#02

 夏至を越えると暑さが厳しくなった。ねっとりとした熱が煩わしく、木陰に入っても終始襲ってくるのだから本当に癪である。沢木は水筒の水を喉に流し込んで息を注ぐと、四角い鞄を肩に掛け直した。灰色な建造物が林立していても、所々に花水木や銀杏なんかが植わってあっていくらか涼しさは担保されているのであるが、いかんせん照り返しの光は強いものだから、実際はもっと暑いのだと思うと余計に夏が判然とするようであった。

 沢木が三条駅の改札へと下ると、ちょうど氷野ひのが向こうの階段を駆け下りてきている所だった。ベージュのパンツに白のブラウスを涼しく纏い、髪の黒で輪郭が曖昧になった顔は、目尻が少しだけ落ちた眼差しと小振りな鼻元を持って柔和であった。胸の前にある肩掛け鞄にはガラスの丸い飾りがぶら下がっていた。

「お待たせ。時間ちょうどね。」

「氷野さんこそ。そんなに慌てなくてもよかったのに。」

「ちょっとでも遅れたくなかったのよ。バスがなかなか来なくって、もう一本前に乗ればよかったかしら。」

「そんなに早く来てどうするのさ。」

「どうもしないけれど、まぁ適当にぶらぶらしてるくらいかな。」

「生真面目だね。」

「あんたに言われたくはないわ。」

「そうか。」

 プラットホームに降りるとすぐに特急が来たので二人はそれに乗った。しばらくすると地上に出て白い光に面食らったが、それも束の間で、遠くに伏見の山が見えると奥に居座った雲がちぎれて空になるのが見えた。まるで砂糖が水に溶けるようであった。

 平日の午前十時ごろという半端な時刻だったからか、乗り合わせた人は少なかった。悠々と椅子に腰かけていると、何本もの電柱が窓を流れていくのが昔の活動写真を映しているかのように思われて、沢木がそれを口にすると最近見た映画だの流行りのものだのという話が生まれた。ただ氷野の方はあまり映画というものに関心がないようで、特に近頃のものは聞き覚えがあっても内容はとんと知らないといった有様だった。それでも記憶にあるものはないかと訊いてみれば、不思議の国のアリスは好きだと言った。

「アニメーションの?」

「そうね。もともと小説が好きだったんだけれど。」

「僕は観たことないな。子どもの頃に絵本は読んだことがあるかもしれない。」

「機知に富んでいて面白いわよ。特に私はグリフォンの台詞が好き。」

「なんて言ったの?」

「教えない。」

「どうして。」

「ここで言ったって、何にも分かんないじゃない。言葉なんて、文脈がないと簡単に空っぽになるのよ。」

「そういうものか。」

「そういうものよ。」

 丹波橋で近鉄線に乗り換えた。数十分電車に揺られていると奈良に入り、西に生駒の山が見えると稜線の緑が鮮やかだった。東には若草山があったが、相変わらず眩しい晴れ空に褐色の枯野を比べると、そこだけ時が止まっているかのような感覚に沢木は陥った。実際に山焼きを見たことはないが、夜に火の粉を昇らせる情景はきっと生きているようだろうと沢木は想像してみた。そこで燃えた何かはその後冷えて動かなくなるんじゃなかろうかと、取り留めもない考えを巡らせもした。

 氷野は薬師寺の見えたときに些か興奮気味に口を動かした。なんでも塔が二つ建っているのは珍しいらしい。沢木には何のことだかさっぱりだった。

「あとどのくらいかしら?」

「さぁ、三十分もあれば着くんじゃないかな。」

 畝傍山が見えてきたところで一度乗り換えると、古い町並みを眼下に見ながら、ほどなくして長谷寺駅に着いた。改札を出ると夏が覆いかぶさってきて、蝉の鳴いていないのが不思議なくらいである。鬱陶しさから髪を掻き上げて首を反らすと、太陽の下で萌える南の山が高く感じられた。反対に北側の坂下に続く家々は低い。おかげで向こう側の山腹に置かれた寺の幕が少しだけ見えた。

「暑いわね。」

「紫陽花はどうだろうね。」

「今年は梅雨も遅かったし、良いのが見れるかもしれないわ。」

「ネットでは確認しなかったの?」

「だいたい見ごろだって。」

「最初から言いなよ。」

「まぁとりあえず行きましょうよ。」

 駅から街へ下りきると観光地の様相が見てとれ、道の左右に土産物屋や食事処がちょくちょく並んでいた。漬物なんかが多い気もした。そんな店をちらちら覗きながら緩い上り坂を歩いていくと、ようやく二人は目的の寺に着いた。

 石段を上った先に重くそびえる山門を仁王に睨まれながらくぐると、だらだらとした登廊のぼりろうが遠くまで伸びていた。登廊の屋根には柱数本ごとに灯りが吊り下がっているのだが、それがまるで鏡合わせのように延々と続いているかのように見え、一度入ると抜け出せずにいつまでも登り続けるんじゃないかと思われた。そう沢木が言うと、氷野はそうかもしれないわねと笑った。

「エッシャーみたいで私は好きよ、その発想。」

「実際、無限の階段に立ったらどうなるのかな。僕なら途中で飽きて、無限に続いてるのかどうかなんてどうでもよくなって、上るのを止めてしまいそうだけれど。」

「私は上り続けるかもしれないわ。」

「そうなの? てっきり、まずは上らずに抜け出す道でも探すものかと。」

「あぁ、それはそうでしょうね。でも、どうせ探したって他に方法なんか見つからない気もするのよね。だから上り続けるかもしれないって。むしろ私より、あんたこそそうする気がするわ。」

「まぁ諦めは肝心だからね。」

 自分で言いながら沢木は、諦めたから上り続けるなんて不条理だと思った。

 登廊の脇には所々に紫陽花があった。その葉が石段の横で影を落としているのだが、ここ数日は雨の気配がなかったためか地面は乾いていて、伸びた緑も硬くなっているようであった。薄桃色の花だけが水を湛えているようだった。

 三度ほど折れ曲がりながら登りきったところに一際大きな灯りが吊られていた。それがそこいらにある小さな灯りを取ってきて寸法だけむやみに大きくしたように見えたので、沢木は虫にでもなった気分になった。氷野は上ってきた登廊にスマートフォンのカメラを向けていた。

「ちょっと御朱印貰ってくるから。」

「えぇ。その辺にいるわ。」

 沢木が寺務所の列に並ぶと氷野は枯れた藤棚をくぐって一度長椅子に腰掛けたが、寺務所を挟んだ山の方にお堂へと続く階段が目に入ったので、すぐに立ってそこを上って行った。合わせ鏡ではないが、代わりに勾配が急だったので氷野はいくぶん頑張って上っているようだった。よくもこんなところに寺なんて建てたものだと沢木は思ったが、そこに来る我々も大概だとも思って馬鹿らしくなった。

 御朱印を頂戴して乾かしていたところに、氷野が顔をのぞかせた。そろそろ南天に昇る太陽が髪の先とトンボ玉を白くした。

「もらえた?」

「うん。階段の上は何だったの?」

「愛染明王だったわ。いつ見ても怖いわね。」

「何の仏様だっけ。」

「さぁ。あんたも行ってみれば。」

「遠慮しとくよ。」

 本堂は薄暗く、燭台の焔が木肌を茜に揺らしていた。ちらほらといる参拝客の影がゆらりと地を這う横を進むと、頭上に鈍く輝く観音像を仰いだ。沢木はただ大きいなとだけ思った

 十円玉を賽銭箱に放り込み、瞼を閉じて合唱すると耳に木魚を叩く音がこだましたが、途中で氷野が真言を唱える声が聞こえて、それからは他に風の抜ける音しか聞こえなくなった。氷野の呟きは薄く空気に溶けるようなのに、お堂の静謐さのために判然と聞こえるのが沢木には少し面白かった。

 首を横に回すと、氷野の閉じていた睫毛がちょうど上がって、銅のような瞳が観音像を見上げた。沢木も見上げたが、今度もやはり大きいなとだけ思った。

 本堂を出てから、廊下を歩いて舞台に出た。相変わらず晴れていて、正午を過ぎた日向ひなたはいくぶん暑いほどであった。向こうに居座っている山は駅を出たときに仰いだものだろう。一昨日の雨を吸って瑞々しい。欄干に手をかけて振り返ると瓦屋根が重く被さっており、その下に五色の幕が下りているのが山に比してどこか不自然であった。氷野は胸を張って、身を乗り出すようにして景色を見渡している。

「気持ちいい。晴れて良かった。」

「そうだね。」

「淡白ね。もうちょっと感慨とかないの?」

「そういえば、君は御朱印いらなかったの?」

「私、形に残すのはあまり好きじゃないの。写真もだけれど。」

「なんで。」

「だって、忘れちゃうもの。」

 なんでも、小学校か中学校の頃読んだ小説で、少年か少女だかが大切な友人との別れの際に、写真を撮ろうとしたのを制止したことが記憶に残っているのだという。忘れてもいい思い出になってしまうのが嫌だからという。

「そんな簡単に忘れやしないだろう。」

「本当にそう? じゃあ、あんたは今まで誰かと行った場所、ちゃんと思い出せる? 写真を見て、その時の様子が目に浮かぶ? お土産に触れて、会話が蘇る?」

「そりゃあ事細かには無理だけど、むしろ思い出すきっかけにはなるだろう。」

「でもほら、忘れてもいいって思ってるでしょう。どうせ思い出せるからって。私はそれがあんまり好きじゃないのよ。」

「まぁ今日は覚えているだろうね。こんな変わったこと言うのは君くらいだから。」

「あら、それは光栄だわ。でもこんな辛気臭い話、ちっとも面白くないし、そろそろあっちの方に行こうかしら。」

 氷野の指は五重塔を差していた。

 本堂の横から道が二股に分かれていたが、縁に石柱が並んだ右手の坂を上って行くと、木洩れ日が湿度を含んでゆっくりと地を泳いでいた。その影が淡いので、葉の瑞々みずみずしいのを容易に理解できた。肌に触れるじめじめとした空気は道端に植えられた紫陽花には都合が良く見えたが、疲労を感じる沢木には余計に生命力を削がれている気がした。ここ数日で加速した暑さが追い打ちをかけているようでもあった。

 氷野も些か息を切らしながら足を送っていた。葉から漏れた陽が、額から髪へと流れている。

 なだらかな所まで来て柵の下を除くと、緑の向こうに紫陽花が群を成しているのが見えた。氷野は鞄から水筒を取り出して口に運ぶと斜面の下を覗き込んで、綺麗ねと言った。沢木も行きがけに買った茶で喉を潤したが、そうだねとだけ返すと、さっさと塔の方へと足を向けた。氷野は慌てて追い付いて、

「もう少しゆっくり見てもいいじゃないの。」

「どうせ後で降りるだろうから。」

「でも、あそこからの景色はあそこからしか見られないわ。」

「下での方がよく見えるよ。」

「そう、紫陽花はそうかもね。」

「そんなに不服かい。」

「別に不服なんじゃないわ。」

 氷野が意地を張ったように歩を速めたので、沢木は何か悪いことをした気分になった。だがそれが具体的に何なのか見当もつかないので、ちょっと首を伸ばしてもう一度下を覗き込んでみたが、やはり揺れる枝葉の奥で、青や桃の絵具を無造作に落としたように紫陽花があるのが見えるだけだった。風が流れると、笹が波を打って寂しげな音で鳴いた。

 五重塔はてっぺんから屋根二つ分くらいまでが陽の中に浮かんでいた。それがやけに明るいので宙で切り取られたように見え、そうすると沢木たちは切り離された影に捕らわれているような形であった。雲が太陽を隠すのか、山肌に映るまだらがのろのろと泳いでいて、手前にある五重塔がまるで時を刻んでいるかのようだった。

 垣根に沿った階段を下ると休息所と売店があったが、左手の奥に先程上から見た紫陽花の群があったので迷わずそちらに足を向けた。

「あんた、何色が好き?」

「赤の方が良いかな。」

「じゃあ私は青ね。」

「じゃあって何だい、じゃあって。」

「どっちでもいいのよ。でも同じだと何も面白くないじゃない。」

「賭け事じゃあないんだから。」

「そうだ、写真撮ってくれない?」

「構わないけど、形に残すのは嫌いなんじゃなかったっけ?」

「これだけ下らないこと話していれば忘れるわけないでしょう。」

「勝手だなぁ。」

 言われるがままに沢木がレンズを向けると、氷野はピースサインをしてから微笑んで止まった。それでも後ろの紫陽花と氷野の髪は静かに流れているはずなのだが、画面越しに見る世界はなぜか閉じ込められて動かないように見える。シャッターを切って不動の世界を収めると、人知れず時間はまた動き出して、沢木は今しがた撮った写真を氷野に見せながら、こんなものかと尋ねた。

「えぇ、ありがとう。ちゃんと私も入ってるわね。」

「たとえ富士山でもそんなことしないよ。」

「どうかな。あんたはやりかねないわね。なんなら賭けてみようかしら。」

「何を。」

「うーん、この写真とか?」

「安上がりだなぁ。」

「いいじゃないの。それまでその写真はあんたが持っておいていいわ。」

 そう言うと氷野は自分のスマートフォンを鞄から取り出して、

「その代わり私のでも撮って。」

「はいはい。」

 特に目当てがあったわけではないが、ついでだからと氷野は売店に寄った。外で待つのはあまりにも素っ気ないと思って沢木も敷居を跨ぐと、色々なお守りや数珠なんかが心もとない照明の下に並んでいた。しばらく適当に見て回っていたが、気づかぬ間に近くにいた氷野が何か買うのかと訊いてきたので、沢木が別にと答えると二人して店を後にした。

 登廊や五重塔への道を歩くうちに随分と上って来ていたようで、そこからはずっと下り坂だった。途中池があって、周囲の草木が黒く映り込んだ水面の中で数匹の亀が甲羅干しをしていた。微動だにしない首が時折何かに気付いてのろりと動くと、水で冷えた風が肌を撫でるのがはっきりと感じられた。亀の呑気そうな面を見ていると、世界もこれくらい愚鈍ならよいのにと沢木は思った。

 山門まで下ると一二時半を過ぎていた。腹は空いてきていたが、食事をするのに目を引いた店がなかったため、少し遅くなるが奈良町に出てからお昼にしようと決めた。えっちらおっちらと坂の上の駅まで登って、来たときと同じように山を見上げると木々が青い。振り返れば五色の幕は既に遠かった。

 桜井で万葉まほろば線に乗り換えて北上すると、黒い鳥居が杭を打ったように立っていた。何だろうかと沢木が呟くと、氷野は三輪の神社と教えてくれた。なんでも、古事記に出てくる神様が鎮座しているのだそうである。

「三輪そうめんも今度食べてみたいわね。」

「有名なんだ?」

「細いのよ。白髭なんてこんなのよ。」

 氷野は宙を摘まんで何かを引き伸ばすような所作をした。蜘蛛の糸でも引くようだといいたいのであろう。本当にそうならばたまげたものである。はたして食感などというものが存在するのか気になるところでもある。暑さもあって、冷えた麺を喉に流し込むのも悪くはないなと沢木は思った。

 それから天理を通過して、しばらく電車の揺れに身体を預けながらしりとりなんかをして時間を潰していると、気づけば奈良駅であった。さすがに空腹が無視できない程度になっていたので、ひとまず食事処を目指した。何が良いものかと電車の中で検索などしていたので目星はついていたのだが、いかんせん奈良の町なぞは不慣れであるので、路地に入ってから何度か方向を間違えた。それでもようやく辿り着いたのは、民家を改装したらしい洒落た喫茶店だった。玄関に身代わりさるが吊り下がっている。

 四人席に通されたので、空いた座席に荷物を置いて腰を下ろすと、二時間ほど移動した疲れが沢木の身体に押し寄せてきた。思わずふぅと息を吐くと脚に血が巡るのが感じられた。氷野もふくらはぎの辺りが些かだるいらしい。お互いそういった疲弊の仕草に気が付いて、何がというわけではないが面白くなって笑った。

「この後どうしようか。」

「私、春日大社に行ってみたいのよね。」

「せっかくだし行ってみようか。」

「それにしても、奈良もお寺が多いけれど、やっぱり京都と町の雰囲気がだいぶ違うわね。」

「まぁ京都は新幹線も走ってるしね。都会だよ。」

「でも私は奈良の方が好きかもしれない。」

「どうして。」

「なんだろうね。空気が遅い感じがする。」

「それ悪口じゃないの。」

「違うわよ。」

 頼んだ食事が来てからは、サンドウィッチが美味しいだとかコーヒーが染みるだとかいったとりとめない感想の中で、物理が難しいだとか病理が覚えられないなどと、沢木が冗談半分に悲痛を嘆いたりした。氷野はグラスをからからと揺らして微笑んでいた。沢木は腹立たしいとは口に出さなかったが、少し表情には漏れたのかもしれない。最後に氷野が悪戯っぽく赤い舌先を出したので、今度こそ沢木は渋い顔をして、「意地が悪いね。」

「お褒めに預かり光栄だわ。」

「どういたしまして。」

「そろそろ行こうか。」と氷野が打ち切ったので、各々勘定して店を発った。

 春日大社は奈良町の東に位置している。祀られている中でも有名なのは建御雷命タケミカヅチノミコトであろう。この神は神話の時代、天照大御神アマテラスオオミカミが葦原の中つ国を治めるにあたり重要な役割を担ったらしい。なんでもその後、関東から春日大社に招かれる際に白い鹿に乗って訪れたといわれており、それ故奈良では鹿が神の使いとされるようになったのだそうである。そう氷野がスマートフォンを見ながら一々解説してくれたので、見飽きるほどに鹿がいるのはそのためかと、ちょうど二頭の鹿が車道を悠々と渡るのを見ながら沢木は思った。

 国立博物館の横から数分歩くと木々が鬱蒼としてきて、奈良公園に比して林の中を突き進むような道であった。陽の光が遮られたのでいくぶん涼しくなった。神社というのはどうしてこうも薄暗いところにあるのだと沢木はしばしば疑問に思うが、町の中心にあっても神様は困るだろうなと考えると仕方がないとも思える。人の力の及ばぬ世界に導かれている空気感があるというのも、神に相応しいのかもしれない。当たり前のように鹿なんていればなおのことである。

 参道の脇では根が剥き出しになっていて、それが絡まるように地を這っていた。土地が固いのかもしれない。義経の修業はここでもできたかもしれないなどと無駄口を叩きながらしばらく進むと、苔を纏った灯篭が不均一に並び始めたのでいよいよ近いなと思ううち、朱塗りの鳥居が現れた。手前の灯篭には蛇が巻き付いたような意匠があったが、正直沢木には何の意味があるのか見当もつかなかった。

 鳥居の先の手水場の奥に、石の鹿が膝を曲げて座っていた。隣に本物の鹿も一頭いた。手と口を清めてから立て札に書かれた通り左手から進んで、なんやかのお参りした後、とうとう本殿に辿り着いた。やはり朱塗りの社殿であった。 朱色を見ると神社と認識してしまうのは不思議なもので、それほど馴染みがない者でもおそらく分かるだろう。奈良に至っては『青丹よし』の枕詞が付くほど、青と並んで特徴のある色彩である。そんなことを聞いた覚えがあるなと考えながら沢木が門をくぐる傍ら、氷野も神社を瞳に映しながら歩いていく。ゆるく線を描くように揺れるその頭を見ると、静かな後ろ髪が神秘に溶けているように沢木には思われた。

「いい場所ね。」

「急に月並みだね。」

「じゃあ、あんたは何か言えるの?」

「言えるわけがないだろう。」

「なんで偉そうなのよ。神様に失礼よ。」

「神様は寛大だから大丈夫だよ。」

「たとえそうでも、御前で言うのはどうかと思うけれど。」

「うぅん、まぁそれもそうか。」

 ここの藤棚は『砂ずりの藤』というそうだが、それもすっかり淋しくなっていたし、他に予定もなかったので、参拝を済ませた後は奈良町をふらふらして帰ることにした。

「何をお願いしたの?」と、氷野が戻る途中に言った。

「それ訊く奴いるんだな。」

「だってちょっと長かったもんだから。」

「そうだな、世界平和かな。」

「嘘つき。あんたにそんな寛大な心があるとは思えないわ。」

「そりゃあ、神様じゃないからね。」

「やっぱり嘘なのね。」

 あ、と沢木は失敗に気づいた顔をした。

 それから来た道を戻っていったのだが、蛇の灯篭があった辺りから、やけに文明的な建物が北に見えた。どうやらバスのターミナルや土産物屋などのようで、あまりにも社と毛色が違うので二人は拍子抜けしてしまった。ベンチもこじゃれた立方体の石で、足元には水遊びもできないような浅い段々を水が流れていた。蹴飛ばせばパズルでもできるんじゃなかろうかと沢木は足で小突いてみたが、そんなわけはなかった。馬鹿じゃないの、と氷野は言った。

 行きしなはぐるっと北側から回って来たから、今度は興福寺を突っ切ることにした。本来こちらに参道が真直ぐに続いていたようで、見知らぬ鳥居があった。ただそれよりも、まばらになった木々の向こうに緑の原が見えて、それが柔らかく温められているのが目に留まった。ちょうど手前が仄暗いので、窓の奥に異界を覗くようである。若い鹿が跳ねる様などは出来すぎていて、却って嘘のようであった。

「そうだ、南円堂寄ってもいい?」と沢木が言うと、氷野はこれ見よがしに眉根を寄せて、

「遠いなら嫌。」

「興福寺の中だよ。」

「また御朱印?」

「西国三十三カ所。」

「あぁ、そこもなのね。」

 平日だからか参拝客はほぼ皆無で、朱印をもらうのには手間取らなかった。

 そのまま横の石段を下りていくと猿沢の池であった。深いような淡いような色をした鏡面に雲が落ちており、空と池とが繋がっているようである。

「竜はいないかな。」

「いたとしても、もう空の上なんじゃないかな。」

「帰って来てるかもしれないじゃない。双子が海の底から夜空に戻ったみたいに。」

「それは宮沢賢治だろう。」

「あら、博識ね。」

 そうして二人して水面を覗き込んだが、やはり色の深いのを認めるだけだった。こんな場所なら竜がいてもまぁ妥当かもしれない。木彫りの竜を沈めれば、そのうち目が開いて、胴をうねらせ渦を巻き、池の主にでもなるかもしれない。その暁には『何時何時いついつこの池より竜昇らんずるなり』と建札を立ててくれはしないかと、沢木は下らない空想をした。首を反らすと、飛行機雲が尾を引いているのが竜に見えなくもなかった。

 路地の先はすぐに近鉄奈良駅だった。地下に潜っているのは京都と同じである。しかし穴を走り抜けて地上に出てからはまるで違った。

 古の都は虚ろであった。柱の礎が低い草原に点々と並んでいるのだが、それが史跡をとこしえに打ち付けている杭のように見えた。同じ緑でも、田圃ならば人の息がする。寺や社の柱には文化の色がある。だが車窓に切り取られた平城宮跡は、静かで動かぬ過去を映しているようであった。

「あれ、朱雀門。」と、氷野が首を捻じって向こうを見た。

 沢木も首をひねると馬鹿に大きい朱塗りの門が確かに見えた。西日を受けて鮮やかである。人がいないために一層幻想のようで、その美しさは偽物ではないかと疑ってしまいたくなった。それでもなぜか、決して偽物などではないように沢木には思えた。

 すぐ横に氷野の頭が窓に映っていた。消えてしまいそうなくらいであるが、硝子がらすが近いので輪郭だけは明瞭である。透明な曲線の奥で朱と緑が流れていくので、澄んだ石英の中に過去が閉じ込められていて、それを外から覗いているような気分だった。そうかと思えば、逆に永遠の中に氷野が溶けているようにも見えて、顔が映らないのが少しもどかしかった。氷野はそれ以上何も言わない。沢木も黙ってただ窓をぼーっと眺めた。

 史跡を過ぎると、満足した氷野は頭を戻して、今度は沢木の方を横目でちらりと見た。つられて沢木も見返した。すると氷野の口元が優しく弧を描いた。瞳は相変わらず銅のようである。途端、沢木はそれまで彼女を見ていたことが恥ずかしくなって、直ぐ様向かいの窓に視線を投げて旅愁を装った。大極殿が何となく見えたが、すぐに住宅街で消えた。仕方がないから寝たふりでもしようと一寸ちょっと瞼を閉じて辛抱していると、氷野も静かに眠ったようであった。

 それからは鉄の箱に揺られるのに身を任せたが、氷野の玉響たまゆらに微笑んだのが記憶から浮かんできて離れなかった。

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