第2話
***
当時どうしてそんなことが気になったのかは覚えていない。小学五年生の冬、由布は通学路で、庭木に引っ掛かって震えている傘を見つけた。傘は真っ黒な大人用のもので、どこかから飛んできたものと見えた。
真冬の、風の強い日だった。空は白く濁り、粉雪が舞い散る。雪は風に乗って吹き付け、自分の赤い色の傘を飛ばされないように握る小さな指先をかじかませた。
大きな傘は、風が強く吹く度にがたがたと震えていた。
周りを見回せど人影はなく、傘を拾いにやってくる人はいない。
由布はしばらくの間、じっと傘の鳴るのを眺めていた。傘は今にも飛んで行って、どこか寂しい道端で、壊れ、雨に打たれ、さびれていくのを待つ運命だった。
由布は唐突に、それをしなければならないというある種の神聖な確信に導かれるようにして傘へと手を伸ばした。傘はその時だけ、まるで由布に頭を垂れてその手に収まるのを待っているかのように震えるのを止めた。
それを拾うのに要した時間の割に、傘はあっさりと由布の手に収まった。大人用の黒い傘は大きく、由布のものと比べると重かった。
風がまた吹き出した。由布は暴れて逃げ出そうとする傘を慌てて閉じた。自分の傘さえふとすると持っていかれそうであるのに、全然用のないその黒い傘は、由布のもう片方の手まで塞いでしまって、全くただのお荷物だった。由布は早々に拾ったことを後悔し始めていた。
小学校が終わると、由布はいつも明季と一緒に下校していた。この日は委員会のお仕事で由布の帰りが遅くなった。明季は待ってくれると言ったのだけど、雪が降るし、危ないから先に帰っていてくれるようにお願いした。
明季がいてくれれば、傘を拾ってしまったことも、その処置に困っていることも笑い飛ばしてしまえたのに、一人だから、後悔を抱えたまま冷たい空気の中を必死で歩いていかなければいけない。
由布が暮らすのは片田舎の漁師町だった。一番近くの小学校は随分前に統合されて、今は毎日列車で登校している。
学校から十分も歩けば最寄りの駅に着く。鉄路は海風の吹き付ける海岸沿いに、国道と競い合うようにして伸びている。改札もないこぢんまりとした無人駅には、古びて時折ひび割れの走るコンクリート造りのホーム。単線で、駅舎としてはコンクリートブロック造りの待合所があるのみだ。
海からの風に逆らうようにして歩いてくるものだから、学校から駅に着くころにはすっかり疲れ切ってしまう。海に背を向けるようにして立つ待合所に入ると、ほっとして冷たいベンチに座り込む。
変な時間に来てしまったものだから、次の列車が来るまでにあと四十分もある。由布はどうでもいい話し合いを長引かせてこんなに冷たい場所に待ちぼうけさせた委員会に内心で恨み言を言いつつ、傘から雪を払って二本ともベンチに立てかけておいた。
駅には由布一人だった。ポケットに入れてあったホッカイロを両手でもみくちゃにしながら、冷え切った指先を温めていた。分厚いダウンのコートも、裏起毛のタイツも、忍んで来る冷えを防ぎきることなんてできなくて、両膝を擦り合わせながら、今朝お母さんの言うことを聞かないでスカートで出掛けた自分を憾んでいる。
かじかむ指で携帯端末をいじるのにも飽きたころ。同じくとっくに見飽きた数字もまばらな時刻表を熱心に読み込むふりをする合間に、ふと駅のホームに人影を見た気がして、由布は首を伸ばして待合所の外を覗いた。
うっすらと雪の積もりかかる白染めのホームの隅っこに、ぽつりとたたずむ黒いセーラー服の少女。背中にかかるほど伸びた黒髪は艶めいて、長いスカートから覗く足には黒いブーツを履いている。凍えた肌は白く、覗く頬と手は冷たそうに赤く染まっていた。
彼女は傘もささずに立ち尽くして、線路の行く先に伏せ目がちに視線を注いでいる。見かけないセーラー服で、どこか寂し気に列車を待つ彼女は、どこかから引っ越してきたばかりなのかもしれない。
まだ電車が来るにはしばらくかかる。勝手がわからないのだろうと、由布は退屈さも手伝って待合所から出た。
由布が近づくと、彼女は他に誰かいるとは思っていなかった様子で振り返り、由布の姿を見て長い睫毛を瞬かせた。
綺麗な人だった。まるでこの世の人でないみたいに肌は白く、整い過ぎた顔立ちにはどこか現実味がない。由布は少し気後れしてしまって、束の間、言葉を忘れた。
「こんにちは」
声をかけられて、由布はふっと金縛りが解けるように我に返った。声を聞いてみれば明瞭で、どうして幻のように思ったのだろうと不思議に思った。
こんにちは、と由布は返しながら、赤くなってしまう自分の耳を意識した。
「――あの」
「はい」
「列車、まだしばらく先ですよ」
「あの……、はい」
彼女が困ったような顔をしたから、余計なことだったらしいと由布は立ちすくんでしまった。彼女はそんな由布の様子に気づいて急いで手を振り、いえ、と柔らかく微笑んだ。
「違うんです。私、びっくりしてしまって。ここにはもう、誰も来ないんだと思っていたので」
由布が首を傾げたら、少女は寂しそうに笑った。
「えっと、濡れますよ」
「はい」
「待合所、入ればいいのに」
「はい」
「待つの?」
「はい」
「じゃあ」
「はい」
彼女は何を言っても、はい、としか答えてくれなかった。寂し気な笑みを浮かべるばかりで、少しばかり腹が立って、由布は一人で待合所に戻った。
振り返り見れば、彼女は再びじっと、雪の降りかかるのにも構わず、けぶる線路の先へ視線を向けていた。
待合所のベンチには傘が二本立てかけてある。由布は少し迷ってから、傘を差して雪の中へ戻った。
由布が近づくと、少女はまた驚いた顔をした。
「傘、使えば」
由布は黒い傘を開いて彼女に渡した。飾り気のない無骨な傘は、しかし不思議と彼女によく似合った。ありがとうと微笑んだ彼女は大人っぽく洗練されたように見えて、由布は自分の赤い傘やもこもこに着こんだ服が、急に子どもっぽく、恥ずかしいように思えた。
「あなた、親切なのね」
「別に、たまたまです」
都子はくすりと笑った。
「しかも謙虚ときた」
「もうっ!」
からかわれているのが分かって、由布は彼女を睨みつけた。赤い傘をぶんと振ったら、雪がはらと散ってすぐに景色に紛れた。
「あなたは、いやなひとです」
「都子と申します」
「え」
「いやなひとの、名前です」
都子は胸の辺りを指差して言った。
あなたは、と訊くから、由布、とだけ答えた。都子は、ゆ、ふ、と噛み砕くように丁寧に発音した後、変わった名前ですね、と微笑んだ。
「でも、素敵な響きです。優しいような、突き放すような」
「それ、褒めてるの?」
「わざわざけなしませんよ」
掴みどころのない笑みを浮かべる都子から、ふん、と由布はそっぽを向いて目を逸らした。あんまり綺麗な顔をしているから、見つめていると身体の手の届かないところがかゆくなってしまいそうだった。
「どこ行くの?」
都子の見つめていた方向へ視線を向けて、由布は問いかけた。
「待っているんです」
「列車?」
「ええ。きっと帰ってくる人を」
「だいじなひと?」
「はい。近頃とんと、会えてはいませんが」
「冷たいんだ」
「ふふ。そうですね、全くです。この雪のようですね」
都子は楽し気に、少し怒ったような調子で言った。
そしておもむろに差しかけた傘の外側に手をかざす。差し伸べた指は赤く染まって、白く染まる景色から一点、浮かび上がるように見えた。
雪片が舞い降り、指先を小さく濡らす。都は指先をそっと口許へ遣って、溶けた雪の残した水滴で唇を濡らした。
由布は知らず、その仕草をじっと見つめている。濡れた薄朱の唇を。
「どうしました?」
「いえ!」
呼びかけられて、由布は急いで都子から目を逸らした。整い過ぎて硬質にも映る都子の顔で、その唇だけが柔らかそうに浮かび上がって見えていた。そこに指で触れてみたいような気がした。
何とはなしに、雪の降る中、待合所にも入らず待ち続けるだいじなひととはきっと、都子のすきなひとなんだろうと考えた。
その考えはどうしてか気に食わないもののように思えて、由布は急に胸の内に雨雲の垂れこめるような心地になってしまった。
ぱっと駆けて、数歩。
振り返って、手を振った。
「ばいばい!」
都子は由布のことを引き留めもせず、ひらひらと手を振り返した。その表情は幾分、寂しそうではあったけれど。
待合所に戻って一人、ぼんやりとして時間を潰した。もしかしたら都子が来るかもしれないと少しだけ期待していた。
やがて時間になって列車が来た。
待合室から出ると、駅のホームにはもう都子の姿はなかった。
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