涙
増田朋美
涙
師走なのに土砂降りの雨が降って、なんだか真夏の雨のような降り方をする日だった。こんな日は、家の中でじっとしているのが一番なのだが、何故か知らないけれど、蘭のもとにお客がやってきた。その客は、ちょっとわけがある女性で、耳が遠くて話すのも不自由だったので、蘭は、指文字と手話を交えて話をした。結構刺青の柄や色のことなどを、手話を使って説明するのは、難しいなと思いながら、それでも、この女性は、必死にお願いしているので、蘭は、一生懸命にやった。とりあえず、今日は、二時間突く作業をやって、来月に仕上げをすることで彼女と合意した。
「じゃあ、来月また来てくださいね。来月は、いよいよ、龍も完成します。来月も、二時間程度で、作業ができると思います。」
蘭は手話を交えながらそう言うと、女性はとてもうれしそうな顔をして、指を動かした。
「ええ、そうです。だから、体の痣と言うものも消すことができますよ。それをすれば、自信を持って、行動できるようになりますね。」
女性はまた指を動かした。
「何を言っているんですが。僕はただ、あなたが言う通り、背中に龍を彫りましたが、それ以上の事はしていません。大事なのはあなたが、これからの人生を前向きに楽しく生きていくことですよ。もう背中の痣は消えましたから、コンプレックスになるものを消すことに成功したんです。そして、もうこれ以上、昔の自分には戻れません。だから、そこを忘れないで、しっかり生きて言ってください。」
思わず女性は、声を出して、
「ありがとうございます!」
と言った。正確に発音するのは難しいのだろうが、彼女が一生懸命そう言っているので、蘭はそれでも嬉しいと思った。彼女が、とてもうれしそうな顔をして帰っていくのを、蘭は嬉しそうに見送った。外は、まだ雨がザアザア降りであるが、彼女は、傘をさして、その中を走っていった。多分、耳が遠いので、彼女は、大雨を怖いと感じないのだろう。蘭は、そう思った。彼女を見送ったあと、蘭は車椅子を方向転換させて、部屋へ戻ろうと思ったところ、
「おーい蘭!お前に頼みたいことがあって、こさせてもらった。」
と、傘もささずに華岡保夫警視が走ってきた。
「何だびしょ濡れじゃないか。こんな雨のときに、傘もささないでどうするんだよ。」
蘭はとりあえず華岡を中に入れる。すぐに華岡にタオルを貸して、テーブルに座ってもらった。
「で、今日はどうしたの?また長風呂をしようっていうんじゃないだろうね?」
と蘭が言うと、華岡は、
「いえ、それが違うんだ。お前いま、全聾の女性と、話をしていたよな。それではお前、手話と指文字を知っているということになるな。じゃあ、丁度いい。今、全聾の被疑者を取り調べているので、俺達の言うことを通訳してくれ。」
と、言うのである。
「そんな、通訳なんて、僕は全部の言葉を知っているわけじゃないよ。そういうことなら、福祉事務所とかから、手話通訳士を呼べば良いんじゃないの?」
蘭が言うと、
「そうなんだけど、そのためにはお金ってものが必要で、それが偉くかかるんだよ。だから、身近なところから連れてこなくちゃだめなんだ。な、俺達の捜査に協力するつもりでさ、ここはちょっとお前の本領発揮してくれ。よろしく頼む!」
華岡は、頭を下げる。
「もう仕方ないな。じゃあ、しょうがない。いつから、行けばいいの?」
しかたない顔をして蘭がそう言うと、
「おう、じゃあ今から来てくれよ。俺たちも、彼を取り調べるのに話が通じなくて困っているんだから、すぐに助っ人をお願いしたいんだ。ぜひ頼む!」
「はあ今から?」
蘭は驚いてしまったが、華岡は当然のように今からと言った。仕方なく、蘭は、雨コートを着て、着物が濡れないようにして、華岡に手配してもらった、車椅子用の車に乗り、警察署に向かった。
警察署に着くと、雨が小降りになった。これは良いぞと華岡は言っているが、蘭の方は気が重かった。車の中で華岡は、事件の概要と、被疑者の名前を言った。事件の全容は、次のようなものであった。亀田という資産家の雇われ庭師だった、三浦崇という男性が、その資産家の亀田芳雄さんを殺害したというものである。三浦崇という男性は、現在36歳。亀田家には、昨年から雇われていて、主に庭に生えている木の剪定をしたり、花壇を整えたりするのが仕事だったらしい。ちなみに、三浦崇は、生まれつきの全聾で、補聴器を使っても聞くことができないようであり、かなり重度な聴覚障害ということも聞かされた。そこまでは、華岡たちが調べているので、なんとかわかっているようであるが、何よりも、三浦崇が、善良極まりなかった、亀田さんを殺害した理由が華岡たちにはわからないということだった。なんとかして、手話を使って、三浦崇が、亀田さんを殺害した理由を聞き出してくれと華岡は言った。
蘭は、華岡に言われたとおりに車椅子を動かして、第一取調室という部屋に入った。そこでアクリル板越しに、三浦崇という男を始めてみた。確かに、もう聴力は得られないと思っているのだろうか、補聴器はつけていなかった。一見したら、普通の人のように見える。全聾と理解してもらうのは、ちょっと難しそうだ。それになかなかの美青年だなと蘭は思った。
「今日から、この人が、お前の取り調べを通訳してくれることになった。名前は、伊能蘭さんだ。これからは、ちゃんと話してくれよ。」
華岡は、そう、蘭を紹介した。
「初めまして。僕の名前は伊能蘭です。プロの手話通訳士ではありませんが、今日から、華岡さんと一緒に取り調べを手伝うことになりました。よろしくおねがいします。」
蘭は手話と指文字を交えて、そういったのであるが、三浦崇は、体を丸めて黙っているだけだった。
「じゃあ、もう一回聞くぞ。まず、お前は、本当に亀田芳雄さんを殺害したのか?」
華岡がそう言うと、蘭はそれをゆっくり指を動かして通訳した。でも、三浦崇は、黙っていた。
「黙っていないでさ、本当の事を言ったらどうなんだよ。せっかく手話通訳さんが来てくれたのにもったいない。一体何で、亀田さんを殺害なんかしたんだよ。」
華岡がそういうと、蘭も、
「あなたは、ろう学校とか、そういう場所に行かなかったわけではないですよね?それなら、一応手話とかそういうものは知っているのでは無いですか?」
と手話を交えていった。でも三浦崇は黙ったままだった。
「あなたの経歴を華岡さんから聞きました。生まれつきの全聾だそうですね。それなら、少なくとも聾教育を受けて、指文字くらいは知っているんじゃないですか?」
蘭がもう一度聞くが、三浦崇は黙ったままだった。頑なに、体を丸めて、絶望したような顔をして、黙っていた。
「おい、どうして黙っているんだ。せっかく来てくれたのに、ちゃんと話してもらわなくちゃ困るなあ。」
華岡がそういうと、取調室のトアが開いて、部下の刑事が華岡に、三浦崇の妹さんが、来ているんだがと話した。別に、耳打ちするような態度を取る必要もなかった。こういう言い方をするとおかしいが、三浦崇さんには、どうはなしても聞こえるはずが無いので。華岡は、妹さんに話を聞くことにしたが、蘭もそれに着いていった。三浦崇は、その間にも表情すら変えることなく、指も1つも動かさなかった。
とりあえず、蘭は、華岡に連れられて、三浦崇の妹さんという女性と対面した。
「初めまして、三浦崇の妹の、ヘルビック・佐知子、旧姓三浦佐知子です。」
女性は、蘭に言った。ひ弱そうな女性ではなくて、強そうで、頭の切れそうな女性だった。
「富士警察署刑事課課長の華岡です。三浦崇、あ、お兄さんの取り調べを担当しています。こちらは、手話通訳の伊能蘭さん。一緒に取り調べを手伝ってくれています。」
華岡がそういうと、女性は、よろしくおねがいしますといった。
「この度は、兄がご迷惑をかけてしまっているようで、申し訳ありません。」
なんだか他人事みたいな言い方だった。
「あの、失礼ですが、妹さんですよね?」
蘭は思わず言ってしまう。
「まるで、実のお兄さんではなくて、赤の他人のことを言っているような言い方ですね。」
「ええ、だって、あれだけひどいことをした兄ですもの。そういうふうに考えて当然です。」
佐知子さんは言った。
「あれだけひどいこと?それは、雇い主の亀田芳雄さんを殺害したことですか?」
蘭が聞くと、
「はい。兄は一生懸命私のために色々やってくれましたが、私にとっては、いい迷惑であることが多かったんですよ。私が、早く結婚したのも、兄と早く別れたかったからです。だってそうじゃないですか。私が兄のせいでいじめられていたとき、兄が言葉にならない言葉で、いじめっ子を追い払ってくれたけど、それの後で私がまたいじめられるんです。だから本当にいい迷惑だったんですよ。もう私も早く兄と、別れたくて仕方ありませんでした。」
と、佐知子さんは、即答するように言った。まるで当然じゃないかと思われるような言葉だった。
「そうですか。では、仲は悪かったというわけか。」
華岡は彼女の言うことを、メモ用紙にメモした。
「ええ。それなのに兄ときたら、私の結婚まで反対したんです。私が、外国の方の家にお嫁に行くのがそんなに嫌だったんでしょうか?私の結婚式にも出てくれないし、子供にもあってくれないんですよ。こんな理不尽な事、あり得るでしょうか。だから、兄にはもいなくなってもらって良かったと思うんです。それなのに、あんな事件を起こしたりして。まるで腐れ縁としか言いようがありません。」
佐知子さんは、嫌そうに言った。
「まあ、お兄さんとしては、心配だったのではないですか?外国の方というのは、日本のしきたりなどをあまり知らないことが多いですしね。」
蘭が思わずいうと、
「ですけど、度が過ぎてます!心配するんだったら、もっと他の事を心配してほしいです。なんで私のことばっかり気にかけるんですかね。私は、もう、自立して、子供まで居るのに、未だに私のところに、兄から野菜が送られてくるなんて。」
と、ヘルビック・佐知子さんは言った。
「度が過ぎてるですか。それでも、お兄さんの愛情だったと思うけどな。立ち入った事をお聞きしますが、お兄さんを、庭師として雇っている亀田芳雄さんとお兄さんとの確執があったとか、そういう事はありませんでしょうか?」
華岡がそうきくと、佐知子さんは、
「全然知りません。兄は、自分で働くには程遠い人間ですし、なんで雇い主の亀田芳雄さんを殺害するのか、私にもわかりませんよ。私のほうが、聞いて見たいくらいですわ!」
とすぐに言った。蘭と華岡は顔を見合わせる。
「本当に何も知らないんですか?」
蘭がそうきくと、
「知りませんよ!あたしは何も知りません。あの、失礼ですけど、出所した兄の身柄は、適当にそちらで処理してもらえませんか。私達は、夫の故郷である、カリフォルニアに移住しようと思ってますから!」
と強く言うのであった。華岡も蘭もこれには頭にきて、
「そういうわけには行きません!」
と、二人揃って、思わず言ってしまったのであった。
「そうですか。そう言われても、私達は、来月カリフォルニアに行くことが決まっています。ですから、もう事件の事で協力しようにもできませんから。それはご了承くださいますね。今日はそれを伝えに参りましたの。とにかく私達は、兄があんな事件をおこすなんて、予想もしていなかったし、これ以上関わりたくも無いんです。それは、わかっていただきますね。よろしくおねがいします。」
佐知子さんはそう言って、椅子から立ち上がり出ていってしまった。蘭は車椅子なので、彼女のあとを追いかけることもできなかった。待ってくださいとは言ったけど、彼女は振り向きもしなかった。
「妹さんにも嫌われているんですね。」
蘭は、小さな声で華岡に言った。
「それでは、あの、三浦崇さんは、ずっと孤独なままだったということになるな。」
華岡も小さい声で言った。
その次の日も、華岡に付き添われて、蘭は三浦崇さんの取り調べを手伝うため警察署に言った。いくら三浦崇さんに話しかけても彼は黙ったままだった。殺害の動機とか、殺害の方法とか、華岡が聞いて、蘭が通訳しても、三浦崇さんは、何も答えないままだった。そのうち、警察の勾留期限が迫ってしまうと華岡たちは焦り始めていた。いくら話しかけても、三浦崇さんが、何も話さなければ全く意味が無い。
蘭は、その日も、何も答えの得られなかった取り調べから戻ってきて、ぼんやりしながら、ご飯を食べていると、
「おーい蘭。買いもの行こうよ。」
と、杉ちゃんの声がした。そうか、その約束をしていたなと蘭は、すぐに玄関先に行った。
「どうしたの蘭。そんなにしょぼくれちゃって。支えてること話しちまえよ。人間、頭の中に溜め込んでいたら、良いこと無いって誰かが言ってたぞ。」
杉ちゃんに言われて、蘭はそうだねえといった。蘭にしても、いつまでも答えないで黙りこくっている被疑者の前に居るのは辛いので、杉ちゃんに三浦崇さんのことを、話してしまった。
「ああ、製鉄所の利用者さんがよく話題にする事件だね。」
杉ちゃんはでかい声で言った。
「まさか蘭が華岡さんと取り調べを手伝っているのは考えても見なかったよ。」
「まあそういうことだ。全く、毎日毎日、一生懸命通訳するけどさ、何も言わないで黙っていられるのも、困るんだよな。なんであのひとは、事件のことについて黙ったままで居るんだろう。聞こえるやつには絶対わからないとでもおもっているんだろうか。全く僕が、なんだか馬鹿にされているようで、頭に来るんだ。」
蘭は、三浦崇のことをそう話した。
「聞こえるやつには絶対わからないか。まあ一理あるな。僕達も歩けないけど、そういうことってあるじゃないか。そこだけはどうしても変えられないしね。それに、製鉄所の利用者が、噂話で聞いたことがあるが、あの、三浦崇が働いてた、亀田とかいう家の息子さんは、佐知子とかいう女性と付き合っていたことがあるらしいぜ。」
杉ちゃんは、何気なく言ったのだが、蘭はそこでピンときた。
「杉ちゃんそれは本当かい?」
思わずいうと、
「まあ、噂だからどこまで真実なのかは知らないけどさ。なんか、その亀田とか言う男、すごい冷たかったらしいよ。まあ金持ちの息子ってそうなりやすいけどね。」
と、杉ちゃんが答える。蘭は、杉ちゃんちょっとごめんと言って、急いでスマートフォンを出し、華岡に今の杉ちゃんの話を電話で伝えた。ちょうど華岡たちも聞き込み捜査をしていたところのようで、蘭の話をすぐに聞いてくれた。華岡は、蘭に、明日取り調べをするから、ちゃんと来てくれと言った。
翌日。
蘭は、華岡に迎えに来てもらって、富士警察署に行った。華岡は、昨日、亀田家の近所の人の話を聞いたりして、亀田家の長男と、三浦佐知子さんという女性が付き合っていたことがわかったといった。佐知子さんは、彼に結婚を迫ったが、彼の方は相手にしなかったということもわかった。これで、事件の動機は掴めたと二人は喜んだ。でも、本人がそのとおりに話さなければ、事件は解決しないのは、蘭も華岡もよく知っていた。
二人は、取調室に入った。アクリル板を隔てて座っている三浦崇は、やっぱり、体を丸めたまま、黙っているままだった。蘭は手話を交えながら、
「今日は、いいお天気ですね。あなたは、きっと、美しい心の持ち主なんでしょう。妹さんが失恋して、泣いているのが我慢できなかったんですか?」
と、そう言ってみた。三浦崇は、蘭が動かした指の動きを見て、なにか指を動かした。
「おい、何を言っているんだよ。」
華岡は、そう言っているが、蘭は、手話を交えて話を続けた。
「ご自身のせいで、妹さんがいじめられたり、バカにされたりしているのが辛かったのでしょう?でも、心配なさらないで。妹さんは、今、アメリカで幸せな生活を始めようとしているんです。素晴らしいことじゃないですか。健康で、元気で生活してくれるようになったんですから。それを申し訳ないじゃなくて、喜ばなきゃいけないじゃないですか。そうなれるって、ホント幸せなことですよ。だから、あなたが、亀田家の人を殺害する必要もなかった。それだけのことですよ。」
三浦崇は、また指を動かす。
「ああ。そうですか。そんな事、思っていたんですか。でも、それは嬉しいことなんじゃありませんか。妹さんが、失恋してつらそうにしていた時期もあったけど、今はこうして幸せにしているんだからもう良いや、あなたはそれを思うことが必要だったんです。そして、それを嬉しいと思うことが一番大事だったんです。」
蘭は手話を交えてそういう事を言った。華岡がぽかんと二人のやり取りを見ているのを無視して、三浦崇は、なにか話し始めた。もちろん声に出していうわけではなく指を動かしてそういうのである。蘭は、それをうんうんと頷きながらしっかり聞いてあげた。三浦崇は、すべてを語ってしまうと、涙を流しながら、深々と頭を下げた。
「おい、蘭。俺にもわかるようにしてくれよ。事件の事、なにか喋ってくれたのかな?」
華岡はそんな事を言っているが、蘭は、三浦崇の最後の言葉だけ声に出して通訳した。
「どうして嬉しいのに涙が出るの?」
またぽかんとしている華岡を無視して、蘭は手話を交えてこういったのであった。
「言葉が、通じたときの嬉しさって、涙が出るくらい感動するものですよ。あなたは、それだけ美しい心があったということです。それを、殺人として利用してしまうのでなく、他の分野で使ってもらいたかったですね。」
三浦崇さんがまた泣き出した。
「おい、泣かないで事件の事を話して貰えないかな?」
華岡はそう言っているが、蘭は、泣き止むまで待ってやろうと言った。事件の事を聞くのはそのあとでもいい。今、三浦崇さんは、やっと言葉が通じる人を見つけて嬉しいのだから、その喜びを汚しては行けないのだ。彼はきっと、いくら話しても通じない世界にいたのだろうから。
涙 増田朋美 @masubuchi4996
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