2-2 なにも知らないで
私は昔から、そして今も不健康であった。この不健康、というのは夜更かしであったり、肥満体であったりなどという類ではなく、病院から出られないということであり、ベッドが恋人であるということだ。
私の身体は良くない。だからといって不治であったり、死が近いわけだったりでもない。私は技術によって生きれるし、やろうとすればきっと一定の健康を取り戻せるだろう。なぜそれをしないのかと問われると正確には答えられないが、何かを恐れたり、諦めたり、逆に切望しているわけでもない。私の十七年は、私に何をさせたいのだろうか私にだって理解しきれていない。
いつも通りそんなことを考え、カーテン越しの季節を感じ、いつもとは違って扉の向こうに続く廊下を想う。
今日は珍しく来客の予定がある。来る子は一人、私が高校に通えていた頃に一度だけ話した子だ。
私は高校一年生の春までは休みがちではあるが通学できていた。五月に健康のペダルを踏み外し、落車した。それから何とかして(私の周りの大人たちが)、回復の兆しが見えた。引き継いで二年生から通えることにもなったが、従妹も丁度高校一年生になると聞き、自分も一年生から入ることにした。今日来る子に出会ったのは二度目の高校一年生の秋、九月十四日の放課後だ。行けやしない文化祭の準備に参加するのが馬鹿らしくて申し訳なくて、一人で西校舎三階の踊り場を眺めていたときであった。その後、私が健康のチェーンもホイールもハンドルもペダルも壊した十月二十二日までは私の黄金期であったと思う。
赤い赤い光を放つ黄金の煌めき。
私の身体を絞ったら、その二十三日間しか出てこないと思う。あるいは、今日それも無くなってしまうのかもしれないが。
そう、一つ上の学年を示す赤の模様が入った制服を着たあの子の声は、橙の色をしていた。
ノックの音がした。身体を起こしてベッドに座り込んでから返事をすると、その扉ががらりと開いて、ああ、やはりいくら準備をしたとしても今日は合わなかった方が良かったんじゃないのかと思った。だけど、あの子はそんなことちっとも考えていないようにベッドの近くに座り、背負っている私の知らない楽器ケースを足元に置いた。何度も汗ばんだということが分かる。彼女は夏に染まっていたのだ。
「やぁ、久しぶりだね。元気に、していたかい?」
彼女はそう言って、しまったという顔をして、「って、元気ならこんなところにいないよね。ごめん」と謝っていた。
私はそんな彼女に、正直な気持ちを話す。別に元気でもここにいる、と。そうすると目を丸くし、良く知る彼女がそこにいた。
「え?そうなの?」
「だって私、このベッドに恋をしているもの」
「何も変わってないね。相変わらず変な人だよ………」
溜息をついて見せたが、その顔は安心しているように見えた。互いに顔を見合って笑った。
「ごめんなさい。久しぶりに会うから、困らせてやろうと思って」
「なんなんだ、その精神は」
「だだ、さほど変わってなくって安心したよ」
繰り返す、ということはきっと彼女には何かあったのか、それとも話題に困ってまだ探りたいのか。どちらでも、それ以外でもいい。二十四日目という事実は変わらないのだから。
「そうですか?だいぶ変わったと思いますよ?」
「さほどって言ったじゃん」
彼女は尖らせた口を大きく開けて笑った。私もつられて笑った。
「………病気は大丈夫なのか?」
「まったく大丈夫じゃないですよ」
「そうか、そうなんだ」
彼女は何かを考えている。大丈夫じゃない理由が私自身にあると知ったら、私に二十五日目は来るのだろうか。
安静と言われて、部屋を出て廊下を走り抜けて、倒れる。やらなければよかったという強い後悔が湧く激しい苦痛に苛まれても、私を介抱し汗ばんだ心配の表情を向けられても、私は甘えた不健康の上に居たい。
―――どうしてもあの頃みたいに。
そう言えば甘えさせてくれるのだ。だから、私は。
でも、彼女にそうやって甘えるのはできない。なぜかを問われると答えはでない。ただただエゴがそう叫ぶ。仮面を被れと。
「治るんだろ?」
ふり絞るような彼女の問いに私は小首を傾げる。人差し指を顎のあたりに運ぶ。こうすると良いのだと見聞きした記憶がある。
「まあ、治せるでしょうね。現代医療なら」
彼女は顔を伏せ、小さく「良かった」と呟いた。
「どうしてですか?」
「あんたにさ、もう一度聴いて欲しいんだ」
彼女が視線を足元の楽器ケースに落とす。ならば、それはギターが入っているのだろう。そう思い立つと、瞬間、出会った日の情景が目に浮かび、そしてすぐにいつもの病室に戻る。夢は起きていたら見れないのだろう。
「まだ続けていたんですね」
「今も変わらずにやってるよ。相変わらずに」
身振り手振りでギターを弾き始める。その足元の楽器ケースを開かないのは病院内だからなのだろう。
「CDとかないんですか?」
エアーギターの弦を弾いた手で頬を掻いた。
「………あんたにはさ、やっぱ生音で聞いて欲しいんだ」
「どうせわかりませんよ」
「わかるだろ。あんたの耳なら」
彼女は私のことを認めているが、私には音楽の、楽器の、そういう知識が無い。魚の個体差が見分けられても、その種類を把握できるわけではないのと同じだ。特別はそれ相応の知識によって特別になるのだ。
「この耳、欲しいですか?」
「何言ってんだ。いらないけど」
「そうですか」
「それよりもさ、いつ治るんだよ」
私の抱いた寂しさを蹴散らして彼女は問う。この世の誰か一人でも私のことを慮ることがなければすぐだろうなと思う。
「さあ?」
「なんで分かんないんだよ」
そんな人を私の周りに置くわけがない大人が居るからだ。
「恋煩いのせいですかね」
彼女は溜息をつき、項垂れる。私より背の高い彼女の頭頂は稀有な景色なのでもう少し見て見たかったが、そこまで性悪になる気も無い。ただ、そう、今まで見上げるその頭と顔が私の下にある。隣に座ってきてギターを弾きだしたあの時間が見え隠れする。
「いつかまた、聞きたいですね」
ふと、自分の希望が零れた。
私が彼女の隣で聞いたのは一度だけ。風に乗って届いたのは多分、把握しているだけなら二十二回。もし、次に聞くなら私はどこで聞くのか。わからないが、それでも聞いてみたくなった。
私の言葉を聞いて、彼女はしばらく姿勢を変えなかったが、それは抑え込まれたバネのように顔を跳ね上げた。
「そうだ!あんたも弾けばいい!!」
その提案は想定外だったし、魅力的に思えた。私の恋を終わらせてもいいとすら思う。だが、それは許されるのだろうか?許せるのだろうか?
「私がですか?」
「ああそうさ!今度は踊り場じゃなくてちゃんとした場所でさ」
「私は別に………」
「いやいや、場所は重要だよ」
「だから私にはわかりませんよ」
どうせわからない。音の価値など。
わかるのはただ一つだけ。彼女が弾けばいいということだけ。
私は二つのギターの音を聞いて彼女が弾いた方を当てられるとは思わない。音自体に価値は無い。誰が紙に載った絵具に一億円を払うのだ。
「これから分かればいいんだってば」
彼女が私に未来の話をするのが、なんだかおかしくて、嬉しくてつい笑い声をあげてしまう。それを見て肯定と取った彼女はまた満足そうな顔をする。
「でしょ?ほら、持ってみなよ」
彼女は楽器ケースを開けようとする。私はそれを自身の病弱さを盾にして止めた。なんとなく、彼女のそれには触りたくなかったし、私が彼女を傷つけうる可能性は取り除きたかった。重いものを持って悪化するといけないから、という嫌な言葉を使ったけれど、そこに後悔はなかった。
「そっか、そうだよね。まあ、治ったらの話だしさ。あと、そうだな。美味しいものでも食べに行こうか」
彼女が美食に凝っていたことなど私は知らないが、この一年間でそうなったのかもしれない。いや、変わるのだ。当たり前なのだ。私がいつまでも留まっているだけなのかもしれない。
「病院食って不味いんでしょ?」
彼女が続けたその質問に、私は少しの感動があった。
当たり前なのかもしれないそれが、この一般的ではない暮らしに、狭い固有の常識を大きく音を立てて叩いた。私がそうだとして、彼女がそうだとは限らないのだ。そして、私がそうで、彼女がそうであるのもまた同じなのだ。
「いえ、病院食は美味しいですよ」
「え、そうなの?」
彼女は計画が破綻したようで、素っ頓狂な声を挙げた。そして遠慮がちではあったが「病院食以外を知らないとか?」などという失礼なことも聞いてきた。
「あはは、ひどいことを言いますね。こう言ってはなんですけど、大きな病院に長く入院させてもらえるくらいにはお金持ちなんですよ。それはそれは、色んなものを食べました」
「ああー、盲点だったわ。そりゃそうか。なんなら私よりも良いもの食べてそう」
彼女は自分たちのいる広い個室を見渡す。花瓶の置かれた棚が目に入ったのだろう。その中身にある高級な何かを凝視しているようだった。そこに何があるかと言われれば、そう大したことないバスタオルなどが入っているだけなのだが、勘違いしてもらっていた方が良さそうなので彼女の目線をこちらに戻すために少し声を大きくして話す。
「それはわからないですけれど、とにかく病院食はそう悪いものではないんですよ。今度食べてみたらどうです?」
「え、食べられるの?」
「はい、先日隣の病室が空いたらしいので」
彼女は唇を尖らせ、じっと私の顔を見る。
「おいおい………」
「冗談ですよ」
「悪趣味がすぎる」
別に本当にそうな訳ではない。
「あっ、味覚もか?」
「いえ、味は本当に好みなんです」
彼女の顔から疑いの様相は消えない。私は自分の好きなものを誰かにも好いて欲しいこともないので別に疑われても良い。はずなのだが、少し、本当に少し、彼女に食べさせてやりたいという情熱が沸いてくる。ただ、食べさせてやる、というようなものでも無いことはわかっているのでその熱は急速に冷めた。
「ご飯の話をしたせいかな、お腹空いてきたよ」
彼女はお腹をさする。時間を見ると、早い人たちは夕食を取り出す時間だった。
「なにも食べてないんですか?」
しばらく考え込む動作をしているのは不思議であったが、それも少ししたら終わり、また頬を掻き出した。
「そういえばそうだ。練習帰りそのままだった」
「ずぼら」
「そう言うなって」
私の言葉を恥ずかしそうにはにかみながら右手を突き出して遮る。
「本当は駅についてどこか探そうかなとか思ってたんだ。何も無かったんだけど」
最寄り駅の何もなさを調べなかったのをずぼらとまた責めようかとも思ったが、彼女がどうも上の空なので病院の売店ではない、病院の裏手のコンビニエンスストアもどきを教えた。そうしたのは、売店は学生が一人買うにはちょっと不適だろうと思ったからだ。
「病院の裏手のコンビニエンスストアもどき、多分個人経営だと思うんですけど、そこに行くと良いですよ。その近く公園があるので迷うことはないと思います」
「そんなのがあるのか。じゃあ、ちょっくら行ってくるかな」
彼女は楽器ケースを肩に掛けつつ立ち上がる。
「お土産、期待してますよ」
彼女は私の言葉に頭を掻いて、その長い髪を揺らし、静かに頷いて病室から出ていった。私の耳は扉が閉じた後の「そうだ、手土産買い忘れてたな」という声を捉えてきた。なんだか彼女らしくて少し嬉しくなる。
廊下の先の階段へ彼女の足音が消えていくのを耳を澄まして確認してからベッドに倒れ込む。ばふん、と良く干されたベッドが埃も立てずに音を立てる。身体のあちこちが痛みという声を挙げる。それに色は無く、ただ棘が生えているだけだ。
「橙の声は疲れるわ」
本当は顔に手を当ててそのままめちゃくちゃに揉みしだきたいところだが、そうするわけにはいかない。
「お化粧、崩れてないかしら」
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