第7話

「――大分長い間、ご無沙汰でしたね」

 初めに口を開いたのは都子の方だった。振り向けば少し拗ねたような顔をして、都子は由布のことを見ていた。

「おかげで私、待つ人が二人になってしまいました」

 それから愉快そうに、ふふふ、と笑う。

「都子さんが脅かすからでしょ」

 由布が口をとがらせると、そうでした、と小さく舌を出した。

「でも、由布さんが面白い話をしろって言うから」

 それで~?と由布は呆れかえってしまう。どうやら面白過ぎたようですね、と都子は難しい顔をしていた。どうやら由布を遠ざけようとして脅かしたわけではないようだった。

「会わない間に、わたし、都子さんのこと、ちょっと分かったかもしれないんだ」

 由布が言うと、都子は少し目を丸くして首を傾げた。

「私のこと、ですか」

「うん。全然見当違いかもしれないんだけど」

「ふむ。面白そうですね。当ててみてください」

 都子はどんな見当違いの話が飛び出すのかといった風情で、品定めするように由布のことを見下ろしている。

 推測はほとんど的を射ているだろうと由布は見積もっていた。けれど、外れていてほしいとも思っていて。放っておけば分からないことをどうして自分から暴きに行こうとしているのだろうと、自嘲的に笑う自分がいた。でもこれは、きっと気持ちを定めるには必要なことなのだろう。だから、踏み込まなきゃならないんだ。

 由布は心を決めて、すっと息を吸い込んだ。

「都子さんは、誰か大切な人のこと、待ってるんだよね」

「ええ。そう言いましたね」

「でもさ、本当は待ってたのはその人の方で、都子さんは、待たせていた側だったんじゃないの?」

 都子が息を呑んだ。瞳が揺れるのを見て、由布は自分の推測が間違っている可能性を諦めた。

「都子さんが待ってる大切な人って、女の人だよね」

「――はい」

「都子さんは、その人のことが好きだった」

「――はい」

「その人も、都子さんのことが大好きで、でも……、都子さんにはもう、許嫁がいたんだ」

「…………」

「それでもその人は、都子さんのことが諦められなかった。そして今から何十年も前のある雪の日、この駅で、都子さんを待った……」

「――嬉しかったんですよ。私は、本当に」

 都子はそっと由布の言葉を遮って、椿の枝に降り積もった雪が崩れるように微笑んだ。

「それでも私は、行かないことを選びました。私は迷った末、八重の手を取らなかったのです」

「どうして!」

 由布は胸が詰まりそうになりながら激しく問いかけた。親の決めた結婚相手に義理を通して、本当に好き合った人と一緒にならないなんて、由布には理解できない感情だった。

 都子は由布の真っ直ぐな目を受け止めかねたように目を逸らした。

「臆病者と謗られて構いません。怖かったというのも事実です。二人での生活は夢のようでしたが、夢のようであり過ぎました。また私には許嫁がいました。そして彼は、私のことをとても愛してくれていた。わたしは彼にもらった愛情を、裏切る勇気が持てませんでした」

 都子は言葉を失った由布を嘲るように笑った。そしてくるりと回る。黒いスカートが浮き上がり、白い足が束の間覗いた。

 次に由布が見た都子は、それまでの穏やかな表情から一変し、険しく、怒気を含んだ表情で由布を睨んでいた。

「そこまで知っているあなたは何者なのでしょう?」

「――八重の孫です」

 由布が乾いた口で答えると、都子はふっと息を呑んで由布の顔をまじまじと見つめた。そして唐突に、けたたましく狂ったように笑った。

「ここで八重が、また私に一緒に行こうと言ってくれるのを待っていました。ずっと、ずっと!雪の白と冬の冷たさに捲かれながら。ただあの日、八重に付いて行かなかったことを後悔し続けていました。でも、八重は違った。誰か私の知らない人を愛して、子どもを作って。こんなに可愛い孫まで生まれて。私だけが、ここで!」

 それはあんまり、勝手な言い草だった。由布は都子の豹変におののきながらも、でも、会いたいと言ったおばあちゃんの声を思い出した。及び腰に力を込めて、踏みとどまる。都子の美しい顔を睨みつける。

「おばあちゃんは、待ってたのに。都子さんのこと!」

「そう。私が選んだの。行かないってこと。別の道を歩むってこと。八重が行ってしまった次の日、私はこの場所に来て、八重のことを想って泣いたわ。もう二度と私の許には戻らない大切な人のこと。その人と一緒に在る、既に潰えた可能性としての未来のこと。そして私は二つに分かたれた。前に進む私と、もうここから一歩だって動き出せない、この、私と!」

 風が激しく鳴りだした。穏やかだったはずの都子の周囲にも、激しく雪が吹き付ける。唐突に踏切の遮断機が降りた。信号が赤に変わって、ちん、ちんと乱れるように響く鉦の音。

 由布は周囲の変貌に狼狽して喘ぐように言った。

「どうして!列車はまだ……」

「来るの。あなたが時計を進めてしまった。だって私は、ずっと待ってた人に会えたから」

 由布のことを見る都子の目は、もう今までの優しくも、少し寂しそうな光を湛えたものではなく、なにか狂おしい、押しつぶされそうなほどの悲しみに染まっていた。

 後ろから明季の声が聞こえてきた。

「由布!」

 しかしその声はどこか遠くから響いて来るように朧気で心許ない。

「明季、来ないで!」

 後ろを振り向いた由布の手首を都子の手が掴む。強い力だ。由布は痛みに顔を歪めた。

「八重。私、あなたと行くわ。私と一緒に来てくれるでしょう?」

 都子が切なげに微笑む。その瞳の奥の、溺れそうなほどの深い想いが由布の胸を衝く。来る日も来る日も、選ばなかったことを後悔しながら、きっともう来ることのない列車を待ち続ける都子の姿が脳裏に浮かんだ。

 この人を救ってあげたいと思った。一緒に行くってことがたとえどんなことであったって。

――でも。

「由布!」

 明季の声が由布を呼んでいる。あの間延びしたような、締まりのない発音で。

 由布は都子の顔に手を伸ばした。都子の頬を手のひらで包むと、冷え切った肌の感触が伝わってくる。でもその奥には人肌のぬくもり、柔らかさがあって、たとえもう死んでしまっていたとしても、本人とは切り離された想いの残滓に過ぎないとしても、都子はここにいるんだと解る。

 由布はじっと都子の目を覗き込んでいる。都子の瞳は由布のことを見ているようで、きっとここにはいないおばあちゃんのことばかりを見つめていた。

 胸がチリと痛む。都子に会いたいと思った気持ちが何なのか、由布は朧気ながらも分かりかけていた。分かりかけたと分かった時、ぎゅっと痛みが強くなった。それを無視して、由布は柔らかく笑いかける。

「都子さん……。都子さんに必要なのは、わたしじゃないんだね」

「違うわ、あなたよ。あなただけをずっとここで、私、待ってたの」

「うん……。ありがとう」

 由布は都子の身体をそっと抱きしめた。都子の身体が震えて、脱力するように由布に寄り掛かる。由布には都子が泣いているのが分かった。

「……やっと。やっと会えたのね」

「うん、会えた。会えたよ……!」

――だからね。

 由布はぐいと都子の身体を突き放した。唇を噛む。迷子のように狼狽えた目をした都子に、告げる。

「――もう、待ってなくていいんだよ。都子さんは、先に進んでいいんだ」

 都子は小さく息を呑んだ。その目には再び炎が宿る。

「……八重。そんなこと言わないで」

「違う。私は由布。八重に代わってお別れを告げに来たの」

「ねえ。八重はそんなこと言わないでしょう?」

「うん。だからわたしは、八重じゃないんだ」

「八重……」

「ごめんね、おばあちゃんじゃなくて……」

「ねえ、八重!」

「だからわたし、おばあちゃんじゃない!」

 都子の手が由布の両肩を掴んで激しくゆすぶった。揺れる視界にくらくらしながら、由布は必死で首を振って“わたし”を主張する。

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