第四問
出かけるときは物々しい見送りだったのに、帰ってくると気づきもしない。まあ、そういうものだよな。
というより、それどころではなさそうな騒ぎがキッチンから聞こえてきた。
「どうしよう! これって、縁起悪いよね。洗ったらダメかな。……そうだ、塩! 塩で清めればいいのか」
「塩って、食卓塩でいいのかしら?」
「もっと、いいやつにしようよ。あ、ほら、お土産でもらったやつ、まだあったよね?」
「ああ、そうね! たしかここに……」
何やってんだよ。中年夫婦が、二人して馬鹿みたいに慌てふためいて。
「正しいやり方とか、あるのかな。母さん、ネットで調べられる?」
「早くしないと、そろそろシュン帰ってくるわよ」
「大丈夫だよ。友達と寄り道してくるみたいだったから」
「あら、そうなの?」
「うん。さっき駅前で会った」
いや、思いっきりココにいるけど……とは言いだせない。完全にタイミング見失ったな、これ。
「そのお守り、結局シュンに渡せなかったの?」
「うん……。シュンは、こういうの必要ないと思うから。それより、僕が代わりにこれ持って、毎日天神さんにお参りしたら、ご利益ありそうじゃない?」
「え、もしかして、毎日あそこまで行ってたの!?」
「あっ! これ、シュンには内緒にしてね?」
丸聞こえだよ。
そう自己申告する気にはならず、足音を忍ばせて二階に上った。
「あれっ、シュン。いつ帰ったの? おかえり」
「うん、さっき」
頃合いを見て階下に降りると、もうジャージから着替えて、食卓もほとんど準備が整うところだ。
「座って。今、よそうから。手は洗った?」
出てくるメニューは、家に入った時点で察しがついていた。
エビフライが乗ったカレーライス、コロッケ添え。母さんは、いまだにこれが俺の大好物だと信じ込んでいる。
あの後トオルに断って、そのまま帰ってきて正解だった。
なぜか、後日俺が
「お疲れさま。お腹空いただろ。頭使うもんなあ。父さんの仕事より、ずっとエネルギー要りそうだ」
そう言う向かいの席にも、同じメニューが同じだけのボリュームで並んでいる。
朝から晩まで揚げ物三昧フルコースで、何が「健康診断に勝つ」だよ。
「お昼、足りた? もうちょっと多めが良かったかしら」
持って降りてきた弁当箱を手に取って、母さんは重さを確かめる。
「大丈夫。じゅうぶんだったよ」
「そう。食べにくいものとか、なかった?」
「うん、別に」
そうか。俺だけじゃなくて、模試は母さんにとっても予行演習なんだ。
「そうだ。カイロ買っといたから、後で要るだけ部屋に持って行きなさい」
「え。また大きいほう買ってきたの?」
「あら、違うのが良かった? だって、いつもこれだから」
「小さいほうでいいって、言っただろ。今朝のやつだって、まだ全然、温かいし。無駄だよ」
なんとなく一緒に持ってきてしまったそれを、証拠とばかりにテーブルに置くと、向かいから手が伸びてきて掴んだ。
「いいんだよ。残りは、父さんが使わせてもらうから」
「残り、って……」
非難じみた言い方になってしまったのに、それすら気にしていないのか。俺が放り出したカイロを仕事着のポケットにねじ込む。
この人は、いつもそうだ。残りものばかり引き受ける。みんなが嫌がる夜勤に就いて、余ったおかずを平らげて。
誰かが捨てた母子を拾って。
「……あのさ」
こんな時、どんなトーンで話せばいいのだろう。公式で簡単に求められればいいのに。
「いつも俺に合わせなくていいから。ごはんだって、これからも遅くなるときあるし。自分の都合で食べてよ」
二人がじっと俺を見る。こういうの、嫌なんだよ。だから今まで、黙っていたのに。
「休みの日だって、無理して昼前に起きることないし……」
「そうはいかないさ。最初からならまだいいが、僕たちは、一から築いていかないといけないからね。家族になる“努力”をしないと」
赤の他人が家族になろうとする努力と、血のつながった親子が家族であり続けようとする努力、どちらのほうがより大きい熱量を必要とするのだろう。
その計算式を、俺は習っていない。
受験まであと少し。俺は東京の大学へ行って、一人暮らしをする。
そうなった時、遠い故郷で母さんと一緒に暮らすこの人を、俺は「父親」と認識することができるのだろうか。
たぶんどこかで思っていた。「家族」というのは勝手に押し付けられた枠組みで、変えられないものなんだって。
だけど、壊れるときはあっさり壊れるものだということを、いやというほど思い知らされた。
なら、その逆だって……。
俺はちゃんと努力しただろうか。
エビフライでカレーをすくって、ひと口かじる。頭の中では模試のおさらいをした。その日のうちにやったほうが、定着しやすいらしい。
数学は、まあいいだろう。生物は分類について後で見直しておこう。化学は……。
「ハンカチ持った? ケータイは?」
夕食を終えるとすぐ、母さんは朝と同じようなことをやる。
「ええと……ハンカチ、ティッシュ、お財布、ケータイ」
「傘は、折り畳みのほうがいいかしら。朝方には止むみたい」
「そうか。じゃあ、青いやつ持って行こう」
横目に見ながら、俺はまだおさらいを続けていた。頭の中で繰り返す。
使い捨てカイロは鉄の酸化反応によって熱を発生する。でも鉄だけでは発熱しない。カイロには、酸素と水が必要だ。
いつまでやっているつもりだ、こんなこと。
復習は、次に失敗しないため。
「あのっ……」
思わず大きな声になってしまった。
今度こそ、二人の視線が向く前に。決心が揺らがないうちに。俺は何度も練習した言葉を声にする。
「いってらっしゃい。……父さん」
一瞬、冷たい風が吹きこんだ。ぬくもりにかえった家の中で、俺に背を向けたまま母さんは、そっとエプロンの裾を顔に当てた。
家族関数 上田 直巳 @heby
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