第8話

「由布!」

 明季の声が唐突に、由布の耳元で弾けた。被膜を突き破って、明季の手が由布の腕を掴む。

「返せ、悪霊!」

 わめきながら明季が力づくに由布の腕を引っ張るから、由布は悲鳴を上げてしまった。都子も取り返されまいと由布のもう一方の腕を掴んで、明季の顔をキッと睨みつけている。

「この子が今のあなたにとっての私なのね」

「ちょっと!痛い」

「明季ってんだ、覚えとけ!」

 明季もテンパっているのか、なぜだかべらんめえ口調で自己紹介する。

「ねえ。痛いって、二人とも!」

 由布を間に、二人して視線がぶつかるのが見えそうなくらいの激しさで睨みつけ合っている。由布が両側から力いっぱい引っ張られて痛がっているのに、二人ともちっとも聞く耳を持たない。

「八重は私と来るの」

「八重って誰だ。由布はわたしのだから!」

「私はずっと八重のことを待ってた」

「こちとらずっと由布が好きだし。あんたよりもずーっと!」

 どさくさに紛れて明季に告白された気はしたが、腕が千切られそうな危機を迎えていた由布としては構っている暇はない。

って、言うか。

――なんかわたし、蚊帳の外じゃない?

 どうして失恋真っ最中のわたしが、気の多い浮気者みたいな立場を演じなければならんのだと、綱引きの綱よろしく乱暴に引っ張られる痛みも手伝って、由布はだんだん腹が立って来る。

 見てろよ~、と内心気勢を上げながら、明季の足の位置を確認。さっと足払いを食らわせた。明季は綺麗につまずいて、力いっぱい引っ張り合っていた二人は、バランスを崩して仲良く悲鳴を上げた。雪の上に尻もちをついた都子の上に、由布、明季と順々に倒れこむ。

 何が起こったか、二人がよく分からないでいるうちに、由布は腕立て伏せの要領で素早く身体を起こして一喝した。

「明季!」

「えっ」

「都子!」

「は、はい」

 二人はなんだか分からないうちに怒られて、目をぱちくりとさせている。遮断機の鉦の音も、強い吹雪も勢いを弱め、都子の瞳にはもう、狂乱の色はない。

 由布は明季と都子と、順番に顔を見据えて、都子の上に馬乗りになったまま、今のうちにと言いたいことを言ってやった。

「痛いって、言ってるでしょ!」

「あ、うん……」

 都子は消え入りそうな声で頷いた。ちゃんとわたしの話、聞いてよ、と続けたら、ごめんなさい、と目を伏せる。

 由布は視線の先を追って都子と顔を合わせた。怒ってるよ、と頬を膨らませる。

「わたしは八重じゃない。由布です。おばあちゃんはおばあちゃんだし、わたしはわたし。わたしを見てよ。わたしは都子さんがずっと待ってた人じゃないかもしれない。だけど今、あなたの目の前にいるのは、わたしだよ!」

 由布は都子の目を覗き込んだまま、届け、届けと願うように念じている。

 おばあちゃんに敵わなくても構わない。けれどせめて、一人の、都子に想いを寄せる女の子として、認めてほしかった。

 けれど……。

「八重……」

 都子の呟きが聞こえて、由布は小さく息を呑んだ。

 しかしすぐに都子がくすりと笑ったから、身体の芯が萎えそうなくらいほっとした。

「ああ、驚いた。意外と乱暴なのね。由布さん」

 都子が元のような穏やかさで笑っていたから、由布は安心して唇を尖らせることができた。

「こっちのセリフ!」

 由布は身体から力が抜けていくままに、雪の上に頭を預けた都子に抱き着いた。

「あのまま怖い都子さんのままだったらどうしようかと思った」

「ごめんなさい。だって、八重の孫だなんて。悪い冗談にも程があるわ」

 都子の声が微かに震えたから、わたしの言葉がどんなに都子の心を揺るがしたのか、由布にも分かった。

 ごめんなさい、と呟いたら、都子は由布の背中に軽く手を遣った。

「いいの。だって死人にも未来は必要だわ。終わってしまった過去に囚われた私には、あの日しかなかった。でも、今は違う。あなたと明季さんを知って、止まってしまっていた私の時計は、もうずっと遅れてしまっていたことを知ることができた」

 由布は離れがたかったけれど、ぐっと身体に力を込めて立ち上がった。都子を助け起こして、放り出してあった傘を差しかけた。

 由布には都子に言わなければならないことがあった。都子はどうやらそのことを分かってくれているらしい。じっと由布のことを見つめて、待ってくれている。

 由布は後ろで心配そうにしている明季のことを振り返って、大丈夫と笑いかける。それから思い切って息を吸い込んだ。

「好きです。都子さんのこと」

 げっ、と声を上げたのは明季だった。都子は慌てて口を押えた明季にそっと微笑んで、それから由布に向かって綺麗にお辞儀をした。

「由布さん。あなた流に言えば、あなたは八重の孫ではあるけれど、八重ではない。だから私の想い人ではないわ。一緒には連れて行ってあげられない。ごめんなさい」

「……うん」

 断られたことは悲しかったけれど、それは望んでいた答えでもあって、だから不思議と苦しくはなかった。

 由布は都子の手に傘を渡した。

「おばあちゃん、会いたがってる」

 都子は静かに首を横に振った。

「私は、あの日、この場所と一緒にあの時間に切り取られた、私の断片に過ぎない。だからここから動くことはできないし、動こうとも思わない。それに、八重が会いたいのは私ではない。私は可能性の一つに過ぎないの。八重が会いたいのはきっと、選ばなかった方の私」

「難しいこと言って……」

 唇を尖らせた由布に都子は柔らかく微笑んでくれた。

「あなたは、後悔しないでね」

 まるで遺言のようなことを言うから、由布は慌てて都子の身体をきつく捕まえた。

 制服の奥の身体の柔らかさと、骨の硬さを感じた。

 由布には、都子が都子の断片に過ぎないなどとは思えなかった。由布にとっては、都子は都子一人きりで、それ以外なんてありえなかった。

「都子さん、どこか行っちゃうの!」

 縋るように言った由布に、都子は切なげに微笑んだ。

「言ったでしょう。私の時計の針はもう、進み始めた」

「やだ」

「ここはもうじき崩れます。ほら、聞こえるでしょう。列車が来る」

「やだよ!」

 いやいやと都子の胸に顔を埋める由布を見て、都子は明季に呼びかけた。

「明季さん」

 なんか貧乏くじっぽい、とぼやきながら、明季は由布の首根っこを掴んだ。

「ほら。帰るよ、由布。迷惑だから連れて帰れって」

「そこまで言ってないじゃん!」

「由布さん」

「え」

「迷惑です」

 ショックで腕の力が萎えた隙に、すかさず引きはがされた。

 じたじたと暴れながら明季に引きずられていく由布に手を振りながら、都子は言った。

「さっきね、怒られた時。八重に怒られたような気がして、懐かしかったわ」

 最後までおばあちゃんのことばかりだから、由布は悔しくてつい、あっかんべ、してやった。都子は愉快そうに笑っていた。

「それから、明季さん」

「なに」

 明季はぶっきらぼうに応えた。都子は小さく頭を下げた。

「ありがとう」

 都子から離れるほどに、遮断機の音が小さくなっていった。同時に、風が強くなる。巻き上げられた雪で視界が白くなっていく。それは夢から覚めるようで、切なくて、胸がつんと締め付けられた。

 待合所に連れ込まれるまでの最後の視界の端に、由布は、古めかしいデザインの列車がプラットホームに走りこむのを見た気がした。

 そして次に見た時には、もう都子の姿はどこにもなかった。


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