第9話 エピローグ

 ***


 それからもう二度と、都子が由布の前に姿を見せることはなかった。

 あの日のことは由布と明季の二人きりの秘密にした。おばあちゃんにも言っていない。おばあちゃんはあの一際寒い夜以来、都子のことについて何か語ることもなかった。

 小学校、中学校と由布はあの駅に通った。

 毎年雪が降ると、由布は何となく都子の立っていた場所に目を遣って物思いにふけることがあった。明季はその度、見るからに不機嫌になって由布を睨んだ。

 由布が明季と付き合い始めたのは中学生になってからだった。高校生になって、今も二人で列車に乗っている。毎日通り過ぎてはいるけれど、あの駅に立ち寄ることももうない。

 明季に傘を奪われた後、由布は雪に降られつつゆっくりと駅までの道を辿っていた。明季は必ず待っていてくれるから、強いて急ぐこともない。

 明季には、のんびり屋さんだとか、マイペースだとかよく言われる。明季がいつも待っていてくれるから、由布がマイペースでいられるんだってことには気づいていないらしい。

 果たしてしばらく歩いていれば、やがて向こうに黒い傘を差した明季が、ふくれっ面で待っているのが見えてきた。

 明季は大人になって、すらりと足の長い美人さんになった。黒い艶やかな髪を背中まで伸ばして、スレンダーな身体にきっちりと着込んだ紺色のブレザー姿がよく似合う。

 読書家で、目を悪くして中学生の頃は眼鏡をかけていたけれど、高校生になってコンタクトレンズに変えた。そうすると元々長い睫毛が際立つようになって、可愛いよりも美しいの言葉が似合う女性になった。

 黒い傘を差した明季の姿を遠目に見て、由布はふと足を止めてしまった。明季の姿が、あの日、駅で想い人を待ち続けていた都子の姿と重なって見えた。

――これは、浮気と言われても仕方ないかな。

 由布は苦笑いを漏らしてまた歩き始めた。

 明季の姿が都子と重なって見えたことはこれが初めてではなかった。瞼の曲線の柔らかさや、睫毛の長さ、輪郭や唇の形が実際に似ているような気がしている。あんなに好きだと思った都子の顔貌を、由布はもう明確には思い出せなくなっているけれど。

 かと言って、初恋の人を明季に重ねて好きになったのかと言われれば、それは違うと言い切れる。だって都子は明季よりも清楚で、可憐で、美しいひとだったから。

 一方の明季は、大口を開けてガハハと笑うし、たまに暴言を吐くし、口より先に手が出るタイプ。運動神経が良くて、体育の時間とか、由布のことをバカにする。身体ばっかり大人になって、子どもっぽいったら。都子さんとは大違い!

 ほら、今だって。

 明季は子どもの頃と変わらないむくれ顔で由布のことを待っている。

「明季」

 由布が呼びかけたら、ふん、と明季はそっぽを向いた。傘を閉じて、びしっと先端を由布に向けてくる。

「危ないよ」

「交番。あんたが行ってきなさい」

 明季が顎で示すから、由布は傘を受け取って落とし物として届けた。

 戻って来て、両手を広げる。

「ほら。これで満足?」

 明季はまだなにか根に持っている様子だったが、まあ、よし、と頷いた。

 それから列車に乗り込んだ。

 すぐにビルは見えなくなって、住宅街と、海と山との景色が続く。

 降りゆく雪は猛スピードで後ろに過ぎ去る。海は硬い鈍色で、空は薄墨で描いた白。世界は色彩に欠け、荒涼として寂しい。

 明季はまだつんと唇を尖らせて、四人掛けのボックス席の斜め前で仏頂面をしている。

 いくつか駅を過ぎて、車内の人がまばらになった頃、由布は明季の隣に席を移した。

「ね。まだ怒ってるの?」

「怒ってない」

「怒ってるじゃん」

「うわき者」

「もうしないから」

「あ、認めた」

「浮気ついでにさ」

「なに」

「久しぶりに行こうよ、今日」

「行ってどうするの」

「一時間、待合所に居よう。このまま帰っちゃうんじゃなくて、もうしばらく、二人でさ」

 明季は心動かされた様子で由布のことをじっと睨みつけた。

「相変わらず口がお上手で」

「どういたしまして」

「次の駅でなら、いいよ。変わらないでしょ?」

「うん。じゃあ次、降りよう」

 あっさり由布が頷いたのが意外だったようで、明季は数度瞬きした。

「いいの?」

「いいよ」

 やがて列車が止まる。明季は立ち上がった由布の手を捕まえた。

「やっぱいい。あの駅、行こ」

「いいの?」

「いいよ」

 列車のドアが閉まった。

 由布は元の席に座って、にやにやしながら明季の顔を眺めている。

「なに」

 明季は鬱陶しそうに手を振った。

 駅に着いて、二人で列車から降りる。列車から降り立つ古びたコンクリートの感触さえ懐かしく、乗り込む者もなく行ってしまった列車を、由布はぼんやりと見送っている。

 雪が降っているから、もしかして、と今でも少し思ってしまう。都子の立っていた場所に視線を向けた由布を見て、明季が少し切なそうに俯いた。

「ここで私、あの女に、私の方が由布のことが好きだって言ったんだ」

 沈黙に耐えかねたように明季が口を開いた。

「え。そーだっけ?」

 由布が知らないふりをすると、そーだよ、と明季が眉を顰める。

「あの後、あんたからなにか言ってくれるものだと思ってたのに、結局なにもなしでさ。結構どきどきしてたのに」

 そうだっけ、となおもとぼける由布に、あんたって時々、本気でなにも覚えてないことがあるからなぁ、と明季はぶつぶつ言っている。

 このまま覚えていないじゃあんまり明季が可愛そうだったから、冗談、と由布は首を振った。

「嘘だよ。覚えてるし、聞いてた」

「やっぱり、知らないふりしてたんだ」

 拗ねた表情の明季に、今、答えようか、と由布は微笑む。

「え~。いいよ」

「なんでさ」

「いいって」

「聞きなよ」

「拒否する」

 二人でじゃれるように押し問答した。

 風が吹いて一度、雪が吹き付ける。その一瞬、明季の目が閉じた隙に、由布は明季の手の指の隙間に冷えた指を滑り込ませた。

「私は選ぶから。明季と一緒に行くこと。絶対、後悔しない」

 由布は静かに囁いた。

 明季はすんと鼻を鳴らした。

「ん」

「二人なら、怖くないね」

「――だね」

 それから二人で、待合所の古びたベンチの、ぺしゃんこの冷たい座布団に座って次の列車を待っていた。相も変わらず待合所には冷たい風が吹き込んで、昔よりも少し数字の減った時刻表が凍えていた。

 あの日みたいに二人で身体を寄せ合って、温め合っている。

 由布が肩に頭を預けたら、寝たら死ぬぞ!と明季がふざけて身体をゆすぶった。太ももに手を遣ったら、こら、と手を叩かれる。

 明季はまじめと言うか、身持ちが固くて、キスだってなかなかさせてくれない。

 粉雪はいつしか牡丹雪に変わって、見るうちにも次第に降り積もり始めている。次にこの待合所から出るころには、コンクリートの灰色の上に、二人分の足跡が残ることになるだろう。

 プラットホームに列車が来るまでは、まだしばらくの時間があった。

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スノウゴースト みのりすい @minori_sui

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