放課後ピアノ

不許

放課後ピアノ

私は放課後のピアノが好き。

放課後は、教室で浮きがちだった私がやっと地に足を着けられる時間だ。

うだつの上がらない授業を聞きながら教科書に落書きをする、そんな役目のモブAから開放された気分。

正門を抜けていく運動部員を眺めながら、オレンジ色に染まる音楽室の椅子に腰掛ける。


「今のはね、こいぬのワルツ」


未熟な青春の錯覚の中にはいつもあなたがいた。

軽快にモノクロのピアノに指を滑らせケタケタ笑う。鍵盤を叩く度、私の鼓動が跳ね上がる。

目を閉じれば、子犬が足元ですり寄ってくるちょっとした白昼夢。


「これ自分で作曲したの?」

「そんなわけないじゃん。フレデリック・ショパンだぜ。この曲いいよね〜、ただ楽しくてさ」


ピアノからは軽やかな音が流れ続けていた。

鍵盤が叩かれるたび、まるで魔法にかけられたみたいに私たちは世界から切り取られ素敵なふたりぼっちになる。

あなたは癖っ毛を指でいじりながら、ふと、呟いた。


「ピアノ楽しいな」


これはウソだ。


あなたは楽しいキブンが急に冷めて虚しくなったとき、髪の毛をいじりだす。

私にはわかる。だって、トモダチだから。


――彼女がどっかの有名なコンクールで優勝した時、本当にうれしかった。しかめっ面がぱっと咲いた笑顔になって私まで心が温かくなった。ついでに偉い先生っぽい人との記念写真も撮れた。

でも地元の新聞で取り上げられた途端いじめの標的になったり、今度は先生から「不良生徒だ」と言われ始めたり。

あれ、絶対嫉妬してた。

ピアノの講師だったお母さんからは、逆に期待されすぎて、気ままに弾きすぎ、次はああしなさいこうしなさいって怒鳴られるようになったらしい。人間ってほんと面倒だ。


だからこうして、今は私の前でだけピアノを弾く。私だけの特権だ。

あなたのピアノは鮮やかで胸が弾む。私はくだらない人間だけど、最初からあなたの演奏の価値がわかっていたことだけは心から誇っていた。


……彼女が転校してきた頃。私はいやだなあってモブらしく彼女を避けていた。

だってあの子には不思議と人を惹きつけるオーラがあって、ああして嫌がらせを受けるのもやっかみがあったんだろう。


「ゆずノートちょうだい。来週には返すから」


なのになぜかどうしてか、彼女は授業で毎回居眠りした挙句、私から学習ノートを盗もうとするんだ。

ノートを取り返しに追い回して、聞き飽きるくらい言い訳を聞いて、対策して引き分けて、くだらない冗談で大笑いして、私しか知らないような話もいつの間にか知ってるようになって、気が付いたら一緒にお弁当を食べるようになって。

音楽の授業で弾いた彼女のピアノがあんまりにも上手だったから、放課後に「ちょっと弾いてよ」って――


「ゆず」


ピアノが止まる。

いつの間にか曲が終わっていたようだ。

オレンジ色に染まった教室の中であなたが振り返る。


「私、留学する」

「え、そっか……本格的にピアニスト目指すんだ。そうだよね。日本じゃ練習もおぼつかないかあ」

「ピアニストにはならないよ」

「え?」

「お母さんに無理言って認めてもらったの」


あなたが私の眼を覗き込んだ。

「応援、してくれるよね?」


心臓がばくばく鳴っていた。

彼女の、軽やかなピアノが脳裏にリフレインする。


口を閉ざして、それきり何も言えなかった。



……歌うピアノ。世界で一つだけの演奏ができる、彼女だけの特権だ。

彼女はいわゆるギフテッドで本物の天才だったんだろう。

スポットライトの中央にいるあなた。

あなたが喝采を浴びてステージから降りてくる。私は舞台袖で拍手をする。

特別な何かが欲しかったわけじゃない。ただ舞台上からちょっとでも笑いかけてくれたなら、たぶん私は、ほんの少しだけ幸せになれるんだろうと思っていた。

だから支え続けて「あげよう」って。

でもそれって結局、彼女が浴びてるスポットライトのおこぼれが欲しかっただけなんじゃない?

――埃を被った心のグランドピアノがくすんで見える。


メールアドレスを変えた。

あんなに仲良しだったのにねってクラスメイトに笑われた。

でもあのヒトちょっとウザかったね~と言われて笑みを浮かべた。

どうせ私はつまらないモブだし。


……なんて薄汚い。私というピアノは、世界は、



クソったれなモノクロだ。



パワハラ上司の世間話を9時間聞き流した。

すっかりOLも板についた。

就業時刻になると先輩は帰り支度を始める。私の実質的な終業時間はまだ先だ。

どぶ色の地下鉄につり革で揺られる。


電車のモニターに、インタビューが流れていた。

ストレートヘアーのピアニストが滔々と語る。


――マルタ・オーケストラのピアノ奏者として働くことにプレッシャーは感じますか?

――そうですね、やっぱり責任は感じます。楽曲では一音一音が音楽を構成する大事なパーツですから。

――オーケストラの一員として、どんなことを意識していますか?

――音楽は自由でなくてはならないと思います。

――音楽の自由とは具体的にどういうものですか?

――例えば……そう、私が今ここで、この場で歌ったり笑ったり、どこか旅に出たり……枠に収まらずに思うまま、やりたいように飛び出すのが自由です。人間の根源から湧き上がるウキウキとした、なんだかうれしい気持ちを音楽にしたいと思っています。

――あなたにとってピアノは、自由なんですか?

『ええ、とても!』



「ウソつき……」


私は、死体のように見ている。


――尊敬している人は、お母さんです。


枝毛一つない癖毛もない、ストレートヘアに矯正されたピアニストが髪をいじる。

私は、死体のように 見ている。


――でも、この演奏があの子にも届くかもしれないと考えたら頑張らないとって思うんです。


少しだけ晴れやかに彼女が言った。


昔、すっごく仲が良かった子がいて……放課後にね、ピアノを弾いてあげてたんです。

あんまりピアノには詳しくない子だったから肩ひじ張らずに弾けはしたんですけど、授業のときのあの曲弾いてとか、CMのあの曲弾いてとか、そういう無茶ぶりばかりされてたんですよ。


……私は無茶ぶりなんて一度もしたことないよ。

あなたが勝手にハードルを上げて、ほらこれ弾けたよ、すごいでしょって言い張ってきたんでしょ。

しょうもない、ウソ。


素敵な思い出? ええ、そうですね。苦しいこと、苦いこともあったけれど、今となってはきれいな思い出です。

ピアノを弾けば、あの放課後の日に戻れるような気がするんです。誰もが特別だったあの頃に――


『それではお聞きください。「子犬のワルツ」』



彼女の指が、少しずつ少しずつ、白い鍵盤に沈んでいく。

そしてトー……ンと心地いい音が響いたかと思えば、軽やかに鍵盤のうえで踊り出した。

ショパンが貴婦人を喜ばせるためだけに作曲した可愛らしい子犬の曲。


晴れやかなその音が、モノクロになった世界を鮮やかに染めていく。

電車の座席を赤色に、退屈な吊り広告を虹色に。

窓の外暗闇で輝くマンションの窓明かりを光のオーナメントに変える。

シルエットとなった山々の間からは、まだ落ち切っていない夕日の鮮烈なオレンジ色、違う、これはまぼろしだ……。


嗚呼、クローゼットに押し込めたモブAの私が泣いている。

放課後が好き。

ピアノが好き。


「あなたが好き……」


車窓のむこうであの日と同じ制服をまとった私が泣きながら笑っている。

子犬のまぼろしが楽しそうに駆け回っている。


どうしてあの日、あなたの背中を押してあげられなかったの?

こびりついた悔恨すら押し流すほど、世界に色が溢れていく。

ついに私をも色づけて、モノクロの体に色彩が染み渡る。


『ゆず、今日はどんな曲が聞きたい?』

『私ね、今日数学のテストが90点だったから……パーッとするのがいい!』


「いいよ。何でも弾いてあげる」


頬を伝う涙の色は、青空の透き通った浅葱色。


――ねえ。この音、届いてる?

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放課後ピアノ 不許 @yuruseine

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