#08

 氷野が京都を離れたと知ったとき、沢木は残った春鹿を家で嗜んでいた。氷野に頼まれて奈良まで足を運んだ例の一品である。あがなった瓶には「超辛口」と金色で銘打っているので威圧されるが、辛さの主張は強すぎず、とはいえキリリとした口当たりが妙で、特に冷えたそれは酒そのものに舌鼓を打てた。氷野も大層気に入ったようだった

 氷野が持ってきた切り子は立派なものだった。彩色はなく、丹念にこしらえられた削り模様だけで品の良さを醸し出していた。僅かな光でも銀紙を散らすように煌めくのだが、酒を入れると水面みなもが反射して尚のこと艶やかである。しばらく飲んで氷野はほろ酔い気分でうっとりとしていたが、いつかの晩飯の時のようにグラスごしに沢木を覗くと、いっそう恍惚として言った。

「あぁ、そうだわ。やっぱりそうだわ。」

 何が、と沢木が言おうとした刹那、覗き返していたグラスが消えたと思う否や、氷野が口に含んだ酒を沢木に移してきた。あまりにも唐突であったため沢木は逃れることができなかった。慌てふためいたことは言うまでもない。そんな心境で眼を射貫いたのは、氷野の眼の銅のごとき輝きであった。唇を舐めると春鹿の瑞々しくて柔和な後味がした。喉が焼けた気がしたが、きっと酒のせいに違いないと思うことにした。

 それから氷野は黙して沢木の家を後にした。残ったのは呆けた面の沢木と酒瓶と、見事な切り子だけであった。気抜けのままグラスの三割ほど注いでみたが、急に侘しくなったのでその日はさっさと寝てしまった。翌朝になって瓶と二個のグラスが卓に放り出されているのを認めると部屋がいやに静かに思われた。沢木がうやうやしくそれらを棚に片付けてカーテンを開け放つと、いつかの猫がのそのそと歩いていた。相変わらずの太平楽たいへいらくであった。

 数日後、三森から氷野が失踪した旨の報せがあったが、妙に腑に落ちたのは沢木だけであろう。それでも虚しいものは虚しかった。

 春分間近の空は、先日の雨で洗い流されたように清々しい。いっそたらいをひっくり返したような雨でも降ってくれれば慰めにもなるのだろうが、あいにく天の神は沢木の心情になど無頓着なようである。諦めきれずに氷野と最初に邂逅した公園に行ってみると、快晴の空の下、小学生が鉄棒で戯れていた。

「雨なら、もしかすると会えたかもしれない。」

 隣のベンチに氷野の残像を重ねたのは、沢木の下らない妄想である。

 翌月、東京への新幹線で沢木は北側窓辺に陣取った。またしても嫌みなほど晴れ渡った空が世界に光を振りまいている。特に用事があるでもなかったのだが、一寸遠くへ足を運びたい欲求に駆られ、とはいえ行き先を練るのも面倒だっため、適当に電車で東京にでも行こうかと決めたのである。幸い学割証は一度たりとも使ったことがなく持て余していたので比較的安く済んだ。ローカル線の手もあったが、調べたところ闇雲に時間を浪費するだけだったのでやめた。

 沢木は車窓から、ただひたすらに景色を眺めた。手前の電柱やら民家やらが瞬時に視界を横切って消えていく。目を留めておくのすらままならないから遠くの山々を望んでいると、長谷寺に行った記憶が蘇ってきた。春鹿なんぞを買いに奈良に赴いたのが記憶に新しかったというのもあるに違いない。

 枯れ野の若草山。延々と続くかのような登廊。薄桃色と空色の紫陽花。山辺に見えた五色の幕。馬鹿でかくて黒い鳥居。朱色の社殿と花の咲いていない藤棚。だだっ広い平城宮跡。朱雀門。そこまで思い出して、車窓に映った氷野の後ろ姿が脳裏に現れた。背景溶けるような淡さと、その後に見せた玉響の笑み。こうも鮮明に覚えていることが、沢木には不思議でならなかった。

 京都から二時間弱が経過した。独りでじっと移動する機会などなかったものだからそろそろ退屈してきていたが、浜松を過ぎてしばらくすると富士山が見えるとのアナウンスが流れた。そんなものが日本にはあったなと呑気に思いながらも、せっかくだから晴れた日の特権を享受しようとスマートフォンのカメラを用意した。

 かつて、月へと帰るかぐや姫が帝に不死の薬を授けた。それはこの地上に二つとない至宝であったはずだが、帝は愛する姫がいないのならば無意味と山の上で燃やしてしまう。竹取物語では、今でも薬を燃やした場所から煙が昇り続けていると描かれている。その山が不死の山、すなわち富士の山である。今まさに小さな液晶の中に捉えられている、かの雪を被った山である。

 不死の薬を飲めば永遠を手に入れられただろうか。たとえ手に入れられたとして、はたして幸せを欠片でも得られただろうか。帝の選択が正しかったかは沢木には分からぬが、少なくとも間違ってはいないのではなかろうかと思う。

 沢木はシャッターを押してから、掌中に収まった富士の山を覗いた。人の姿はおろか、月見草すらない、富士を除けば実に殺風景な画であった。

 それから沢木はカメラロールを遡って長谷寺での氷野と紫陽花の写真を探した。氷野の映っていたのは一枚だけだったからすぐに見つかった。青い紫陽花の前で、涼しく纏ったブラウスが眩しい。黒い髪が風に吹かれて煌めいている。何より銅のような眼はとても瑞々しかった。

「あぁ、これはきっと賭けに負けたに違いない。」

 律儀な沢木はその一枚の写真を消去した。わざわざ削除済みフォルダを開いて完全に抹消した。そうして元のフォルダに戻ってみると、まるではなから氷野なんぞ存在しなかったかのように感じられ、以前までの記憶が全て虚ろな夢のように思われた。

 写真の中の登廊がどこまでも続いているように見える。まるで鏡写しのように。虚像が織りなす芸術のように。

 ただ、頬を伝った涙だけは間違いなく現実であった。



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ディオニュソスの琥珀酒 示紫元陽 @Shallea

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