第3話


 一夜明けても雪は降り続いていた。離れがたい寝床から無理やりに上体を起こしてカーテンを開けば、白染めの町と大理石のような鈍色をした海が見えていた。

「今日も寒いから、ズボン履いて行きなさい。手袋と、帽子と、マフラー。あと傘も!」

「行ってきます」

 由布はお母さんに呼び止められるのも聞かずに家を出た。

 お隣の田島のおじいさんがせっせと道の雪かきをしていた。

「おはよう。凍ってるから気を付けな。そんなカッコで風邪ひくなよぉ」

「おはよう。田島さんこそ、落雪に注意、だって」

 道には二十センチくらいの雪が積もっていた。でもゴム長靴なんて履いて登校したくないから、薄水色のおしゃれなブーツを履いて、田島さんが除雪してくれた道を駆けて通る。

 小走りで町なかの細い道を走って、五分ほどで駅へ出た。

 朝は一番駅に人が多い時間帯で、大抵十人ほどが集まる。やがて二両編成の列車が雪に窓を凍てつかせながら現れる。列車の中は暖房が効いて温かい。

 明季は一駅向こうから乗ってくるから、いつもこの列車が待ち合わせ場所だ。

「由布」

 明季が横並びのシートから手を振った。

「おはよ」

 明季の前まで行って、手すりを掴む。はい、と手を伸ばした明季に荷物を渡すと、明季はランドセルを二つ膝の上に抱え込んだ。

「由布」

「なに」

「ランドセル、冷たい」

 明季はいつものように文句を言った。

 明季は由布の名前を、ゆー、と息を滑らせるように呼ぶ。ふの音を発音するのが面倒なのか、そうなってしまうのかは分からないけれど、なにか甘えているみたいで、動物の鳴き声のようにも聞こえてなんだか可愛い。

「昨日、すぐ帰れた?」

「あ~……、うん」

 由布が曖昧に頷くと、聞いてない!と明季が不機嫌そうに眉根をしかめた。

「聞いてる。次の列車で帰った」

「そっか。吹雪いてなかった?」

「地鳴りのようだったよ」

「えっ、マジ?」

「嘘」

「なんで嘘、ついたの」

「どうしてかな」

「嘘つきめ」

「昨日さ……」

 都子とのことを話そうかと思ったけれど、止めた。どうしてか、秘密にしておきたいような気がして。

 何か話しだそうとして口を開いた由布が途中で固まってしまったから、明季は首を傾げた。

「昨日、なに」

「やっぱ何でもない」

 由布が首を振ると、明季はすーっと細長くため息を吐いた。

「ほんと……、由布ってさ」

「なに」

「やっぱ何でもない!」

 明季はいーっと白い歯を見せた。

 二駅で最寄りの駅に着く。車内の小学生は大抵ここで降りる。大人も少し。

 駅のホームに降り立つと、由布は周りを見回した。けれど、都子の姿はどこにもない。当然か、ずっとここにいるはずもないよね。

「なにしてるの」

 明季の声に、ううん、と首を振ってすぐに追いついた。



 雪は束の間降り止み、下校の頃になって再び降り始めた。太陽が覗き、降り積もった雪の表面をてらてらと艶めかせたのもわずかの間のことで、再び町は陰鬱な白さに閉ざされた。

 由布は都子にもう一度会ってみたい気がして、いつものように一緒に帰ろうとする明季を追い払った。

「なにさ!由布のばーか」

 上手い言い訳ができなくて、いいから先に帰って、と言ったら、明季を怒らせてしまった。流石に悪かったかな、と反省している。

 一人で教室に残っていると、暖房のない部屋はすぐにつんと冷たくなって、由布は図書室に逃げ込んだ。その図書室も、用のない子は早く帰りなさいと四時には追い出されてしまって、仕方なく、昨日の時間より早く駅に行ってみることに決めた。

 新たに降り積もった雪をざくざくとブーツで踏み固めながら、由布は一人、通学路を歩いている。

 雪道を歩いていると不思議な感覚にとらわれる。由布を囲むように、うっすらと半径一メートルほどの被膜があるみたい。音が遠くなって、世界には自分しかいないような錯覚を覚える。由布だけの世界がここにある。そこでは何に煩わされることもなく、ただ足の裏に雪の崩れる感触だけがある。

 タイヤで雪を踏み分けるようにしてトラックが走ってくる。ぼんやりしていたら跳ね上げた雪を盛大にぶちまけられそうになって、走り去るトラックに、もう!と両手を上げて抗議した。

 駅のホームには誰もいなかった。

 毎日いるわけじゃないのか、と落胆と共に待合所の中へ。

 これまで一度も会ったことがなかったのだからそう簡単に会えるわけじゃないのは当然なのだけど、同じ時間に行けば会えるような、そんな淡い予感がしていたから拍子抜けした。

 しかしそうなると、明季を怒らせただけ損をしたことになる。どうして明季を怒らせてまで都子にもう一度会ってみたかったのか、由布自身にもよく分からなかった。

 明日になれば明季ももう忘れてるよね、などと楽天的なことを考えながら、待合所の中で一人寒さに凍えていた。やがて昨日都子と会った時間を過ぎているのに気が付いて、試しに待合所の外を覗いてみた。

――いた。

 昨日と同じ場所に立って、昨日と同じように、来ない列車を待っている。

 昨日と違うのは、由布があげた傘を差していること。今日は黒い髪も黒い制服も、白に染まってはいなかった。

 由布は喜び勇んで駆け寄ってしまいそうになって、慌てて抑える。一つ息を吐いて赤い傘を静かに開くと、あくまでも偶然同じ時間に来ることになったように装って静かに都子に近づいた。

「今日も人待ちですか」

 由布がしゃべりかけると、都子は驚いた表情で振り返った。

「――ああ。あなたですか。えっと、由布さん」

「はい。わたしですよ、都子さん」

 由布は都子の顔をじとっと見上げた。

「もう名前、忘れそうだった」

「だって、しばらく会いませんでしたから。ご無沙汰でしたね」

 由布はきょとんと首を傾げた。

「ご無沙汰って程じゃ、ないと思うけど」

「そうですか?まあ、人によりますよね」

 都子は一人で納得してまた線路の行く先へ視線を移した。由布も黙って同じ方を向いて、二人してじっと立っている。

 由布の方はわざわざ会いに来たっていうのに、都子の方ではまるで興味がなさそうで、会話を振ってくれる気配すらない。連れない態度に由布はちょっと唇を尖らせて、それからすぐに悲しくなった。

――傘、あげたのに。道に落ちてた、拾い物だけどさ。

 由布は赤い傘をそっとずらして、こっそり都子の顔を見上げた。横から見上げると睫毛の長さがよく分かる。ガラス玉のような目は静かに由布以外の誰かに向けられていて、今隣に居るのはわたしなのにと、由布はこっそり頬を膨らませている。

「どうしました?」

 しばらくして都子が、初めて気が付いたような素振りで由布に視線を移した。

「別に。わたし、邪魔してるかなって」

 由布が急いで視線を逸らしたら、都子は微かに笑みを漏らした。

「邪魔なんて。私はいつも一人でこうして向こうを眺めてばかりいますから、一人でいたければ、その時間はたっぷりあるんです」

 どーだか!とそっぽを向いた由布を、都子は優しい目で仕方なさそうに眺めている。

「由布さんは、つまらなくないんですか。私の隣で。こうして線路を眺めるばかりで」

 つまんないよー!と由布は傘を振り上げて主張した。

「なにか楽しいこと、話してよ」

 楽しいことですか、と都子は困った顔をする。

「なにしろこうして代わり映えのない景色を眺めてばかりいるものですから、楽しいことなんて一つもないんです」

 ひとつも!と由布はびっくりしてしまった。

「なんでもいいんだよ、昨日見たテレビが面白かったとか、友だちが変なこと言ったとか、おかしなお客さんがいたとか」

「おかしな客なら、ありました」

 都子が手を打ったから、なになに、と食いついて、でも都子が愉快そうに由布を見たから、すぐに何を言い出すのか分かってしまった。

「あのさ、それってもしかしてわたしのこと?」

「正解!」

 ふふっと都子が堪えかねたように笑いだしたから、由布は機嫌を損ねてしまった。

「もういい。もう聞かない!」

「待って、待って」

「いいって」

「だって、言ったでしょう、代わり映えしないって。由布さんは本当に久しぶりのお客さんだから、私の許を訪ねてくること自体、おかしなことなんだわ」

 妙なことばかり言う人だった。由布は怪訝な表情で都子を見た。都子はそんな由布の顔に手を伸ばして、頬に触れた。

「温かい」

「冷たい」

 由布は都子を軽く睨んで抗議した。

 ポケットに突っ込んでいた手で都子の手を握る。軽くもみほぐすようにして温めてあげた。都子は目を細めるようにしてその様子を眺めている。

「生きている人って、やっぱり温かいのね」

「え?」

「私はたぶん、もうとっくに死んでいるの」

「え」

 また唐突に妙な冗談を言い始めるから、ドキリとした。でも都子の表情には由布をからかうような色はなくて、真剣そのものだった。その美しい顔も手伝って真実味が増している。もしもこれが冗談だとしたら、相当に性質の悪い性格をしていた。

「なに言ってるの?」

 由布は思わず後ずさりそうになる足を抑えながら訪ねた。寒いはずなのに、ひたりと首筋に汗が伝った。

 見てみて、と都子は自分の周りを指差した。

「足跡がないでしょう」

 由布が慌てて辺りを見回したら、都子の言うように、あるのは由布がつけたものだけで、都子がここまで来たことを示す足跡はどこにもなかった。

「きっ、消えちゃったんだよ。雪、降って」

「だとしたら、私は相当長い間この場所に立っていることになりますね。実際そうなのだけれど、生きている人間にそんなことができるかな」

「おっ、おどかそうとして。都子さんの手、確かに冷たかったけど、ちょっとだけ温かかったよ。他の人と全然変わらない」

「でしたら、幽霊にだって体温はあるのでしょう」

「見えてるし!」

「由布さんには見えるようですね」

「傘、持ってる。わたしがあげたんだよ!」

 その時初めて、都子は困った顔をして言い淀んだ。

「あれ、本当だ」

 やっぱり怖がらせようと思っているだけだったんだ、とちょっと安心した。けれど、次の一言でもっと怖くなってしまった。

「もしかしたら、私の手に触れてしまったら、最早この世のものではなくなってしまうのかもしれませんね」

 さーっと、血の気が引いていくような音がした。ぎゃぁあああ!と思う前に身体が駆け出した。

 数歩走ったところで雪に足をとられてすっころんだ。

 あっ、と後ろから都子の声がした。

「大丈夫?」

 由布は雪の上に倒れた格好のまま、急いで後ろを振り向いた。

「大丈夫ではなぁあい!」

 動転して叫んだら、どうやらそれが面白かったらしく、都子はくすりと笑った。由布が投げ出した赤い傘を拾って、ごめんね、怖がらせ過ぎちゃった、と謝った。

 その時列車が来る音がして、一瞬由布はそちらに気を取られた。

 次に視線を戻した時、そこには都子の姿も由布の傘も無くなっていて、改めてぞーっとなった。


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