第2話
「伊藤は、ここにひとりで住んでいたんだ」
柿沼が案内してくれたマンションの一室は、当たり前だけれど自分の部屋という気がしなかった。
「仕事は主に、Webメディアに記事を書くフリーのライターだ。両親はすでに他界していて、友だちは……俺くらいかな」
「なるほど。僕はずいぶん孤独な人間だったんですね。もしかしたらそれを苦にして、忘却のマリネなんて食べたのかもしれない」
どこか他人事のように、僕は過去の人生を推理していた。
「たしかに伊藤は悩んでいた節があった。でも孤独ではなかったぞ。なにしろ彼女が――いや、なんでもない」
柿沼がうっかり口にしたそれは、朗報とも言い切れない。
僕に親密な交際相手がいたのなら、柿沼よりも先に迎えにきてくれているだろう。現状そうではないのだから、むしろ彼女こそが僕の悩みの原因だった可能性もある。
「ま、あれこれ考えず、しばらくはゆっくりしてろよ。俺もときどき、様子を見にくるからさ」
「すみません、柿沼さん。助かります」
「……その呼びかた、慣れないな。とりあえず、俺の名刺を渡しておく。それからこれ、少ないけど」
柿沼は「当面の生活資金だ」と、いくらかの金を渡してくれた。
「ありがとう、柿沼さん。なにからなにまでお世話になって」
「水くさいこと言うなよ……って、悪い。おまえは知らないんだもんな。俺とおまえは、中学からのつきあいなんだよ。いまも編集者とライターで、仕事を含めてつきあいがある」
名刺にもあったが、柿沼は出版社に勤務しているようだ。さておきそんな間柄であるなら、よそよそしい態度は彼を傷つけるだろう。
「いまの僕は三十歳だと聞いたから、柿沼とは長いつきあいなんだね」
勇気を出して呼び捨てにすると、柿沼は安堵したように笑った。
「ああ。照れくさいが、俺は伊藤を親友だと思ってる。だから今度は変な気を起こす前に、なんでも相談してくれよ。じゃあな」
去っていく柿沼は少し涙ぐんでいた。僕がこうなってしまったことに、負い目を感じているのかもしれない。
「いいやつだな、柿沼。過去の僕は薄情だ」
思わず、ひとりごとをつぶやいた。せめて現在の僕は、柿沼に敬意を払って生きようと決意を新たにする。
「さて、まずはどうするか」
僕は自分の部屋を見回した。
机と椅子とソファ。それからノートパソコンが一台あるくらいで、目につくものがほとんどない。
驚いたことに、クローゼットの中には服さえもなかった。
「過去の僕は、徹底的に自分を消そうとしていたんだな」
つまり僕が過去を知ったら、間違いなく傷つくことになる――。
このなにもない部屋は、過去の自分からのメッセージのように思えた。それは自己愛というより、ボランティアに似た思いやりのように感じられる。
「ということは、これも期待できないかな」
僕は椅子に座ってノートパソコンを開いた。
過去の僕が個人情報の宝庫たるパソコンを残したのは、これが仕事道具でもあったからだろう。
調べてみると、ドライブ内にファイルやフォルダはひとつもなかった。
Web上も同じくで、SNSやメールにアカウントの類は残っていない。
「本当に根こそぎ消してるな、伊藤くんは」
まだどこか他人のような過去の自分を苦笑しつつ、僕はとりあえずフリーのメールアドレスを取得しておいた。
社会復帰の第一歩として、名刺で確認した柿沼のアドレスに、あらためて感謝の気持ちを送っておく。
しばらくすると、返信がきた。『気にするな』から始まる柿沼の文章を読み進めていくと、僕が過去に書いたという記事のリンクが貼ってあった。
確認してみると簡単な商品紹介だったり、ネットの反応をまとめたようなものが多い。これなら見よう見まねで書けそうだと思っていると、柿沼のメールの最後には仕事の依頼まであった。
『働くってことは、前に進むってことだ。俺としては悔しいが、過去のおまえもそれを望んでいるんじゃないか?』
まったくもって、柿沼の言う通りだと思う。大事な過去――柿沼との関係を失ってまで、僕は別の人間になることを選んだ。
いまの僕がすべきは、おそらくはたったひとつの世界とのつながりである柿沼に感謝し、新しい記憶を作っていくことだろう。
「例のマリネを食べた人間の中で、僕は恵まれているほうかもしれない」
つぶやいてソファに座ると、安堵したのかそのまま眠ってしまった。
「で。あれからどうだ、伊藤」
二、三日すると、柿沼がコンビニ袋を片手に我が家にやってきた。
「ああ。さっきどうにか記事を書いたよ。あとで柿沼に送る」
手応えはあったが、それが正しい感覚なのか自信がない。納期はまだ先だったが、早くプロの目で確認してもらいたかった。
「わかった。だが俺が聞いたのは仕事の話じゃなく、その、な」
柿沼が言いにくそうにしているので、僕は後を継いだ。
「心配してくれてありがとう。相変わらず記憶は戻らないけど、柿沼のおかげで新しい生活をやっていけそうだよ」
「『新しい生活』……か」
柿沼がさびしげに目をそらした。
「ごめん。せめてきみのことだけでも、思いだせたらいいんだけど」
「いや、いいんだ。つらかったのは伊藤だもんな。さあ飲もうぜ。おまえの新生活に乾杯だ」
長いつきあいなのだから、思い出話もしたいだろう。けれど柿沼は僕の過去についてなにも言わない。僕が自殺に等しい手段を選んだから、記憶を呼び覚まさないように気をつかってくれているようだ。
「きみは本当にいいやつだ。僕が女の子だったら、きっと柿沼を好きになっているよ」
「やめてくれ。気持ち悪い」
そんなバカ話をしつつ、テレビを見ながら酒を飲んだ。共通の話題がないからだ。
やがて柿沼は「仕事が残っている」と、深夜にタクシーで帰っていった。
僕が浅い眠りから目覚めると、柿沼からメールがきていた。
「仕事って、まさか僕の記事をチェックしに帰ったのか」
内容を読むと、残念ながら僕の記事は『ゴミ箱行き』らしい。友人としては気の置けない柿沼だが、仕事では甘くないようだ。
でもそれでよかった。いつまでも柿沼の世話になるわけにはいかない。僕は過去の自分のためにも、きちんと自立しなければならない。
「よし、もう一度最初から書こう……あ、そういえば」
柿沼に言われた通りに記事のファイルを削除して、ふと気づいた。
最初の日にパソコン内をざっと探したが、ファイルやフォルダは見つからなかった。ただ一カ所、『ゴミ箱』の中はチェックしていない。
「まあ無駄だと思うけど、一応は見ておくか」
癖になってきたひとりごとをつぶやきつつ、僕はゴミ箱を開いてみた。
「これは……」
ゴミ箱の中にはいましがた削除したファイルのほかに、フォルダがひとつだけあった。その名称に僕は戸惑う。
『どうしても過去を知りたくなった未来の僕へ』
フォルダの中身を見れば、僕はきっと後悔するだろう。
けれどさんざん迷った挙げ句、僕は自分を知りたい欲求に抗えなかった。
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