1 オルゴールが残る砂浜
オルゴールが残る砂浜
高校の卒業式を昨日終えた僕は、半年前にできた親友と海を見に来た。砂浜の砂は思ったよりも濁っていて、別に陽の光を受けても海は輝かなかった。
「なあ、ちゃんと持ってきたか?」
彼は大量の塩水の塊を見るのに飽きたのだろう。二時間と三千円ちょっとの運賃を払ってきたのに、十分あまりでもうそれだ。
なんて飽きっぽいんだろうか。もう少しこの海から感動を掬い上げる努力をしてみないのか。
ちょっと横を向けば、見たことのない見た目のペットボトルや皮の剥がれた良さげな流木、蠢く名も知らない小さい虫があるし、波に向かってチキンレースだってできるだろう。少し見ただけでこれだけあるのに、贅沢な奴だ。
「持ってきているよ。ほら」
僕は背負ってきたリュックサックの一番でかい収納を開けて見せる。そこには高校生の証であった制服を雑に丸めてしまってある。
「それだけか?」
彼は四日前にこの計画を話してきたときと同じ顔をしている。いつ見ても悪い笑顔だ。
「お前は知らないようだが、重いものはリュックサックの下に入れると背負ったとき楽なんだよ」
昔、テレビ番組でそういっていた。
「意味が分からん………だって重量は一緒だろ」
「重さと質量は違う、的な話だろう。きっと」
そういって僕は三年間着続けた大切な制服を投げ、リュックサックの底から数Ⅲの教科書と問題集を取り出す。
「あ、それにしたのか」
「教科書の中じゃ、一番読んだ気がするからな」
その教科書も放り投げる。僕のスニーカーの中に入っているのと同じ砂が、制服と教科書たちを汚している。
「これでお前は持ってきていないとかだったら許さねえぞ」
「さてはお前、超能力者だな?」
僕は咄嗟に砂を握りしめ、握り拳を彼の前に突き出す。砂をぱらぱらとこぼすと彼はひどく怯えた表情をする。
「次はお前がこうなる番だ」
そう言ってやると彼は笑い出した。
「怪力なのかよ。超能力じゃねえだろそれ」
つられて僕も笑った。笑った際に握っていた砂を一気に手放し、それが風に吹かれ口に運ばれた。たまらず砂を吐き出し、大袈裟にのたうち回った。
「やられた!」
そう叫んでいると、彼は僕の顔を冷めた目で見る。
「他のお客様にご迷惑がかかるのでそういった行為は控えて頂けますでしょうか」
梯子を外されたので僕はすっと上体を起こし、話を戻すことにした。
「で、お前はどの教科書を持ってきたんだ?」
彼は鞄を開けて制服を取り出す。その制服をほどいて中から見たことない薄い教科書を見せてきた。
「音楽か」
音楽の授業は一年のときにやったきりで、正直なにをやったかも覚えていない。彼は選択授業で音楽をとっていたし、僕には無い思い入れがあるのだろう。
「なんで音楽?」
「一番軽かったから」
天才かと思った。二時間もかかる遠出にこんな重いものを持ってくるべきではないと気付けるのはさすが企画立案者と言うべきか。
「なるほどなぁ」
頷いて横目で彼を見ると、彼の目はその言葉が嘘であると表現していた。
「で、一体なんで音楽なんだ?」
「これを見てくれよ」
「裏?名前?」
そこには一年四組上熊 瑞穂と書かれていた。
知らない名前だ。彼の名前でもない。
「女子の教科書持ってきたのか?」
僕はちょっと彼が怖くなった。興味が強まったともいえるが。
「違う違う。これは俺のなんだ。一応」
「わざわざ書いたのか?」
彼は自分の手でこの『女子の音楽の教科書』を作ったというのか。
「いや、これは俺が一年の時見つけた教科書でな。あのほら、音楽室に楽譜やらがある棚があるだろ?」
「吹奏楽部とかが使っているやつか」
そこにあったのを見つけたのなら、女子の教科書を持ってきたのでないか。何も違わない。
「証拠隠滅に付きあわされたってわけか」
「まあ待て。俺の話を聞いてくれ」
彼は俺に上熊 瑞穂の教科書を渡してきた。手触りからこの教科書が僕らの時代のものではないとわかった。
「俺はこの教科書をもらったんだ」
「貰った?」
彼は僕の手から教科書を取り返し、ぺらぺらとページを捲った。海風に煽られるのを抑えながら見せてきたページは、音階についての問題であった。問いとしてC#やDsなどが書かれれており、回答欄には五線譜が置いてある。
「見ろよ。この字」
「字?」
「はちゃめちゃに綺麗だろ」
彼は頬を少し赤くして僕にそう言った。
頬を赤らめたのだ。海風に冷やされた頬を。
「まあ、確かに。丁寧だとは思うよ。はみだしとかないし」
「そうだろうそうだろう」
満足気に彼は頷き、「字を見ろ」と僕に怒鳴った。
「そうは言うがどこにもないじゃないか」
あまりに彼が怒るので僕も少しむっと来ていた。ここが海辺であることが幸いし、海風と波音が僕らの昂ぶりを鎮めてくれた。
「ごめん」
彼はそういって、下の何ページ目を示すあたりを指さす。
「16ページ………いや、うっすら見えるな。なんだこれ」
僕は目を細めたり、顔を近づけたりと試行錯誤し、あげます、と読めることに気が付いた。ただ、これは字と言うにはあまりにも薄く、シャーペンの芯によってできた凹みのほうが正しい。
「綺麗だろ?」
僕が解読できたと思ってか、彼が訊ねる。
確かに綺麗な筆跡であった。
「綺麗は違う気がする」
「なんだと」
「これは蠱惑的だ」
「は?」
「ものすごく惹かれる」
怒気を孕んだ声だった彼もすぐに和み、一緒になってその凹みを見つめた。
「一つ聞いていいか?」
僕はその凹みを撫でながら聞くと、彼はひどく嫌そうな顔をした。
「これは字か?」
彼は黙った。
彼が答えるまでに二回ほど波の音が耳に入った。
「薄いのは俺が消したからだ」
「そうか」
彼が重く話すから障りのない返しをしたが、内心は穏やかではない。僕には彼の意図がずっとわからない。なんと幸せなんだろう。
「まあ、こんなことずっと話していてもしょうがないだろ。とりあえず、焼こう」
彼はそういって鞄から一斗缶を取り出した。
「よくあったな、そんなの」
「お………父親の倉庫からちょろっとな」
「いいのかよ」
「いいのさ。俺のもんみたいなもんだから」
彼はほら、といって一斗缶を指で叩く。中が空だから音がよく響く。
「鳴ってるな」
「燃えて鳴らなくなる前に聞けてよかったな」
「そこまでじゃないかな」
僕はそう言いながら彼の一斗缶を受け取り、砂浜に深く突き刺す。一斗缶に細かい傷がついた。
「こんなんでいい?」
僕がそう聞くと彼は頷き、そのあとに首を横に振った。
「なんだよ」
「林間学校かなんかでやらなかったか?空気を下から入れないと燃えない、って」
「いや、あれは料理をするために火力がいるからああやってるんじゃないか?そこまで火力はいらんだろ」
「そうなんかな」
「やりゃわかるよ。ていうか調べてこなかったんか」
「どう調べろっていうんだ」
彼はそう言いながら僕の刺した一斗缶に制服を放り込んだ。彼は細かく気が利くので僕の分も一緒に入れたらしい。
僕らは制服の入った一斗缶を見て、顔を見合わせた。
「思ったより、制服がでかいな」
「これ入らないかもな」
「ズボンはバイトとかで使えそうだし取り出すか?」
彼がそう言ったのは衝撃だった。
彼はとにかく一般的な将来の話をしない。卒業式を迎える前でさえ具体的な進路は定まっていないし、遠い海で教科書と制服を焼こうなどと持ち掛けてくる。僕は彼のそういう面に強く惹かれているが、それと同じくらい人として傲慢と思いつつ心配している。
この心配が思っている通り、僕の傲慢なのだとしたら、僕は。
「燃やすんじゃなかったのかよ」
「それはそう。じゃあ、教科書入れよう」
彼は音楽の教科書を隙間に突き刺し、僕にも続けと目を向ける。逆らう必要もないのでそれに従い、僕は数Ⅲの教科書と問題集を彼に倣って突き刺した。そのまま一斗缶の中の高校生活を見下ろす。制服は箱に詰められてしわくちゃで、教科書は壁を支えに突き刺さってろくに読めやしない。
「漫画に出てくるケーキみたいだな」
「料理が下手な奴が作るやつだろ?」
「音楽の教科書って表紙派手だから一斗缶の中で映える、って知識は今後一生使わないんだろうな」
「それは、確かにそうだな」
彼の笑い声が近づいてくる。いつの間にか鞄からライターを取り出していたようだ。
「うわ、懐かしいなそれ」
彼が手に持っていたのは、沖縄へ行った修学旅行の際に買ったものだ。お土産店で買ったものでなく、どこにでもあるコンビニエンスストアで買ったものだ。
「よく分かったな」
「あんとき砂糖菓子に火をつけて溶けたとこ、見えたから」
「なるほど。なんかノスタルジーって感じか」
彼はそう言ってライターの蓋を開ける。
かちゃん、という心地良い金属音が海風に溶けていった。
「はやく火を付けようぜ。寒くなってきた」
「春の海だもんなぁ」
「それ正月じゃね?」
「どっちにしろ寒いからいいじゃん」
僕は体を震わせて火の無い一斗缶へ手を当てて待つ。彼はいよいよライターの火を付ける。
「なあ、寒がっているところ悪いけどさ、これ燃やした煙は有毒だと思うぞ」
彼はいつのまにか風上へ立ち、暖を待つ僕にそういった。
なるほど。ちんたらしていたのはそういうわけだったのか。早く言って欲しいものだ。
「そういうのは早く言ってくれよ」
僕は砂に足を引っ張られながら立ち上がり、彼の隣に立つ。波の音とそれを撫でた風が僕らの背を押す。
「はは、真の卒業式は今日だ」
昂った僕の妄言を、彼は親切で聞き逃したようで、やはり最高の男だった。
「もしやばくなったら砂を掛けよう」
彼はそう言って僕の数Ⅲの教科書の角にライターの火を近づける。
僕は何も言わず、彼の持つ火が僕の一年を黒く焦がし、曲げ、踊らせ、赤い赤い火が燃え移ろうとしていく様を見ていた。
「意外と燃えないんだな」
そんなことを彼は口にした。
今、一斗缶の前には二人の学生でもなく社会人でもなく、子供でもなく大人でもなく、本当の意味で自由な人間が二人、黙り込んで座っている。
一斗缶の中でも燃えていく教科書と制服は僕らを決してキャンプファイヤーの気分にはさせなかった。自由の中にある不自由への渇望を突き、後悔の名へと変貌している。この苦みを味わうには、夕暮れの海の暖かさと友の存在が必要不可欠だった。
「美味い。美味いな」
僕は駅で買った百五十円の緑茶を飲みながら、一斗缶の中を想う。
「なあ、なんで字を消したかというとな」
彼は僕が喋ったのを聞いて、罪の告白と言わんばかりに重く、切り出した。
「消さないと、持って帰れなかったんだ」
彼はそう言って、体の震えを止めた。息を吐きだし、足を抱き寄せる。
「消さないと持って帰れない?」
「ああ、あの字、置いてある教科書の場所、年代、質感、景色、環境。それらすべてがある意味で完成されていたんだ。どこにも隙間がなくて、息苦しいくらい魅力的で美しかったんだ。だから、持って帰るために、字を消すしかなった。勿体なかったけどそうしないと手に入らなかったんだ」
ぱちり、と一斗缶の中で音がした。きっと何かが爆ぜてしまったのだろう。
「なるほどな」
「こういうの、味わったこと、ある?」
断言できる。そんなものは無い。僕は今、とてつもない感心と安心を抱いている。それを噛みしめるので精一杯だ。だから、黙るしかない。
「そうか。ないか」
彼はそういうとすくりと立ち上がった。春の海が冷やした空気が、一気に僕らに割り込んだ。
「どうした?」
「そろそろ、電車乗らないとだから」
彼はそういって火を消す準備をしに海まで歩いていった。僕はそれについていく。
海へと寄っていく彼の背は小さく、一斗缶の中の火よりも赤く焼けていた。
「なあ、砂でいいんじゃないか?水の方が持ち帰りにくいぞ」
僕らは踵を返した。砂浜で一つの小さな波を起こしたのだ。
「あはは、わかっていたよ」
「試した、なんて言わないだろうな」
「言わないよ。折角海に来たんだ。少しは近寄りたいじゃないか」
澄ました顔をして彼は砂を掬う。乾いた砂は彼の手によってできた凹みへと落ち、抉れた穴をちょっとだけ埋めた。
「手で行く量で火を消すのは大変じゃないか?」
「仕方ないだろ、そういうの持ってきてないんだから」
彼は火に砂を落としてからそういった。彼は海水をどうしようと思って海へと寄ったのだろうか。
彼の詰まっていない思考に想いを馳せると、一つ思い出したことがあった。僕はリュックサックのドリンクホルダーに仕舞った緑茶を飲み干して、代わりに砂を詰める。
「こっちのほうが早いだろ」
彼はなるほど、と顔で言う。そして慌ただしくオレンジジュースを飲み干して、同じことをした。
「なんか、燃やしてるときよりも悪い事してる気がするな」
「確かに。でも、それは暗くなってきたからじゃないか?」
「なるほど」
気が付けば一斗缶の中は砂で満ちていた。
「これ、どう考えても重いよな」
「ああ、ちょっと持ってみてくれ」
彼に言われて一斗缶を引き抜こうとすると、あまりの重さに腰の骨が鳴った。
「無理だよ。無理。持ち上がらん」
僕は彼にも一応引き抜かせ、微動だにしない一斗缶を教えてやった。
この一斗缶を倒して砂を抜く、というのは一番思いつくことであるが、それはできない。それを許せるなら最初から一斗缶など持ってこない。
「砂をペットボトルで抜いていくか?」
「それが一番だな」
彼が鞄から懐中電灯を取り出し、一斗缶を照らす。
「灰とか混ざらないようにな」
「わかってるって」
僕らは宝探しをしているかのように、一斗缶から砂を掻き出している。僕らが埋めた燃えカスを一生懸命に掘り出している。かなり多めに休みを取りつつ、だが。
「なあ、今調べたんだけどさ。一斗缶って18リットルも容量あるんだってな」
彼の手が止まる。一斗缶の中の砂にペットボトルが突き刺さっている。いつか幼い頃にみた公園の砂場がそこにあった。
「俺たちはどれだけ長い間、砂を入れてたんだろうか」
「確かにな。全然見えてこないし。実は燃えカスは砂に混ざりきってしまって捨てたんじゃないか?」
「そしたら肥沃な砂ができるな」
「焼き畑農業?」
「そうそう。そう考えるとこれをぶちまけたほうがいいんじゃないか?」
彼の意見は疲れ切った僕には魅力的だった。今すぐにでも肯定し、実行したい。ただ、今まで育ててきた倫理観と誇りがそれを許すはずがなかった。
「あれは植物を燃やすから意味があるやつだろう。これは肥料とは程遠いだろ」
「待て待て。教科書だって紙じゃないか。制服だってもとは化石燃料だろ?」
「インクとか塗料があるじゃん」
「色的に問題ないだろ」
「色で言ったら音楽の教科書の黄色さは環境によろしくない」
「バナナだって黄色いだろ」
「ここは南アフリカじゃない」
「じゃああれだよ、いよかん」
「いよかんの色じゃないだろ」
僕らはとうに一斗缶の中の砂を神経質になりながら掻き出す作業に飽きている。少し前にした決意を裏切れず、だからといってひたむきにはなれず、こうしてくだらないことを言い合って探り合う。そうして数分、どんどん暗くなる海辺で時間を無為にしていると、彼が腕時計を光らせた。
「どした?」
「電車、間に合わん」
彼はあっさりと言った。溜められても困ることではあるが、こうもあっさり言われると来るものがある。
「走っても無理?」
「もう出た」
なんで出る時間をリマインダーに入れるのだろうか。彼のそういうところ、嫌いじゃないけど苦手だ。
「そうか」
気が付けば海風は冷たく、波音は聞くだけで凍える。鼻水が垂れないよう上を向くと、星は見えず、欠けた月だけがそこにいた。
「今日、三日月だよ。ほら」
僕は砂浜に倒れ込む。髪の毛に砂を混ぜ込んで、頭皮でその感触を味わう。あまり好きではない感覚であった。
「三日月っていうには太くないか?」
彼はそういって大きく伸びをした。欠伸もついでに。
「どうする?」
「どうもできねえし、できたとしてもやりたくないな」
僕は砂浜に仰向けでぼやいた。制服たちを燃やす前に昂っていた自分は、とうに過去の人となっていた。ここには堕落した人間しかいない。
「一個だけ、あるじゃん」
彼はそう言った。僕には心当たりがなかったが、考えるのも面倒だったので同意した。
「よかった。じゃあ、やるね」
彼はすくりと立ち上がり、一斗缶に手を掛ける。僕らの努力のおかげで軽くなった一斗缶は容易く引き抜かれた。
「どうするつもりだよ」
彼は「わかってなかったんだ」、と驚いて僕に近づいた。両手で一斗缶を抱えて、海を背に砂を踏みしめている。
「簡単なことだよ」
彼は一斗缶を差し出す。僕はそれを受ける。彼の顔を見上げるわけにもいかず、一斗缶の中をみる。そこには夜とは違う闇が巣食っていた。
僕が見れたのは、彼が強烈な光を放つところまでだった。
一斗缶の中の闇を見ていた僕は、彼の方から甲高い駆動音のようなものが鳴っていることに気が付いた。ふと、見上げれば彼は眩く閃光を放ち、そして、僕を巻き込んで爆ぜた。
砂の詰まった一斗缶を抱えていた僕の腹だけが、海辺に残されていた。
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