#07

 沢木が氷野と約束の夕食を摂ったのは大寒の翌日だった。場所は新京極のお好み焼き屋。沢木は豚を、氷野はイカを各々一枚、ついでに焼きそばを一人前頼んで二人で分けることにした。お好み焼きを大盛りにしても良かったが、きっと飽きると氷野が言ったからである。先に冷酒が来たのでグラスにいで、互いの飲み口をこつんとぶつけた。小気味がいい音がして、清んだ水面が蛍光灯を映して波打った。

 このところ寒さが厳しくなっており、ことに夜分の外出は億劫であった。川辺を吹き抜ける風が身を打つのが煩わしく、大橋を渡るのは沢木には億劫であった。冬だというのに湿気を纏った風が重くてかなわない。それに比べて商店街は四方を囲まれているから安心できた。風雨の心配もない。人が多くて嫌気が差すのを我慢すれば、ウィンドウショッピングなどしながらいくらでも時間が稼げる。気がついたときには日が暮れているなんてことは日常である。結局何も買わずに冷やかすだけ冷やかして、飯だけ食って帰ることも頻繁である。

 沢木は必要な食と個人的な娯楽の他においてはたいてい吝嗇りんしょくであった。だから、わざわざ高い金を払って他人と時間を共有することは稀であった。何度か学科の集まりに誘われたことがあるが、仲の良い訳でもない人間と当意即妙に関わるという芸当が急にできるなぞ到底思えず、そんな人間がいたところで邪魔者を貫き通すだけで、失敗するに違いないと端から決めつけて敬遠し続けてきた。とはいえ別段喋るのが大儀であるというのではない。食うのと、考えて話すのとを同時にできないだけである。おそらく何らかの認知課題に引っかかるだろうと沢木は自負している。

 そういうわけだから、既に気心の知れた氷野との晩餐ならば不満は露ほどもない。むしろ安寧があちらから歩いてきたから甘受した次第である。断る理由を探す方が七面倒だったと言うのもあったが、考えると惨めになるので払拭した。

「ビールとかの方が良かった?」

 沢木が誰に対してか分からない弁明を反芻しながら難しい顔をしていたものだから、氷野は酒が不味くてうなっていると勘違いしたらしい。沢木は丁重に否定した。

「一寸考え事を。」

「どうせ解決しないからやめといた方が良いわよ。」

「それは失礼千万だと思う。」

「今まで解決したことはあるのかしら。」

「あるわけがないだろう。」と、沢木はグラスをぐいっと傾けて、

「でもやってみなくちゃ分からない。」

「思ってもないこと言うもんじゃないわ。」

「失礼な。」

 先日大文字に登ったりと身体を動かした疲労が残っているのか、焼きそばのソースが濃いのがやたらと美味に感じられた。キャベツと肉と麺を一緒くたにして放り込むと、それぞれの食感が口の中で絶妙に混ざって旨みが広がる。紅生姜のアクセントが焼きそばの甘さを際立たせた。ついでに酒がうまい。

 焼きそばをさらったころにちょうどお好み焼きが運ばれてきた。あまりにも折良く来たので、進捗を監視されてるんじゃなかろうかと疑いたくなるほどであった。氷野はそんな思惟など余所に目の前のイカ玉にコテを突き立てていた。

 半分強ほど食した頃、氷野がグラスをくるくると回してもてあそびながらぼーっとし始めたので、どうかしたのだろうかと、沢木は口をもぐもぐさせながら一寸観察した。氷野はちびちびと酒を飲んではまたグラスを回す。そのたびに白い光がちらちらとガラスに映って、頬杖をついた顔も透き通るようである。その様は周囲の喧噪を気にせずに洒々落々しゃしゃらくらくと酒を嗜むようでいて、現の味に無頓着であるようにも見える。もう数口飲んでから瓶を掴んだとき、氷野は沢木の観察に気がついた。すると、ふふ、と下を向いて微笑んでから、注いだグラスを口につけた。

「私も一寸考え事。」

「君は解決しそうなの?」

「さぁどうかしら。私には分からないわ。そもそも、本当に考えているのかも分からないわ。」

 とても深遠な言葉に聞こえないでもないが、沢木にはやっぱり意味不明であった。氷野は何も言わずにお好み焼きをさっさと頬張ってしまった。まもなく沢木が豚玉を平らげると、氷野は口に含んでいた酒を嚥下してから唇を舐めて喋り始めた。

「一度だけね、美風の眼が琥珀に見えたことがあるのよ。それが本当に綺麗でね、思わず見蕩れてしまったわ。そんな長い間じゃないはずだけれど、その時は永遠に感じられた気がしたの。いや、さすがに大袈裟かしら。あぁ私も馬鹿ねぇ。」

「ちょっと待って。飲み過ぎちゃだめだよ。」

 グラスをあおろうとするので、沢木は氷野の手を取って机に着地させた。上気した頬からするに、そこそこ酒が回ってきたらしい。氷野はいつもより多弁になって、沢木が赤べこのように頷くだけでも気にしない。

「その時は何だったかしら。お酒はあり得ないけれど、切り子だったかしら。」

 そう言うと氷野は、グラスを一寸持ち上げて酒の奥から沢木を覗き込んだ。銅のような眼が波打っているのが沢木には見えた。

「あぁ、そんな気がするわ。」

「何が?」

「あんた最初に言ったじゃない。私をあの雨の公園で見つけたとき、私の眼を見たとき、『銅みたいだ。』って。」

「うん。」

「ねぇ、あんたは私を忘れない?」

「そりゃあ、ずっと覚えているとは思うけれど。」

「そう。じゃあもう私は必要ないわね。」

「だから、何の話?」

「ねぇ、私の眼、どんな風に見える?」

「銅みたいに見える。」

 沢木が言うと、氷野はまたふふ、と笑って酒をすすった。何が楽しいのか沢木が説明を求めると、

「私は俗なのよ。で、美風は私の理想。」

「それで?」

「あんたは俗っぽい。」

「それはまぁ、自覚している。」

 凡俗である。聖職者にはどう足掻いてもなれないだろう。しかし沢木はその己の稟性ひんせいに抗うなんてことは馬鹿らしいと感じている。運命と言えばそれこそ俗であるが、ジタバタしたって仕様がない。精進で運命が変えられるかと問われて是と答える者は、学と思慮を極めた後に幽玄な帰結に辿り着いた真の聖人か、あるいは自分がそのような人格者と勘違いしている大馬鹿者である、と考えている。沢木に言わせれば、大半が後者である。残りの一部はただの阿呆あほうである。決して努力を無下にしているのではない。ただ、世間に神聖を見たり、口八丁を頼りに綺麗事を飾ることに嫌気が差しているのだ。

 氷野はその点、面白い。時折含みのある科白を吐くから並の人間では理解しがたい事をおもんばかっているのではと錯覚するが、なんてことはない。ただ役者なだけである。現実という舞台を楽しんでいるだけである。沢木にはそのことが、己の記憶を辿る程度には判然としているような気がした。

「ハルシカ。」

 不意に氷野が呟いた。とっくに空になったグラスの中を上から覗き込んでいる。

「ハルシカ?」

「季節の春に動物の鹿で春鹿はるしか。お酒の名前。」

「うん。」

「飲みたいわ。」

「そんなにお酒好きだったんだ。」

「そうでもないわ。でも、どうしても飲みたいの、春鹿。」

 そう懇願する氷野の眼は相変わらずつややかな褐色を湛えているが、視線はじっとグラスの底に落として動かない。飲み干したと思っていたが、目を凝らすと、有るか無しかの酒が薄い膜を張るようにグラスの底を濡らしているのを沢木は認めた。氷野はそれを望遠鏡のレンズのように覗き込んでいるのである。先に見えるのは机ばかりのはずであるが、思いを馳せるようにうっとりとしているので、沢木は自分の酒で唇を濡らしながら黙っているしかできなかった。追求するは甚だ野暮だと感じた。

 そうやって幾度もグラスに口をつけていたものだから、あっという間に空になった。とはいえ思考は明晰である。日頃あまり飲まない沢木であったが、多量に飲んだとて、どうしてか酔わない。身体の制御に幾分支障をきたすことはあるものの、理性というものを手放すことがない。どれだけ飲んでも己が己を直視しているのである。

 沢木は以前、仕方なく参加した学科の飲み会で、一度自分のそのような状態を確認してみようとしたことがある。気が済むまで酒を呷り、下らない余興に足を突っ込み、意味の分からない談笑に追従ついしょうし、また酒を飲んだ。そうして判明したのは、実に不愉快なことに、いつでも己が己の糸を引いていることであった。想像の中で振り返れば、いつでも己が冷静な眼で陰から見下ろしているのである。手洗いに立ったとき、鏡に映った自分が薄汚れた土色の眼をして、酷く縁起の悪い笑みを浮かべているように見えた。神経、脊髄から脳までが石にでもなったかのように身体が強張った。衆人をむしばみうる酒の神でさえ自分には興味がないのかと、ありもしない悲劇の想像をたくましくして苦笑した。

 氷野はどうであろうか。

 今は確かに微醺びくんを帯びてはいるのだろうが、胸中で何を考えているのかなど、余人に分かろうはずはない。最後の一滴を口に流した氷野はおもむろに瞳を沢木に向けて微笑した。

「家に切り子があるの。ねぇ、今度それでまた一杯やりましょうよ。」

「それで僕に春鹿を買ってこいと。」

「よく分かっているじゃない。」

 氷野が至極憎ったらしい顔を意図的に向けてくるので、沢木は思いつく限りの嫌みったらしい口調で、

「電車代諸々含めて、後で請求させてもらうから。」

 氷野は莞爾かんじとして笑った。

 それから双方帰宅したのであるが、沢木は布団の上で悶々と思索を巡らせた。氷野の言葉がいちいち頭の中を右往左往している。

『私は俗なのよ。』

 氷野は言った。沢木のことも俗だと言った。それはまぁいい。問題は遠野美風という名の人物である。彼女について、氷野は『私の理想』と言った。彼女は写真が好きで、氷野はいたく尊敬している。だが沢木は彼女をちっとも知りはしない。聞くに、高潔で清廉で開豁かいかつで、およそ非を認められる部分がないようである。本当であるならば、氷野が陶酔しているのも無理はない。

 一度、氷野は彼女を太陽のようだと形容したことがある。火焔の光を放つ黄金の二輪車チャリオットの絵画を美術館で観たとき、氷野の中での美風はこのような存在だと確信したという。それを聞いた沢木は大仰だと思った。というよりも、得られもしないものを垂涎すいぜんしているようで哀しく見えた。その時の眼の色は思い出せないが、きっと惹かれなかったからだろう。

 記憶の糸を辿っているうちに睡魔がそろそろと瞼を落としてきた。結局美風については霧中のままである。表で誰かが調子外れの歌を歌っていたが、腹が立つ前に寝入ることができたので助かった。

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