第8話 二日酔いの朝


 ——お前はいつになったら結婚するんだ?


 夢を見た。


 思い出したくもない、最悪な過去を夢に見た。


 弟の結婚式の後。帰りの車で父から言われた言葉。助手席の母も苦笑しつつ、父の言葉に賛同していた。


「お前ももういい歳なんだから」

「長女なんだからしっかりしなさい」

「仕事ばかりやってちゃ駄目よ。いつかは辞めて主婦にならないと」


 いろんな言葉を並べられた。


 私の両親は共に前時代的な考えの人たちで、実家に帰るたびにそんな話を嫌というほどされてきた。


 教師という仕事を辞めたくない。


 そんな些細な願いさえ、『結婚したら専業主婦になりなさい』という勝手な言い分で一蹴される。私のやりたいことよりも、自分たちの望む娘の姿に染め上げる方が最優先。


 そんな身勝手で大嫌いな両親の姿を、夢に見た。


 結婚なんてクソ食らえだ。


 好きでも何でもない男と結婚して、やりたいことを捨てて、家庭のためだけに人生を費やすなんて御免被る。


 これは、私だけの人生だ。誰にも、その邪魔をする権利なんてない。


 だからせめて夢の中でぐらい、幸せな気持ちでいさせてくれ。


 朦朧とした意識の中、私はただひたすらに、そう願っていた――。






    ★★★






 目を覚ますと、知らない天井が広がっていた。


「ここは……っ、あだまがいだい……」


 ベッド(と思われる)から起き上がろうとしたところで、激しい頭痛が私を襲った。周りを見てみると、これまた見覚えのない家具ばかりーーいいや、違う。私の鞄、そしてその中から顔を出す甥のためにと手に入れた人気キャラクターのぬいぐるみがいる。


 そして思い出した。私は昨夜、元教え子である東谷陸と二人で居酒屋で飲んでいたということを。


(居酒屋の途中から記憶がない。記憶をなくすまで飲んでしまうとは……なんという失態だ)


 人生で初めての失態に、私は新たな頭痛を覚えた。


 ——と。


「あ、起きました、先生?」


 声のした方に視線を向けると、そこにはエプロン姿の東谷が立っていた。手に持っているマグカップからはほのかに湯気が立ち上っている。


「ちょうどお湯が沸いたんで紅茶を作ってたんですけど、先生もいりますか? 俺、面倒くさがりなんでインスタントですけど」

「……もらう」

「分かりました。ちょっと待っててくださいね」


 頭痛のせいで素っ気ない返事をしてしまったが、東谷は気にした様子もなく、キッチンの方へと引っ込んでいった。


 どうやら私は、彼の部屋にいるらしい。大方、酔い潰れた私を彼が自分の部屋にまで運んでくれたのだろう。


(……痕はない、か)


 つい、自分の体を確認してしまう。同時に、自分の浅ましさが嫌になった。


「紅茶の準備が――って、どうしました?」

「な、なんでもない。ありがとう」

「? とりあえず、テーブルに置いておきますけど……起きれます?」

「あ、あまり舐めるんじゃない。二日酔い如き、私にかかれば……はうっ」


 勢い良く立ち上がろうとした瞬間、凄まじい激痛が私の脳を直撃した。


「うおおおおおお……」

「もー、無理しちゃダメですって。その様子じゃあんまり動かない方がいいっすね。そこで飲めるように小さいテーブル用意するんで、ちょっと待っててください」

「す、すまない……」

「苦しんでる彼女のためですから。お試しですけど」


 そういえば、そうだった。


 私は今、元教え子であるこの男と、お試しで恋人関係となっているんだった。


(私が誰かと付き合うなど、絶対に有り得ないことだと思っていたんだがな)


 仕事一筋、生涯独身。


 それが私だと思っていたのに、彼の真っ直ぐな瞳とあまりにも純粋すぎる告白を受けた時、私はそれを断ることができなかった。


「はい、先生。テーブルと、紅茶はここに置いておくんで。好きな時に飲んでください」

「何から何まですまないな。ベッドまで貸してもらって……」

「お礼なんていいですよ。代わりに寝顔とか見させてもらいましたから」

「ねがっ……お、おい、写真を撮っていたりしないだろうな……?」

「や、やりませんよ。やめてください。盗撮なんて趣味じゃないです」

「……本当か?」

「……………………本当です」

「ちょっとスマホを見せてみろ」


 数秒後。


 大粒の涙を流しながら床に崩れ落ちる東谷の姿がそこにはあった。


「せ、せめて一枚ぐらい残してくれても……っ!」

「却下だ。そもそも盗撮などするんじゃない。非常識だぞ」

「はい……」


 大の大人が子供みたいに泣くんじゃない。……可愛い、と思ってしまいそうになるだろうが。


「そもそもどうして盗撮などしたんだ」

「恥ずかしいんで言いません」

「ほう……?(スマホを持ったまま振りかぶる)」

「先生の寝顔が可愛くてつい撮っちゃいましたあ!」


 想定外の言葉が返ってきたせいか、自分の顔が瞬時に熱くなるのを感じた。


 昨日からそうだ。東谷のことを彼氏(お試しではあるが)だと意識し始めてから、自分でもわかるほどに私は様子がおかしい。すぐに照れてしまうし、東谷の顔を見られなくなってしまう。これが、恋愛経験のなさが及ぼす悪影響というやつなのだろうか。


「ま、まぁ、いい。今回だけは許してやる。この紅茶に免じてな」

「あとは介抱したことと家まで連れてきたことにも免じてほしいです」

「そ、それについては心の底から感謝している」


 紅茶のカップで口元を隠しながら、ぶっきらぼうに言葉を返す。私の方が年上だというのに、何故か主導権を握られてしまっている。誠に不本意だ。


「ところで、なんですけど」

「ん? なんだ?」


 紅茶を堪能していると、東谷が話しかけてきた。その顔には、どこか困ったような表情が刻まれている。


「さっきからずっと胸元が見えてしまってるんで、せめて隠してもらってもいいでしょうか……?」

「……は?」


 恐る恐る自分の胸元へ視線をやる。


 そこには、ボタンの開いたパジャマ、そしてガッツリ見えてしまっている胸の谷間が存在していた。


 同時に、思い出す。


 先ほど、自分の体を調べた際に、パジャマのボタンを開けたままにしていたことを。


「……~~~っ! こ、これは、二日酔いのせいで、普段からこんなにズボラなわけでは……ない、からな……」


 当分はお酒を我慢しよう。


 震える手でボタンを留めながら、私はそう決意した。

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マッチングアプリで出会ったのは、初恋の女教師だった。 秋月月日 @tsukihi7

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