第6話


 翌朝、お母さんからの電話でおばあちゃんの無事を聞いた。とりあえず今日一日は検査だそうだけれど、すぐに家に帰れるようだ。

 朝起きて、由布は家中の見回りをした。水道管は無事だった。氷のように冷たい水で顔を洗うと、しゃんとして、昨夜のことも心の整理がついた。

 支度をして家を出た。家の外には三、四十センチほども雪が積もっていた。こんなに降り積もっているなんて思ってもみなかったから、息を呑む。

 空は灰色。風は収まって、今は静かに粉砂糖のような雪が散っている。

「おはよう。積もったねぇ」

 雪かきをしていた田口のおじいさんが由布に笑いかけた。

「昨日、大変だったねぇ。八重さんは大丈夫かな」

「はい、お騒がせしました。すぐに帰れるだろうって、連絡が」

「そうか、よかった。しかし、ここらでこんなに積もるなんて、ここ何十年来無かったよ。よく冷えるね。歩道は除雪なんてできてないだろうから、車に気を付けて」

 ありがとうございますと頭を下げて、雪に足をとられないように注意しながら駅に向かった。

 風も吹いていないのに、耳の先がとれてしまいそうになるくらい寒い朝だった。雪はよく乾いて、手に掬ってもなかなか溶けない。雲がそのまま落ちてきたみたいにふわふわで、軽く、ぱっと散らせばほどけて舞った。目を凝らせば、雪の結晶の微細な造形までが観察できた。

「おはよう」

 ランドセルを手渡したら、明季はいつものように膝の上に抱えて、冷たい、と文句を言った。

「今日さ。また放課後、付き合ってくれない?」

 由布は藪から棒に言う。

 明季は嫌な顔をして由布のことを見上げて、でも、すぐに、あれ、と首を傾げた。

「どうしたの。なんかあった?」

「なーんにも!」

 由布があっけらかんと笑ったら、なに、気持ち悪い、と明季はおかしそうに言った。

 由布はどうしても都子に会いたかった。会わなきゃいけないと思っていた。だって、おばあちゃんが会いたがってるから。それに、本当のところどうなのか、はっきりさせなくちゃ気持ちが悪い。

 もしかしたら全部由布の早とちりで、都子は幽霊でもなんでもないし、おばあちゃんとは何の関係もない別人なのかもしれない。けれど、確かめるまでは分からないから。

 思えば、都子と会えた日には雪が降っていた。しばらくは雪の降らない日が続いて、今日は久しぶりの雪の日。

 偶然かもしれない。でも、今日はもしかしたら会えるかもしれない。いや、会えるに違いないと、由布には奇妙な確信に似た感覚があった。夕方までこの雪が降り止みませんようにと、ぱちんと合わせた手に願いを込めた。

 そんな由布の祈りが届いたのか、雪は降り止まず、大人たちは困った顔で窓の外を眺めていた。

 男の子たちは休憩時間になると、雪合戦だ、かまくらだと喜び勇んで真っ白な校庭に走り出て、由布と明季も、学校の中庭で小さな雪だるまを作って遊んだ。

 大雪警報が発令されているという。市立病院まで行ったおばあちゃんたちが帰って来られるだろうかと、由布は少し心配になる。そうなったらさ、うちに泊まりなよ、と明季が言ってくれた。心強くて、勇気が出た。

 授業が終わるとすぐに、早く帰りなさいと先生たちにせっつかれて、寒空の下に放り出された。仕方がないので散らばっていく子どもたちの間に紛れて、明季と二人、ふらふらと道草しながら駅に向かった。

 道路の温度計にはマイナス二度と表示されていた。信じられない、と明季が目を回していた。でも、諦めて帰ろうとは言いださなかった。

 由布は雪を拾って両手で固めた。きゅっ、きゅ、と雪の擦れる音がして、みるみる手の中で小さくなった。

「見て、明季。すごい硬くなった」

「固めて、どうするつもりよ」

「ぶつける」

 投げつけると、雪玉は明季のスノーウェアに当たって乾いた音を立てた。崩れもせずに地面に落ちた雪玉を見て、明季が怖い顔をした。

「ほぉ」

「あは」

「ほお、ほお」

「あははっ」

「十倍返しっ!」

 明季がすごい勢いで雪玉を乱射してくるから、由布は慌てて傘でガード。お母さんの、大きいやつ。

「傘はズル!」

「えー?」

 遊んでいるうちに暑くなって、駅に着くころには汗をかいていた。

 もういつも乗る列車は行ってしまっている。

 由布と明季は誰もいない駅の待合所で、二人きり、隣り合って都子が来るのを待っている。

 待合所にはドアさえついていないから、外からの冷気は全くの素通しだ。風向きに背を向けるようにして立っているから、雪で埋まってしまうことはないにしろ、少しは入り込んでしまっているに違いなく、ばりばりに凍り付いた床には、スコップの除雪跡が残っていた。

 ベンチに置かれた、誰かが置いて行った手作りの座布団に座っていた。座布団は氷のように冷え切って、初めは跳び上がったけれど、しばらくじっとしていたら温かくなった。

 汗が冷えて、寒くなってくる。

 二人で身体を寄せている。ぴたりとふとももとふとももをくっつけると、少しマシになった。

「寒いね」

「うん。寒い」

 いつしか話題も途切れ、二人で囁くように言葉を交わし合っていた。

「手、繋ご」

 明季がせがむから、両手を交互に結び合った。

「冷たいのと冷たいのをくっつけたって、冷たいままだよね」

 由布が笑うと、いいの、と明季が強情に唇を尖らせる。

「寒くても、二人だなって、思えるでしょ」

 ごぉ、と風が鳴った。どうやらまた吹き始めたらしい。巻き上げられた粉雪で、待合所から見える景色も白染めになる。深い霧に包まれたように視界が真っ白になる。

「これ、来るかな?」

 明季が少し不安げに言う。

「幽霊だから、関係ないよ」

 由布は確信に満ちて頷いた。

 そして、時間が来た。

 明季は待ってて、と呟いて由布は立ち上がった。

 風が強い。傘は差さず、フードだけ被って待合所の外に出た。

 外は粉雪の乱れる箱庭のようだった。プラットホームの向こうが見えないほどに周囲は白灰色に閉ざされて、由布の立つこの場所で、世界はひっそりと閉じていた。ただ枯れたススキの薄茶色が、線路の向こうにかろうじて見えている。

 そんな中に足を踏み出すのは少し勇気のいることだった。しかし由布はためらうことはなかった。足の向かうその先に都子がいるという確信に突き動かされるようにして先へ進んだ。

 いつも都子が立っているホームの端っこは、来た時には除雪された雪が山になっていた。それなのに今、雪の山は消え去り、黒い傘を差したすらりと背の高い影が、風など感じないといった風情でいつものように立ち尽くしていた。

――やっと会えた。

 急がなければ消えてしまう幻であるかのように、由布は早足で都子にその傍に近寄った。

 都子はよく見れば、以前に由布が放り投げてしまった赤い傘を腕にひっかけるようにして抱えていた。だから、待っていてくれたのだと由布は分かった。

 都子は由布の姿を見つけると小さく息を呑んだ。

 由布は黙って都子の隣に並んだ。都子の隣は不思議と少しだけ温かくて、風も嘘のようにぴたりと収まってしまった。今は静かに、小雪が散り、黒い傘の上に降り積もっている。

 由布がスノーウエアのフードを脱いで都子の顔を見上げると、都子はゆったりと赤い傘を差しだした。

「忘れものですよ」

「――ありがとうございます」

 都子に会ったら、伝えたいこと、伝えなくちゃならないことがたくさんあった。なにを言おうって、考えてきたはずなのに、会えたら安心してしまって、少しも言葉が出て来なかった。

 だから、しばらく二人して黙ったままで、都子の視線の先に目を向けていた。

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