第16話 冬帝


 泣きそうな彼の悲哀に満ち足りた顔が見えたとき、私はナイフを湖のしじまの底に捨てた事実をいきり立つほど悔やんだ。


 あのときの彼の怨恨を深く嘆いた遊女の生霊のような表情。


 もう、瞳の奥に光彩はなく、青白い頬は窪み、蝋人形のように滑らかな二藍の唇は固く結ばれていた。



「あなたが死ぬなら私も死ぬよ!」


 無意識のうちに心の壁が取り壊されてしまったのかもしれない。


 一度、涙が冷たい瞼から溢れると止める術を知らず、着込んでいたジャンバーやパンツスーツまでビショビショだった。こんな風に定めされたのは誰のせい?


 この前もこんな災難に遭った既視感、デジャヴュがある。


 彼岸花が畦道に咲くあの日々爽やかの時候、色鳴き風を浴びながら心中を臨んだ君と私。



「真依ちゃん」


 手を振り払った彼の手の平からは一筋の血が流れている。


 私の手の平からも一滴の血が流れていた。


 足首が冷たいとは思ったけれども痛いとも思わなかった。



「君も流したんだね。赤い涙を」


 どうして、こんな決死を道ずれにした状況に見舞われても、そんな空咳をあなたは易々と吐けるの? 


 冬の月に月暈がかかり、まるで、パールホワイトの夏雲に憧れる彩雲のように虹色にあやかった。



「今日も死ねなかった」


 彼は私の手を握り、腕を抱え、流れ出たガーネットの筒状のような血痕をこっそりと舐めた。


 皮膚の奥底から温かみを感じ、舌の先端が心を映す極光と重なり、懐かしくもくすぐったい。


 傷口がこそばゆく、荒れ果てた苔むした墓石のような傷口が癒えてくるのが明日は明日の風が吹くように心行くまで染み渡った。



「舐めないでよ。こんなに」


 純粋な悲愁を抽出した涙が止まらない。


 咽喉もカラカラでしゃっくりを上げるように噎せ込んだ。



「私は真君が死んでほしくはなかっただけだよ」


 その祈念を君に告げられたとき、もう、私は生まれたままの嬰児のように腕の中で抱かれていた。


 腕の中の揺り籠で雛鳥のように大きな声を上げながら泣くしかなかった。


 どっちが慰める立場だったのだろう、とそんな疑問点はもう判別できないほど私は泣きじゃくっていた。



「怖かったね。本当に怖かったね」


 誰かが耳朶を摘まんでいる。


 オパールのような冬帝の月明かりの下、君と私はしがみつくように湖畔で抱き合った。


「僕も生きるのは怖いから。君も同じ」


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寒月悲歌 孤愁の岸辺に君は入水しようとしたの? 詩歩子 @hotarubukuro

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