2-4 なんとなく仲良し
あの子が死んだと聞いたのは冬の寒さの続く三月、春が始まるの予感のする日だった。
私はいつも通り、電車に乗り、バスに乗り、その間に何を話すか考えていた。大学に合格したから一人暮らしをするとか、だからうちにも来いだとか、そんなことを考えていた。病院の受付に行こうとしたら、いつもの人が少し悲しそうな顔をしてたのが目に入った。どうしたのかと聞く間もなく、知らない男の子に声を掛けられた。
「あの、高木マキコさんですよね?」
「え、あ、はい。そうですけど。あの、あなたは?」
私の問に彼は答えた。
彼は彼女の弟だった。
彼女に弟が居るのは稀に話にでるから聞いていたが、こんなに似ていないとは思っても居なかった。彼女の面影は鼻の形くらいだろうか。
「姉は十八日前に死にました」
彼の言葉を私は一回で理解できなかった。視界がすぼみ、ぼやけ、広がり、回った。自分と世界の輪郭が溶けて混ざったような感覚に陥り、慌てて自分の手で顔を覆った。
「姉は会うといつもあなたのことを話しました。姉の遺書をあなたにお見せすることはできませんが、そこにもあなたのことが書いてありました。だからこうして今日、あなたを待っていたのです」
確かに今日は彼女に会うと約束した日だ。年度末、高校生最後の一月、大学生まであと一月と忙しくなるからしばらく来れないかもしれないと伝え、今日だけは必ず来るとそう約束したのだ。
「ほ、本当に、病室に行っても、居ないの?」
私の震える問いかけに彼は静かに頷いた。指の隙間から見えた彼の顔はmひどくやつれて見えた。彼が家で何があったのかは知らないし、わからない。でも、私には何よりも憎たらしかった。
「あ、ああ、高校に行ったって、帰ったって、居ないんだ?」
もはや反応も無い。無言、無動の肯定。重く、重くのしかかる肯定だった。
それから私は走り去った。彼の驚いた声と呼び止める声が聞こえたが、聞こえなかった。病院への道を戻るのではない、病院の先へ、知らない道へ、ひたすら走った。痛みの逆へ、逆へとただ走った。
見たことのない道、知らない景色。この先に何があるのかもわからない。いつもなら怖さもあるが、真っ当な神経は麻痺しきっており、足の痛みも疲れも無く、肩にかけたムスタングすら認識できないほどに走った。
走り抜けた先は砂浜だった。
土手を登り、ギターケースからムスタングを取り出し、その重みを実感する。そこにあるギター、誰も居ない隣。私はムスタングを虚空へと力いっぱい叩きつけた。聞きたくもない音がして、ギターは多分、粗大ゴミになった。私は粗大ごみの隣へ座り込み、海を眺めていた。日はまだ沈まない。春を迎える海は輝き、また繰り返していた。
しばらくすると海風は冷えだす。日は赤く染まり、影が伸びだした。粗大ゴミは土手に馴染み始めた。私は、何も変わらなかった。
後ろから足音がした。振り返る気にならなかったが、私の名前を呼ぶ声がして、その声は彼女の弟のもので、だから振り返った。その手には壊れたオルゴールを持っていた。壊れたとわかったのは正方形の上面のピエロが折れているからだ。
彼は何も言わなかった。私は海へと向き直り、独り言を吐き始める。会話なんかするつもりは無かった。ただ、そのオルゴールの持ち主へ自分の言葉を吐きたかった。
「私は、オルゴールというものが嫌いなんだよね」
ちらりと後ろを見ると手の上のオルゴールが、すっと包まれて隠された。ばつの悪そうな顔を浮かべるのが不思議だったけど、多分根が良い人なんだろう。私には彼をそんな顔にさせる権利なんて無いのに。
「理由は、まあ、そう大したものではないんだけどね。ほら、私はギターを弾くの。趣味でさ。自慢じゃないけど上手だよ。みんな言ってくれるんだ。上手だね、とか素敵だね、とか、かっこいいねとかさ。みんなってクラスメイトっていうことじゃないよ、ほんとの、みんな。ま、バンドで演奏するのはあんまり得意でも好きでもなかったけど」
文化祭のためにバンドメンバーと何日も遅くまで残ったものだ。懐かしくて笑ってしまった。気を利かせて彼も笑ってくれた。
「ははは、でもそう、だからかな。なんとなく、気に食わない、というか」
彼は手のひらの中のオルゴールの温かみを確かめるようにして「照れ隠しですか?」と聞いた。そのオルゴールの話は彼女から聞いたか、読んだか
したらしい。
「うーん、照れ隠しっていうような、そんなんじゃないんだけど」
私がオルゴールを嫌うのは、ここに居る誰も関係が無い。
海へ向かう風に煽られて沈んでいく太陽が目に入る。足搔くように波に陽光を差し込んでは撥ね返らせている。
「あの子はね、私が弾いたギターを聴いて、上手いねって言わなかったんだ」
目を開けてられなくて、目を瞑るとそこに浮かび上がる。あのとき、階段の踊り場で初めて彼女にギターを弾いたあの光景が。その言葉が。そのときの安心が。
「あの子は「わたあめを初めて知った時を思い出しました」って言ったんだ」
私の満足気な声に納得がいかない彼はしばらく彼女の言葉を転がしていた。彼は彼女の言葉の意図がわかるからこそ、私がそれに満足した意味はわからないだろう。
風が吹き終わり、彼は彼女の話をしだした。多分、その話をするために追いかけてきてくれたのだろう。
ギターの音が好き。
「あの子がそんなことを言っていたんだ。ふーん」
なんだかなぁ………。あの子は、最期まで。そうか、そうか。
「私はね、聞かせたかったんだ。あの子が懐かしそうに見るからさ。でもあんな狭くてろくに音も出せやしない一室で私は何一つできない。ムカついて公園で売ってたオルゴールを一つ買って、あの子にあげたんだ。小さい箱でね、ぜんまいを巻くとピエロのおじさんが立ち上がるんだ。そんで愉快そうに踊るんだ。曲にあってるかと言うと、そうじゃない」
海に背を向ける。撥ね返った陽光が私の背を刺す。押す。
彼の手の中へ視線を向けると、手の中に隠されたオルゴールが出てきた。
「そう、その手に持っているそれがそうだよ。それを見せたらさ、あの子はいつになく楽しそうにしてさ、私としては、いやいや楽しんでないで早く治せよ、って感じだよ。実際言ったしね。何度も手のひらに乗る音じゃないでっかい音をあげるって言ってんのにさ。あの子はずっとオルゴールを聞いてるんだ。毎回、小さい音をね」
ただ、そんな小さな音も今は鳴らない。彼の手の中のオルゴールは粗く壊れている。その姿になにかこみあげてくることはなく、ただ事実として私は受け止められている。
「いつもいつも、どうせわかりませんよ、で終わり。そういうことじゃないよね。ははは」
彼女はずるいのだ。彼女がそういって笑ってしまえば、こちらは何も言えない。それをわかっていたんだ。私が大したことないって見えてたんだ。見えないようにしていたのに。
「私にはさ、これしか無かったんだよ」
海風に冷やされたのだろう。声が震える。彼の声が嫌に染みこむ。両の手を強く握りしめてしまう。
「ああ、そうだよ。怖かったんだ。だってそうだろう。友達のためにできる自分の最大の特技がいつまでも閉じ込められててさ。歯がゆいし、苦しいし、なんかあの子自身に否定されている気がしたんだ。自分の無力さがずっと殴ってきたんだ。友達は頑張っているのに、お前の人生の結晶はたったそれだけしかないの?みたいなさ。いや、実際に言われたことは無いんだけどさ」
俯いて黙った私に彼は素早く声を出そうとした。
「いいんだよ、言わなくても。そうだんだよ、わかってるんだ。漫画とか映画とかみたいに、ただ一緒にとか、そういうので良かったんだ。多分、ね」
彼に何か言われたら、きっと崩れて去ってしまう。それがわかる。彼女を思い返すたびに、弟の彼と重ならなくて、居ないことが強く刻まれるから。
「………私も、だな。うん。そう」
足元の壊したギターが目に入る。いつも持ってた。いつだって弾いてた。誰よりも、何よりも分かり合えていたはずのものだ。
「ねぇ、見てよ。ちょっと投げただけでこんなにボロボロだよ。弱かったんだね。ギターって。握っているときはこれ以上なく頼もしかったんだ。背負っているだけでも、それだけでも私は私だった。あの子の言葉があったら、私はもう間違いなく私だった。辞書にない、この世界にどこにもいないちゃんと居る私。私たち。あはは。ギターがあれば無敵だって思ってたんだ。私のギターをずっとあの子が言葉にしてくれるのなら、その無敵は剥がれなかったな。ほら、蟻が登ってるよ。可愛いよねぇ………」
弦を伝い、何も食えないペグへと進む一匹の蟻を眺める。次第にここには何もないとわかって伸びた草陰へと逃げていった。
「ねぇ、ギターは悪くないよね?」
彼に尋ねる。
そのときの彼の顔に私は自分を呪った。
「あ、いや、私だけが悲劇の中じゃ、無いんだよね。ごめんなさい」
不甲斐ない年上だ。これで彼のあの姉と同い年なんだから鼻で笑われてしまうだろう。でも、彼は良い人だからそんなことしないで、するつもりは無かったであろう手に持っているオルゴールの話をしてくれた。
「あぁ、そうなんだ。落ちてて、折れてたんだ。同じこと、したんだなぁ………」
「違うって、言わないでくれよ。寂しいな………」
「寂しいなぁ」
彼は優しかった。私を追いかけてくれたし、吐き出しきるまで傍にいてくれた。彼自身も思うことはあるのにそれを抑えてくれた。
赤い空に染まる海。波は繰り返す。その音はいつだって違う。彼女は何色に見えるのだろう。
来月、私は大学生になるのか。
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