救済

 露木つゆきに連れられて辿り着いたのは、雑居ビルの二階にあるバーだった。天井は低く、店の奥行きも狭い。

 青い照明に薄暗く照らされた店内には先客がいた。一組の男女から離れるように、入口に近いカウンター席に着く。

「マスター、いつも通り」そう言った露木に初老の男は頷いた。「あなたはどうします」

 松永まつながの頭を数多の候補が駆け巡ったが、「ジントニックで」と伝える。視線を感じて右を向くと、露木は表情を少し和らげた。

 松永は不可解に思いながら、不躾にならないよう、視線だけを左に動かした。青く照らされている男女を祝福するかのように、脇に置かれたクリスマスツリーの電飾が陳腐に輝いている。

「どうぞ」と出された背の高いタンブラーに手を伸ばす。ライムの浮いたそれに口をつけると清涼感が鼻に抜ける。暖房で火照った頭が冷え、感覚が研ぎ澄まされていく。

鷺沢さぎさわさんの奥さん、きれいな人だったんですね」

 鷺沢の前で話題にすることは避けていたが、喫茶店の常連客である露木も当然ながら壁に掛かっていた写真は見ているだろう。

 照明の加減で露木が何を飲んでいるのかは判別がつかなかった。露木は愛おしむようにショットグラスをゆっくりと回す。

「優しくて、でも気の強いところもあって……。よく、煙草を吸おうとすると禁煙ですって取り上げられたものだ」

 グラスを持つ手は濡れて冷えていく。

「鷺沢さん、一人で店切り盛りして、健気ですね」

 松永の発した言葉の棘に露木は気づいたのだろうか。彼の手元で氷がからりと鳴る。

「亡き奥さんの大切な場所だからな、守り続けていきたいんだろうよ」


 鷺沢の妻は三年前の夏に殺された。

 露木が喫茶店で見せた切り抜きは、連続殺人事件の始めにすぎなかった。一見無差別に見える事件を見事に解決したのは、まだ私立探偵として名を馳せていた頃の鷺沢だ。だが、あと一歩及ばず、最後の事件を未然に防ぐことはできなかった。自分の妻に危険が及んでいると見抜いた鷺沢が家に戻ったときには、すでに事は終わっていた。

 息のない妻を腕に抱え、慟哭する鷺沢の姿が思い浮かぶ。いや、呆然と膝をついていたのかもしれない。

 いずれにせよ、最愛の妻を失った鷺沢は当該事件だけでなく、探偵として関わった事件すべての記憶を封じているのだという。鷺沢は探偵業から足を洗い、捜査員の一人として事件を担当していた露木は事後処理に奔走し、月日は流れた。


「俺たちは逮捕して検察に引き渡すまでが仕事だ。一般的にも裁判が終われば事件は解決だ。でもな、当事者にとってはそうじゃない。終わらないんだよ、いつまでも。事件を過去のことにしちゃいけないんだ」

 悟ったように語る露木は普段よりも疲れて見えた。

 露木は今も、自分が助けられなかった者の墓参りを欠かさない。そうすることで過去の事件を胸に深く刻み込み、決して忘れないようにするのだという。ともすると、明日は鷺沢の妻の墓も訪れるつもりなのかもしれない。

 松永は冷えた頭で空いたグラスをコースターの上に静かに置く。

「そうやっていつまでも昔にこだわり続けるつもりですか、あなたも」

 人間の悪意が存在する限り、解決すべき事件は決してなくならない。警察の戦いもまた、終わらないのだ。

 刑事として優秀な露木には、戦い続ける能力がある。頭脳も、行動力も、正義感も。にも関わらず、過去という泥沼に安住しようとする露木の姿が、松永にはどうしても許せなかった。露木が墓参りを続けるのは、ただの自己満足にすぎない。墓前に手を合わせるだけで人を救えるのであれば、警察など必要ないのだから。

「年を取れば、松永もわかる」

 露木は年齢や階級で人を判断しない。自分の目で、頭で、直感で判断する。そう思っていたのは、松永の勘違いだったらしい。

 赤子をあやすようにそう言った露木に対し、松永は静かに目を伏せる。


 無言で四、五杯は流しこんだ頃、ふと気にかかって隣を盗み見た。いける口の松永にとっては何でもない量だが、海のような青い照明に照らされてもそれとわかるほどに、露木の顔は赤かった。潮時だろう。

「そろそろ出ましょうか」

 そう言うと「あと一杯だけ」と強く抵抗される。困惑して店主を見ると、穏やかな笑みを浮かべている。

「いつも最後には同じものを頼まれます。お客様もいかがですか」

 松永は溜息をつく。「お願いします」

 そもそも松永の人間関係は希薄で、露木ともプライベートで飲み交わすほどの間ではない。喫茶店を出た後、軽い口調にどこか切実な色を感じ取って同行したものの、すでに後悔し始めていた。

「先輩、しょっちゅう鷺沢さんのお店に行ってるんですね」

 すでに酔いの回った露木は気まずさなど感じていないだろうが、上司に失望した松永としては、仕事の話は避けたかった。

 場を持たせるため、深く考えずに提供した話題のつもりだった。

「しょっちゅうどころか、旧知の仲だった」

 そう静かに呟いた露木は、松永が瞠目していることには気づいていないようだった。露木は整然と酒瓶の並ぶバックバーを見ながら話し続ける。


 大学のサークルで初めて会った日のこと。

 鮮やかに事件を解決する姿に、嫉妬し憧れたこと。

 すぐに酔いが回る露木の横で、鷺沢はいつも同じ酒を飲み続けていたこと。

 好きな人がいる、と恥ずかしげに打ち明けられたこと。

 鷺沢が結婚したときは、喜びと寂しさが入り混じったこと。

 卒業後も事件現場で出くわした際は、露木の警察官としての面目を立てつつ大学時代のように協力してくれたこと。


「先輩は、やっぱり思い出してほしいんですか」

 そう尋ねると、そこに松永がいたことを初めて思い出したかのように視線をさまよわせた。

 店主が二つのグラスを静かに置く。「どうぞ」

 背の低いグラスのふちには、雪のように白い粉末がついている。一口含むと、柑橘系の酸味と苦味に塩味が混ざる。

「俺は医者でも何でもない。ただの赤の他人だ」

 暗い目で「しょっぱいな」と笑う露木に、松永は「でも」と口を開きかける。

 だが、そこから先を告げることはできなかった。

 でも、友達なんですよね。

 でも、友達だったんですよね。

 松永は鉄槌を振り下ろすことができず、その代わりにグラスを手に取った。

 雪化粧したカクテルからは、潮の味がした。汗の味がした。そして、それは涙の味でもあった。

「似てるんだ、昔のあいつと」

 誰が、とは訊き返さなかった。露木が自分をバーに連れ込んだ理由をようやく悟ったからだ。

 この男も過去に囚われた哀れな一人にすぎない。

 そう割り切るには松永は多くを知りすぎており、知らなかったとうそぶくには道義心が強すぎた。せめてもの気遣いとして、嗚咽を抑えようとする露木を視界から外す。

 松永はグラスを見つめたまま心中で呟いた。でも、俺は鷺沢とも露木とも違う。

 無造作にカウンターに置かれた露木の携帯電話は、沈黙を保っている。

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夢と救済 藍﨑藍 @ravenclaw

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