3-1=1
帰り道を急ぐサラリーマンの波に紛れて、私はターミナル駅の改札前で待ち合わせをしていた。
十年ぶりに会う春ちゃんがどんな姿形をしているのか想像もつかなかったから、トートバッグの肩紐を抱いて、人波をキョロキョロと見回してしまう。
私は彼女を見つけられるだろうか。
彼女も、私を見つけてくれるだろうか。
それ以前に、春ちゃんはここへ来るだろうか?
学生時代の、あの気怠い視線が十年の時を越えて大人の私に刺さる。
来ないなら来ないで、対人関係において面倒臭がりな春ちゃんらしいかもしれない、と思ったその時。背後から声がかかった。
「よう、久しぶり」
私は思わず上ずった声で返事してしまった。懐かしすぎる声。つい最近まで聞いていたかのような、ぶっきらぼうな響き。
「久しぶり……春ちゃん」
振り返ると、学生時代と寸分変わらない春ちゃんの姿が、そこにはあった。
◆
一ヶ月遅れの「あけましておめでとう」を春ちゃんに送ったのは、多分その時の気の迷いだった。学生時代に交換していた春ちゃんの電話番号から、自動的にLINEのアカウントが友だち登録されていたのを、偶然発見したのだ。
それまで会話のなかったトークルームを見つめる。「送信」を押す指は震えたけれど、返事が無くても良いとも思っていた。
多分私の事なんて、春ちゃんにとっては人生のほんの一瞬すれ違っただけの人間に違いない。あの眩い光を放つ学生時代を、昨日のことのように手触りも何もかもすべて思い出せる私とは違うのだ、と私は確信している。
確信、していた。
『何』
返事はたったの一文字だったけど、ああ春ちゃんだ、と安堵もした。
私は油断していた。返事が来るだなんて思っていなかったから、その先の返答に困った。
他人に興味も未練もなさそうだった春ちゃんは、覚えていてくれていたのかな、私を、私を含めたあの頃の思い出を。
『飲みに行かない? 十年ぶりに』
一切の勇気をふり絞ってそう送った。なんで咄嗟に飲みに誘ったのだろう、とも思ったけど、大人になってからのコミュニケーションの取り方なんて酒を飲むことしか思いつかなかったのだ。あの頃は大した用事なんてなくてもゲーセンでたむろできてたのにね。十年の時は、私をそこらに溢れるくたびれた大人にした。
返事はすぐ来なかったから、こうも付け足した。
『変なツボとかブレスレットとか売らないから! 信じて!!』
すると春ちゃんから返事が飛んできた。
『お、おう』『煙草吸うけどいい?』
一も二もなく私は了承した。春ちゃんが誘いを受けてくれた。久しぶりに春ちゃんに会える。そんな嬉しさが勝ってたから、煙草がどうだとかは本当にどうでも良かった。
手早く日程と場所を決めてその日は会話を終え、私は携帯を仕舞った。
会ったら何から話そう。高校時代の懐かしい話、いっぱいしたいな。別々の大学に進んだけれど、春ちゃんはどんな学生生活を送ったのかな。
ふとキリンの連絡先も自動登録されてやしないかとLINEを開いたけれど、残念ながら友だち欄には見当たらなかった。あの頃主流だったメールのアドレスも使えなくなっている。
彼女とは完全に音信不通になっていた、という事実に今更寂しさが込み上げた。けれど、もしかしたら春ちゃんは何か知っているかもしれない。そうだよね。私とキリンより、私と春ちゃんより、春ちゃんとキリンの方が仲が良かったんだもん。私が知らなくて春ちゃんが知っていることもあるだろう。
そんな話でさえ飲みの席で話の種になるかもしれない。
だから私は、その時はキリンの行方に特に言及することなく、春ちゃんに相まみえる日を楽しみに待つことにした。
◆
賑やかな焼き鳥屋のカウンターで、私と春ちゃんは何度目かの沈黙に襲われていた。お互いに酒を呑む手だけが進み、春ちゃんは黙って二箱目の煙草を開ける。
どうしよう。びっくりするほど会話が弾まない。
春ちゃんは自分の人生にも他人の人生にもあまり興味がなさそうだった。酒浸りパチンコ浸りの学生生活を送り、中退して地元に帰り、現在は役所の市民課でアルバイトをしている。未来に希望も展望もなく、ただ早く時が過ぎるのを待っている。そんな彼女の近況報告は全部話すのに一分もかからなかった。
特に興味はないだろうけど、私もぽつりぽつりと近況を話す。つまんないだろうな、きっと帰りたいだろうな、と思いながらする話を、春ちゃんは吸い殻の山を築きながら黙って聞いていた。
大好きなのに。春ちゃんが目の前にいるのに。
春ちゃんの結露したビールグラスに自分の心を重ねて、私は沈黙を破るようにとっておきの話題を口に出した。
「春ちゃん……はさ、キリンの行方知らない?」
彼女は短くなった煙草を深く吸って、ゆっくりと煙を吐き出した。やがてそれを灰皿に押し付け、口を開く。
「んー、知らない。大学を卒業したことまでは風の噂で何とか。てかイルカちゃんは知ってるのかと思ったわ」
「そっかあ」
春ちゃんが知らなくて私が知っていることはないだろう。そう思ったけれど、春ちゃんでも行方は分からないのか、という落胆の方が大きかった。今一体、キリンはどこで何をしているのだろう。
私は何杯目かのハイボールを傾ける。
「見つかるかな。また会いたいなあ。春ちゃん、見つかると思う?」
「どうせ架空の麒麟みたいにトリッキーな人生送ってんじゃないの、あいつ。だから『キリン』でしょ」
「うん」
「生きてりゃそのうち会えるでしょ。きっと」
キリンと本物の友情で繋がった春ちゃんの言葉は、私に根拠のない希望を与えた。
そうかもしれない。高校時代と地続きの人生で、こうして私と春ちゃんでさえ再び会うことができたのだから、春ちゃんとキリンは絶対に会えるだろう。いや、会うべきだ。
だからこそ、春ちゃんにキリンを会わせてあげたい、と強く思った。
やっぱり私だけじゃ駄目だ。私なんかじゃなく、春ちゃんは彼女に一番会いたいはずだ。
ああそうか。余る一の私にできるのは、きっと二人の人生の橋渡しに違いない。
そんな使命めいたことを思って、胸の内がすっと軽くなるような思いがして、私はグラスに残ったハイボールを一気に流し込んだ。
とっぷり暮れた終電間際に、私達はようやくお開きにすることにした。
名残惜しかったけれど、お互い明日は仕事だ。また元の生活に戻らなければならない。
集合場所の改札前で別れるとき、春ちゃんは何かを言いかけて、やっぱりやめたように口を噤んだ。
そして改札を潜って振り向いた私に手を振って叫ぶ。
「前見て歩け!」
それはそう。私は酔いもあって、彼女の心配通りに何もない所で躓いた。でもさ、最後にそんな言葉で別れなくても良いじゃん。
私は春ちゃんに見えるように、笑って大きく手を振った。
会話は弾まなかったけれど、十年経っても春ちゃんや春ちゃんとの思い出が私にとって大切だということは再認識できた。
十年経ったら、またこうやって飲みに行こう。その場にキリンがいて、また三人でいられるように、私頑張って探し出すから。
「春ちゃん! またね!」
ホームへ向かう階段を上がるまで、春ちゃんは手を振ってくれていた。その小さな姿が見えなくなるまで、私も何度も振り向いた。
春ちゃんが死んだと聞かされたのは、それから一ヶ月が経った頃だった。
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