「正しく」生きられなかったふたりの、切実でいとおしい恋の話

いわゆる世間が押しこめようとしてくる「正しさ」や「ふつう」に息ぐるしさを感じたことのある本読みの皆さま、ここにそんなあなたにぴったりのいとおしくも胸の搔きむしられる恋のお話があります。

※一切のネタバレを見たくない、という方はぜひ今すぐ本編へどうぞ。大きなネタバレはしていませんが、事前情報なく読んだ方が魅力的なお話でもあると思います。

主人公つぐみは、名家に生まれたお嬢さま。
日本画家である彼女は窮屈な家を飛び出し、彼女のオム・ファタルであるうつくしい男・葉を3000万円で買って、契約結婚をする。
彼女には幼い頃に巻き込まれた事件のトラウマのせいで、扉を開けることのできないという事情がある。
なぜつぐみは葉を買ったのか。なぜ彼女は扉を開けることができないのか。
そんな謎に迫っていくというと、一見サスペンスフルな物語に思えますが、読み味は繊細でやわらか。ひかり射す庭を眺めながらおいしいごはんを食べているのがいちばん似合うふたりの物語だと感じます。

私がこの物語でいちばん最初に胸を鷲掴みにされたのが、「三 旦那さんと元カノ前線到来 (2)」。
『心が、ほかの子たちと似たかたちをしてないことは、ふしあわせだろうか。一ミリ、二ミリ、三ミリ。変形はどこまでゆるされるんだろう』
他の人たちの言うふつうの幸せ、世間的な正しさのなかで今にも溺れてしまいそうなひとたちをそっと掬い上げて、まなざしを向けるやさしいお話だと感じました。

糸さん/水守糸子先生のお話は、丹念で細やかな心理描写、そして情感たっぷりのうつくしく繊細な情景描写がたいへん魅力的だと感じていますが、今作もその魅力は健在です。
ふたりがごはんを食べたり作っているシーンはもう全部最高! と声を高らかに叫びたいですし、「三 旦那さんと元カノ前線到来 (3)」の小石のシーンがたまらなくいいです。「六 奥さんとはじめての恋 (4)」の鉄骨階段をくだってからのシーンも、うつくしくて果敢なくてせつなくてやさしくて胸を掻きむしられました。
主要人物以外の人物たちもとても魅力的です。
糸さんは、こんな人ほんとうに居そう、という人物造形がとても達者で、豊かで奥行きのある人間と人間模様を描かれる作家さん。だから私はどの人物もとてもすきになってしまうのですが、今作は脇キャラクターだと今のところ鮫島さんと鷺子さんがとくにすきです。気になっているのは律さん、ひばりさん。

繊細でやわらかでいてはげしい、いびつな形からはじまった夫婦のひかりにいたるまでの恋物語。
傷ついた外れ者のふたりをつなぐ木造平屋と偽りの契約婚が、どうか彼女たちの安寧となることを祈ります。
続きが楽しみでなりません。

(第一部完結まで拝読した時点でのレビューです。レビューはごく個人的なものですので、読み間違いなどあるかもしれませんがご容赦ください)