3 鳴かず撃たれず飛ばす濁す

3 鳴かず撃たれず飛ばず濁す

 彼は手を失った。

 失くしたのは、右の手だった。彼の利き手は右だった。右の手を使うのが左の手よりも得意であった。

 彼の手は今、遠い遠い場所にある。彼は自分の利き手が遠くに在ることを知っていて、そして努力すれば利き手のある場所に辿り着けることも知っている。

 今、彼が居るのは利き手からそう遠くない、彼の自宅だった。

 彼の住む家はお世辞にも良い家ではなく、風が吹けば家中がだみ声で大合唱し、眠るには狭くて縮こまって夜を過ごす。しかし縮こまれば独りであることが浮き出て寂しくなる。そんな部屋で暮らしている。部屋には利き手があった頃の名残である楽器達が埃を被ってインテリアの擬態の最中で、趣味であった料理道具は虫けらのアスレチックと化している。自分の誇りであった銀メダルは、ただの円形と化して彼の焦燥を促し続けていた。

 利き手がない生活というのは諦めばかりであった。まず最初に諦めたのは料理である。料理が趣味である彼は一品一品凝って作ったり、きちんとした道具を揃えたりなどはせず、自分の気分に従って乱雑に作るのが好みであった。

しかし、利き手がなければ好きなようにも作れない。そうして彼は好きだった料理を諦めた。

 次に諦めを認めたのは音楽である。インテリアに身を落とした楽器もそうだ。利き手を失ってからすぐは諦めきれずに左手でできるだけ掻き鳴らしていたものだが、無意味さと虚しさに取りつかれ爪を歪めた。そんな部屋の隅には過去の栄光である古びた銀メダルがあった。プラスチックの箱に入れられた『市大会準優勝』の文字が彫られたもので、たかだか二年の生活で生み出してしまった彼専用の遮眼革だった。諦めが少しでも見え始めてから過去をゴミ袋に梱包するまでの速さは日に日に増していった。時折、くしゃみをすると寂しそうにそれぞれが音を鳴らし、現在への干渉を試みる。彼はその音が嫌いで、部屋の掃除をマメにするようになった。

 このような、諦めから生まれるものも多少はあった。

 しかし、そんな結果はそうならなかったことに比べてしまえば些細なもので、彼は自分の利き手がないことを理由に労働を放棄した。彼の生活の全ては不自由な左手でもできるような簡素で怠惰なものから生み出せることのみで進行し、それがどれだけ脆いかなど少しでも真面目に考えればわかることであった。彼は不幸なことに自分の力量を理解できるくらいには賢く、そして怠惰に生きるために培った勤勉さを利用できた。その結果、彼は不自由な左手任せでも生き延びることに成功している。そのせいか、彼は利き手を一向に取りへ行こうとしないし、左手を使いこなそうともしない。誰かがそれを咎めてやれば少しは動くのだろうが、彼は自分を想う人を拒んでしまっていたのだ。

 彼は自己完結の味を愛していた。そのため、人間関係を構築することには淡白であり、人付き合いをのらりくらりと流していた。だから彼が利き手を失ったことを悲しむ人は居ない。彼が右手を無くして不自由に生きていることを憐れむ人しか居ないのだ。


 彼は利き手を無くしてからとある趣味を見つけた。それは語りかけることである。家にあるものに語りかけるのだ。この前は電池の切れたガスコンロに語りかけた。無駄に貴重な型の電池は取り替えるのが億劫だったので、ずっと鍋置きになっている。鍋底のこの前描いた笑顔の震えた線をまた埃が消しつつあった。彼がガスコンロに語ったのは眠りに落ちる2時間で思いついた人間の真理だ。丁寧に、小学校低学年の子らに話すように語った。隣人はさぞ不気味だろう。諭すような声で、人の進化の可笑しさを嘲ながら語っているのだ。しかもその話し相手はガスコンロで、馬鹿みたいに大声で笑い、幸せを感じていると信じながら自分の精神に歓喜し呪怨を平らげているその最中を聞かされているのだ。

 彼は非生産の手助けしか生産できなくなってしまったのだ。自身の社会悪性を感じ取りながら、それを改善させる細胞が自分には備わっていないと語り、唸り、それを自分に沁みこませることが、この趣味の本当の目的であった。もはやそれは教育といえる洗脳であり、人格の固定と破壊を繰り返し、自分の輪郭を消し去って概念的な自殺を彼は無意識に図ろうとしたのかもしれない。それがこの世界において一人でしかない彼には無意味であることは周知の事実であるし、また知性ある彼もそのことは知っていた。

 彼は自分の左手が次第に好きになっていった。不自由で扱いにくい左手が愛おしい、そう思えたのだ。だが、その思いを彼は自分から否定した。自分の抱いた愛情が嘘だと思ったからである。右手を取りに行くのが面倒で、言い訳を作りたいだけの嘘の愛であると自己分析し、極めて冷静に自己を否定した。今のままでも良いと、過去より劣悪な環境でも良いと、そのように自分を正当化する嘘だと断定したのだ。

 彼は利き手を取りに行こうとはしなかった。左手はいつまでも不自由のままで、彼には多く諦めが付いて回るのだが、彼はそれを受け入れもせず、否定もしなかった。他人と話すことがあれば二言目には左手への恨み言を放ち、彼は返って来た同情を受け取って別れる。向けられた同情に自分の正当化を手伝わせてどうしようもない飢えを凌ぐのだ。利き手がない、という欠陥を自己肯定に使うのは、利き手があった頃にはできない格別の自慰行為だった。その快楽は彼を縛り付けるには充分すぎた。

 彼と長く付きあう人は居ない。しばらくすればいつまでも繰り返される左手への恨み言が鬱陶しくなるのだ。彼のような怠惰で、停滞した人を受け入れ続けるようなことは生命の本能として拒否される。彼がのらりくらりと人と付き合ってきたのは、自分の周りが留まらないからであった。

 彼の利き手は、ついに彼の知らない所で朽ちた。彼はこれから利き手が朽ちていることを知らずに左手への恨み言を言う。諦めも繰り返す。彼の利き手はもうない。そのことを知ることは無いのだ。

 彼は今から左手だけを頼りに歩き始めることとなった。

 彼ができるのはただ歩くことだけだ。道程の鮮やかな風景を楽しむことは許されなかった。右手があった箇所が常に鋭く痛み、彼への憂さ晴らしに虹色を奪ってやってるのだ。

 彼が今さら歩き始めたのはその痛みが原因だった。過去に味わったどの痛みとも似つかない痛みが、耐えられる程度の激痛がゆっくりと彼を蝕みきったのだ。

 それは暮らしにくい左手だけの中々悪くない最悪の日々。毎夜、嘘がいずれ真になれと祈る営み。右手のあった箇所が痛いと脳が指示を出し、真も偽も何もない現実を認識させる。そうして自分を正当化していくなかで信じ切れない部分が彼から乖離していったのだ。

 彼は一人ではないのだが、独りだった。

 彼自身がすでに彼を飼えなくなったのだ。飼えなくなった彼が飼っていた彼に怒鳴り散らし、両腕をこれでもかと振るった。

「今、ここにいるべきではなかった。本来なら右手をもっと使いこなし、広大な部屋に暮らせていた」と彼を睨み、欲求の満たされない幼児のように彼の中で暴れまわる。

 彼は彼に静かに応える。

「うん。うん。わかってはいるんだ」

 彼はようやく自分の間違えに気がついたような顔をして、埃化粧をしたインテリアに話かけた。

「わかったんだ。歩こう。たくさん座ってしまった。いっぱい、いっぱい歩こう」

 久々の運動靴の履き心地を踏みしめ、重たいタップダンスを踊る。誰もそれを見ないが、彼は満足気だった。

 その言葉と決意と行動に、飼いきれなくなった方の彼は檻へと戻り、静かになった。彼は一人になれた。世界と向きあおうと出た矢先、一人になったのだ。

 彼は左手を愛した。右手に再開するまでの代わりになるように。左手に右手と同じを求めて、今までの歪んだ常識を精一杯用いて愛した。それは彼の停滞の人生に風を吹かせた。まだ生温い、しっとりとした風だが、いつかそれも乾いていくだろうと彼が確信した。

 彼は歩みを止めなかった。その姿は立派だった。彼の歩みを称える人が、左手だけの彼の周りにつき始めた。だが、左手への愛を深めるたびに、彼の中の右手への焦がれは膨らむばかりであった。その焦がれは歩みを進める格別の燃料にできていた。いずれ右手に再開できるというゴールがあるから歩いたのだ。

 数千歩も歩くと、風景すら見ずに歩くのに苦痛を感じ始めた。彼は再び、自分を正当化した。この歩みは自分の全てだと言わんばかりに苦痛を飲み込んだ。

 彼は何も変わってはいなかった。

 ある日、風景から話しかけられた。

「そんなに歩いても、右手はもう朽ちたよ」と。

「そんなことはない。あってはならない。ありえない」

 彼はそう言って突っぱねた。

 先に答えを出せば、間違っているのは彼だ。彼の右手は既に朽ち、二度と合うことはない。彼がどんなに自分を罰するように歩んだとしても、左手をどれだけ寵愛しても、調教しても、右手には会えない。彼の停滞は彼の求める最大の歯車をこれ以上なく破壊していたのだ。

 彼は次第に歩くのが遅くなった。なけなしの賢さも失ったのだ。嘘のように自分の右手に縋り付いて、堕落していた時よりも堕ちた。格別の燃料だった焦がれは彼に纏わりつき、換気ごと防いで火を消してしまった。

 彼は帰った。

 家に。一人で。

 すると檻からあのときの彼が出てきた。

「久方ぶりだ」

「久しぶり」

 彼らは一言の挨拶を交わして、黙った。

 いつか寝る前に閃いた、お遊戯みたいな真理をこれ以上なく丁寧に語ってやったガスコンロが彼を眺めている。ガスコンロは彼にずっと秘めていた真理を語るためなのか、ずっと閉じていた口を開いてみせた。インテリアとしての機能すらない埃塊群は白い目で彼を祝福する。

 彼は久しぶりに語りかけ始める。「気がついたんだ」、と語りかける。

 彼の言葉は長くは続かなかった。おしゃべりなガスコンロともう二度と動かせない扉が彼の言葉を黙らせる。正論で怠け者を蹂躙したのだ。

 どういうわけか弱りきった彼は日めくりカレンダーを見た。家を出ると決意した日から一日も動いていない。しかも、埃塗れで触りたくも無い、穢れたものとなってしまった。彼はずっと間違っていた。彼の努力はずっと間違っていたのだ。そして彼の考えもずっと間違っているのだ。

 彼は一人で床に寝そべる。久方ぶりにあった彼はひどく不満げで、その彼は自分の中にある言語化できない漠然とした、不快感、頭痛、悲しみ、後悔、満足、自己肯定、大空、項垂れ、快楽、トートロジー、切望、苦痛で不満げだったのだ。「助けて」だなんて言葉を吐こうとしたら、不満げな彼が口を塞いだ。懐かしい両の手がのろまに、見せびらかすように喉に伸びて、ガスコンロのおしゃべりすら聞こえなくする。彼はその両手を受け入れ、触れようとして、何も掴めず事切れた。

 彼は自分という存在をちっとも理解できずに、朽ちた右手に焦がれて、何も成せず、何か成せると生きてきたのに、結局最後は自分で否定して終わってしまった。

せめてもの救いなのは、彼が彼を失ったことを悲しむ彼が居たことだろう。

 五体満足の不満げな何かの卵であった男は、何も濁せず、飛び立ったのだ。


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