開きになった。

 パニックになるのを防ぐため、わたしと佳奈美は翌朝まで何も話さないよう顧問からお願いされた。もっとも仲間たちが詮索してくることは特になかったんだけど、あれは多分わたしたちが何を見てきたのか言われなくても察していて、気を遣ってくれていたんだと思う。


 その晩はなかなか寝付くことができなかった。目を閉じると人竜の無数の足が蠢く様子が鮮明に浮かび上がってきて、『コウコクハドウナッタカ』というあの不可解な言葉が何度も脳内でリピートされて……とにかく怖くてたまらなかった。

 佳奈美もそれは一緒だったようなので、わたしたちは一緒の布団で抱きしめ合って寝ることにした。



 §



 震える佳奈美の身体を抱きしめ、頭をそっと撫でてやっていると、そのうち佳奈美はすやすやと寝息を立て始めた。

 わたしも次第に心が落ち着き、自分の体験したことを冷静に客観視できるようになってきた……そこで眠りに落ちてしまうまでの間、改めて人竜というものが何だったのか考えてみることにした。


 宿の主人の説明によれば、人竜とは『カルトによって作られた生体兵器』である。

 しかしこれは真実ではない。まず『カルトによって』という部分が違う。これは宿の主人が言っていた通りで、そのカルトのことを知っていたのが宿の主人のお父さんしかいないからだ。あんな迷惑で大それたことをやらかした組織がいたら絶対全国ニュースになっているはずで、もっと多くの人が知っていて然るべきだし、何ならわたしたちの世代まで語り継がれていたっておかしくない。でも実際にはそうなっていない、だからそんなカルトは実在しない。

 次に『作られた生体兵器』という部分。これも事実だとは思えなかった。人間を生体兵器にする薬で作られたとは言うが、そんな薬はこの当時の最新技術でも出来ていなかったからだ。もし出来ていたら今現在はガンが市販の飲み薬で治る時代だったに違いないだろう、しかし残念ながらそうはなっていない。よって人竜は人工的に作られた兵器ではない。


 ……だったら、何?

 カルトによって作られた生体兵器じゃないなら、人竜は一体何だったの?


 持っている情報を自分で否定してしまったわたしは、今度は中二特有の妄想力に頼ってみたが、それでも核心を突くような閃きは出てこなかった。自殺した人の幽霊が恨みによって化けて出たものだとか、山の霊力が生み出した本物の妖怪だとか、実はあの神社の神様だったとか……何を考えても『銃が効いた』の一言で片付いてしまう。幽霊や妖怪や神様が猟銃なんかで倒せてたまるかと。


 そのうちわたしも眠くなってきて、思考がだんだんまとまらなくなって、夢らしきものが途切れ途切れで見えるようになった。

 とりとめのないふわふわした内容の幻覚と幻聴。遠くから聞こえてくる誰かの声。「……ノーヘー……バン……」という、生気のない男の声……。


「………………えっ?」

「……テン……ザー……」

「………………っっっ!!!???」


 それは明らかに夢ではなかった。聞き間違いでも、耳の錯覚でもなかった。

 どう聞いても、その声は。



 人竜のものだった。



 窓のすぐ外を等速直線運動で横切っていく縦長の影。普通の人間では絶対にありえないおかしな動き。換気扇から入り込んでくるあの腐った肉のような臭い。

 わたしは息を殺し、出かけた悲鳴を呑み込んだ。もし奴の意識がこちらに向けば佳奈美たちに何をしてくるか分からなかったから。人竜は完全に正体不明のバケモノであり、行動原理も謎である。さっきの遭遇で何もされなかったのはただ運が良かっただけなのだ。次なんてない!


「……? さやね――」

「シッ……!」


 佳奈美の顔を強く抱き寄せ、二人一緒に熟睡しているフリをする。寝息に見せかけて深呼吸をし、高鳴る心臓をどうにか鎮めようとする。ドクンドクンという激しい心音さえも、人竜の耳には聞こえてしまう気がしたから。

 ああ、やっぱり猟銃は効いてなかったんだ。だったら人竜って何なんだ。霊か、妖か、それとも神か。あるいは本当に生体兵器なのか……いやもうこの際何でもいい。何でもいいけどとりあえずわたしと佳奈美の前からは消えてくれ!! そう心の中で強く念じた。

 ……そのまま10秒ほどじっとしていると、人竜の気配は遠くなっていった。どこへ行ったのかは分からなかったが、わたしは奴の出没を宿の主人に知らせることにした。(一緒に行きたい、置いてかないで)とシャツの裾を摘んでくる佳奈美を連れ、眠っている仲間たちを起こさないようそっと出ていき、フロントの呼び鈴を鳴らした。


「あいつが……人竜が出ました。外にいます……!」


 出てきた主人に可能な限りの小声でそう伝えると、彼は「分かった」とだけ言って一度奥へ引っ込んだ。そして大量の実包が取り付けられたベルトと猟銃を装備して廊下に出てきた。


「奴への対処は俺がする。警察も俺が呼んでおく。君たちは部屋へ戻って絶対に出て来ないこと、いいね?」

「「はい」」

「よし」


 宿の主人はそう言って外へ出ていった。わたしたちはその背中を見送ってから、自分たちもこっそりと宿を出た。

 人竜が人の手でちゃんと殺され、息絶えるところを見届けなければ、とてもじゃないが安心できる気がしなかったから。



 §



 人竜は宿の前の道路にいた。宿の主人はどこかの物陰に身を潜めたらしく、姿を見ることはできなかった。

 わたしたちもまた玄関前の植木に身を潜めた。人竜や宿の主人に見つからないように、そして流れ弾に当たったりしないように。


 ……やがて。

 パァン!! という乾いた竹を割ったような音が響き、人竜の後頭部に突き刺さった。

 丸坊主の頭から真っ赤な液体が勢いよく噴き出し、もたげた鎌首が前方にしなる。いずこかへと向かおうとしていた人竜の歩みが止まり――さらに容赦ないもう一発。今度は首に命中し、支えを失った頭が転がるように地面へと落っこちる。

 よっし!! というあの声がどこかから聞こえてきた。わたしもまた植木の陰で小さくガッツポーズをした。


 …………だが。

 それで終わりではなかった。


 致命傷を負って死んだかに思われた人竜は、胴体だけになっても死んでいなかった。

 無数の腕をわさわさと蠢かして身体の向きを180度変えると、土煙を上げながら物凄いスピードで走り出したのである!


「「「は?」」」


 わたしたちと宿の主人はほぼ同時に声を漏らした。

 そう、人竜には確かに猟銃が効いた。だがそれが決定打になるわけではなかったのだ。高い生命力――いや生きているのかどうか分からないが、とにかくゴキブリ並に高いと思われるそれが人竜の身体を動かし続けていたのだ。

 人竜は路肩の樹木へ一直線に向かうと、力任せに幹を薙ぎ倒した。冗談みたいに、いとも容易く。そしてその陰に隠れていた主人をつまみ上げ、ゴミを放るかのように投げ飛ばした。

 宿の外壁が鈍い衝突音を立てる。人竜がそこへ追い打ちをかける。再び身体をつまみ上げ、パン生地みたいに叩きつける。わたしたちがいる植木の方へと。

 わたしたちの間に飛び込んできた主人の身体はもう血塗れで。


「「い、いやぁぁっ!?」」

「!? こ、このバカどもがッ!! 部屋にいろっつったじゃねえか……!!」

「「ご、ごめんなさ……」」

「いいからとっとと部屋にすっ込んで朝まで――――――あ」


 主人の言葉が遮られる。


 そこに立っていた人竜が。

 頭部を失っても動き続けるバケモノが握った拳を振り上げ、わたしたちに向けていたから。


 ……わたしは死を覚悟した。素直に主人の言うことを聞いて部屋へ戻っておけばよかったと後悔した。

 これまでの短い人生の思い出が一気に浮かび上がってきた。佳奈美と初めて出会った頃のことやお泊まり会をしたときのこと、剣道の大会で初めて優勝したときのこと、両親の顔……。全てのものがスローモーションに感じられた。わたしたちに迫りくるその拳の動きも。

 ごめん佳奈美、バカな姉貴分で本当にごめん。佳奈美だけでも部屋に帰すべきだったのに……。

 そう思って目をつぶった。一瞬の痛みに耐えるために。

 そして――


 ――その一瞬は、いつまで経っても訪れなかった。



 §



「「えっ……?」」


 わたしが恐る恐る目を開けると、そこには。


 腹巻き姿で腰の曲がったおじいさんが、わたしたちに背を向けて立ちふさがっていた。


 人竜は拳を振り下ろそうとしたまま、その動きをピタリと止めていた。まるでおじいさんに恐れをなしているかのように、あるいは無理やりそうさせられているかのように。

 宿の主人はそんなおじいさんの姿を見て、咳き込みながらも声を絞り出した。


「お、親父ッ……!?」

「よぉバカ息子ぉ。俺の話をちゃんと聞いとかなかったツケが来たようだな」

「なんだとッ……」

「ま、ありゃ俺の伝え方も悪かったとは思っとるがね。とりあえずこっから先は俺がやるから、お前はそこでよーく見とけ。お嬢ちゃんたちは目を閉じてなさい」

「「えっ……?」」


 首の吹っ飛んだバケモノを前に今更それを言うのかと思ったが、言われた通りに目を閉じた。……そしてまぶたを完全に閉じてしまう直前、信じがたいものが見えた。それは親父さんの服の中から顔を覗かせている、てかてかと光を反射する無数の赤黒い触手で……。


「いいって言うまで目を開けちゃいけないからね」


 親父さんはそう念を押した。わたしはより強く、固く目を閉じ、手で覆った。


 そこから何が起きていたのかは本当に見ていない。

 ただ打撃音と水音、肉を引き裂くようなミチミチという音が嫌になるほど聞こえてきたのは今でもよく覚えている。

 そして「もういいよ」と言われて目を開けたとき、人竜はもう影も形もなくなっていた……。そこにいたのはわたしと佳奈美と、泡を吹いている宿の主人と、どこにでもいるような普通のおじいさん――宿の主人の親父さんだけだった。



 ……結局正体が何だったのかはっきりしないまま、人竜はいなくなってしまった。

 宿の主人は救急車で病院へ搬送され、親父さんは家まで徒歩で帰り、わたしたちは翌朝のバスで宿を去った。

 バスの中でわたしたちはずっと震えていた。誰の目から見ても様子がおかしくなっていたと思う。実際顧問や仲間たちからもずっと心配されていた……少々しつこすぎるくらいに。けれどそのわけを話すことはなかった。親父さんの言葉が耳の奥底にこびりついていたから。


 そう、親父さんはこんなことを話していたのだ。わたしたちが目を瞑っている間、凄絶な音の中でこんなことを。

 曰く……


『人竜は人工的に作られた生体兵器だ。しかし、カルトが薬物で作ったわけではない』

『そう言ったのは当時の時世に絡めた方便である』

『今はまだ明かされるべきではないが、それでもいつかは全人類が知ることになる。そういう真実がこの世界にはある』


 ……そして、


『人竜はそんな闇の真実の一端である』


 と。

 人竜とは何だったんだろう。全人類がいつか知る真実って何なんだろう。真実が隠されているっていうなら、わたしたちが今生きているこの世界は嘘っぱちなの? 親父さんの服の中で蠢いていた赤黒い触手は一体何?

 そんな虚無的な不安感がわたしたちの身体を震わせていた。相談していいなら相談したかったけれど、どうにもこのことは口外してはいけない気がした。だから誰にも打ち明けることはせず、二人だけの秘密にした。



 あれから10年が経ったが、今でもまだ謎は謎のままだ。分かったことは何一つなく、真実は闇に包まれている。

 それどころかわたしと佳奈美以外の全員が宿ことで一層闇が深まった。地元に帰って一夜明けた次の日以来、仲間たちと顧問が口を揃えてみんなで言ったのだ、『そういえば今年の合宿って行ったっけ?』と。冗談でも何でもない様子で、まるで全てが夢だったかのように……。


 ……でも、あれは絶対に夢や幻じゃなかった。

 わたしも佳奈美も確かに見たのだ。決して忘れることはない。

 たとえどんなに忘れたくても、忘れることなんてできないだろう。

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