第4話 湧き起こる疑惑

第四章 「湧き起こる疑惑」


 愛美は学校の昼休みに、優に屋上に呼び出された。屋上は風が強い。愛美はポニーテールなので、それほど風で髪が乱れる事はないが、制服のスカートが風でひらひらするのは気になる。愛美はプライベートではスカートを履かず、いつもパンツ姿なので、制服のスカートは落ち着かない。

 優の呼び出しに、愛美の心は揺れた。おそらく嬉しい展開になるとは思うものの、もしかしたら思いがけない事を言われるのではないかと、不安も少しある。

 愛美は、期待と不安を抱えながら、優のもとへ早歩きで向かった。優は屋上のフェンスにもたれて、余裕の雰囲気に見える。

「こんな所に呼び出して、何の用?」

 平静を装ってはいるが、愛美の声は微かに震えていた。寒くもないのに、歯がかちかちと鳴り、愛美は優に聞こえたのではないかと、恥ずかしくて顔が熱くなった。

緊張していることを、優に悟られたくない。もっと余裕の態度でいたいのに、愛美は歯を鳴らしてしまうほど、緊張している。無理も無い。こんなシチュエーションは、愛美には生まれて初めてだった。

「昨日、あれから何もなかったか? 俺がプレゼントしたペンダントは、今後も愛美を守り続けるよ。でも、それだけじゃダメだ。君にはいつもそばにいて、相談に乗って励まし、何かあれば、すぐに駆けつけて力になる、そういう相手が必要だ」

 優は、まくしたてるように喋った。汗でもかいたのだろう、優の体から、いつも付けている柑橘系のコロンの香りが強く漂い始めた。

「つまり、これからも俺は、ずっと愛美を守りたいと思う。バケモノが現れたら、俺は命がけで戦う。バケモノだけじゃない。愛美を悩ますすべての事から、俺は君を守る。ふたりでいれば、何だって乗り越えられる。だから、これからもずっとふたりでいよう」

「と、言うことは?」

「美馬愛美さん。俺、飛鳥馬優と付き合ってください」

 愛美は思わず優に抱きついていた。自分でも、思いがけない行動だった。恥ずかしい。でも嬉しい。嬉しさのほうが恥ずかしさを遥かに上回ったがゆえの、愛美の大胆な行動だった。ついに恋人ができた。

愛美は柑橘系のコロンの香りを胸いっぱいに吸い込みながら、優のブレザーの胸元に顔を埋めていた。いつの間にか溢れた涙が、優のブレザーを濡らすこともお構いなしに。

「おいおい、びっくりするじゃないか」

 言いながら、優も愛美を思いっきりハグしてくれた。筋肉質で大きな優の胸が、愛美を安心させてくれる。これからは、不安なことがあれば、いつでもこの胸に飛び込めばいいんだ。誰も見てないことをいいことに、愛美と優はしばらく抱き合ったままでいた。

 昼休みが間もなく終了することを知らせる予鈴が鳴った。そろそろ教室に戻らないといけない。

 午後の授業が始まっても、席が隣同士の愛美と優は、先生の目を盗んで見つめ合ったり、そっと机の下で手を握ったりした。これからは毎日、こんな楽しい気持でいられる。

「今日は、あいつは来てないな」

 放課後、優が愛美の耳元で、そっと囁いた。そう言えば、暁がいない。優のことばかり考えていて、暁の存在を忘れていた。

「暁なんて、もうどうでもいいじゃない」

 言いながら愛美は、いつか暁を問い詰めて、暁が愛美について知っていることを全部、白状させる必要があると思っていた。暁は愛美の運命について、何かを知っている口ぶりだった。それを聞き出す必要はあるな、と愛美は思った。

 愛美と優は、並んで一緒に下校した。クラスのみんなが、こちらを見ている。女子の中には、こちらに何か叫んでいる者もいるが、愛美の耳には聞こえなかった。

 学校の敷地を出ると、優は愛美の手を握った。嬉しかった。これからは毎日ずっと、優と手を繋いで歩こう。愛美はそう思った。愛美の足取りは、自然と軽くなる。

 愛美のアルバイトの時間まで、愛美と優は手を繋いだまま、ウィンドウショッピングをしたり、一緒にソフトクリームを食べたり、喫茶店に入ってアイスコーヒーを飲みながら、いつまでもたわいない話をしたりした。お陰で愛美は、バケモノのことなど忘れてしまった。

「そろそろ、アルバイトに行かないと」

 いつもなら、アルバイトの前に家に帰って制服を着替えるのだが、優と時間を忘れてデートした今日は、時間が無い。

「俺、今日は親の帰りが遅いから、愛美のアルバイト先のファミリーレストランで食べるよ」

「だったら私のまかないのときに、一緒に食べない。うちのレストランのまかない、美味しいよ。少し待っててくれれば、すぐだから」 

ふたりで愛美のアルバイト先のファミリーレストランへ行くことになった。いかにも青春といった感じで、愛美は嬉しかった。

 愛美はファミリーレストランの店長や従業員、アルバイト仲間たちに優を紹介した。みんなに恋人を紹介できることが嬉しかった。しばらく優にはドリンクを飲んで待っていてもらい、暇をみて優と食事した。

 愛美がアルバイトするファミリーレストランは、平日であれば夜でも、それほど忙しくはない。食事が済むと優は、邪魔になるといけないというので先に帰った。愛美は、その後もアルバイトをして、夜の十時過ぎにアルバイトを終えた。

「送って行くよ」

 愛美がファミリーレストランから出ると、優が待っていてくれた。愛美が出てくるまで、ずっと外にいたのだ。優のやさしさに、愛美は胸がきゅんとした。

「ありがとう」

 愛美と優は夜の街を、肩を寄せ合い手を繋いで、ゆっくりと歩調を合わせて歩いた。しかしいくら歩調を合わせようとしても、どうしても優の歩幅のほうが広く、愛美は少しずつ歩くのが遅れていく。それがまた、愛美には嬉しい。

 愛美の歩くのが遅れるたび、優は少し立ち止まって愛美を待ってくれた。愛美は、自分の好きな音楽やネット動画、はたまた学校の先生の好き嫌いまで、思いつくまま喋り、そして優の趣味も聞いた。

 自分のことをもっと知ってもらいたいし、優のことをもっと知りたい。愛美はもっとお互いのことを知り合いたいと思った。焦ることはない。こういう毎日がずっと続くのだから。

「近道をしようか。この前、歩いてて見つけた道だよ」

 優は、そう言うと大通りから一歩、裏通りへと入った。人通りは無い。街灯もまばらで、淋しい感じの通りだ。でも優と一緒だと、どんな道でも楽しい。

 ぽっぽっぽっ。

 なにやら音がした。陰にこもった小さな音だ。あるいは、低い、くぐもった、男のつぶやき声にも聞こえる。

「何か聞こえない?」

 愛美は不安になり、優に聞いてみた。

「何も聞こえないよ」

「夜だし、変質者でもいるんじゃないでしょうね」

「気にしすぎだよ」

 優は男だからいいが、変質者の場合、狙われるのは女のほうだ。愛美は不安な気持ちになり、優の手を強く握った。優も愛美の手を強く握り返したが、愛美が不安な気持ちから優の手を強く握ったことがわかっているのだろうか?

 ぽっぽっぽっ。

 やはり、何か聞こえる。さっきより、確実に近づいている。

 前方に火が灯った。青白い炎だ。風も無いのに揺らめいている。その青白い炎は、少しずつ数を増し、上下に激しく動きながら、少しずつこちらに近づいてくる。

「なに?」

愛美は恐怖で凍りつき、声も出ない。とっさに立ち止まると、優にしがみついた。

 ぽっぽっぽっ。

 陰気な音と共に青白い炎が近づいてくる。青白い炎は、バレーボールぐらいの大きさだった。近くに来ると、青白い炎の中に目があるのが見えた。その目は、まるで意地悪く笑っているように見えた。青白い炎は、十個ほどに増えていた。

 ぽっぽっぽっ。

 青白い炎は愛美に近づくと動きを止めた。炎の中の目が、炎から飛び出そうとしている。

(バケモノ)

 それは明らかにバケモノだった。またバケモノが、愛美に牙を剥いたのだ。

「優。助けて」

 愛美は、声にならない声で、そう叫ぶのがやっとだった。愛美は、腰を抜かしそうになりながら、なんとか優に支えてもらっていた。こんな道に来るんじゃなかった。

「慌てるなよ。今こそ、俺がプレゼントしたペンダントの効果を試すときだ。そのペンダントさえあれば、もうこんなバケモノは怖くないんだよ。それに俺がついてる」

 優は力強い声で、愛美を励ました。そして愛美の手に自分の手を添えると、愛美に首のペンダントを握らせた。愛美は優にサポートされながら、震える手で胸のペンダントを制服の襟から出した。

「さ、そのペンダントをバケモノにかざして、消えてしまえ、と叫ぶんだ」

 愛美は恐怖から目をつぶり、ペンダントを前に突き出すと、喉から絞り出すように「消えてしまえ!」と叫んだ。

 愛美が目を開けると、そこには何事もなかったかのように、街灯のまばらな、人気の無い裏通りの景色が広がっているだけだった。

「バケモノは?」

「消えたよ。あっさりとね」

「本当?」

「本当さ。これが俺がプレゼントしたペンダントの効果なんだよ。バケモノなんて、もう怖くないだろ」

「でも優がそばにいてくれなかったら、私は怖くて何も出来なかった。私は、誰かに守ってもらわないとダメなの。自分ひとりで、バケモノと戦うなんて無理。だから優、これからも夜道は私と歩いて」

「ところでさ、愛美ってなんでバケモノに狙われてるの?」

「私にも、わからない。ある人に言わせると、私の運命なんだって」

 そう言って愛美は、初めて優に、魔女のマリアさんの存在と、マリアさんからのメールの内容をかいつまんで話して聞かせた。

「そのマリアっていう人、本当に信用できるの? 会った事もないんだろ。なんでそこまで、信頼するの? でたらめを言ってるのかもしれないよ」

「でも、私がバケモノに襲われるのは本当だし、以前はマリアさんからもらったタロットカードのペンダントで、バケモノから守られていた。それに私の運命については、暁も似たようなことを言っていて」

「暁って、あいつだろ。おかしいと思わないかい? マリアっていう人と暁とが、同じようなことを言っている。もしかしたら、ふたりは繋がっているのかも?」

 考えたこともなかった。よく考えると、なぜか暁は、愛美がクリスチャンを辞めたことやウィッカンになったことを知っていた。つまり暁は、誰かに愛美の情報を聞いたということになる。それは誰なのか?

「マリアさんと暁って、グルなのかな?」

 愛美はとたんに不安になって、優に相談した。

「その可能性は、あると思うよ」

 愛美は考え込んだ。今までマリアさんと暁のことは、別々の存在だと考えていた。遠い間柄の存在だと思っていた。そのふたりがもし、愛美の情報を共有しているとしたら、その目的は何か? ふたりは愛美に隠れて、何かを企んでいるのか?

 愛美の心の中で、マリアさんに対する信頼が、急速に揺らぎ始めた。マリアさんを、このまま信じていていいのか?

「マリアさんからもらったタロットカードのペンダントが、私を守護してくれていたのは事実だし、マリアさんが悪い人だとは思えないけど、暁はちょっと怪しいと感じてる」

「そのマリアってのが黒幕だったら、どうする?」

「黒幕?」

「暁がマリアの手先で、さらに……」

「さらに?」

「つまり、バケモノを操っているのがマリアだという可能性がある。マリアってのは、魔女なんだろ? 黒魔術とか、何かやってるんじゃないのかい? そういう特別な力を持った魔女なんじゃないのか?」

「まさか。むしろマリアさんは、タロットカードのペンダントを送ってくれて、私を守ってくれた。もしバケモノがマリアさんの仕業なら、矛盾している」

「そこをよく考えろ。愛美を信用させるために、わざと愛美を守ったんじゃないか? 事実、愛美はマリアを信用しきっているじゃないか」

「でも、何のために?」

「今の段階では、はっきりとは断言できない。だけど、そのマリアってのとは、縁を切ったほうがいいと思うよ」

 愛美は呆然とした。信じていたものが、足下から崩れ始める。愛美の膝は、がくがくと震え出し、息苦しくなってきた。

「もう遅いから、早く帰らないと。家の前まで送ってね」

 愛美は頭が混乱してきたので、考えるのを止めにして、家に帰ることにした。ふたりは何となく無口になり、早歩きで歩いた。今日は雲があり、月が見えない。七月とはいえ、少し肌寒くなった。

 愛美の家へと着いた。愛美と優は、別れる前に家の前で抱き合った。優の柑橘系のコロンの香りは、今では愛美のお気に入りだ。

「今日はありがとう。バケモノから守ってくれて。私ひとりだったら、どうなってたことか」

「なに、俺が渡したペンダントさえあれば、心配しなくていいよ。肌身離さず、身につけていてくれ。俺だと思ってね」

「うん。そうする。お休み」 

 優と別れると、愛美は家へと入った。母親は家には居ない。家の中は真っ暗で、しんと静まり返っている。愛美は玄関の明かりを点けた。

 家の中に入ると、微かに何か聞こえる。家には誰も居ないはずなのに。まさか、バケモノ? 愛美は慌てて、優からもらった黒い石のペンダントを握った。

 微かに聞こえるのは、女の声だ。呪文か祈りの声。居間から聞こえてくる。

(怖い。スマートフォンで優を呼ぼうか。でもバケモノだったら、優が来る前に襲いかかってくるわ。このペンダントさえあれば、私だけでも何とかできるはず)

 愛美は恐る恐る、足音を忍ばせながら、居間へと向かった。恐怖で体が緊張する。居間の前に来た。だが、愛美は怖くて、居間の戸を開けられない。愛美は必死で、黒い石のペンダントを握り締めた。だが、居間の戸を開ける勇気は出ない。

(だめだ。やはりバケモノとは戦えない。優に守ってもらおう)

 居間からは、相変わらず微かな声がする。何かいるのは間違いない。愛美は家の外に出て、スマートフォンで優に来てもらうことにした。

 愛美が居間の前で引き返そうとしたとたん、いきなり居間の戸が開いた。愛美は心臓が止まりそうになり、絶叫した。

「お母さん」

 居間から出て来たのは、母親だった。母親は無言で愛美を睨んでいる。よく見ると、母親が睨んでいるのは、愛美ではなく、愛美の手に握られた黒い石のペンダントのようだ。

「お母さん、夜勤じゃないの?」

 母親は、愛美の質問には答えず、無言でどこかへ行ってしまった。

(もう、びっくりさせて。あやうく優に連絡して、優に迷惑をかけるところだった。だけどバケモノじゃなくて、良かった)

 愛美はほっとしながら、二階の部屋に入った。制服のままベッドに仰向けに寝転び、天井を見上げた。

(優は、マリアさんのことを疑っていたみたいだけど。確かにマリアさんは、バケモノの話をしても驚いていなかった。そして、運命の扉とか、私の持って生まれた運命のせいだとか、思わせぶりな事を言いながら、そのくせ詳しい説明はしてくれなかった。怪しいと言われたら、怪しい気もするけど)

 突然、湧き起こる、マリアさんへの疑惑が、愛美を戸惑わせた。マリアさんの事は、ずっと信じてきたし、これからも信じていきたいのだが。

愛美はスマートフォンを取り出し、マリアさんにメールしようか悩んだ。単刀直入に、マリアさんへ、疑問をぶつけようか。でも、直接、質問しても、はぐらかされる可能性もあるだろうし。

 愛美はまだ、マリアさんのことを信用したい気持ちがある。愛美にとっては、母親代わりだった人だ。でも優の言う通り、マリアさんがバケモノを操っているとしたら? そんなバカなという気持ちは、もちろんある。だが冷静に考えると、マリアさんは愛美のことをいろいろ知っているけど、愛美はマリアさんの素性を知らない。

(そうだ。学校で暁に会ったら、まず暁に、マリアさんのことを知っているか聞いてみよう。もしマリアさんのことを知らないのなら、私がキリスト教徒を辞めてウィッカンになったことを誰から聞いたのか、問いただそう。そして、私の運命については、何を知っているのか、どこまで知っているのか、誰かに聞いたのか、それも聞き出そう)

 愛美はマリアさんに失礼なメールをするよりも、一応は幼馴染みで、かつては仲が良かった暁を問い詰めるほうが、心理的ハードルが低いと思った。


 翌日、学校に行くと暁がいない。昨日も休みだった。どうしたのだろう? 明日は終業式で、その翌日からは夏休みだ。愛美は暁の家を知らないから、夏休みになってしまうと九月まで会えない。そんなに待てない。

 愛美は、夏休み前の最後の授業を優と楽しく受けた。授業中もふたりで目を合わせたり、こっそり手を繋いだり、たわいもない内容の手紙をメモ用紙に書いて交換したりした。お陰で授業の内容は、さっぱり頭に入らなかったが、放課後まであっという間だった。

 愛美と優は、いつものように放課後のデートを楽しんだ。ただ不安があった。優が、愛美をアルバイト先のファミリーレストランまで送った後に、家へと帰って行ったことだ。優もまだ高校生だ。夜になれば、親元に帰るのは当たり前だから、引き留めることは出来ない。

 もしアルバイトからの帰り道、今夜もバケモノが現れたら。そう考えると、愛美の心臓は締めつけられる。いくら黒い石のペンダントがあるとはいえ、ひとりでは心細い。

 愛美はアルバイト自体は好きなので、アルバイト仲間と楽しく働いた。店長も良い人だ。だがアルバイトが終わって帰る時間になったとき、愛美の心に不安が押し寄せた。

(やっぱり、優に電話して、迎えに来てもらおうか。嫌われるかな?)

 迷いつつファミリーレストランから外に出ると、そこには優がいた。

「優。来てくれたんだ」

「当たり前だろ。愛美をひとりにして、またバケモノでも出たら困る。家に帰って、親に許可を取ってきたんだ。付き合うときに言っただろ。ずっと愛美を守りたいと思う、って。むろんバケモノだけじゃなく、愛美を悩ませるすべてのものから守るよ。それが男の使命だ」

 愛美は、まだ近くにアルバイト仲間たちがいるにもかかわらず、優に抱きついてしまった。愛美は子供の頃から、こういう頼りになる相手を探していたのだ。その相手が、恋人という形で手に入った。もう手放したくない。

 愛美と優は手を繋ぎ、昨日と同じように夜の街を歩いた。昨日と違うのは、昨日通った、人気の無い裏通りには、足を踏み入れなかったことだ。いくらふたりとはいえ、バケモノでも出たら困る。

 今夜は何もなかった。バケモノは、ついに現れなかった。愛美は内心は心配していたが、優のお陰で、その心配を上回る安心感があった。

 愛美の家の前で、ふたりは当然のように抱き合った。そして名残を惜しんでから別れた。優の背中に手を振って、大声で「お休み」を言ってから、愛美は家に入った。今夜は母親も居ない。ちゃんと看護師の仕事をしているようだ。

 翌日の終業式も、暁は欠席だった。とうとう暁に会えなかった。九月までは待てない。マリアさんに疑問をぶつけるべきか。でも本当に優の主張通り、マリアさんがバケモノの黒幕だとしたら、下手にその事をメールしないほうがいいと思う。

 愛美は頭を振って、マリアさんへの疑惑を振り払おうとした。

「どうした、ひとりで頭なんか振って」

 優が、笑いながら愛美を見ている。今日は終業式。明日からは夏休みだ。つまり、優と一日中デートしていられる。それを考えると、愛美もにまっと笑顔になった。

 夏休みの間、ずっと優と一緒だと思うと、暁のこともマリアさんのことも、どうでもよくなる。バケモノだって、優が守ってくれるのなら平気だ。そういう気になる。

 終業式は、午前中で無事に終わった。その後は、いつものパターンだった。愛美と優とのデートの時間だ。まずは映画館で映画を観た。当然のように映画館では手を繋いだ。愛美は、優と手を繋ぐことに気を取られて、映画の内容が半分しか頭に入ってこなかった。

 映画の後はランチをしつつ、映画の感想を優と話し合った。とは言っても、ふたりとも映画の内容はうろ覚えだった。映画よりも、相手に気を取られていたせいだ。

 その後も、愛美がアルバイトに行くまでデートした。むろん、アルバイトが終わったら、優が迎えに来てくれる。これからは九月まで、毎日がこうだ。愛美は、世界がバラ色に見えた。もう何も怖くない。優が、守ってくれるからだ。

 愛美のアルバイトが終わり、優とふたりで帰ると、優は、愛美の家への近道になる小さな公園に、愛美を誘った。以前、ネコのバケモノが出た場所なので愛美は躊躇しつつも、優の誘いを断れない。愛美は小さな公園に足を踏み入れた。

「このベンチに座ろうか」

 公園の中央にある小さなベンチに、ふたりで座った。と、突然、優の唇が、愛美の唇を塞いだ。いきなりのキスだった。愛美にとっては、ファーストキスだ。まだ付き合って間もないのに。でも、これが普通なのかな? と思う。優の荒い鼻息が、愛美の顔にかかる。愛美の鼻息も荒くなってきた。

 優の舌が、愛美の唇の中に侵入した。優の舌は、愛美の舌を探し当てると、優しく愛美の舌に絡んで来た。意外と気持ちいい。

(優は、慣れてるのかしら?)

 そう思ったが、怖くて聞けない。愛美にとってはファーストキスなので、優にとっても、そうであってほしい。

 ようやく優の唇が離れた。

「俺は本気だよ」

 優が冷静な声で言う。

(優の声は震えてない。やはり、慣れてるのかしら?)

 愛美はそう分析しながら、冷静ではいられなかった。初めてのキス。大好きな優だから、嬉しい。でも恥ずかしい。いろんな感情が、一気に愛美の頭の中を交差した。

「俺は本気だよ」優は、繰り返した。

「本気で愛美のことを想っているから、キスしたんだ。中途半端な気持ちでは、こんなことはしない。ずっと一緒にいたい。一生、ずっとだ。そして生涯、君を守り続ける」

「私も同じ。一生、優に守ってもらいたい。私を離さないで」

 優が真剣に自分のことを愛してくれていることが伝わって、愛美は泣きながら優に抱きついた。下弦の月は、そろそろ新月になろうとしている。だが、愛美の目には涙が溢れ、その月を見ることができない。ただ、優から漂う柑橘系のコロンの香りを嗅ぎながら、愛美は声を上げて泣きじゃくった。

「お前ら、まさか付き合っているんじゃないだろうな。別れろ。絶対に許さないからな。もし別れないなら、どうなっても知らないからな」

 いきなり、吐き捨てるような罵声がした。暁だった。いったい、いつから見ていたのか。暁は、青白い顔を赤くして怒鳴ると、ベンチを乱暴に蹴ってから立ち去った。

「ちょっと待って。暁に聞きたいことがあるの」

 だが暁は、振り返りもせずに、足早に公園を出て行った。このチャンスを逃すと、次はいつ暁に会えるかわからない。疑問をぶつけるのは、今しかない。愛美は立ち上がって、暁を追いかけようとした。

「あんなやつ、ほっとけ」

 愛美は優に腕を掴まれ、暁を追いかけることができなかった。

 せっかくの優とのファーストキス。そしてプロポーズを思わせる、優の言葉。お互いの気持を、はっきりと確かめ合った夜に、冷や水を浴びせるような暁の登場。しかも、その暁を取り逃がしてしまった。

 だけど、今夜で愛美と優との関係は、一段と深まったことは確かだ。愛美は何ともいえない、幸せな気持ちに浸っていた。

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