2+1=2
面識のない私達が入学早々に同じ文芸部に入ったのは、単なる偶然だったと思う。
私を初めて「イルカ」と呼んだのは、春ちゃんだった。私の学生鞄についていたキーホルダーを見てそう呼んだのだ。
それまで渾名なんて、ましてや友達だなんて呼べるものはいなかった私にとって、それは学校生活を照らす救いの光のようにも見えたし、友達だとか親友だとか、創作の世界にしかないと思っていた関係に片足を突っ込むことを許されたようだった。
水族館のお土産の、何の変哲もない何の愛着もない青いイルカのことを、私は愛しく思うようになった。
世界で唯一私のことを「イルカちゃん」と呼んでくれる春ちゃんとキリンのことを大切にしようと誓ったのは、この時からだった。
春ちゃんは苗字で呼ばれることを嫌った。当時は確か「
しっくりこないから、と春ちゃんは言っていた。それが三つ目の苗字だったからだそうだ。
その話を聞いたとき、私は思わず口を噤んでしまった。苗字が変わるということは、両親のどちらか片方が何度も変わるという意味だ。
それに同情して良いのか、触れる事すらタブーなのか逡巡している私の隣で、
「えー春ちゃんもそうなのー? あたしもあたしもー!」
と元気よく答えた少女がいた。それが後のキリンだ。彼女も現在の苗字は四個目だと言ってヘラヘラと笑っていた。
両親が変わらず揃っていることが普通だと思っていた私は面食らってしまった。初対面の同級生の、彼女らがこれまで歩んできた壮絶な人生に思いを馳せてスカートの裾を握った。
親が出て行くと決めた時、「今日からあなたの名前は○○よ」と幾度となく言われたとき、彼女達はどんな思いで、どんな悲しみと煩わしさを抱いて両親を見つめていたのだろう。
同時に、私はこの場にいてはいけないような気もした。明らかに不釣り合いだと思ったからだ。親のいるいないで優越感を感じているのではなく、私一人が彼女らに対して同情心を抱いてしまっていることこそが、目には見えない深い溝を生んでいるように思えてならなかった。
春ちゃんは「歴代の親父が暴力野郎や酒浸りでさ。よくあるよねえ」と流していたけれど、私はそう簡単に受け流せなかった。ひとつ前の話題で好きな食べ物を聞かれ「母の手料理」と何の躊躇いもなく答えた自分を殴りたくなった。
それが本当に「よくある」ことなのかどうか、人生経験の乏しい私には判別はつかなかった。
春ちゃんは本を読むのが好きだった。図書室で真剣に小説のページを捲る春ちゃんの端正な横顔と、肩口で揺れる横髪を眺めるのが好きで、よく隣で本を読んでいるふりをしたものだった。
彼女は「本を読んでる間は現実逃避できるじゃん」とよく言っていた。それが何を意味するのか、私は気付いていても言及できなかったけれど。
キリンも本を読むのは好きで、とりわけ歳の割に時代小説が大好きで、顔を合わせるたびに司馬遼太郎の『燃えよ剣』について熱く語りを聞かされた。が、彼女は彼女で部活外のことに多忙であまり部室には顔を出さなかった。
なんせ生徒会長と学校に内緒の新聞配達のバイトとパパ活に勤しんでいたのだから。彼女のそんな生活を知っていたのは私と春ちゃんだけだったと思う。
キリンの家があまり裕福ではないことは、昼食にきゅうり二本を持ってきたことから何となく察してはいた。小さい頃からあまり家に両親はおらず、しかし下にきょうだいは多く、自由になる金がないのだと笑っていた。
お金がないこと以上に、彼女は寂しがりだった。ひとりの時間を恐れていると言ってもいいくらいだった。生徒会で先生に求められるがままに優等生を演じ、無理に捻じ込んだアルバイトで日銭を稼ぎ、たまの放課後にネットで出会った中年男性に飯を食わせてもらう。そんな生活を器用にこなしていた。
「ネットに住んでるおじさんってさ、皆居場所がなくて、話し相手がいなくて寂しそうだから」
とよく笑っていたけれど、誰かに構ってもらうことこそが、キリン自身が「生きている」と実感できる瞬間だったんじゃないか、なんて思ったりもする。
何か慰める言葉が口を衝きかけたけれど、私は慌てて引っ込めた。きっと哀れまれることを、キリンは、二人は良しとはしないだろう。苗字の話の時と同じ。下手な同情は、彼女らを突き放すのと同じだ。また私と二人の間に距離が生まれてしまう――
そこまで考えて、私は自分の浅はかさを呪った。
結局私は自分のことしか考えていないじゃないか。二人に寄り添って憐れんでいる振りをして、その実どうやったら彼女らに近付けるかなんて考えてしまっている。そんな薄っぺらい友情を掲げてまで、私は彼女らと席を同じくする資格なんてないのに。
そんな醜い思いを悟られないように曖昧に微笑んだけれど、春ちゃんは私の額をデコピンで弾いた。
「いったあ」
「ボヤっとしてるイルカちゃんが悪い」
春ちゃんはそう嘯いた。
彼女には私の考えなんて、全部お見通しだったのかもしれなかった。
クラスこそ違ったけれど、休み時間と放課後はいつだって一緒にいて、くだらない話で笑っていた。
いや、正確に言えば、春ちゃんとキリンの横で私は笑っていた。いつも一緒にいるけれど、なぜか私は「いさせてもらっている」とばかり考え込むようになった。
二人とも、無理をして私といるに違いない。本当は似た境遇の二人で仲良くしていたいだろうに、わざわざ二人がいる場に私を呼んでくれる。それが私は少しいたたまれなくて苦しい。
二人のことは大好きだ。春ちゃんとキリンに、いつも幸せであってほしいと思っている。春ちゃんの母親が家に新しい男を連れ込んでいると聞けば、彼女の心境を思って心が沈んだし、キリンの腕に青痣が浮いていれば本気でその相手をどうにかしてやろうかと憤ったりもした。私には黙って話を聞くことしかできなかったけれど。
それでもこの愛しさに、二人の境遇を憐れんでいる余地がないと、自分が手を差し伸べる側であるという傲慢さがないと、本当に言い切れるのだろうか。
私は二人の元を離れがたく思っている。けれど、大好きなんだけど、いつも私だけ置いて行かれているような感覚がした。三って奇数だから。余る一が私だ。でもそれは当然のことだと思う。
こんなのはきっと、本物の友情なんかじゃない。
そんな喉に刺さる魚の小骨のような嘘を胸に抱いたまま、あっという間に私達の三年間は過ぎ去っていった。
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