褒められたバッドタトゥー
金子の手には、最新のタトゥーマシンが握られていた。ペン型のマシンのスイッチを押すと、かすかな振動とともに、慣れ親しんだノイズよりも少し耳に優しいノイズが流れる。
しかし、そのノイズは、思わず耳をふさぎたくなるような男の喚き声にかき消された。
男は台にベルトで固定され、赤っぽい背をさらしている。その広い背には、数十センチ角の紫色の線画が描かれていた。この色にも慣れ親しんでいる。針を入れる前の、刺青の下絵だ。
男たちが、金子を見守っている。金子には、父の声とは違う、妄想の声が聞こえていた。
なんだこの小娘、どうせできるはずない、役立たず、世界のゴミ。
それから、父の声が久しぶりに聞こえた。
金子はお父さんのすべてだよ。
そう。わたしは、お父さんが欲しがったものでしかない。生まれた瞬間から、人として必要とされず、肉の塊としての価値しかない。その価値もとっくに消えた。
こんなことをするしかない、なんの価値もない、クズなんだ。
金子は、薄いゴム手袋をした左手で汗の浮いた自分の額をぬぐってから、男の背中の皮膚を押さえた。
「やめてくれ!」
懇願されたが、無視した。最初は、下絵の通りに線を彫り、ぼかしを入れた。そしてそのまま、周囲の皮膚にも針を入れる。
おいおい、と周りから上がる声を無視した。肩に手が置かれたが、誰かが、やめろ、そのままやらせろ、と言った。
湿らせたキッチンペーパーを左手で持ち、彫りながら終始肌を拭っているうち、ペーパーがインクと血液に染まる。いつもより出血量が多い。力に任せ、針の深度を深めにしているからだ。背中という皮膚が厚い部位なのに、「痛い痛い!」と叫んでいるのは、あながち大げさでもないのが、本人と金子にだけわかっていた。
男の背の中央に完成したのは、背中に複雑な意匠を乗せた下り鯉。鯉の背のマークは下絵通りだが、鯉は完全にフリーハンドだった。線はがたつき、ぼかしは雑で、金子自身にも下手としか思えない仕上がりだが、目玉のない空白の目が、過剰に力強い黒の中でぽっかりと空いた穴のように見え、寒々しい空虚を感じさせる。
「まあまあ、いいんじゃない」
そのままやらせろ、と言った男性が、ゴム手袋を外す金子の隣で男の背を見下ろして言った。それは刺青の出来ではなく、自分の勝手な行動のことを言っているのだと、金子にはわかった。
「真ん中だから、上り鯉を付け足そうにも、位置的にダサいしな。バッドタトゥー、ソーグッド」
この刺青の忌まわしさを取り除くには、位置的に見栄えの悪い新たな刺青を付け足すか、なんらかの方法で消すかつぶすしかないということ。
その「店」は、道具が散らばっているだけの場所で、その場にいる男たちは、彫師なのかどうかわからなかった。下絵がつけられていたということは彫師もいるのだろうが、全員ではないだろう。
拘束を解かれた男は、脂汗を浮かべてうなだれていた。
ここに金子を連れてきた吉持とともに、危害を加えられることなく「店」から出ることができた。窓のない室内の息苦しさとは打って変わり、燦燦と日が照っている。
金子は、もらった現金を握りしめ、失われかけている現実感の中でめまいを堪えていた。
「どう? 雇われれば、もっともらえるんだよ」
吉持は言った。
「……吉持さん」
金子は、自分の衝動的な行動よりも、吉持の行動にショックを受けていた。
「あの人たちは、悪い人たちですよね?」
「まあなあ。そうだろうね」
「どうして」
「罰したいやつに紋章を彫るのが好きな人でさ。某界隈では結構有名なんだけど。大人しく従ってくれる彫師を紹介したら、紹介料をくれるって言われた」
「だから、どうして」
「なにが?」
「……吉持さんも、悪い人なんですか?」
「そうだね」
吉持は、はっきりと肯定しながら、少し寂しそうな顔をした。
「今日は、嫌がっている人に彫れるかどうかを試すテストだった。これに合格できる人はそう多くないらしいよ」
お前も悪い人間だ、と言われた気がした。しかし、彼にはそんなつもりはないらしい。
「鶴寿は、必要とされてるんだよ」
馬鹿げているが、冗談を言っている顔には見えない。金子は黙っていた。
「なんで下り鯉を彫ったの?」
「……ムカついたから」
金子は正直に言った。
「そうだよな。でも、なんとかやっていくしかないじゃん。鶴寿の給料払ってくれる人、もういないでしょ。姫蟻も、自分のことで精いっぱいだと思うし」
「わかってます」
どうしてこんなことになってしまったのだろう。
ただ、自分で進路を決めたかっただけなのに。自分の個性を認めてくれる人と一緒に働きたかっただけなのに。
彫師になりたいなんて言い出さずに、施設の先生が紹介してくれた誰か、支援してくれる人が仕事を見つけてくれるのを待てばよかった。焦って、自分のことを自分で決めようとしたのが馬鹿だった。
思い上がりだったのだ。自分の人生を自分で切り拓こうなんて。
そもそも、父の本なんか勝手に見なければよかった。アートに興味を持たなければよかった。彫師なんて職業を知らなければよかった。
みんな、わたしの邪魔ばかりする。前のオーナーは、自分にとって都合のいい部下を求めるだけ。紅生姜は、自分のトラブルを解決していないのに、仲間を増やそうとする無責任な人間。姫蟻にとって大切なのは、自分のキャリアと家族と紅生姜だけ。吉持は、自分の収入のことしか考えていない。国は、よくわからない法律で前途を阻む。
考えてみれば、子供の頃からずっとだ。まりあ。助けてくれようとした。もしかすると、その時に自分から逃げてしまったから、できるだけ誰の手も借りないで自立を目指そうなんてことを思い始めたのかもしれない。一度失敗したから、再び誰かの手をつかもうとするのはおこがましいと、無意識のうちにそう考えて。
しかし、そう考えること自体がおこがましかったのだ。
自信なんてないと思っていた。自分には一つの道しかない。だから迷いようがないと。自信がなくても歩くしかないと、そう思っていた。
本当は逆だったのだ。驕っていた。自分のちっぽけな頭で思いついたことがすべての可能性だと思い込み、その道が一つであることに甘えていた。
一生懸命やっているつもりだった。しかし、足りなかったのだ。できっこないことに早く気づくべきだった。謙虚になるべきだった。
まりあ、どうしてわたしを見つけたの。放っておいてくれればよかったのに。そうしてくれていれば、まりあと出会わなければ、きちんと施設の先生の言うことに従って進路決定できたかもしれないのに。自分ではなにも考えなければよかった。ただ大人しくしていたら、外見について理解してくれる企業を探してもらえたかもしれないのに。
すべての出会いが、人生を壊す刃だった。敵としか会ったことがない。それどころか、顔も名前も知らない、出会ったことのない前店長ですら、自分の人生を破壊する人の一員。この世は敵だらけだ。どうして。苦しい。
結局、自分が選んだ道だ。そんなことはわかっている。でも、どうしても。
もう、みんな嫌い。みんな消えろ。
恨みを晴らせ。悪いやつらに、ひどい刺青をたくさん彫ってやれ。クオリティがひどいという意味ではなく、呪いとしての刺青を。
自分の声か、父の声かわからないものが聞こえたが、金子は首を横に振った。
「でも、ごめんなさい」
なにがそう言わせたのか、金子自身にもよくわからなかった。裏社会に足を踏み入れたくなかったから? 倫理観の発露? おそらく違う。ただ、もうすべてが嫌だ。
「どうしても嫌なの?」
吉持の声は優しかった。でも、そんな表面上の優しさには騙されない。
「はい」
「そう。なら仕方ないけど。これからどうするの?」
「どうにかします」
吉持と連絡先を交換したが、結局、お互いに連絡することはなかった。
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