春を抱く
晩秋の冷たい雨が降る日に、喪服の私は招かれた一軒家の門を潜った。『斉木』のくすんだ表札と目が合う。
生活に疲れた五十歳代の女性が玄関で私を迎え、その面立ちに春ちゃんの名残のようなものを感じて、私は軒先で泣いてしまった。
春ちゃんはたったひとりで死んだ。
でも彼女の母親が代筆したLINEを見ても、こうして仏壇を前にしても、胡乱げな瞳の遺影と顔を合わせても、私はどうしても受け入れられなかった。
一ヶ月前に会ったばかりの人間が、今は目の前の白い骨壺に納まっている。
それが何とも滑稽で、でも一ミリも笑えなくて、私はただ涙の枯れた眼で線香の煙を見つめることしかできなかった。
「意外と几帳面だったのよ、あの子」
煙草の煙を余所に吐きながら、春ちゃんのお母さんはぶっきらぼうに封筒を取り出した。それには私の名前が書いてあった。春ちゃんからの手紙。最後の、遺言だろうか。私なんかのために。
また新しい涙が滲むのを堪えてそれを懐に仕舞うと、煙草を咥えたお母さんは少し迷うようにして傍の戸棚から何かを取り出し、私に寄越した。
掌に収まるそれは、灰が詰まった小さなジャム瓶だった。
「あたしへの手紙にね、書いてあったのよ、あなたに渡せって。遺灰……要らなかったら、置いてって良いから」
煙を深々と吐き、窓に伝う雨を眺めてお母さんはそう言った。その仕草は娘にそっくりだった。
春ちゃんの一部を抱いて、私は仏壇の前に崩れ落ちた。どうして私なんだろう。
「おっもいよ、春ちゃん……」
春ちゃんのお母さんは、私を春ちゃんの部屋に案内した。
いつまでも泣き止まない私を見かねたのかもしれないし、気まぐれなのかもしれなかった。
学習机と椅子とベッドと、あとはゴミと空いたロング缶がいくつか床に転がっていた。壁紙は少し黄ばんでいて、ヤニ臭い。間違いなく春ちゃんの部屋だった。
好きに見たらいい、とでも言うようにお母さんは黙って踵を返し、居間に戻っていった。
振り返って見送ったドアノブは、強い力が加わったように歪んでグラグラしていた。多分、春ちゃんはここにいたんだろう。
独りぼっちになって、改めて八畳間を見渡した。何もかもそのままにしてある部屋は、未だに主の帰りを待っている。時間が止まっているみたいだった。黒い袖で涙を拭って、文机の傍に寄る。
春ちゃんはこの机で、いろんな人宛の手紙を書いたんだろうか。たったひとりで筆を執って、どんな思いだったんだろう。
首に全体重がかかる瞬間、何を思い出しただろう。
今もそこに座っている気がする春ちゃんの面影を空っぽの椅子に見ながら、出来る限りの思いを馳せた。
停滞した埃とヤニの臭いをゆっくり吸って、机上に放ってあったノートに触れる。
日記か何かだったら悪いかな、なんて思ったけれど、心のどこかで春ちゃんが現世にちゃんといたという証拠というか、気配の欠片のようなものをかき集めたかったのかもしれない。
適当にぱらぱらと捲ったページに『キリン』の名を見つけ、手を止める。続く内容に、私は目を奪われた。
『二〇一×年三月四日 死亡』
四年前の日付だった。慌てて続きを捲る。次のページには本籍地の住所と、その次のページには埋葬された墓地の住所が走り書きされていた。
なんで、どうして、こんなものがここに。
そこまで考えて、ふと春ちゃんと会った日のことを思い出した。彼女はあの時、役所の市民課で働いていると言っていた。仕事をする傍ら、居住する市民のデータを盗み見たのかもしれない。そしてそれを元に実家を訪ねて事情を聞いたのかもしれない。春ちゃんならやりかねない。
私が春ちゃんに連絡するより先に、春ちゃんはキリンを探そうと動いてたんだ。
ノートの右上には、几帳面にも記入日が記載されていた。それは二年前だった。
つまり春ちゃんは、私と会った時にはキリンがもうこの世にいないことを知っていたんだ。
――生きてりゃそのうち会えるでしょ。きっと
優しい嘘を抱えて、春ちゃんはいなくなってしまった。
「……最期まで、置いて行かれたままだったなあ」
開いたノートにいくつも涙の染みを作って、私は鼻を啜った。もうその背中に追いつくこともできない。二人とも遠い彼方へ行ってしまった。
懐でかさりと音がして、春ちゃんの手紙の存在を思い出した。私に宛てられた、最期の手紙。
ゆっくりと取り出して広げたそれに、私は目を落とした。
◆
イルカちゃんへ
死んだわ。ごめん。
ちょっと毎日生きるのがダルくなった。酒飲んで仕事して帰って酒飲んでってしてたけど色々限界だったわ。あたし、生きるのに向いてない。
真面目に生きてるイルカちゃんにはあたしの灰をあげる。イルカちゃんは人生の途中でドロップアウトなんてしないって信じてるから。要らなかったら燃えるゴミの日に捨てて。
ずっと羨ましかったんだよきっと、私とキリンはさ。
私達ってちょっと普通じゃなかったから、父親とか家庭環境とか、色々足りないものしかなかったからさ、普通のイルカちゃんが眩しくて、いつも追いつきたかったの。
置いてかないでーって思ってたよ、高校の時。
だからイルカちゃんは私にとって特別で、大切なの。
キリンにも会わせたかったけど、見つかんなかったわ。ごめんね。
イルカちゃんは長生きしてね。
さっき捨ててって言ったけど、やっぱり灰捨てたら殺すから。死んでるけど。
じゃあね
春
◆
ふざけた遺言を握りしめて、私は雨の中、墓石の間を縫うように歩く。
雨粒だか涙だか良く分からないもので顔をぐしゃぐしゃにしながら、まっすぐにその場所を目指した。
落葉の目立つ寂しい桜の木の下に、小さな墓標が整然と並んでいる。
目を皿のようにしてそれを見渡し、その名をひとつひとつ確認して――私はそこに彫られたキリンの本名を見つけた。
私はいつだって、二人にとって偽物の友達だと思ってたのに。
頬に温かい涙が伝う。でも何もかもが遅すぎた。
掌の中のジャム瓶を力いっぱい投げつけると、墓標に直撃したガラスは粉々になって中身の春ちゃんを散らした。雨に打たれた灰が、キリンの名前を汚す。
冷たい地面に膝をついて、私はやっと大人になった二人と再会した。
春ちゃんとキリンと再び会える日を、夢にまで見ていたのに。
「死んじゃってから、こんなこと言わないでよ……死んでこんな言葉遺すくらいなら、生きて目の前で言ってよ……じゃないと私、分かんないよ……」
灰と墓標を抱いて、私は大声で泣いた。
春抱くイルカは麒麟の夢を見る 月見 夕 @tsukimi0518
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