夢と救済

藍﨑藍

 雪が、降っていた。

 男は布巾で机を拭きながら窓の外へ意識を向けた。

 三十分ほど前は多くの客で賑わっていた店内も、今は静かなBGMだけが流れている。あれほど準備した食事やケーキは跡形もなく、食器類の片付けも終わりつつあった。

「さすがにもう、今日はお客さん来ないんじゃない」カウンターに腰かけ頬杖をついた妻はそう言った。

 いたずらを企む子供のようなその笑顔に、男は相好を崩す。「そうだな、閉めるか」

 男は可もなく不可もない平凡な人生を送ってきたが、一番の僥倖はこの愛する女性と結ばれたことだ。袖口からのぞく白い陶器のような腕を撫でようとするも、彼女ははにかんで男の手をすり抜ける。

「まだ、閉めてないでしょ」

「これは失礼」

 男はカウンターに布巾を置き、店の扉を開く。ドアベルの軽快な音とともに、身を刺すような冷気が容赦なく入り込んでくる。アスファルトはうっすらと白くなり始めていた。男は扉を片手で抑えたまま白い息を吐き、OPENと書かれた小さな看板を裏返す。

 すると、雪の中二つの影が近づいてくるのが見えた。

「今日はもう閉店ですかな」

 右手を上げてそう尋ねたのは、露木つゆきという男だ。県警の刑事だという彼は、このところ馴染みになりつつあった。安手のトレンチコートから、くたびれた黒いスーツが見えている。

 もう一人は初めて見る顔だった。露木と比べると小柄な彼は、仕立てのよい丈短のコートを身にまとっている。張りのある肌からは、露木にはない若さが感じられた。

 男は咄嗟とっさに店の中を振り返る。不安そうな表情を浮かべた妻の後ろ、奥の壁に掛かった時計を確認する。視線がぶつかった妻に頷くと、男は扉を開け放した。「少しなら」


 妻は二人を先導し、時計に近い、一番奥の席へと案内した。露木はいつもその席を好むためだ。

 妻は尋ねる。「どうぞ。ご注文は」

 ソファに身を沈めた露木は、テーブルに置かれたメニューを開くことなく、少ししゃがれた声で答える。「俺はブレンドコーヒーで。松永まつながはどうする」

 松永と呼ばれた青年は店の内装を物珍しそうに見まわしていたが、露木の声に我に返る。慌てて露木の隣に座ると、明朗な声で言った。「僕も、先輩と同じのでお願いします」

「かしこまりました」座席の脇で軽く一礼した妻は、少し離れて立っていた男を振り返る。

「ブレンドコーヒー、二つ入ります」

「かしこまりました」

 露木と松永以外の客はおらず、静かに音楽だけが流れている。こんなにも近くで聞いているのだから、わざわざ復唱する必要もないだろうに。

 男は儀礼的なやり取りに苦笑する。ポケットからボールペンを取り出すと、左手に持った伝票に注文を書きつける。

 露木はよれたスーツの胸ポケットに手を伸ばそうとしたものの、「禁煙です」と仁王立ちする妻の迫力に押されたのか、ばつが悪そうに目を伏せた。


 男がコーヒーを淹れて戻ると、じっと目を閉じ腕を組む露木の正面で、妻は所在なさげに座っていた。安堵の表情を浮かべた妻に気づかぬふりをしたまま、露木と松永の前にカップを並べる。

「お待たせいたしました。ブレンドコーヒーです」

 湯気とともに遠く懐かしい香りが立ち上る。

「では、ごゆっくり」

 男がきびすを返そうとすると、焦ったように露木が立ち上がる。「おいおい」

 露木と松永が向かい合って座らなかったことから、彼らが男に何らかの用がある、という予想はついていた。

 他の客が相談事という名の小さな謎を持ち込んでくるのは構わない。飲食店全般の経営が厳しいこのご時世の中、この店は常連客やその知人らによって賑わっている。せめてもの気持ちとして、男は客の話を聞いて二、三気がついたことを述べる。すると評判を聞きつけた別の客が、また別の話を携えて来店するのだった。

 だが、露木は捜査一課の刑事だ。関われば面倒なことになるのは目に見えている。そういう意味で、露木は他の客とは決定的に異なる。男が露木について多くを知らないのは、個人的な会話を意図的に避けているためだ。

 男が足を止めたのは露木に呼び止められたからではない。妻の非難がましい目に射すくめられたためだ。「そうやって、いつまでも逃げ続けるつもりなの」

 男が押し黙っていると、松永が口を開く。

「せっかくですから、あなたもご一緒にどうぞ」

 そう誘う松永の口調は穏やかだった。しかし、温容な微笑には似つかわしくない、猛禽類のような鋭い目が光る。

 こんな目をどこかで知っている。ふとそんな気がした。


 男がしぶしぶ席に着いても、露木はなかなか本題に切り込もうとしなかった。

「うまい」「美味しいですね」「ありがとうございます」「松永は半年前にうちに配属になった」「おかげさまで、毎日学ぶことばかりです」

 近況報告だけではなく、年末の天気予報に景気の話。

 閑談にしびれを切らした男は、露木がすっかり冷めたコーヒーを口に含んだ一瞬を見逃さなかった。「して、今日はどういったご用件で」

 露木はカップをソーサーに置いた。ちりんと澄んだ音が異様に響く。「明日、付き合ってくれないか」

「連行するためには令状が必要なのでは」

 苦笑した露木が机に置いたのは新聞の切り抜きだった。男に向けて斜めに押し出されたそれにざっと目を通す。

 三年前の七月。六十代の男性がアパートの自室で死亡しているのが発見された。男性は何者かに襲われたと見られ、県警は捜査本部を立ち上げ犯人の特定に励むという。

 男が顔を上げると、露木と視線がぶつかった。

「明日、この事件の被害者の墓参りに行こうと思う。おまえさんも来ないか」

「なぜ、私が」

「おまえさんが犯人を突き止めた事件じゃないか」

「何かの間違いでしょう」

「そんなことはない」

生憎あいにくですが、よく覚えていないもので」

 すげなく答えた男に対し、露木は嘆息した。紙片を指で挟んで引き寄せながら、弁明するように呟く。

「それもそうか。関わった事件が多すぎるからな」

 男は口を閉ざしたまま立ち上がる。

 露木と松永の背後の壁面には、小さな木枠に入った写真が掛けられている。たくさんの常連客に囲まれて破顔しているのは、男と妻だ。


 レジを操作しながら男は口を開いた。釣り銭を渡す際も、露木に渡されたメモを受け取る際も、彼の顔は直視できなかった。

「行くとなれば、店を閉める必要があります。明日は営業日なので」

 これまでも露木に対し冷たく当たりすぎた、という自覚はあった。本来、店主が客に線引きするのは褒められたことではない。

 罪悪感から発したそれを肯定と取られるのは本意ではない。露木の雑然とした字が並んだメモ用紙を見ながら繰り返す。

「今日中に連絡します。妻と、相談して」

 密やかに降り続く雪のなか、二人の姿は遠ざかっていく。

 男の傍らで見送る妻は、今日も水色のフレアスカートを履いている。

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