#04

 曙の時分、沢木がベランダに出ると向かいの歩道に猫がいた。褐色の毛並みは優雅で、孤独な世界の主のような顔で塀の前をのそのそと闊歩している。白露から一週間と少し経ち、朝晩は幾分涼しさを感じるようになった。白い月に照らされた道に尻尾が細く影を落としていて、舗装路が冷たそうであった。

 氷野がまた奈良に行きたいと言い出したのは三日前であった。ちょうど夏休みのただ中であったので、一寸遠出して新鮮な気分を味わいたいという心づもりだったらしい。そこでどこに行きたいのかと沢木が尋ねてみれば、氷野の口からは葛城という名が出た。


「中将餅が食べてみたいの。」

「なんだいそれは。」

「中将姫が作ったよもぎ餅よ。」

 沢木が何度聞いたところで同じだったから諦めて調べてみたのだが、中将姫が作ったというのは氷野の嘘か勘違いのようであったので苦笑するしかなかった。そのまま閉じるのはどうにも癪だったから、関連した逸話なんかが載っていたのに目を通してみたが、歴史に興味のない沢木にとっては大して面白みがなかった。

「まぁ美味しそうではあるね。でも取り寄せたらいいんじゃないの?」

「空気感ってものを知らないのかしら?」

「できれば今後一生知りたくないような気がする。」

「まったく。」

「肌に触れれば分かるよ。でも、想像しろって言われたってできないんだよ。」

「ふぅん。じゃあ経験してればいいのね。例えば、あんたは一日の中でどの時間が好き?」

「夜かな。うんと静かなのがいい。」

「朝もいいわよ。冷たい空気の中で動き出す生き物を見るのが好き。葛城に行く日は朝からにしましょう。涼しいし、何より一日をたっぷり使えるわ。」


 そんなわけで沢木は朝っぱらから目覚ましを鳴らし、眠気を強引に追っ払って布団から這い出てみたわけである。

 東山の方から斜めに差し込む陽の光が午前六時のアスファルトをゆるやかに暖めている。土曜日の朝だから人の姿は少ない。ランニングウェアで走っている人を見ると、殊勝なことだと沢木は感服した。呑気のんきな猫はもうどこかへ行ってしまった。

 朝支度をして沢木が三条駅まで行くと、すでに氷野は待っていた。文庫本に目を落とした銅のような眼が、瞼で半月のように切り取られている。円い眼鏡の奥に見えたそれはとても小さく見えた。沢木が傍まで来ると氷野は文庫本をパタンと閉じた。

「おはよう。ちゃんと起きられたみたいね。」

「馬鹿にしないでもらいたいね。これでも高校時代は皆勤賞だ。」

「過去の栄光にいつまでも縋りついてちゃ進歩しないわよ。」

「べつに縋りついちゃいないよ。というか栄光ってほどのものではないし。」

「切符は大丈夫?」

「うん。」

 こんな朝早くから学校以外の場所へ繰り出すのは、沢木には久方ぶりであった。むろん電車に乗るなど、大学に入ってからはとんと覚えがない。横から己を射るかのように差し込んでくる透明な陽の光の中を運ばれていくのは思いのほか清々しかった。ただ少し冷えるのだけは気に食わなかった。

 丹波橋からしばらく南に下り、橿原神宮前で吉野線に乗り換えた。初夏のころに行った奈良町に比べると大層田舎である。當麻に着く頃には金剛山地が近くなって、田園と併せて草木が目に鮮やかであった。

 目当ての店はまだ開店前であるため、先に當麻寺にでも参ろうと氷野が車内で提案した。駅から徒歩で行ける距離らしい。時間は飽きるほどあるので沢木に異存はなかった。最初っからそのつもりだったのだろうとは言わないことにした。

 そうして山の方へと続くなだらかな上り坂を歩く傍ら、おもむろに氷野が口を開いた。

美風みかぜがこの辺り好きだったの。」

 唐突な述懐に、沢木はうんとも言い返すことができなかった。一陣の風さえも通り過ぎなかったのがかえって嫌みのように思われた。

 氷野は軒先を仰ぎ見ながらとぼとぼと歩を進めていた。それから沢木の歩が止まっているのに気がつくと、氷野は踵を返して、

「ごめんごめん、行こうか。」

 振り返る刹那、銅のような眼に瞼の影が落ちていたように沢木には見えた。

 當麻寺の山門には仁王がいたのだか、阿形あぎょうの口の中に蜂の巣があるらしく、ご丁寧に『蜂注意』と書かれた貼り紙がしてあった。注意と言われたところでどうしようもない。恐る恐る門をくぐると、砂利の境内は閑散としていた。人の影といえば、右の方に二人、奥の本堂に数人程度である。左手奥には五重塔が二基建っていて、淡い空に向かって水煙を突き立てていた。少し歩くと鐘楼があり、看板には国宝とある。だというのに鍵はおろか格子に網しか張っていない。なるほど、美風という女がここを好きなわけだと沢木は合点した。

 マニ車の横の石段を登ったところが本堂であった。賽銭箱に小銭を投げ入れて手を合わせると、沢木は初瀬はせに行ったときのことを思い出して、

「なんか、氷野さんとどこかに行くのはお参りばかりだ。」

「いいじゃない。信心深いのは悪いことじゃないわ。悪いとすれば、それが盲信と虚栄で塗り固められた偽善になった時よ。」

「急にまた難しいことを。」

「何も難しくはないわよ。人はずっとそうしてきたんだから。それに絶望するから祈るのよ。」と、氷野は格子窓を覗いた。

 沢木も目を凝らすと、窓の先には曼荼羅が広がっていた。仄暗い堂内に薄らぼんやりと浮かぶ仏の図は冷ややかに辺りを包み込むようである。誰かがマニ車をゴロゴロと回していた。

 石段を下りた左手に、中央に像が建てられた蓮池があった。氷野が先にそちらに近づいて行ったので沢木も追って見上げてみると、その深緑の肌がまだ幾分低い太陽に照らされていた。合掌をした尼の像であった。

「中将姫ね。」

「あぁ、これが。」

「どうしてこういう像っていつも一人なのかしら。寂しくないのかしら。せめて鳥の一匹でもいてくれたらいいのに。」

「偉大だからなんじゃないの?」

「偉大だからって、最後まで一人なんて酷すぎるわよ。」

「氷野さんもたまには優しいことを言うね。たまには。」

「まるでいつも優しくないみたいじゃない。」

「無理やりこんなところまで連れてきた人の口はどれかな。」

「そんなもの京都に置いて来たわ。」

「そんなわけはないだろう。少なくとも僕の眼が曇ってなければ。」

 沢木は舌瞼を指で押さえてあかんべえの目をして見せた。氷野は沢木の眼を見て一寸黙ったが、

「ええそうね。」と、急に屈託のない笑顔を浮かべて、

「この先にね、桜が綺麗な場所があるの。」

 黒い髪がふわりと宙を踊って、鞄のガラス玉が白く光った。もう葉の瑞々しさも失せているであろうし、面倒だから嫌だと常の沢木ならば言っていたに違いない。だが、氷野があまりにも無邪気に振る舞ったので、これは足を延ばすのが道理だろうと思って着いていった。そうしてまた微笑んだ銅のような眼は、磨かれたように光沢を帯びていた。眼鏡のせいかもしれない。時刻は十一時を過ぎたところであった。

 蓮池の裏にある門を抜けると左手に上り坂があって、氷野は軽快な足取りで上って行く。氷野は細身のわりに体力は申し分ないようである。それをいいことに歩調も合わせず先に先にと行ってしまうのだから、沢木は一寸不服であった。桜も案の定ただただ緑を茂らせているだけだから尚のことである。

「東屋があるわ。」

「休憩しよう。というかさせてくれ。」

 二人は東屋の椅子に並んで腰かけた。沢木がふぅと一息ついて水を飲んだのを見た氷野は、

「体力ないわねぇ。」

「氷野さんが元気すぎるんだよ。まぁでも確かに桜は綺麗なんだろうね。」

「葉桜は嫌い?」

「嫌いじゃあないけれど、別に好きでもないかな。」

「いつもそうやって曖昧な態度を取るんだから。」

「君はいつも文句しか言わないんだから。」

「私の口はそういうものよ。あんたのその眼にはしっかり映っているでしょう?」

「一寸曇ってきたかもしれない。」

 氷野は手を組んでうんと伸びをして、

「残念、今日は快晴よ。」

 アスファルトの上を、桜の木洩れ日が風に泳いでいた。

 枝にとまった烏が鳴いたので反射的にそちらを見ると、猫が崖下の屋根の上で欠伸をしていた。烏の声には一瞥をしただけである。やっぱりあれくらい呑気なのが良いなと沢木は思ったが、やかましいのが偶にあっても悪くないのかもなとも思った。猫も、烏のギャーギャー言うのを聞いて己を確かめているのかもしれない。そんな風に想像力をたくましくしていると猫に睨まれた気がしたので、

「そろそろ駅の方に戻ろうか。」

「そうね、お店もとっくに開いただろうし。」

 先に立った沢木に向かって氷野が手を差し出したので、沢木は右手で掴んで引っ張ってやった。すると氷野が立ち上がろうとした時に、いつの間にか近くを歩いていた烏が寺の方へ突然飛んでいったのだが、沢木がそれに気を取られたのがいけなかった。沢木が手の力を一瞬緩めてしまい、ちょうど力を入れようとした時に急に支えがなくなったものだから、氷野はバランスを崩して危うく転びそうになった。それでも氷野の方は引っ張り続けるので今度は沢木が引き下ろされる。慌てて沢木がもう一方の腕を伸ばしたのだが、ばんっ、と柱に勢いよくぶつかった。

「……大丈夫?」

 氷野の顔が見る間に青ざめた。さすがに動揺しすぎだろうと沢木は思ったが、直截ちょくせつにそう言うのも野暮だから、結局何ともない風を装うのが手いっぱいだった。それ以上の対応をする知識も経験も持ち合わせてはいなかった。沢木はとりあえず体勢を立て直して、

「大丈夫、腕を一寸打っただけだから。軽く青あざになるかもしれないけれど、なんてことないよ。」

「でも、思いっきりぶつかって、ごめん。」

「氷野さんは悪くないから。でもせっかくなら、ラブコメ展開になってくれてもよかったとは、思わなくもないけれど。」

「思ってもないこと言うもんじゃないわ。」

「まぁでも本当に問題ないよ。そんなに痛くもないし。」

「そう? それならいいんだけれど。ごめんなさい。」

 たちどころに氷野がしおらしくなったのでさすがに沢木は訝しんだが、自分の手を見て酷く心配してくれているようなので茶化すわけにもいかず、明後日の方を向いて困惑するしかなかった。とはいえずっと立ち尽くしているわけにもいかないから、

「まぁ、とりあえず歩こう。」と、沢木は今度こそ氷野の手を引いた。

 氷野は顔を上げて、一瞬目を見開いてからすぐに俯いて歩き出すと、ありがとうと呟いた。眼鏡の奥で銅が水に溶けているようだった。感謝されるいわれはないと沢木は思ったが、だからと言って追及するのも阿呆としか言えないので、どういたしましてと適当に返しておいた。氷野が右手を少し強く握ったのが分かった。

 寺の境内に戻ると氷野がもう大丈夫と言ったので、手を離して駅の方へとそぞろ歩いた。当初の目的であった中将餅の店までの間は、今日は本当に良い天気だとか、さすがに足が疲れてきたとか、どうでもいい話を途切れ途切れにしただけだった。別段息が詰まる空気というわけでもなかったが、急に威勢良く振る舞うのも逆に気を遣っている風になるため、沢木にはそちらの方が嫌だったのである。氷野の方も気丈に振る舞う様子はなく、冷静に己を顧みている様子だった。

 そうこうしている内に店に着いたが、腹も空いてきていたので、いくつかさっさと購入してから駅の方に向かった。特にあてはなかったが、ちょうど駅の傍にうどん屋があったのでそこで昼食ということにした。

「帰って早くよもぎ餅を食べたいわ。」

 氷野は既に調子を戻した様だった。

「うん、美味しそうだった。」

「どう? やっぱり買いに来て良かったでしょう?」

「まぁ静かで良い所だね。でも結局持ち帰るなら通販でも良かった気がしないでもない。」

「それは悪かったわよ。」

 そうして氷野は少し息を吐いて、

「ちょっと色々思い出しちゃって。」

「色々?」

「美風とね、一緒に来たことがあるのよ。あ、もちろん二人じゃないわよ。」

「あぁ、例の。」

「その時は山に登りに来たのよ。ほら、さっき歩いていた先にあった山ね。今は見えないけれど。美風のお祖父ちゃんが山好きで、私の両親が忙しいときに偶に一緒に連れていってもらってたの。」

 沢木の方にうどんが運ばれてきた。沢木は割り箸を取りながら、

「桜を知っていたのはそれでか。」

「うん、まぁそうね。あそこからもう少し歩いた所に登山口があって、たしか傘堂って言ったかしら、東屋みたいな建物の横を登っていくの。横に小川が流れていて、涼しくて、とても気持ちよかったわ。時々鶯の啼き声なんかも聞こえて。」

「鶯か。見たことないな。」

「私も見たことはないわよ。でも声を聞くだけで癒やされたわ。」

 氷野の頼んだきつねも運ばれてきた。

「美風は確かコンデジをずっと持っていてね、いろんな写真を撮っていたわ。途中に水飲み場があって、なぜかそれを特に気に入ってぱしゃぱしゃって、あぁそうだ、たしか揚羽蝶がちょうど留まってたんだった。」

「登るのって大変じゃないの? 僕は体力がないからすぐ音を上げそう。」

 氷野があははと眼を細めた。

「一緒に登っていればそうでもないわ。途中の景色は途切れ途切れにしか覚えていないし、何を喋ったかも思い出せないけれど、楽しかった記憶だけは確かよ。」

「覚えていないって、揚羽は覚えてたじゃないか。」

「それくらいはね。あ、熱い。」

 揚げを口に入れた後、氷野は赤い舌先をペロリと出した。冷ましもせずに放り込んだのだから当たり前であるが、話に夢中で気が回っていなかったようである。今度は何度か息を吹きかけて慎重に口に運んだ。沢庵まで冷まそうと口をすぼませたときには沢木の口元が思わず綻んだ。

あつものに懲りてなんとやらだ。」

「茶化さなくていいわよ。」

「山頂までは行ったの?」

「もちろん。石の日時計があってね、私日時計なんて見たの初めてだったから一寸感動しちゃったわ。山頂にも桜があって、それに見晴らしも良くて。美風も喜んで写真を撮っていたわ。」

 遠野美風という氷野の友人は風景というものが心底好きだった。そして目に飛び込んできた光景を写真に収めるが至上の楽しみだったようである。そんな話を、氷野はうどんをすすりながら、時々手を止めて語った。

 沢木が遠野の話を聴いたのはこれで二度目であった。一度目は氷野と出会った当初であるが、その時は為人ひととなりをなんとなく聞いた程度であった。だから氷野と遠野との昔話を聞いた今、沢木は初めて氷野の心の欠片に触れられた気がした。そうすると銅のような眼が透き通るのが、とても繊細に見えた。

 沢木はゆっくり箸を進めつつ、今更箸袋で箸置きを折ったりしながら相槌を打った。

「それから大阪側に下っていくと展望台があってね、別にそこ自体は綺麗じゃないんだけれど、平野の先に海が輝いているのが見えたわ。」

 とうとう沢木はうどんを食べ終えた。

「あれ、こっち側に戻ったんじゃないの?」

「ええっと確か、最後は駅までバスに乗った記憶があるんだけれど。あぁそうだわ、展望台から大阪の方に向かう細い道を下りていったら、田んぼが広がっている場所に出たのよね。川が流れていて、蛍が出るって書いてあった気もするわ。そうそうそれから、温泉に入ったわ。疲れてたから本当に気持ちよくて、しかも駐車場横の土手に桜がたくさん咲いていて、美風と一緒に写真を撮ったはず。」

 しばらくして氷野も完食した。紙ナプキンで口元を拭う氷野を横目に沢木は水を飲んで、

「僕もそんな景色、見てみたいかもな。」

「きっと見られるわよ。」と、氷野は一度沢木を見た後、グラスに手を伸ばして、

「私が保証する。」

「また勝手な。まぁでも、信じさせてもらおうかな。」

 そう沢木は言ったが、信じるなんて言葉を簡単に使った自分に戸惑った。よく覚えていないと言ったくせに次々と思い出を手繰り寄せる氷野を見て、己が矮小に感じられたのかもしれない。

 沢木は困惑を飲み下すように、残った水を一気に喉に流し込んだ。グラスを掴んだ右手が氷で冷たかった。

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