2 箱の話
2-1 箱とギタリスト
夏休み最初の部活終わり、私はギターを背負って改札をくぐった。
「暑くなる昼を避けるために朝に集まろう」と言い出したのは私だが、実際は暑さを避けるためだけではない。
今日はいつもとは反対の電車を待った。友人の入院する病院へ行くにはこうするしかないのだ。彼女は昔から体が悪かったらしく、学校も休みがちであった。そのせいか一年は留年しており、私と同い年であるのだが、現在の学年でいうと一つ下になっている。
私は長く電車に揺られ、いつも停車駅一覧表でしか見ない駅に辿り着いた。
ここまでくるだけでも酷暑に黙っていた蝉が騒ぎ出している。文明の利器の未熟さとありがたみを同時に感じることができたのは、中々良い経験なのではないだろうか。そんな風にポジティブシンキングをしていたら、さらにここからバスに乗れとスマホの地図が言った。私は何もない休日に来ればよかったと酷く後悔した。
暑さを感じながらバス停の時刻表を見る。時刻表が言うには次のバスが来るのが一時間後だそうだ。掠れて書かれていたそれは、きっと誰もがその待ち時間を信じられずに撫でた後だろう。私もそれに習って一撫でした。
酷暑の中、屋根の下と言えど一時間も座って待てるような精神力は生憎、高校では学ばなかった。もし近くにファストフード店や喫茶店でもあればよかったのだが、目で見てもスマホで調べても見つからない。今どき田舎でもそれらはあると思っていたのだが、どうやら田舎の風景をダウングレードしなくてはならないらしい。
私は大きく溜息をついた。地球の気体の割合が変わるんじゃないかというほどの大きい溜息をついた。溜息をつくとバスの運転手への申し訳なさがあったし、人に見られていたらと思うと恥ずかしさで火を噴きそうだ。私はいてもたってもいられなくなり、歩いて向かうことにした。知らない土地でも地図は使えるし、きっとなんとかなるだろう。
虚しいことに、私の楽観はギターが自らの重さで否定した。二十分程度歩いただけなのだが、慣れていない道ではいくらムスタングであっても漬物石かと間違えそうになる。若い時の苦労は買ってでもしろ、と父が言っていたが、苦労なんざ買いたくないやという思いが今この時倍増した。
疲労と日差しへの恨みを父に向けながら肩に食い込むムスタングの重さを受け止める。止まらない汗が食い込みに滑り込むのは、この夏でも中々味わえない不快さであった。よりにもよってなんで今日にと、悔やんでも悔やみきれない。そうやって自分の行きあたりばったりでいい加減さも恨む。今日だけでどれだけの藁人形を作れるのだろうか。
スマホの地図だけを見てしばらく歩き、目的の病院へとかなり近づいた。少なくともスマホの地図ではそう表示されている。ただ、この地図と時間を見ると、一時間座って待っていた方が良い結果であった。しかし、その結果を私は無視することにした。都合の悪いものを見ないことは、決して悪ではあるまい。
私は大きく深呼吸をし、本日二本目のトンネルへと足を踏み入れた。太陽の暴力的な暑さも分厚いコンクリートは貫けず、ひんやりとしたトンネル内の空気に嬉しさを感じる。と、同時に苔むしたコンクリートの独特な湿り気の気色悪さを味わう。
なぜ世界は常にバランスを取ろうとするのか。快楽だけに天秤を傾けて欲しいと切に願う。
そんなことを考えていると、トンネルの中腹まで来た。
突如、轟音が響いた。
後ろを振り返ると、バスが一台、こちらに向かって走ってくるのが見えた。私は棒と間違えそうになる足に鞭打ち、バスを追いかけた。冷たく湿っているトンネルの空気で肺を満たす不快感よりも、バスを逃したくないという気持ちが勝った。
私は世界で一番、制服姿でギターを背負ったままトンネルを駆け抜けるのが早い女子高生であったはずである。
「ああぁあああ………」
バスの運転手と考査の採点は無情である。
「参ったな………」
無理な走りのせいで私の体は酸素を貪るためにひたすらに呼吸をしている。ギターの重さも加わって生きた心地がしない。今後の人生を思っても、ギターを投げ捨てたいなどと思うのはきっと今日この時だけだろう。それくらいまでに私の体は疲れ切っていた。
いつまでも膝に手をついているわけにもいかないので顔を上げると、バスが通り過ぎたバス停の細部が見える。
「………座るか」
漏れ出る声とともに足を動かす。そのままバス停にあるベンチに腰かけようかと思ったが、あまりにもささくれ立っていたため諦めた。
「おえぇ………最悪だよ。最悪の気分だ」
えずきながらそう吐き捨てる。世界に私の友情を確かめられているのではと勘繰るほど、彼女のいる病院への道は険しい。
私はもう一度彼女に会わなければならない。会って話をしなくてはならない。
鼓動が収まってきて落ち着いたとき、突然バス停の一番古びたベンチのほうから私へ向かって声がした。
「苔が生えていないか見てくれないか?」
私は亀のように鈍く首をぐるりと動かし、あり得ないと思いつつトンネルの奥を凝視した。その後、夕方になりつつある空を見上げ、自分以外誰もいないことを確認した。
聞こえた声は幻聴だと処理することにした。
私はこの背にある重たくなったギターをベンチに置くか悩んでいるのだ。きっと思考が暑さと疲労でこんがらがっているのだろう。
「はやく苔が生えていないか見てくれないか?」
なるほど。どうやら幻聴ではなかったようだ。では、一体誰が喋っているのだろうか。
声がした方に目をやると、ぼろいベンチの上に真っ黒の立方体が置いてあった。それ以外にあるものと言えば、ささくればかりのベンチと屋根、プラ板の割れたバス停、あとは折れて茶色くなったビニール傘だ。どこにも声を掛けてくるものはない。
「だ、誰ですか?」
恐る恐る尋ねると、立方体が動きもせずに「私に苔が生えていないか見てくれないか」と呼び掛けてきた。
私は慎重さなど持てないくらい疲れ切っていたので、菓子を出された小学生のようにその立方体へ近づいた。さすがに手に持つのは嫌だったので(このバス停自体が長年風雨に晒され続けたであろう痕跡が目立ち、綺麗と言えない状態であったため)上からざっと見て、その真っ黒さに欠けがないことを確認した。
自分のすることを馬鹿だと思いながらも、立方体に苔が生えていないことを伝えた。
「どこにも苔など生えてないですよ」
「よかった。俺に苔が生えてしまったら困るんだ」
「そうなんですね。大変そうですね」
「僕はバスを待っている。一体いつになったら来るんだ」
「さっき来たからすぐには来ないと思いますよ」
「ああ、苔が生えていないか見てくれないか?」
やはり、というより当然のことだろうが、立方体と同じ言葉を使えたとしても満足に会話が成り立つわけではなかった。
「さっき見ましたし、そんな早さで苔は生えないですよ」
「早く見てくれ」
初めて立方体の焦った声に、私も少し心臓が引き攣った。また、言われた通りに苔ないことを見てから伝えた。同じく、「よかった」と答えた。そして立方体はまた、「バスを待っている」と言った。
バス停の時刻表を見ると、プラ板が割れて水が入ったのか、破れていて読めなかった。
「時刻表が読めないのは不便ですね」
スマホで次のバスがいつくるのかを調べると、以外にも早く来るようだった。
「あと十七分したら来ますから。たった二十分ですよ。私なんて一時間も歩いちゃってね」
あはは、と笑ってからそう言うと、立方体は無感情な声でここにバスが来ないということ、待っている人はいつも待ちきれずに帰ってしまうことを話した。私はその声と話に寂しさを感じてしまい、喉が詰まった。この立方体がずっとバスを待っていることがわかり、馬鹿みたいな話だが、立方体の人生を感じた。そして勝手に待ちぼうけの人生に共感し、妄想の過去で心を揺さぶられている。何人もこの立方体の隣に座ったり、立ったりしたのだろう。なんと哀れな立法体
ぴこん。
空気を切り裂く軽快なスマホの着信音が無ければ、きっと私はずっと黙り込んでいただろう。
「来ますよ。バスは来ますから。待っていてください」
私は隣に置いてある立方体にも言い聞かせるようにそう伝えた。
「バスは来ない。来ない」
「………いや、この乗り換えアプリは優秀なんですよ。このアプリによるとあと十五分で来ます」
そう言いきって、私はふと頭に大切なことが通り過ぎたのを感じ取った。
今まで意図的に無視してきたことであるが、立方体が喋るのはおかしいことだ。苔が生えているのか見たとき、この立方体には隙間も穴もなかった。なぜ喋れるのか。どこから音がするのか。応答ができるのか。一人称があるのか。
「すっごく無視してたことなんですけど、あなたは何なんですか?」
私は目の前の立方体に問いかけた。一度言葉にしたら質問はどんどん溢れてくる。
「なんで喋れるんですか?立方体が喋るだなんて、変ですよ」
「目も足も無いのになんでバスを待つんですか?乗れるんですか?」
問いかけているうちに、この立方体は私がすごく疲れてるから聞こえてしまった、見えてしまったものなのではないかと不安にもなった。存在しない立方体と会話するなど末期も末期だろう。
「話してはいない。見えてもない」
私の質問を受けた立方体は私の不安を知っているのか察したのか、強く断定するような声を出した。その声に蝉は驚き黙り、小鳥は飛び去っていった。
ただ、立方体は私の不安感だけ拭って質問に答えることはなかった。
私は自分の中に憤りが沸いたのを感じた。すぐさま噴出する怒りではなく、ずっと尾を引く燻る怒りだ。
なにも立方体に質問を無視されたことに怒りを抱いたのではない。原因はそこではない。この立方体の、会話を戦争かなにかと思っている感じが彼女に似ていたのだ。自分のペースで相手を振り回さないと気が済まないと思っていそうなところがそっくりである。
そう、立方体程度の存在で彼女らしさを感じたことに、私は憤りを感じていたのだ。
「………なんで会話っぽいことができるんですか」
「………」
「答えてくださいよ」
「………」
私の掠れる声と普通の立方体の静かな不成立な会話に、様子を見ていた蝉がかなかなと鳴き始めた。
「なんであなたは喋れるんですか」
「同じ状況になった海星にその質問をされたとき、お前は説明できるのか?」
あまりにも突飛な質問の返しだった。タイミングも内容もそうだ。何一つ予想できていなかった。
返答に困った私はトンネルを覗いた。バスはまだ来そうにない。
私は半ばやけになり、自分の話をしてやることにした。こうなれば押し付け合いをするしかあるまい。
「知り合いがね、こっちの病院に入院したんですよ。だから今日は様子を見に来たんです」
「そうか、見舞いか。大変だな」
やっと会話らしさが出たことに感動した。主導権を奪い合うような会話は好きではないのだが、意味が見えてこない話を繰り出されるのに比べれば遥かに心地良い。
「そうです。だからバスが来ないと困るんですよね」
「困ったら開けるといい」
「あはは………どういうことですか?」
「ああ!僕の体に苔が生えていないか見てくれないか」
私は顔を両手で覆い、そのまま曇った声で生えていないと伝えた。
「本当か?」
「そんなハイペースで生える苔なんてあり得ないですから」
私がそう言ってから立方体は何も話さなくなった。心落ち着く自然の音が私を包む。心地良さに身を任せようと思ったが、しばらく前に通知音がしていたのを思い出した。ポケットからスマホを取り出し、メッセージアプリを開く。
送信者はバンドメンバーであった。なんとなく内容を見る気にも返信する気になれず、通知一件のままポケットにしまった。
「こんなに静かなら練習してもいいかも」
なんてつぶやくと、トンネルの奥に光が見えた。
「見てください。バスが来ましたよ」
私は当たり前に立方体にそう話しかけて、降ろしかけたギターを背負い直した。立方体はトンネルを走り抜けるバスの音に負けそうな小さい声で「バスは来ない」と吐いた。
私は、立方体には目がないからバスを待ち続けてしまうのだと思った。
「いつか乗れるといいですね」
黙ってバスを待つことにした。立方体は壊れたように「バスは来ない」と繰り返していたが、気にならなかった。バスは現に来ているし、立方体と話しているところなんて見られたら頭がおかしい奴だと思われる。だから、さよならも言わずにバスに乗った。
扉が開いて、閉まって、エンジンが掛かり、タイヤがさあ動くぞと意気込んだとき、立方体の声がした。
私は、聞こえなかったことにした。
「あぁ、彼女も耐えられなかったんだな」
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