忘却のマリネ

福沢雪

第1話

「あんたは脳を初期化したんだよ」


 中年医師は不機嫌に言った。


「初期化、ですか」


 僕はきっと、きょとんとしていただろう。「初期化」なんて単語、機械以外に使うことはそうそうない。


「そうさ。例のマリネを食べたんだ」


「例の、マリネ」


「なんだよ、それも忘れたのか。本当に面倒くさいな」


 医師は露骨に舌打ちして、これみよがしにため息をつく。


「ここのところ、若いやつの間で流行してるんだ。特殊なキノコを酢であえて食って、自分の脳をぶっ壊すのが。セルフ記憶喪失さ」


「えっと、なんでそんなことするんでしょう」


 それがある種のドラッグであるなら、目的は快楽を得るためだろう。しかし食べてすぐ記憶喪失になるなんて、死にも等しいようなリスクだ。依存症や前科者になる以上にたちが悪い。


「俺が知るか。まあ報道では、嫌なことを忘れたいからとか、人生をリセットしたいからとか言われてるな」


「なるほど」


 病院で目覚めた僕がなにも覚えていないのは、自分が意図したことだったらしい。どうやら過去の僕には、消したい記憶があったようだ。


 その願いは成就したと言えるだろう。いまの僕は過去の記憶どころか、自分の名前や年齢すらもわからない。


「あの、僕はどうすればいいんでしょうか」


 いますがれるのはこの人だけだと、僕は医師に泣きついた。


「勘弁してくれ。こっちはあんたらのおかげで忙しいんだ。寝てればそのうち誰かが迎えにくる。ここはそういう病院だ」


 そう言うと、医師は不愉快そうに僕を追い払った。


 あとでわかったことだけれど、たしかにこの病院には僕みたいに初期化された患者がひっきりなしに運ばれてくる。


 中年医師が言ったように、例のキノコ(『忘却のマリネ』というらしい)は本当に流行しているようだ。





 そんなわけで、僕は病院でのんびりすごすしかなかった。


 幸いなことに、レクリエーションルームにいた患者たちとはすぐに仲よくなれた。


 けれど、会話はあまり続かない。自分のことを覚えていないので、質問されても答えられないからだ。


「果物さん。私たちって、たぶん自殺したってことですよね」


 あるとき、若い女性患者のメロンパンさんが言った。


 メロンパンはもちろんあだ名だ。患者は売店に並んでいる商品の中で、自分が一番ほしいと感じた物を名乗る風習がある。


 僕の場合は「果物ナイフ」だった。


 なぜと聞かれてもわからない。ともかくそれがほしいと思ってしまった。


 とはいえ「ナイフ」はあまりに物騒なので、ほかの患者たちからは縮めて「果物」と呼ばれている。


「そうだね。スマホも身分証も持っていないから、僕らは自分という存在を消そうとしていたと考えられる。それだけ嫌なことがあったんだろうね」


 マリネを食べれば自我のごときの記憶を失うのだから、「生まれ変わる」というのは違う気がする。


 どちらかと言えばそれは、苦痛を伴わないカジュアルな自殺のように思われた。

「じゃあこのまま、誰にも迎えにきてほしくないなあ」


 僕もメロンパンさんと同意見だ。


 家族や友人といった、自分の過去を知る人間が迎えにくる。それは自殺に等しい行為を選択するしかなかった僕に、つらい過去の記憶を思いださせることになるだろう。状況を考えると望ましくはない。


 そう思っていたのだけれど、残念なことに迎えがきてしまった。




「やっぱり、ここにいたんだな。伊藤」


 自分と同世代に見える彼は、僕を「伊藤」と呼んだ。どうやらそれが僕の名前であるらしい。


 僕の友人を称する彼は、自らを「柿沼」と名乗った。


「僕は、伊藤……」


「どうした伊藤。不満そうだな」


 柿沼が不思議そうに尋ねてくる。


「いや、たいしたことじゃないですよ。僕は『果物』と呼ばれていたから、自分の名前は『伊藤』より『柿沼』のほうがよかったと思っただけです」


 そう答えると、柿沼は笑った。


「ユニークな感覚だな。そういう話を集めたら、『記憶喪失あるある』として本にできるかもしれない」


 それを読んで笑える人間は、あまり多くはないだろう。


「医者から伊藤の症状は聞いてる。とりあえず、ここを出よう」


 僕がぼんやりしている間に、柿沼は手早く退院手続きをしてくれた。

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