#05

 不服なことに冬至は休みでない。特別と言えば、ただ家に帰って柚子を浮かべた風呂に浸かるくらいである。それもここ最近は柚子を手に入れることさえ面倒になっていて、今年も沢木が気づいたときには翌朝の土曜になっていた。だから日曜日でもない限り例日と何ら変わらない。昼夜が同じ日は休みなのだから冬至も休みにしてくれれば良いのにと、無意味な願望を呟いた沢木は食パンを囓った。ラジオからは今日の天気予報や交通情報なんかが垂れ流れていた。曇り時々晴れだそうだ。

 先日己の体力の無さを晒したのだが、それを氷野が三森に話したらしい。示野の耳にも入り、そこから何がどう転んだのか、大文字の山に登る算段を立てられてしまった。この寒い時期に引っ張り出される身にもなってほしいと沢木は悪態を吐きたくなったが、衰微した自己を鏡に映して一寸哀しくなったのもあって、渋々うんと言った次第であった。

 銀閣の脇に入り口があるそうで、朝十時半に哲学の道の北端に集まることにしていた。ゆっくり起きれば良かったのだが、沢木はどうしてか七時半に目が覚めてしまって、もう一度寝入る気にもなれなかったから、這い出して朝食を摂った。身支度を済ませてからは適当に時間を潰すために、読みかけの本を読んだりした。氷野が読めと言った哲学だった。小難しいことが書いてあって一向に進まないのだが、ロシア文学などに比べれば憂さは少ないのでまだ辛抱できる。それでも理解には苦しむのでそろそろ棚に押し込まれるかもしれない。

 バスで銀閣まで揺られている間はただただ景色を眺めていた。バスや電車に座って、風景が後ろに流れていくのを見るのが沢木は好きだった。たとえ目に留まっても直ぐに視界から消え去ってしまう場所を、頭の中であてもなく想像して紡ぐのが気晴らしであった。丸太町を東に進み、白川を北に上っていく。途中、岡崎神社や真如堂など、聞いたことのある名がアナウンスに流れていた。

 銀閣寺道で下車すると、氷野と示野が待っていた。いの一番に沢木を認めた氷野がおはようと沢木に手を振った。

「あとは夏音だけね。」

 沢木は氷野に挨拶を返してから、示野に向かって、

「伊織と一緒に来たんじゃないの?」

「いや、路線が違うから。でも遅れるって連絡来てないし、そのうち来るんじゃないか。」

 などと喋っていると、今出川を歩いてくる三森が見えた。三森は沢木たちを見つけると手を振って小走りに近づいた。

「おはよ。いやあ、百万遍ひゃくまんべんから歩いたら結構かかっちゃった。」

「そりゃそうだろ、馬鹿。」

「はいはい、どうせ私は馬鹿ですよぉ。」

 登山口は銀閣寺の左手をずっと進んだ所であった。途中から道端に川があり、何も考えずに歩いているといつの間にか木々に囲まれていた。木の立て札が示す方へ行くと急な上り階段になっていて、開始早々沢木は弱音を吐きたくなった。 

 行けども行けども周りは木と土と石ころだけで、空気は澄んでいて心地は良いものの、ただひたすらに足を前に繰り出すしかない。止まれば皆において行かれる。いやまさかそこまで薄情ではあるまいが、そう考えると赤い女王に急かされている気分になれそうだった。

「割と簡単に自然を感じられるって良いわね。」

「ナツが月並みなこと言ってる。」

「何よその感想。せめて真面まともなことって言いなさいよ。」

「それで良いのか。」

「良いわけないでしょ。それじゃまるで私が真面じゃないみたいじゃない。十分真面よ。いつもはそう、輪から外れるのが一寸怖いってだけよ。」と三森が尻すぼみに言うと、

「言い訳あるじゃん。」

「は?」

 氷野と沢木は漫才を繰り広げている二人の後ろを追従した。本当にだらしがないわねなど氷野にと揶揄された時には、ほっといてくれと沢木は全力で眉根を寄せた。すると話に区切りがついた三森が振り返って、

「そうだ澪奈ちゃん、あのお餅すごく美味しかった。ありがとう。」

「それは良かったわ。買いに行った甲斐があったわね。」

「僕は通販でも良いと思うけれどね。」

「あんたもぶれないわねぇ。」

「なぁ、餅って何の話?」と、示野が解せない顔で問うた。

「澪奈ちゃんと沢木くんがこの前買ってきてくれたよもぎ餅よ。え、もしかして伊織はもらってないの。それは可哀想に。」

 三森は至極ご満悦な顔で、吊り上がった口元に手をかざした。

「喧嘩売ってんのか。義満、俺の分は?」

「ネットで買えるぞ。ついでに緑茶でも買うと良いんじゃないか。」

「ちくしょう。」

 三十分ほど登ると少し開けた場所に出た。木漏れ日が地肌を白くめかしていて、踏み入れる影さえも彩られる様であった。ただしごろごろした石が多くて、呆けていると足を取られそうである。いくつか丸太が転がっていて、中でも太いものはベンチとして使えるように掘られている。腰掛けて休んでいる人もいた。

 軽く水分を摂るなりしてから左手に進むと、ちょうど下りてきた人と挨拶を交わしてすれ違った。するとすぐに長い石段が現れたのだが、その勾配がはなはだ急だったものだから、沢木は思わず不平を漏らした。

「これ登るの?」

「あと一寸だから諦めて。」と氷野が涼しい顔で言うので、

「せめて励ましが欲しかった。」

 沢木は改めて嘆息を吐いた。三森も示野もさすがに面食らったのか、おぉとか、まじかぁとか呟いていた。それでも躊躇いもなく登り始めたから、沢木は後塵を拝するしかなかった。

 途中で三森が階段沿いにワイヤーが張られているのを見つけた。沢木も目で追ってみると、上と下に滑車と動力と思しき機械があって、おそらく送り火の時に薪か何かを運ぶためのものだろうと憶測された。

 盂蘭盆会うらぼんえの時期は沢木は実家に帰省していたから、五山の送り火は肉眼では見なかった。氷野と三森は示し合わせて鴨川の河川敷から望んだそうである。闇の中にぽつぽつと火の玉が灯る様はやはり粛然としているのだろうが、液晶越しに見たそれは玩具のようで味気がなかったのを沢木は覚えている。確かに空気感というのは大事かもしれないと、沢木は今になって氷野の言葉に頷いた。

 脚を鼓舞しながらなんとか石段を通過して、曲線を描きながら最後の登りを終えると火床に辿り着いた。出し抜けに視界が広がって、段々の斜面が空を仰いでいた。それから火床の真ん中、大の字の交わっているところまで行って盆地を見渡すと、それは風光絶佳であった。向こうには北山から嵐山に続く尾根が波打ちながら霞んで見える。眼下に敷かれた碁盤は、雲間からの日影に照らされてゆるりと流れている。手前を見れば吉田山がたいそう小さい。近くでトンビがヒョロロと啼きながら、風を掴んで悠々と上っては下りてを繰り返していた。

「はぁ、気持ちいい。」と、三森は景色を味わうように、うんと息を吸い込んだ。

「こりゃあ絶景だな。この労力でこの景色は得した気分だ。」

「あれ大学?」

「そうじゃないか。こう見ると小せぇな。あの中で四苦八苦してるのが馬鹿みたいだ。」と、示野はペットボトルをあおった。三森はそうかもねと独りごちた。すると示野は眼だけを動かして、

「まぁ、だからって見向きもしない連中は好きになれないけどな。」

 三森はまた、そうかもねと呟いた。

 すぐそばに張り出した屋根があり、弘法大師の廟所であった。当の大師は洞穴の奥にいるようで、そうと書かれていなければ何か分からぬ。他の登山客が手を合わせていたので沢木もそれに倣っておいた。氷野はとっくに済ませていた。

「いつも見守ってくれているのかもしれないわね。」

「そりゃあ屋根も付けてあげないと失礼だね。」

 やけに小刻みな階段の先は火床の天辺てっぺんに続いていた。振り返れば斜面に大の字が逆さに張り付いているのが見える。京の歩みを何百年と眺めてきた炎の残滓ざんしである。傾斜があるので沢木は些か不安であったが、それを凌ぐほどに雄麗であった。

「よし、じゃあ頂上まで行こうか。」

 沢木はここが終点だと思っていたため、揚々と示野の放った科白に狼狽うろたえた。

「昼ご飯は?」

「上まで行けば広い場所があるから、そこでゆっくりだな。ほれ。」

 示野に背を押されて沢木は已むなく歩き出した。勝手に勘違いしたのは自分だが、信念を挫かれた時の落胆というのは否応なく辛いものである。せっかく太陽の下に出たというのに、またもや薄暗い木々の中に踏み入れていかねばならぬ。いっそ押される手にもたれてやろうかと思って身を傾けてみると、示野が一瞬力を抜いたので沢木は肝を冷やした。

三途さんずの川が見えた。」

「そんな大袈裟な。」

奪衣婆だつえばもいた。」

「なんだよそれ。」

 示野はピンと来ていないようだったが、後ろから氷野の呆れた声が届いた。

「あんたはなまじ知識がある分たちが悪いわね。」

「澪奈ちゃん知ってるの?」と三森が訊いたので、

「三途の川にいる鬼よ。身ぐるみを剥がされるらしいわ。」

 耳をそばだてていた示野はそこで沢木のこめかみに示指と中指を突き立てて、

「まだ服は着てるからダウトだな。」

「引き金引かれると本当に地獄行きだけれどね。何とかして帰ってきたら小野篁おののたかむらみたく出世できるかもしれない。」

「行けなくて残念だな。誰だか知らないけど。」と、示野は手を下ろした。

 三森は解せない表情を氷野に向けた。

「アニメの見過ぎなのよ。」

 氷野は両掌を空に向けて首を振った。

 火床からの道は判然としておらず、示野が先導していなければ沢木は迷ってしまっていただろう。地面には根が這っていて歩きづらいことこの上ない。明日には体中が悲鳴を上げるていること必至であろうと沢木は想像した。

 それにしても、こんな道をよく知っていたなと沢木が思って訊いてみると、示野は何度か来たことがあるらしかった。

「一人でいろんなところ回ってるからな。一度大の字の右払いの方に降りて行ってみたことがあるんだけど、あっちは止めといた方がいい。ほとんど誰も通らないのか、笹は多いわ道は合ってんのか分からないわで、一寸苦労した。」

 頂上までそれほど遠くはなかった。火床に比して平らな地が広く、木製のベンチや机があって、確かに昼食にはこちらの方が良いだろうと沢木も思えた。下が開けていないので火床ほど視界は広くないが、それでも眺望は素晴らしかった。

 空いている椅子に腰かけて、各々用意してきたおにぎりなどを鞄から取り出して休息した。三森がコロッケを買ってきてくれていたので、タッパを回して分け合った。

 暫く足を休めていると汗が冷えてきて冬であることが思い出された。あんまり長居しても風邪をひくだけだし、景色は火床で存分に堪能したのですぐに下山することにした。示野が反対から降りようと言ったので皆それに着いていった。

 岩場のようなところまで下ると、向こうから団体の登山客が歩いて来ていた。示野曰く、蹴上の方からずっとトレイルが続いているらしく、おそらくそっち方面から来たんだろうということだった。沢木達は右に折れてやや急な砂利道に進んだ。

 かなり鬱蒼としていて、ひんやりとした空気が身を引き締めさせた。時々振ってくる光の筋が眩しい。ざっざっと互いの地を踏む音が聞こえてくる。藍鼠あいねずの岩肌が、触れていもいないのに冷たく感じる。葉を揺らされて驚いた虫が茂みに飛びこんだ。

 先の方に大きい碑が見えたと思うと、道標があって、先に滝があると書かれていた。碑に彫られた文は何を言っているのか分からなかったため無視して、傍らの階段を下る。誰しもが慎重にならざるを得ないほどステップが狭かった。示野はひょいひょいと駆け下りていったが、見ているだけで身が縮みそうになる沢木らは、近くの岩などを掴みながら恐る恐る下った。最下段の先が楼門の滝であった。

「なかなかいいわね。」

「そうだろう? 氷野さんは気に入ると思った。」

 一所から溢れた白い束が扇のように広がったと思えば、岩に当たって砕け、残った束がまた別の束と一つになって落ちて来る。そうやって踊り、舞った白が、次から次へと黒岩にぶつかっては跳ねながらざぁざぁと落ちて来る。耐えることなくいくらでも落ちて来る。光を吸った飛沫はまたたいて、緑を湿らせ膨らんでいく。薄明を通すと虹が見える。沢木が手をかざせばその掌がすぐに濡れたので、そのまま顔から額を撫で上げた。冬だというのを忘れて、冷たいのを気持ちよく感じた。

「伊織、グッジョブ。」と、三森がカメラを掲げながら言った。

「雑誌とかにはまぁ載ってないからな、ここは俺のお気に入りなんだ。そうそう来れるわけでもないんだけど。」

「いいね、こういう胸が透き通る所。すぐ来れる場所なら文句ないんだけど。」

「ナツはもっと息を吸ってみればいいんだよ。そしたら、そのうち吸いやすい場所が見つかるから。」

「私の呼吸しやすい場所はここよ。」

 澄んだ三森の横顔に、示野はやや渋い顔をしながらも安堵の息を漏らした。

「ならいいか。」

 膝を畳んだ氷野は、手を伸ばして水を掬っていた。さすがに冷たいだろうに、暫く手をすすぎ続けているその姿は、そのまま水に溶け込んで、悪戯好きのニンフにでも変身するのではなかろうかと思われた。沢木が冷たくないのかと訊くと、

「凍りそうよ。」と、氷野は滝から引っ込めた濡れ手を振り払った。それからハンカチで拭って、

「でも清々しいわ。」と、さっきまで冷水に突っ込んでいた手を沢木の頬に当てた。

「冷たいっ。」

 沢木は思わず飛びずさって、触れられた頬を手背で拭った。氷野も自分の頬に当ててみると、その冷たさに面食らって素っ頓狂な声を上げ、瞠目した銅のような眼がしぶきで煌めいた。横では三森と示野がけらけらと笑っていた。

 そこからは特に目ぼしいものもなかったのでさっさと下っていった。強いて言えば馬鹿みたいに大きい岩があったが、ただ大きいだけだったので面白みがなかった。とうとう舗装された道路まで出ると、一同疲れが振って来たのか、ふぅ、と揃って息を吐いた。

 よく知らない寺を通り過ごすと哲学の道に続いていたので、北上して慈照寺前で解散することにした。葉さえ散った桜の道を疎水に沿って歩いて行けば人とよく遭遇した。これが春になると渋滞になるのだと想像すると、人は単純だなと沢木は思った。ついでに己も同じだから救えないなと嗤った。

 三森と示野は出町柳から京阪に乗るというので、皆でバス停まで歩いて別れた。沢木は独り来た道をすぐ遡るつもりだったが、氷野に一寸呼び止められて、

「今度、夕ご飯でも一緒にどうかしら?」

「まぁ構わないけれど。」

「じゃあまた暇になったらね。」

「歩いて帰るの?」

「えぇ、なんだか疲れたい気分なの。あんたも歩く?」

「遠慮しとくよ。」

「そう。」

 氷野は銅のような眼を細めた。バス停を離れると曇天が西から押し寄せてきていた。

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