#03
図書館というのは書架に本が隙間なく詰められているが、全てが手に取られることはないし、なんなら数年を一文字も目に留まらぬままに過ごすことがあるのだろうから、時々不憫に思うことが沢木にはあった。書庫にある本など、沢木は見たことがない。わざわざ地下に潜って書を
それでも仏頂面で試験勉強に勤しむ学生たちの中に参入するのは些か気が滅入ったが、何もせずに帰るのもやはり癪なので、適当な席を見つけて何となくテキストなどを広げ、筆記用具をこねくり回した。最初こそは周囲の雰囲気に感化されて上手い具合に捗った。そのうち一節くらいは驚くほどすらすらと進んだ。だが数十分ほど手を動かしているうちに、どうにも集中が続かなくなったから、鞄に入れていた文庫本なんぞを読みふけっては、また思い直してペンを取り、といった風な怠けた態度で勉強するようになった。何でもいいから情報を頭に入れていることが言い訳であった。
そんなことをしていると時間が経つのはあっという間で、腰を据えたのは昼間だというのに気づけばもうすぐ十七時という頃であった。これ以上ノートを睨んでいても埒が明かない気がしたので、沢木は切り上げてさっさと図書館を後にした。大暑まであと一週間かそこらあると暦は言っているが、外は既に蒸し蒸しと火照っている。自転車のサドルが熱くてうんざりした。それに二言三言仕方のない文句を口にするとすぐに馬鹿らしくなった。
のんびり自転車を漕いで校門の傍にある百日紅を背後に見送ったとき、このまま帰っても夕飯がないなと沢木は気が付いた。だが、今から食材を買って料理をする気は起きない。そういえば白飯も残っていないから炊かないといけない。面倒だから今日はどこかで外食しようかと考えながら交差点まで来たとき、横合いから名前を呼ばれたので沢木は振り返った。同窓の
「今帰り?」
「図書館で勉強してたんだけれど、もう疲れた。」
「そりゃあ結構なことで。俺は祇園に行くとこ。」
そこで沢木は初めて宵山の時期であることを知った。
「そうか、もう夏だな。」
「まだまだこれからだろう。
「河原町で食ってってからでもいいなら。」
「俺も腹に何か入れていきたい。」
「自転車置いてくるからちょっと待っててくれ。」
沢木と示野はバスで御池まで繰り出してから河原町を南に下って、道中にあったファミレスで簡単に食事を取った。夕餉にはまだ早い時間だったから客は少なくて楽であった。
店を出た頃には陽はとうに落ちていた。常よりも人通りが疎に感じるのは、皆宵山見物に行っているからかもしれない。大通りの軒には提灯が吊られて光っている。祇園祭に合わせてだろう、しゃらんしゃらんという鈴の音がいくつも頭上から降ってくる。四条近くまで歩くと、向こうから
四条は歩行者天国になっていたので堂々と車道を歩けた。川の方から人が押し寄せてきており、夜の街が人で満たされていた。ちらほら見える浴衣姿は京の夏に然るべきであるかもしれないが、こうも混雑極まる祭りの中では、自分は動きやすい格好でよかったと沢木は思った。それでも下駄のからころ言うのは涼しくて良い。紙の団扇なんか持っている者は珍しいが、絵には最適であろう。
そうこうしているうちに遠くで鉾が見えた。前と後ろに提灯をずらりと飾り、四角い箱が夜に浮かんでいる。屋根は真上に突き上がって、真直ぐに天を刺すように細く伸びている。沢木は眼を凝らすと、その先になんとか長刀が見えた。示野も認めて指差していた。
歩く群れのそこかしこでスマートフォンが掲げられ、画面に映った鉾が現れては消えていた。鉾は街の底でじっとしている。画面の中は、世界を吸い取って閉じ込めているように見える。しかしそれを手の中で映す黒い影が絶え間なく流れて忙しないので、沢木は時間というものがけったいな代物に思えた。静けさが淀みに揉まれているような気がしたのである。
「西の端まで行ってから回ってくるか。義満は見たいのある?」
「舟形のがあるんだっけ。あれはどこ?」
遠くからコンチキチンと風雅な音が運ばれてきた。
「ええっと、南の方だな。俺、カマキリのも見たいから、一回北に行ってからでもいいか?」
「あぁ。それにしても所々一方通行なのが面倒だな。」
「これだけ人がいりゃあ仕方ない。」
そうは言っても大通りでは歩みを止められることはあまりなかった。烏丸を通り過ぎるとすぐに
鉾を見上げると提灯が先よりも明るく見えて、夜がそろそろと舞い降りてきているようであった。天水引の下には浴衣を着た囃子方が幾人も腰かけている。先程遠くから聞こえた
四条から逸れて南北の細い通りに入ると人混みが増した。出店も並んでいていっそうの賑わいが見てとれる。示野がフランクフルトを買ってくると言うので、沢木も一本頼んで自分は道の反対側で待つことにした。沢木は人混みが苦手であったが、こういった祭りでの熱気は嫌いではなかった。流れる人の話し声が耳を抜けていくのが心地よかった。何を話しているかなどどうでもよかった。ただ己が雑踏の中に溶けていくのを感じることが安寧であった。
スーツ姿の女は仕事帰りであろうか。鉾だか山だかの傍で大層なカメラを覗いている男がその女とぶつかって頭を下げた。ビール缶片手の男たちが通り過ぎた。高校生と思しき男女の群れが露店に向かった。色んな頭がそこいらをごちゃ混ぜにしていた。
ふと、氷野がよく付けている髪飾りが眼前を通ったように沢木は思った。しかし驚いて目で追った先には知らぬ男女が歩いていただけで、髪飾りも別物であった。下らないと鼻で自嘲していると示野がフランクフルトを両手で摘まんで帰ってきて、
「お待たせ、どうかした?」
「いや、人違い。」
「俺もさっき高校の友達に似た奴見つけたわ。」
「まぁいてもおかしくはないだろうけれど。」
「会うのはだいぶおかしい確率だろうな。」
「違いない。」
隣が蟷螂山のある通りであった。塗り固められたように動かない蟷螂が箱の上で鎌をもたげている。辺りは照明と
「すげぇ、本当にカマキリだ。」
「なんでこんなん乗っけようと思ったんだろうな。」
「な。でも強そうだぜ。」
「小学生か。」
「でもカマキリの鎌は実際強いだろう。」
「『
「虫界の話をしてんだ、俺は。」
「じゃあ大きさ的に、今の僕たちはさながらバッタとか蝶の気分か。」
「火に飛びこむより馬鹿だな。」と、示野はフランクフルトを頬張った。
それから道なりに鉾を見て回り、南の船鉾まで辿り着いた。確かに船の形で、船首の側から仰ぐと金色の鳥が
示野がそろそろ疲れたから帰ろうかと言った。沢木もいい加減足が棒になってきたので賛同した。もうかれこれ一時間ほど歩きっぱなしであった。
そのまま四条通に出たのだが、そこで二人は呼び止められた。
「あれ、伊織じゃない。それに沢木君も。来てたんだ。」
振り返ると同年代の浴衣姿の女が数人おり、ちょうど友達と連れだって観光していたようである。呼び止めた
「なんだナツか。」
「なんだとは何よ。可愛い幼馴染の浴衣姿を見られて良かったじゃない。」
「まぁ似合ってるんじゃないか。じゃあ俺たちは帰るから。」
「そっけないわねぇ。まぁいいけど。あ、私たち回り始めたところなんだけど、オススメとかある?」
最初は示野に訊いているようだったが、意地悪なのか示野は非協力的な態度だったので、矛先は自然と沢木に向いた。
とはいえ沢木も祇園祭など初めてであるし、男二人で廻ったからか、感想と言えば格好いいとか大きいとか、そうでなければ人が多いとかで、雅なことには疎すぎた。沢木の一番の目的であった船鉾は振り返れば目と鼻の先である。それ以外の鉾はだいたい何でも違いが分からなかったし、仕方がないから蟷螂山と言っておいた。それを聞いた後ろの女は地図を見て、
「なっちゃん、さすがに浴衣はしんどいよ。」と、遠いのが億劫だと文句を垂れた。他の女も声を揃えて賛同していた。それから適当に近いところを回る算段を立て始めたようだった。
友人の声に促された三森は、沢木たちにありがとうとか、またねとか簡単に言ってからすぐに元の集団に吸い込まれていった。別れ際に残った三森の声は、幾分調子が高くなったように沢木には感じられた。それは七宝の円弧を
帰りは函谷鉾や長刀鉾のすぐ側をそぞろ歩いた。天を衝くといわんばかりの柱は、すぐ下から見上げるとより一層その先を夜に染めている。空はまるで暗い風船か何かで包まれているようで、ひとたび鉾が突いてしまえば夜が弾けてしまうのではないかと沢木には思われた。それで何が飛び出すだろうかと考えてみたが、思い浮かんだはのは希望などという凡庸な二文字だけで、そんなものならば隠れたままでいいとさえ思った。東山の黒い稜線の上には月が白けていた。
示野は京阪で大阪に戻るというので、沢木は祇園四条まで見送ることにした。四条大橋の端まで来ると、二人はちょっと欄干にもたれて、人通りを眺めては祭りの余韻に浸ったりした。川を舐める風が涼しくて、少し火照った身体が冷まされていくようであった。
「いやあ、やっぱり有名なだけあったな。観に来た甲斐があった。」
「こういう厳かな祭りもいいもんだな。教えてくれて良かったよ。」
「そうか? もっと感謝してくれてもいいぞ。」
「今度の七夕も見て回るのかい?」
「七夕? そんなもんとっくに終わってるだろう。」
「京都の七夕祭りは旧暦らしい。」
「じゃあ八月か。なるほどそれはいいことを聞いた。これでお互い貸し借りなしだな。」
「別にそんなつもりじゃないんだけれど。」
「公平でいいだろう?」
示野は掌を下に向けてひらひらと振った。それから欄干に肘をつくと、気怠げに胸をもたせかけて首を反らした。沢木も欄干に腕をかけて意味もなく黒い川を見下ろしてみたりした。ごうごうと水の流れる音が背後の雑踏と混じり合っている。川を下る風が冷たい夜を運んで、沢木たちの首元から足先までを吹き抜けていった。
何の気なしに沢木が首を少し回して横目で群衆を見てみると、ちょうど浴衣姿の女数名が連れ立っているのが見えた。暗くて白い模様しか見えない程度であったが、示野も彼女らを認めたようであった。
「そういえばナツのやつ、えらく義満のことを気に入っているみたいだな。」
「そうかな? 君の方がよっぽど親しいと思うけれど。」
「あいつ氷野さんと仲良かったっけ。だからかもしれないな。」
「だからって、僕は関係ないだろう。」
「それくらい自分で考えろ。」
「何それ。」
示野は、さぁとだけ答えて、後ろ手に手を振って地下へ潜っていってしまった。その背中を見送ってから、沢木はすぐに帰ろうかそれとももう少し散歩するかと迷ったが、四条の突き当たりに八坂神社が見えて、ついでだから足を伸ばすことに決めた。棒になった足は無理矢理鼓舞することにした。
烏丸に人が押し寄せているせいか、川端を渡った先の祇園はそれほどの人混みではなかった。花見小路の石畳が電灯の明かりに浮かぶ横を過ぎればそれこそ人はまばらで、八坂神社の門をくぐった辺りでは数えられる程度の影のみであった。境内中央にある舞台の周囲には吊られた提灯が静かに輝いているのだが、やはり町から外れた場所であるためだろうか、薄らぼんやりとした空気が漂っている。
沢木が拝殿で一人で手を打つと、音が跳ねるのが常よりも判然と感じられた。掌を合わせて瞼を閉じれば枝葉のさわさわと揺れるのが耳に届いた。頬を撫でた微風がぬるい。それが止めば、今度は空気がしぃんと鳴るのが聞こえるようであった。そうやって神聖を肌身に感じているのだが、沢木には何を願っていいやら分からなかった。
(まぁいいか。)
何も思い浮かばないまま沢木がしばらく合掌していると、背後で砂利を踏む音が聞こえた。手を下ろして一礼してから振り返るとスーツの男と目が合ったので、適当に会釈をしてすれ違った。足元で玉砂利の音が交錯して、そのまま背後に離れていった。
南にある一際明るい星を見上げながらぶらぶらと歩を進めると円山公園に抜けられた。祇園の枝垂れ桜が闇を縫うように黒く枝を下ろしている。奥の方から続く小川は石橋をくぐってちょろちょろ音を立てている。覗き込んでみると小波が電灯の光を揺らしているのが少し不気味であったが、それが沢木には静かに時が進んでいる証に感じられた。
また少し歩いてから手近にあったベンチに腰掛けて瞼を閉じれば、辺りは静寂であった。そのまま祇園を練り歩いた記憶を辿ってみると、画面に切り取られた鉾が思い起こされた。あのとき沢木は時間をけったいなものと思ったが、こうして密やかな夜に耳を傾けていると、己の周囲だけが現実から切り離されているように感じられ、カメラの中にでも迷い込んでしまったかななどと考えてみた。
せっかくなので目の前の光景をスマートフォンで撮影してみた。背景が黒くて、電灯がいやに眩しい。その光源から木々や石柱が無彩色の存在をいただいている。沢木はこの写真を綺麗だとも醜いとも思わなかった。ただ、温度が感じられないのを寂しいと思った。
と、そこでチャットの着信バナーが表示された。氷野からのようだった。開いてみると、
『お疲れ様。祇園祭どうだった?』
『何で知ってるんだ。』と沢木が返すと、どうも三森から聞いたということであった。
『私は用事で行けなかったから、夏音ちゃんに写真を頼んでたの。沢木くんも何か撮ってたら送ってくれない?』
『別にいいけれど、大して上手くないぞ。』
沢木は示野と巡ったときに撮った何枚かを送信した。ぽんぽんっと画面に表示されたが、間違って最後にさっき公園を映したものを送ってしまったのを後になって気づいた。氷野もそれが気になったようで、
『この最後の写真はどこ?』
『円山公園。帰りに寄った。』
『暇人ね。』
『暇だから祇園祭に行ったんだけれど。』
『いいなぁ。私も行きたかった。』
『後祭りに行けば?』
『そうねぇ。誰か連れてってくれないかしら(チラッ)。』
『えぇ・・・・・・。』
『何が不服なのよ。』
『いや、僕はもういいかなって。』
『つれないわねぇ。まぁいいわ、写真ありがとう。』
『うん。』
沢木が画面を閉じると、黒い液晶を穿つように街灯の明かりが映りこんだ。思わず空を仰げば、ちりぢりに尾を引く巻雲が夏の大三角の中を泳いでいた。
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