お父さんとpainful dirtの娘
夕暮れの光が差し込むアパートの部屋。集中を切らした金子は、日が暮れかけて暗くなっていることに気づき、洗面所の照明をつけた。
自分の顔の表面に、白い光が反射してきらめいた。四枚に分けたラップの隙間からのぞく目を瞬くと、顔全体に鋭い痛みが走る。痛い。とても痛いが、かすかな快感も伴う。
顔を覆った透明なラップの下は、艶のある赤に覆われている。醜いのか美しいのか、よくわからない。恐ろしいことは確かだが。しかし、徐々にこの状態になっていくのを自分で見てきたから、衝撃はない。
両手が疲れてしびれているし、緊張でこわばった体は、今にも電流が走りそうな妙な感覚に覆われ、膝は徐々に訪れる弛緩に震えだしそうだが、冷静だ。大丈夫。思ったほどではない。普通だ。
姫蟻から貸してもらった医療用のメスを握った右手を洗面台に落とす。洗面台は、赤い線状の肉片にびっしりと覆われていた。
金子の左の前腕の外側には、刺青ではない模様があった。姫蟻に教わりながら初めて自分に施したスカリフィケーション。数日前に綺麗に治ったもの。黒く塗りつぶした肌の上に、子供の落書きのように単純で微笑ましいようなチューリップが浮かび上がっている。薄いピンク色。これが、本来の肉体の色というものなのか。
姫蟻に見せてもらった、どの参考画像にもない味わいがある。刺青の入った肌にスカリフィケーションが施されている写真は一枚もなかったから。
数週間もすれば、この顔もスカリフィケーションに覆われる。きちんと治れば、複雑かつ規則的な模様が顔全体に浮かび上がるはずだ。
その完成が、恐ろしい顔がもっと恐ろしい顔になることだと、金子にはわかっていた。ミミズに覆われた黒胡麻団子。今この鏡に映っている濡れた赤い仮面が、いずれそうなる。落書きされたピエロのほうが、まだマシ。
刺青を知らない人はいなくても、スカリフィケーションを知っている人は少ない。今までは、異常に尖っている特殊な趣味を持っている人でギリギリ通用しても、これからは、ただの異常者に成り下がる。
でもいいんだ。もうこれで。こすれて痛くてマスクをつけられなくなるかもしれないが、それでも。
どうなの。どう思うの。
心の中で父に呼びかけた。
新しいわたしを見て。
そうは思っても、つまるところ、自傷行為なのはわかっている。今、とてつもなくつらいから、人生の袋小路にいるから、痛みでつらさや不安を和らげようとしている。自傷行為をしてはいけないということは、子供の頃に受けたカウンセリングによって刷り込まれているから、自分に言い訳をしているのだ。これはアートだと、自傷ではないと。
ほら、やっぱりすべての出会いが間違いだった。自傷行為をする子供を治療するのは、つまるところ、大人たちにとって迷惑だからだ。血や包帯が汚いから。
精神科医によるカウンセリングなんて受けなければ、もっと自分に正直に生きられた。もっと自分のことをはっきりと見据えて、素直になることができたはずなのに。
施設の先生たちも同じだ。ボロボロだった被虐待児をまともにしようと尽力したせいで、自分は半端者になってしまった。余計なお世話さえしてくれなければ、もっと生きやすい立場になれたかもしれないのに。助けを求めることをためらうような人間にならなかったかもしれないのに。自分をこんなにつらい立場に追い込むような考え方をするように仕向けたのは、あの先生たちだ。
もっと助けが必要だって、どうしてわかってくれなかったのだろう。こんな見た目なのに、一目瞭然なのに、どうして独り立ちなんてさせたの? まともに生きていけるわけないって、どうしてわかってくれなかったの?
なにが「金子は強い」だ。なんにもわかっちゃいないから、そんなことが言えたのだ。
優しい顔をしながら、結局、突き放し見捨てたのだ。もっとちゃんと護ってほしかったのに。最初から捨て置いてくれれば、こんなに傷つくこともなかっただろう。中途半端に助けるなら、助けないほうがマシだ。
出会ったすべての人にわたしは壊されたのだ。世界が憎い。世界に拒絶されている気がする。
わたしが存在していることが、世界が残酷だという証じゃないか。そんな世界で、どうしてほかの人はみんな平気そうな顔をして生きているのだろう。笑っていられるのだろう。笑ったことなんて、わたしは生まれてから一度もないのに。
なぜわたしだけこんな目に。なんの罰? なにを犯したっていうの? なぜわたしはわたしに生まれたの?
生まれてこなければよかった。
そう思って当然だろう。溺れそうなほど積み上がった恨む理由。この怒り、憎しみ、悲しみ。誰も受け取ってくれない。これらを表現することはできない。このひどい顔面より痛い。こんなものじゃない。
どうやったら出せる。この内面の痛みを、どうすれば外に出せるの。それを目の前にし、手に取って観察すれば、少しは痛みも薄れる気がするのに。顔を血に染めても釣り合わないのに、どうすれば釣り合うものを現実化して、納得できるのか。
刺青、その他のボディアート、絵画、なんでもいい。なんでもいいのだ。なにかを使って、目に見えるものにできたら。
そうやってなにかを望んでも、こんなボロボロな自分にできるはずがない。結局、なにかを成し遂げる人は、もとから素晴らしい人なのだ。
この世界から出ていきたい。自分でなくなりたい。
でも、まだなにかあるのではないかと思ってしまう。この最悪な気持ちが、いつか変わるのではないか、なにか自分にもできるのではないか、わたしを壊さない誰かと出会えるのではないか。
そう思ってしまう自分さえ嫌いだ。でも、諦められない。
全身に刺青が入っている人はいても、刺青の上からスカリフィケーションまみれになっている若者なんて、世界中探しても、ほかにいるかどうかわからない。どうせなら、世界でたった一人の人になってやる。古い刺青、自分で入れた新しい刺青、スカリフィケーションを組み合わせて。
自分のすること、存在、すべてを芸術にする。特別になる。生き残るために。
やっぱり、親のことは見捨てられないものなんだね。
久しぶりに父が口を開いた。
金子は、芸術さえも憎んでるはずだよ。生まれた理由をつくったのが、一枚の絵画だから。金子は、お父さんとpainful dirtの娘。
「うるさい!」
叫ぶと、瞬間的に増す痛みとともに顔からラップがずれた。慌てて貼り直す。
鏡に映るその自分の動きが滑稽で笑いたくなったが、傷を動かさないように表情筋を制御した。
含み笑いを残して父は黙り、金子も黙り、金子はいつまでも自分の顔を見ていた。
painful dirt 諸根いつみ @morone77
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