ディオニュソスの琥珀酒

示紫元陽

#01

 烏の羽根であった。白い電柱の傍に落ちていたからだろうか、いつもならば目に留まることはおろか視界の端に映ることもないというのに、この時の沢木には黒い点が世界の中にぽつんと浮いているように感じられた。気にせず通り過ぎてもよかったのだが、どうしてか我慢ならなかったので摘まみ上げてみると、羽根は斜陽を重く吸い込んでいやに鈍く輝いて見えた。だというのにひどく軽いのだから気味が悪い。

 軸の部分を指で挟んで吊り下げてみれば、艶が揺らめいていっそう気持ちが悪い。このまま持ち続けてもしようがないので指を開くと、羽根ははらりと宙を滑って側溝に消えた。

 休日の日中家に閉じ籠っていたから、さすがに気が滅入って外に繰り出してみたのであるが、これといった目的もなく歩を進めているだけだと気分転換には不十分だった。だから烏の羽根なんぞが気になってしまったのだろう。とはいえまだ帰宅する気にもなれないので、沢木は足を伸ばして川べりを歩いた。

 立夏が過ぎてそろそろ暑さが顔を見せ始めていたが、夕暮れ時になると寒さが降りてくるので、葉桜が薄く影を伸ばしている今は身体のほてりが空気に冷やされて心地が良かった。南北にのびる川には所々に飛び石を対岸に渡し、十かそこらの子供が三竦さんすくみなどしながら飛び跳ねていた。それが遠くの空に滲んだ淡い稜線よりもくっきり見えたが、どこか白昼夢のようで現実味がなかった。

 十数分歩いてみたが、日が傾くばかりで一向に面白くない。南を仰ぐと上弦がいくぶん白く空に穴を開けており、まるで半円だけが本当の空で、それ以外は誰かが作った覆いか何かのような気がした。いい加減歩くのも飽きたので手ごろな土手を見つけて足を放りだすと、こんな惨めな気持ちになるのは、きっと身体が冷えたせいだろうと沢木は思った。

「あら、何しているの。」

「ただの散歩。」

 女の声に、沢木は首を動かしもせずぶっきらぼうに言った。

「奇遇ね。私も外の空気が吸いたくて。」

「君はいつでも外じゃないか。」

「そんなこと言って、あんた意地悪ね。」

「いつものことだろう。」

 女は木陰から歩み出て沢木の隣に腰を下ろすと、結わった黒い髪を胸の前に流し、澄んだ色のスカートの中で膝を斜めに畳んだ。膝元にはシロツメクサが幾輪も咲いていた。女はその花畑に目を落としていたが、整った睫毛の奥に光る銅のような眼を見ると、沢木は彼女を悲しい女だと思った。

 前照灯を点けた自転車が目の前を通り過ぎた。砂の上を回る車輪のざらざらいう音と流れる水の音とが混ざると、周囲が汚れたように感じられたのだが、それを嫌とも思わない己も同じように汚れているのだと沢木は感じた。しかし汚れなんてものは純潔なものがあるからそう感じられてしまうのだと、ふと沢木は考え直してみた。他にやることもなかったのであてずっぽうな思考が好き勝手に歩き始めたにすぎなかったのだが、これはまぁ時間潰しにはなるだろうと思った次第であった。

 そうして横で大人しく座る女を見てみると、やはり彼女に違いないと思った。女は先程からクローバーの叢に指を突っ込んで掻き分けては、山川の水を掬って品良くよく整えたような小振りな唇の先で、これは違うとかこれは良いとか呟いていた。

「何を探しているの?」

「綺麗な三つ葉のクローバー。」

「そんなものそこら中にあるじゃないか。」

「綺麗なのでなきゃだめなの。」

「四つ葉なら分かるけれど、三つ葉を探すなんて面白いのかい?」

「面白くなんかないわ。」

 女は三つ葉の草を一本ちぎり、銅の眼に映るように摘まみ上げた。何とも理解しがたい沢木は女が次の句を紡ぐのをただ待った。

「でも、四つ葉なんてただの変異じゃない。それに個性なんてものはないわ。」

「それが特別なんじゃないか。」

「あぁ嫌だ。特別だからなんだっていうのよ。」

 女は大仰に身体を反らすと沢木に向かって目を薄くしたが、すぐに吐息を一つ漏らして、膝の上に落としたクローバーの葉を白い指先で細く撫でた。その葉は確かに輪郭が整っていて、乳白の布地に円く弧を張っている。まるでステッチで服に縫い付けられたかのように柔らかく見えた。

 そうやってぼんやり眺めていると、夕闇が空を占めてきたのも相まって、余計に服とクローバーとの境界が曖昧になってくる。女はひたすら葉の際を撫でるだけなものだから、とうとうしまいには、やっぱり最初から模様が縫われてたんじゃないかと錯誤してしまいそうになるほどであった。しかし時折風が吹くと、もうほとんど黒く見える円が揺れて、いっそう黒い影を女の腿に小さく落とすので、そこで全てが幻想だったと何度も気づかされた。

 自転車が今度は左から右へと前を通り過ぎて、硝子ガラスの割れるように烏が啼いた。水面にその影が渡ったのが見えると、対岸の照明が川に映っているのだと知れ、冷える夜だなと沢木は思った。もう一度隣を見ると、首を立てたシロツメクサが出来損ないの蝋燭のように白けていた。

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