野鎌 下
台風のせいで乱れが出たビニルハウスと畠がようやく片付いた。抑制栽培の野菜の出荷には間に合いそうだ。千治は腰を伸ばした。
天気は昨夜の雨の続きの薄曇り。少し風がある。
畠の続きにある家に千治が戻ってくると、妻の依子が千治を待ちかねていた。
「さっき警察が来て、お宅では無くなった農具はないかって訊かれたわ」
「あの高校の事件のことで近所に聞き込みに回っているのだろう」
長靴についた畠の泥を外の水道で落とした。千治は腰にさげた手拭を屋外に置いてある洗濯機に入れた。事件のことで小さな町は騒がしい。家の庭からも望める山の上の高校はたちこめた山霧で少し校舎が隠れ、遠目には城のようにも見える。
「農家を中心にこの辺りの家に残らずあたっているみたい。うちは何も無くなってないわよね」
「草刈り鎌か」
念のために千治は農具置き場にしているガレージに確認に行った。数はちゃんと揃っている。
「鎌といえば、そういえば爺さんが云ってたな。墓を掘るのに使った鎌や鋤は七日経つまでは家に持って帰ってきてはいけない、七日過ぎるまで墓場に置いておけと」
「そういう迷信あったわね。
名古屋にいる長女から送られてきた秋茶がおいしい。千治と依子は同郷同志で結婚した。二人ともずっとこの土地の者だ。
「七日より前に持ち帰ったらどうなるの」
「もし七日が経つ前に墓地から持ち帰ってしまったら、それは化け鎌になる。この世に未練のある者が鎌にくっついて一緒にこっちに来てしまうんだ」
「家の鎌は大丈夫よね」
「無くなった」
「いやだ。それなら警察に云わないと」
「違う、爺さんの代の話だ。無くなったが見つかった。墓場に置き忘れたんだ。ちゃんと七日間墓所に放置してから取りに行ったそうだ」
「昔の人は迷信を信じていたから律儀ね。土葬していた時代じゃあるまいし、鎌なんか今は納骨に使わないわよ」
「墓のまわりの枝払いや草刈りには使うぞ」
雨が降りそうだ。依子は洗濯ものを取り入れるため席を立った。
柱には子と孫たちの小さな頃の身長が刻まれている。その柱を曲がって依子は廊下に出た。歩くと床が軋む。築六十年の家屋はあちこちが傷んでいる。子供もとっくの昔に独立したし、あとは老夫婦で死ぬまで暮らせばちょうどよくこの家も枯れていくだろう。長男ですら都会に出ていくような昨今になってしまっては、せっかくの先祖代々の土地も意味がない。
洗濯ものを取り入れ終わったら、お隣さんに秋茶とおかずのお裾分けをしておこう。ご主人を亡くされて独り暮らしをされているから顔を見に。
庭に面した濡れ縁に踏み出した依子は眉を寄せた。萩の花が咲く庭の真ん中に鎌が落ちている。
「あれ」
農具はガレージに全てしまってあると夫は云っていたのに。
「あなた、ちょっと庭に来て」
庭履きをはいて庭に降りた。黒い鎌に触れる前に依子は家の中の千治に呼び掛けた。
「ねえ、鎌がひとつ庭に落ちてるわよ。これはうちの物なの」
テレビを観ているのか、千治からの返事はない。庭からまわって千治のいる室の窓に向かおうとした。何かが依子の足首を掴んだ。指だった。
依子は地面を見た。その首に飛んできた鎌が突き立った。
村の鎮守のかみさまの
ドンドンヒャララ ドンヒャララ
正午の合図にこの町は町内放送で音楽を流す。明治の唱歌『
年も豊作満作で 村は総出の大祭
ドンドンヒャララ ドンヒャララ
見渡す限り田んぼと畠が広がっている田舎だ。鎮守の森もある。
俺は入院していた。心療内科が入院の必要ありと判断したのだ。何かを疑われているわけではなく、ショックを受けて疲れているから少しの間ということだった。
近隣ではいちばん大きな病院だった。同じ病院には事故を起こした山口紗里先生も入院している。面会制限もなかったから、先生は五階にいる俺の病室に見舞いに来てくれた。
精神がらみで入院すると開放病棟であってもテレビがない。俺はベッドの上にあぐらをかいて半日だけ使用が許されている端末で記事を追っていた。
『夫婦が自宅で襲われ死亡。首に深い傷』
「サリー先生、ほら。高校だけを狙っているわけではないみたいです。現場が近いから同一犯説が今のところ有力だって」
「こんな時にわたしまで事故を起こしてしまって」
「見て、窓の外。ヘリコプターが沢山。あれ全部テレビ局の取材ですよ」
「君を轢かなくて、ほんとうに良かった」
「自損事故扱いなんだってね。エアバッグがなかったら先生は死んでたよ」
俺もサリーも病院が貸し出す同じ色の衣を着ていた。術衣とはまた違い、スーパー銭湯の館内着みたいな上下だ。同じ服。それだけでぐっと距離が近くなった気がする。主に俺だけ。
「お揃いですね」
「新車だったのに」
「次の車はパステルカラーにするのは止めようよ先生。俺が一緒に選んでやろうか」
「職員が保護者対応で忙しい時なのに入院だなんて」
きけよ、人の話。
頸椎を捻挫したサリー先生の首には頸椎保護の帯が巻かれていて、いかにも交通事故を起こした感じだ。
「警察は信じてくれましたか」
「先生、あのことは話さなかった。急にハンドルがとられたと云っておいた。篠田くんのことがあるから警察は悪戯を疑って入念に路面を調べたけど何も出てこなかったって」
俺も先生もあれを見ていた。ぼろぼろの衣の、ぼさぼさの髪の、骨と皮ばかりに痩せこけた少年。地を蹴ってありえない速さで走り、ありえない高さを飛んで猿みたいに車の屋根からフロントガラスに飛び乗った。
「先生も見たでしょう。手に鎌を持っていた。あれは人じゃない」
「そこは、ほら。先生は理学部出身だから」
「学部は関係ないよ。先生は地元の人だけど、大学は北海道だよね。北海道にだって眉唾ものの伝承は沢山ありますよ」
「あれは山の、妖怪?」
サリーの眼は泳いでいた。見たものを忘れようとしているようだった。ぎらぎらした眼玉をして、ぼろ布をまとい、鎌を握ってこちらを睨んでいる……。
「先生」
もしかしたら俺よりもサリーの方が参ってないか。
「冷蔵庫の中にいろんなジュースがあるから好きなの飲んで。クラスのみんなが担任と一緒に見舞いに来て、飲み切れないほどくれたから」
備え付けの冷蔵庫の中には地元のスーパーで一種類ずつ買ったという見舞いの飲料が大量に入っている。金庫みたいな小型冷蔵庫に入りきらなかったボトルはサイドテーブルに並べてあった。
「こんなに要らないし、好きなの選んで何本か病室に持って帰っていいよ」
「ありがとう」
よしよし。厚意を受け取ってもらえた。
「防犯カメラにも何も映っていなかったのだから、わたしの運転ミス。自転車なら濡れた枯れ葉で滑る可能性もあるけれど」
「先生、学校は辞めないよね」
首に保護帯を巻いたサリーは頷く代りに「辞めません」と云った。
「お医者さまの許可が出たら復職します」
鎌があった。冷蔵庫を開けた紗里先生が悲鳴を上げて飛び退いた。冷蔵庫内から鎌を握っている手が伸びた。身体も出てきた。
「先生」
俺はベッドから降りて先生とそいつの間に割り込んだ。これは何だ。なんだろう、こいつは。ぎらつく眼をした骨と皮。鎌を手にして近づいてくる。
「やめろ」
冷たい煙のように冷蔵庫から出てきたそいつを俺は突き飛ばした。俺は水泳部だ。格闘技は授業で習った柔道くらいしか知らないが、組み付いてやった。
「先生に何をする」
最後まで云えなかった。窓枠が背にあたった。空が見えた。墜死する瞬間、そいつが俺の身体から離れていった。俺は窓ごと病室の外に飛び出して、五階の高さから下の地面に落ちていたのだ。臓器が錘のように下がり、地上に転落した肉体が窓ガラスと一緒に砕けた。
一揆勢はこの山にあった古城に立てこもったんだ。
死んだ篠田の声がしていた。
「代官におもねった側と決起した側。村を二分した同士討ちになった。藩側についた村人は、お上の赦しを得るために一揆方の全員を惨殺した。所有者を失った田畑は勝ち残った者たちが得た。一揆の生き残りは竪穴に投げ込まれて、生きたまま埋められたそうだ」
河原が血で染まっている。
同情できる犯罪とそうでないものがこの世にはある。こいつのそれは充分、同情に値した。煙のようなそいつに組み付いた時に俺はそいつを通してすべてを見た。なにが昔起こったのかを知った。これは駄目だ。怒りや哀しみが俺の中にも入ってきてしまう。さぞ悔しかったろう。辛いよな。でもさ、やっぱり駄目だ。
「……やめろ」
こいつに云わなければ。地面に墜落した衝撃でミンチになって手足がもげている気がした。
山口紗里は助けてやってくれ。悪い先生じゃないんだ胸はないけど。
伝わっているのだろうか。そいつは俺の顔を近くからのぞき込んでいる。乱髪の合間からそいつの眼玉がこっちを睨んでいる。中学生くらいかな。お前すげえよやることが。陸上部だったらスカウトしたいわ。
でも駄目だ、やっぱり。
篠田と俺に免じて、他の連中は助けてやってくれ。どうか勘弁してやってくれ。
医師と看護師が走って来た。
「患者が窓から駐車場に転落しました」
「五階の窓は固定されているのに、どうして」
お前が復讐を続けるなら、今度はそれを止められなかった俺が成仏できなくなってしまう。俺は口を動かした。動かしているつもりだったが動いていなかったかもしれない。俺は死ぬ。
こんなことはもう止めろ。お前にだって、ちょっとかわいいなって想う子くらい村にいただろ? 多分その子は、はたらき者で笑顔がかわいくて山で刈ったしばを背負ってるような子だろうな。
そいつは俺を見ていた。鎌を握ったまま。
許せないよな。分かる。でも駄目だ。
寒い。死ぬ時って寒いんだ。身体が重い。母さん寒い。父さんごめん。
運ばれていく俺にすがりついてサリーが半狂乱で俺の名を呼んでいた。期待もしていなかったが、やっぱり先生のままだった。サリーの声を聴きながら俺は死んでいった。
「この子はうちの学校の生徒です」
ドンドンヒャララ ドンヒャララ
あれがおまえの村か。まっかな夕陽の中にとんぼが飛んでいて、稲穂が揺れてきれいだな。
墓を掘るのに使った鎌や鋤は七日間が過ぎるまでは墓場から持って帰ってくるんじゃねえぞ。鎌が死人を連れてきちまうからな。ええか、分かったな。
おらにそれを教えてくれたのは、じさまとばさまだ。
おとうおかあ。おらが負ぶってやった弟妹たち。それから幼馴染のなかま。みんな殺された。
仇をとってやる。
おぼえてろよ、お前ら。
子々孫々、一人残らずおらがこの手で殺して根絶やしにしてやるからな。
暗くて冷たい、暗くて冷たい。
「年貢を納めないのが悪いのだ」
竪穴の底にいるおらに吐き捨てていく者がいる。
「一揆の係累で残ったのは養子に出ていたこの者だけか。同罪じゃ。この土牢は埋めよ。生き埋めにしてしまえ」
地下水がひやっこい。土の中は息苦しい。時々地底から腕を伸ばして足首を掴んでやるんだが、出来るのはそこまでだ。地獄に引っ張ってやろうとしても出来やしねえ。おらの力が足りてねえ。
「おーい、何してるんだ。そんな藪のなかで」
「昨日、鎌をこのあたりに落としたんだが見つからん」
「草刈り鎌か。一緒に捜してやるわ」
真上からそんな声がしていた。
「あったあった」
「もしここが墓地だったら、その鎌はすぐには持ち帰れないぞ」
「七日間、墓の横に置きざりにしておかんと野鎌に化けるという話か。大丈夫だって。こんな藪中に墓があった話などきいたことがない」
何かに手が届いた。丸っこい握り手の先には曲がった刃がついていた。これは鎌だ。草刈り鎌だ。なんだか懐かしいなぁ。この鎌でどんな辛い想いをして村のもんが日々の暮らしを立てていたことか。喰うものがなけりゃ出せる年貢もねえだろうが。おらたちは木の根や藁まで喰ってたんだぞ。二年続いた冷夏で村の老人やこんまい子どもらを山に捨てるか捨てないかって談合になった時に、口減らしなんかさせるかと村のおとうたちが立ち上ったんだ。
必ず復讐してやるからな。兄ちゃんが恨みをはらしてやる。あの世の鎮守の森でまた祭りさしような。餅さついて、みなで腹いっぱい喰おう。待っててけれ。
「やめろ」
誰だおめえ。
「先生に何をする」
おめえは違う。おめえには用がない。邪魔するなら知らねえぞ。
「……子孫を殺すなんて意味ないって」
血だまりに転がってそいつが何か云っている。なんて云ってんだこいつは。
「やめようと想えば、やめられるだろ。お前が自分で決められることだろ」
口をへの字にしておらは鎌を握りしめた。なんだと。
そいつは薄目でおらを見ながら口から血を流して死んでいった。
お前にだって村に好きな子くらい、いただろ。
変なやつ。
第一体育館からは、きゅっと床をこするシューズの音とバスケットボールの打音が響いている。音楽室では吹奏楽部、多目的ホールでは合唱部が練習中だ。
放課後の学校にはまだ大勢の生徒が残っている。菜美はほっとした。
三階建ての校舎の二階が一年生の教室だ。上履きに履き替えて階段をのぼり、教室に入る。後ろの方では黒板が見えにくいので先生に頼んで前の方の席にしてもらった。
机の中を探った。奥の方にペンケースを見つけた。文房具に凝って多種多様のペンを大量に持ち込む女子が多い中、菜美はシャーペンと消しゴムとカラーペンしか持たない。ペンケースは横から見ると三角のかたちをしており、ハリス・ツイードの生地で出来ていた。社会人が持つような大人びた小さなペンケースは入学祝に両親から贈られた菜美のお気に入りだ。見つかってよかった。失くしたわけではなかった。
黒板の隅に授業の消し残りがあった。ついでに消しておいた。
教室の窓からみえる校庭では陸上部とサッカー部と野球部がうまくグランドを分割して練習している。桜はもう散っていたが、花壇のチューリップは満開だ。
背後に人がいた。
菜美は振り返った。誰もいない。
忘れ物を鞄に入れると、菜美は廊下に出た。誰かが横にいる。歩みに合わせて影法師がぴったり付いて来る。廊下の窓ガラスに自分の姿が映っているだけだ。誰かが近くにいるような気がしたのはそのせいだ。
聴こえてくる合唱部の声にあわせて歌おうとした。なぜか声が出てこない。まだ外は明るいのに、放課後の校舎は曇ったように陰り、廊下が長い。
そういえば一揆があって大勢の人が死んだ山だった。うちの先祖も何かで関わっていたようだが、藩政側だったから不問だった。母方の先祖はたびたびの飢饉と戦後の農地改革を耐え抜いた蔵もちの豪農だったときいている。
上履きから靴に履き替えた。両足首を何かが掴んできた。骨ばった指の感触。
菜美は足許を見た。何もない。靴下にも何もついていない。これかぁ『足首さま』って。
「はじめまして」
菜美は声に出した。
「女の子の足を握るなんて足首さまのすけべ、変態」
なんだか気味が悪い。さっきからなんだろう。曖昧な気配が漂っている気がするんだけど。
玄関には創立記念の大きな鏡があった。そこに菜美の姿が映っていた。ほらやっぱり他には誰もいない。
靴をはくと、鏡にむかって菜美は衿元のリボンを整えた。口角をあげてみる。左右を見て誰もいないことを確認すると、菜美はポケットからリップを取り出して鏡を見ながら唇にぬった。校則では禁止されている色付きのものだ。
まあまあ可愛いんじゃないかな。学年で十番目くらいには。
頬を手で包んだ。
幼い頃よりはかなり薄くなったけど、りんごのようなほっぺって、大きくなった子には褒め言葉じゃないよねえ。
菜美は鏡から離れた。帰って宿題をやらないと。数Ⅰが苦手。授業も途中で眠たくなる。
「足首さま、足首さま。わたしは今から山を下ります」
菜美は足許に向けて囁いた。
「夕方の山は怖いからわたしと一緒に附いて来て下さい。むかし事件があったから見守っていてね。でもスカートの中は覗かないで」
校門を出て、菜美は日暮れの学校を後にした。
烏のなく長い坂道が待っている。
[了]
野鎌 朝吹 @asabuki
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