第5話
果たして、二人で張り込んだ駅に、この日都子が現れることはなかった。
明季はなんだかほっとしたような顔で高らかに勝利を宣言していたが、由布は心がざわつく自分に気が付いていた。
――もう会えなかったら、どうしよう。
翌日は土曜日だった。
朝、いつもより遅くに目が覚めた由布が寝床からもぞもぞと窓を開けてみれば、底の抜けるような快晴が広がっていた。
よく冷えて、道は一面の氷原。中途半端に雪が融けていたせいで、かえって滑りやすくなっている。太陽が当たって明るくなった場所からは水蒸気が立ち上って、景色を幻想的に浮かび上がらせていた。
おはようとリビングに降りれば、おばあちゃんがこたつで身体を丸めてテレビを見ていた。今日は冷えるねぇ、と笑いかけてくれる。
「お母さんは?」
「魚の選別を手伝いに行ったよ。お父さんは寝てる」
「そっか」
由布はトースターに食パンを放り込んでからこたつに全身潜りこんだ。冷たい足をおばあちゃんに擦りつけると、おばあちゃんは足を手に取って温かくなるようにさすってくれた。
「靴下、履いてきなよ」
「やぁだよ、寒いもん」
くすぐったくて笑ってしまいそうになりながら由布が言ったら、そうかい、そうかい、と仕様がなさそうに頷いた。
「昨日は、幽霊さんには会えたのかい」
おばあちゃんも幽霊否定派だと思っていたので、由布はびっくりして目を瞬かせてしまった。
「えっ。おばあちゃん、信じてくれるの!」
信じるも信じないも、私は見てないからね、とおばあちゃんは笑った。
「でも、昨日から少し元気がないから、もしかして昨日は会えなくて、寂しがってるんじゃないかと思ってね」
「なんでかな……?まだ二回しか会ってないのにね。ちゃんと同じ時間に行ったのに、会えなかったから、もう会えないのかもしれないって思っちゃった。幽霊なんだもん、一回会えたのだって奇跡みたいなことだったのかもしれないけど」
するとおばあちゃんは、なんだかいたずらを思いついたような表情をした。
「昔、おばあちゃんにも、由布にとっての明季ちゃんみたいな大切な友だちがいてね。おばあちゃんはその子のことが大好きだったんだ。これはおじいちゃんには内緒の話なんだけどね」
そんな昔話を聞くのは初めてだったから、由布は興味津々で身体を起こした。
「それっていつの頃?」
「今の由布よりもう少し大人になってからかな。結婚したいって思ってた」
「結婚!」
「でもその人にはもう、とっくに結婚を決めていた人がいたんだ。親同士が決めた結婚相手、許嫁ってやつだね。けどおばあちゃんは諦められなくて、ある日その人に言ったんだ。駅で待ってる、一緒に来てほしいって」
「駆け落ち!」
ドラマみたいな話に由布は興奮してしまう。でもすぐに、これがお別れの話なのだと気が付いた。
「でも……。来なかったんだね」
いくら待ってもねー、とおばあちゃんはあっけらかんと頷いた。
「その人とはそれ以来、会ってないんだ。おばあちゃんはそのまま遠くに働きに出たし、お互いに気まずくてね。そのうちに、一生会えないようになっちゃった」
悲しい結末に、由布は沈んだ顔になってしまった。由布の頭を、おばあちゃんの手が優しく撫でる。
「由布は、会いたい人には、会えるうちに会っておくんだよ。幽霊だろうと、友だちだろうと、由布が会いたいって思ったならね」
でもこの日も、わざわざ都子に会うためだけに列車に乗ったのに、駅に都子の姿はなかった。
日曜日も、明季と一緒に再チャレンジした月曜日にも会えなかった。会えるうちに会っておいたのに、それでも足りない場合はどうすればいいんだろうと切なくなった。
あんまり由布が落ち込むから、明季が心配してあれこれ問いかけた。
「ねえ、その人ってどんな人だったの?」
「どんなって、綺麗な人だよ。髪が長くて、黒いセーラー服着てて。大人っぽくて素敵なの」
「どんなこと言ってた?」
「大事なひとをずっと待ってるんだって。たぶん、好きな人がいるんじゃないかな。でも、そんなにたくさん話したわけじゃないから、よく知らないんだ」
明季は近くにある高校の制服も調べてくれた。都子の制服はそのどれとも一致しなかった。そもそもセーラー服を制服にしている高校自体がないようだ。
「大丈夫だって。別に会う約束なんてしてないんでしょ。だったら、ちょっとすれ違っちゃってるだけ。そういう時って、案外期待してない場所で出くわすものだよ」
明季はそう言って慰めてくれた。
「そうかなぁ」
「そうだよ。だいたい、なんでそんなにその人にこだわるの。別に冥界に連れ去られるわけでもなさそうだし、もっと気楽に構えてればいいのに」
「そんなのわたしが聞きたいよ~」
由布が学校の机に突っ伏すと、明季は由布の座っている椅子の脚をこつこつと蹴った。
「――好きなの?」
「え?」
由布がぼんやりと明季の顔を見上げると、明季は顔を真っ赤にして由布のことを睨みつけていた。
「ちょっとわたし、除霊の方法調べてくる!」
「え。――いや、信じてないんじゃなかったの……?」
そろそろ休憩時間も終わりなのに、明季は図書館に向かって走って行ってしまって、置いて行かれた由布は、まあいいかとまたぞろ都子の顔を頭に思い浮かべて物思いにふけった。
確かにこれは、憑りつかれているのかもしれない。
都子の姿を見ることができないまま週末になった。木曜日にはもうわざわざ帰る時間をずらして会いに行くこともなくなったし、金曜日には、明季との会話の中でも都子のことが話題に上ることは無くなった。
明季は由布が都子のことなんてすっかり忘れてしまっていると思っていて、なんだか近頃上機嫌だった。
でも由布は、心にささくれができたみたいな釈然としない気持ちで過ごしている。明季やおばあちゃんを心配させちゃいけないから、なんでもないみたいに振舞っている。
天気予報によると、日曜の夜から寒波が来るらしい。かなり強い寒波らしく、この辺りでもマイナス七度が予想されるようだ。
「水道管、破裂しなきゃいいけど」
お母さんがしきりに気にして、家中のあらゆる蛇口を開けて回っていた。
日曜日のお昼はまだ温かったけれど、太陽が傾くころにはかなり冷え込むようになった。去年身体を壊したばかりのおばあちゃんのことが気になって、由布はなんとなく傍にいるようにしていた。
おばあちゃんの体調が悪くなったのは夜が更けてからのことだった。
「おばあちゃん、大丈夫!」
夜にふと目が覚めた時、おばあちゃんの部屋から咳き込むような音が聞こえてきた。由布が駆け付けるとおばあちゃんはしんどそうに身体を震わせながら、少し寒くてねぇ、と笑っていた。そしてふと遠くを見るような目をして、由布に問いかけた。
「少し前、昔話をしただろう?」
「う、うん。覚えてるよ」
「あんな話をしたからだろうかね、なんだか無性に会いたくなってしまってさ」
その時由布の中に、打たれるようにしてある直感が生まれた。
「そ、その人の、名前って……」
恐る恐る尋ねた由布に、都子、とおばあちゃんは確かに答えた。
由布は息を呑んで、しかしおばあちゃんがすぐにまた咳き込み出してしまったから、慌てて眠っている両親を起こしに行った。
「行ってくるから。留守番、よろしくね。明日の朝、お母さんたち、帰ってないかもしれないけど、ちゃんと学校行きなさいね。温かくして。あと、道、凍ってるからね、気を付けて」
あれこれ言うお母さんに、今日は素直に頷いて、おばあちゃんを乗せた車を見送った。
それからまた寝床に戻ったけれど、もうなかなか寝付けなかった。
しんと染みるような冷たさが、家の中にまで侵入して来ていた。海からは強く風が吹き付け、家をがたがたと揺らした。
おばあちゃんの会いたいという言葉が頭の中で何度も聞こえてきて、止まなかった。都子と呼んだ声の切実さが、痛かった。
おばあちゃんには、都子の名前は伝えていなかったはずだった。
――おばあちゃんが会いたい都子さんと、わたしが会いたい都子さんは、同じ人……?
そんな偶然、あり得ないと思いたかった。おばあちゃんが昔、好きだった人。自分のことを幽霊と名乗る、都子。二人が同一人物だとしたら、都子があの場所でずっと待ち続けているのは、たぶん、きっと、おばあちゃんのことだ。
――そんなの、絶対わたし、敵いっこない……!
何がどう、敵う、なのかは、由布にはまだ分からなかった。けれど、由布はそのことだけ理解して、悔しくて泣いた。
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