第3話

 数日後、僕はレストランの個室で柿沼を待っていた。


「待ったか、伊藤。悪いな。忙しくて、なかなか家に行けなくて」


 遅れてきた柿沼が、僕の向かいの席に座る。


 僕が会いたい旨を告げると、柿沼は仕事が立てこんでいるから会社の近くまできれくれと言った。打ちあわせで使うレストランがあると、この店で待つように指示されていた。


「いや、いいんだ。僕も最後は、家じゃないほうがいい」


「最後? おい、伊藤。どういう意味だ。おまえまさか、『また』……」


 柿沼がテーブルの上に身を乗りだす。


「いや、今度はそうしないよ。過去の僕が『忘却のマリネ』を口にした本当の理由が、わかってしまったからね」


 過去の僕が遺したフォルダの中には、一枚の画像ファイルとテキストファイルがあった。


 画像は裸でベッドに入っている、男女の自撮り画像だ。女のほうは知らないが、男は間違いなく柿沼だった。


 テキストファイルは、過去の僕による犯罪手記だった。


 僕は画像の女性を殺して、海に捨てたらしい。


 彼女は僕の交際相手だったが、柿沼と浮気をしていた。証拠を見せて問い詰めたがしらを切られたので、思いあまって殺害に及んだという。


 過去の僕は自首をするか悩んだが、どうしても自分が悪いとは思えなかったようだ。けれど胸を張って生きることもできず、逃げるように忘却のマリネを食べたということらしい。


 そんな内容を説明すると、柿沼は肩を落とした。


「……すまなかった、伊藤。あの日の俺は酔っていたんだ。それで彼女の誘いを断り切れなくて……」


「柿沼が僕によくしてくれたのは、罪滅ぼしの意味もあったんだね」


「許されないことはわかっている。俺は親友にひどいことを……」


 うつむいた柿沼の顔から、ぽたりと涙が落ちる。


 その肩にぽんと手を置き、僕はゆっくりと口を開いた。


「いまの僕は、過去とは違う。良心に従おうと思っているよ」


「それは、自首をするということか? でもいまの伊藤には、殺した自覚がないんだろう?」


 柿沼が顔を上げた。


「たしかに僕には、彼女を殺した自覚はないよ。だって殺してないからね」


「なんだって?」


「彼女を殺したのは、きみだろ。『伊藤』」


 僕の言葉に、柿沼を名乗っていた伊藤が目を見開く。


「僕が病院にいたとき、患者仲間のメロンパンさんが言ってたよ。『このまま誰にも迎えにきてほしくない』って。本当につらい記憶があるからこそ、それを忘れたくて人は忘却のマリネを食べるんだ」


 僕もそうだったのであれば、記憶につながる痕跡はすべて消すだろう。死を覚悟したに等しい人間が、あんな風に手記なんて遺すはずがない。


 あれを書いたのは、僕の目の前にいるこの男でしかありえない。


「手記を見て妙だと感じた僕は、きみの会社に電話をしてみた。すると『柿沼』なんて社員はいなかった。まさかと聞いてみたら『伊藤』はいる。そこからは驚くほど簡単に、パズルのピースがはまったよ」


 柿沼というのは、伊藤が使っていたライターのひとり。つまり僕だ。


 この男が病院に迎えにきたとき、『自分の名前は柿沼がよかった』と僕が感じたのは、それこそが本当の名前だったからだ。


「偽名の名刺を用意してまで、きみが僕と入れ替わろうとした理由。そのひとつは、『殺人の動機づくり』だった。きみは、結婚しているんだってね。電話に出たおしゃべりな社員が、ぜんぶ教えてくれたよ」


 柿沼を演じることをあきらめたのか、伊藤は薄く笑った。


「遊びだったんだ。なのにあの女は、『奥さんと別れないと写真を送る』なんて言って、俺を脅迫してきた。だから殺したよ」


 伊藤の口の端が、にいっと歪む。


「だが俺は、あんな女のために捕まる気はない。じゃあどうすれば捕まらずにすむか。簡単だ。自分の代わりに犯人が出頭してくれればいい。ちょうどいい案配に、身よりのないライターとつきあいがあった」


 そこで伊藤は、僕の番だと言うようにあごをしゃくった。


「きみはあの手記を使って僕に自分を伊藤だと思いこませ、交際相手を殺したと自首させようとした。でも警察だってバカじゃない。調べれば、すぐに僕が柿沼だとわかるだろう。するとどうなるか。これは僕が嫉妬に駆られたゆえの犯行ではなく、ストーカー殺人になる」


 殺された女性の交際相手は、僕ではなく柿沼を名乗っていた伊藤だ。


 なのに伊藤を騙って自分の交際相手を殺したと僕が自首すれば、警察はどうしたって精神の異常を疑うだろう。なにしろ僕は、『忘却のマリネ』を食べて入院した経験まである。


「すべてお見通しか。柿沼さん、あんた意外と頭よかったんだな」


 その口ぶりで、伊藤は僕と友人ですらないとわかった。彼が僕と思い出話をしなかったのは、そもそも知らなかったからだろう。


「あれほど小細工を重ねたくせに、いやに素直に罪を認めるね」


 僕が問うと、伊藤は肩をすくめた。


「ああ。そうしなきゃ、あんたが俺を通報するだけだろ。あんたは『良心に従う』って言ってたしな」


 その良心は、言葉通りの意味ではない。


 伊藤が自分に罪をなすりつけようとしているとわかってなお、僕には葛藤があった。彼は僕にとって、この世界との唯一のつながりだ。それを自らの手で断ち切ることに、僕は良心の呵責を感じていた。


 伊藤は誤解してくれたけれど、僕はきっと彼を通報できない。


「柿沼さん。最後にひとつ、頼みを聞いてほしい」


「残念だけど、見逃すことはできないよ」


 実際は見逃してしまうから、口先で牽制するしかない。


「そんなんじゃないさ。俺にはこれがシャバで最後の晩餐だ。だから一緒に食事を楽しんでくれよ。この店のエスカベシュは、絶品なんだ」


 僕は胸を撫で下ろし、伊藤の頼みを受け入れた。


 これもまた、良心に従った結果だ。


「たしかに、うまいね」


 揚げたサワラにソースをかけた一品は、香ばしさの中に酸味がほどよく混ざりあい、思わず微笑んでしまうくらいうまかった。


「だろ。前のあんたも、その前のあんたも、うまいうまいと平らげてたよ」


 はっとなって、僕は伊藤の皿を見た。


 そこにはナイフで切り分けたエスカベシュが、手つかずで残っている。


「知ってるか、柿沼さん。エスカベシュってのは洋風の南蛮漬け。つまりマリネなんだ。このソースには、例のキノコがたっぷり入ってる」


 ふいに頭の中に、もやがかかったような感覚に陥った。


 伊藤の言葉を信じれば、僕がこの料理を食べるのは三度目らしい。入院先の医師がやけに不機嫌だったのは、僕が二度目の入院だったからだろうか。


 そんなことを、ぼんやりと思う。


「どうも俺は詰めが甘いな。まあ次こそはうまくやるから、ちゃんと自首してくれよ。お人好しの『伊藤』」


「ゆる……さ……ない……僕は、絶対に、おまえを……」


「そう思ってても、忘れちまうんだよなあ」


 伊藤は笑ったが、そうとは言い切れない。


 僕は入院した際に、無意識に売店で果物ナイフを欲しがっている。


 記憶はなくとも、恨みは体に刻まれているのだ。


 次こそ僕はあのナイフで、自らの良心を切り刻んでみせよう。


「おやすみ、柿沼さん。よい悪夢を」


 薄れゆく意識の中で、僕は目の前の男をひたすらに憎んだ。

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忘却のマリネ 福沢雪 @seseri

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