第7話 優の家での出来事

第七章 「優の家での出来事」


 早朝に目が覚めると、愛美はシャワーで念入りに体を洗った。夜中に眠ったにもかかわらず、早朝に目覚めたのは、愛美の気持ちが昂ぶっているからだ。今日は、初めて優の家に行く。優の両親は留守だ。つまり、優の家の中で優とふたりきり。優と、なにかあるのではないか、と愛美は期待が膨らむ。

 早朝なので、母親はまだ寝ているだろう。愛美は、母親を起こさないように、ひとりで朝食を済ませ、歯を磨いた。

 部屋に戻ると愛美は、パジャマ代わりのジャージを脱ぎ、下着姿になった。ブラジャーは、していない。肌身離さず身につけている黒い石のペンダントが、愛美の胸のふくらみの上で揺れた。

愛美は、ショーツを脱ぐと、滅多に使わないローズの香水を、自分の薄いアンダーヘアの辺りに軽く振りかけた。果たして、優がこの香水を嗅ぐシチュエーションはあるだろうか。それは、優の勇気に任せよう。

 愛美はタンスから、一番のお気に入りのショーツを取り出した。ショッキングピンクで、前側の上のほうに白い花柄の刺繍をした布が縫い付けてある。続けてショーツとセットの、ショッキングピンクのブラジャーも出した。こちらも白い花柄の刺繍を施した、フルカップブラジャーだった。

 愛美は、ブラジャーをする前に、姿見で自分の胸を見た。形は良い。乳首の色も、淡いピンクで上品に見える。ただ、少し胸が小さいのが気になる。やはり男性は、大きな胸のほうが好みなのだろうか。それが不安だ、と愛美は悩む。

 お気に入りの下着で身を包んだ愛美は、黒いデニムを穿いた。今日は、Tシャツではなく、青いノースリーブを着ることにした。青い服にしたのは、ショッキングピンクの下着との対比を考えてだ。ノースリーブ姿だと、少しはセクシーに見えるだろうか。

 愛美は思い直して、黒いデニムを脱いだ。セクシーさを優にアピールするのならば、デニムではなくて、ホットパンツにするべきだと思ったからだ。愛美は、デニム生地のホットパンツを穿いた。これなら、セクシーな美脚を演出できるだろう。

 愛美は、左腕に腕時計をした。淡いゴールドのベルトのアナログ時計だ。文字盤のところは、青色をしている。普段は腕時計をしない愛美だが、たまにファッションとして着用することがある。

 問題は、神聖ゲオーメをどうするかだ。マリアさんは、誰と会うときも離すなとアドバイスした。しかし、昨日の電話の様子では、優は自分のプレゼントした黒い石のペンダント以外のものを本気で嫌っているようだ。

 愛美は悩んだが、優の家に初めて招待された日に、優とケンカ別れするなどという悲劇は避けたい。愛美は、神聖ゲオーメは祭壇の上に置いていくことにした。神聖ゲオーメが無くとも、優からもらった黒い石のペンダントがある。優も、守ってくれる。

 愛美は外出の用意をすませると、闇幽夜叉大明王についての報告の書かれたリポート用紙を、一階の食卓の上に乗せた。こうしておけば、母親が起きてきたときに、目を通すだろう。母親にも、闇幽夜叉大明王について知っておいてもらいたい。

 外出しようと思った愛美は、もう一度、ウィッカの女神に、優との仲が進展するように祈ってから外出することにした。なんといっても、今日は優の家で、優とふたりきりなのだ。愛美からしたら、優との仲を深めるチャンスだった。

 部屋に戻ると愛美は、祭壇のキャンドルに火を点け、インセンスを焚いた。フランキンセンスの香りが、部屋に広がる。愛美は、女神像の絵に手を合わせた。

 優との仲の進展を祈ろうと、優のことを考えたとき、祭壇の上に置いておいた神聖ゲオーメが、軽く光った。その光は、愛美の体を包むように広がり、愛美の体の中に消えていった。愛美の体は、まるで愛に包まれたように、温かくなった。安らぎを感じる。

 これは、天使の愛ではないかと愛美は思った。神聖ゲオーメは、天使から授けられたアイテムだという。昨日、この神聖ゲオーメの光によって、バケモノから守られたことを愛美は思い出した。

 神聖ゲオーメが無ければ、バケモノに体の中に入られていた。やはり、神聖ゲオーメを置いていくのは、やめよう。優には、黙っていればいい。優に隠し事をするのは後ろめたいが、神聖ゲオーメは手放してはいけない気がしてきた。

 愛美は、優に神聖ゲオーメを見られないように、神聖ゲオーメをピンクのクラッチバッグの中に仕舞った。本当は、身につけないといけないのだが、クラッチバッグも持ち歩くものなので、いざとなったら取り出せるだろう。

 優は、黒い石のペンダントは、他のアイテムと併用すると、効果を打ち消し合うと言う。マリアさんは逆に、神聖ゲオーメは、他の善なる力をパワーアップさせると言う。どちらが正しいかは、わからない。ただ、昨日は、神聖ゲオーメによって守られた。それは事実。神聖ゲオーメが効果を発揮した以上、神聖ゲオーメをむげに扱うことは、愛美には出来なかった。

 愛美は、神聖ゲオーメのことは優にないしょにすることにして、神聖ゲオーメをクラッチバッグに忍ばせて、外出した。

 優の家の場所は、事前に聞いてある。優に迎えに来てもらってもよかったのだが、愛美は、優にプレゼントを買って行って、驚かせるつもりだったので、あえてひとりで行くことにしたのだ。

 まだ早朝だった。優の家に行くには、少し早い。愛美は、散歩がてらに、のんびりと歩いた。この時間は、さすがの夏の日差しも、その本来の姿ではない。空気が澄んでいて、愛美は胸いっぱいに、早朝の空気を吸い込んだ。肺が目覚める感じだ。

 優にプレゼントを買うといっても、高級品ではなく、コンビニエンスストアで買うつもりだ。無理して高級品なんか買うと、逆に優に怒られる気がする。

 愛美の家の近くには、コンビニエンスストアは無い。少し離れた場所まで歩く。まだ涼しいので、歩くのは苦にならない。散歩気分だ。

愛美はコンビニエンスストアに行くと、期間限定のお菓子を三つと、紙袋を買った。期間限定のお菓子を紙袋に入れて、優にプレゼントするのだ。これなら、女子高生らしい。

 プレゼントの用意ができた愛美は、コンビニエンスストア近くの、海が見える橋に足をのばした。この海が見える橋は、あまり人がいないのだ。愛美は橋の真ん中まで歩くと、荷物を地面に置いて、近くに誰もいないことを確認してから、橋の上から海に向かって、大声で叫んだ。

「優~。大好きだよ~。今から行くよ~。私を好きにしたっていいんだからね~」

 言いながら、愛美は赤面したが、これで勇気が出た。優とは、キスを交わした仲だが、それ以上の関係になるには、やはり勇気が必要だった。優の特別な存在でありたい。しかし、不安もあるのだ。愛美の気持ちは、複雑だった。

(これで後は、優に任せよう。優が望むなら、そうしよう。望まれなかったら、仕方ない)

 愛美が地面に置いた荷物を持ち、橋を歩き出すと、前方から白の体操服と紺のハーフパンツ姿の女子高生のグループが走ってきた。高校のスポーツクラブの早朝練習だろう。

「先輩。新月の願いって、なんですか?」

「今日の一七時一七分が新月だから、それ以降の時間に、叶えたい願いをノートにいくつか書けば、どれかひとつが叶うんだよ。ただし、新月になってから四八時間以内にやらないとダメだからね」

「恋の願いも、叶いますかね?」

「おまえ、片想いか?」

 女子高生らしい会話が聞こえてきた。女子はだいたい、おまじないが好きなのだ。ウィッカンである愛美にとっては、新月は特別な日だが、ウィッカンでなくとも、新月に願い事をする女子は多いのだろう。

 愛美は片想いではなく、優とは両想いだから、幸せなほうだ。後は、この恋をどう実らせるか、だ。秋になって稲穂が実るように、秋を迎える頃には、優との恋が実っているといいのだが。優は愛美にとって、ずっと探し求めていた、自分を守ってくれる存在なのだから。

 愛美は、できれば優には、ずっとそばにいて守ってもらいたい。そうすれば、自分で自分を守らなくてもいい。そういう相手を探していた。特にバケモノが現れたときなど、本当は自分では何もしたくない。守ってほしい。それが愛美の本音だ。

 早朝に家を出たが、散歩しつつ歩いて時間を潰し、海の見える橋まで足をのばしたせいで、急がないといけない時間になった。日差しが、夏本来の威力を発揮し出した。愛美は一気に汗をかいた。ノースリーブとホットパンツ姿の愛美は、体温を逃がしやすいとはいえ、汗が皮膚から滲み出る。

 あまり汗をかくと、優の前で恥をかくことになる。愛美は、優の家へと急いだ。少し道に迷いつつも、優の家へと来た。郊外なので、思ったよりも時間がかかってしまった。もう、お昼近くだ。

 優の家の周りには、他に家がない。西洋風の外観の瀟洒な建物、それが優の家だ。ぽつんと建っている優の家の前で、愛美はしばらく息を整えた。緊張する。

 愛美は、恐る恐る玄関の呼び鈴を鳴らした。手が震える。愛美は、ごくりと生唾を飲んだ。しばらくして、優が出てきた。満面の笑顔だ。

「遅かったね。黒い石のペンダントは、ちゃんとしてる?」

 優は、真っ先に黒い石のペンダントのことを確認してきた。それだけ、愛美の心配をしてくれているのだろう。愛美はノースリーブの首元から、黒い石のペンダントを取り出すと、優に見せながらピースサインをした。優が気にかけてくれていることが、嬉しい。

「それと、昨日の電話で言っていた、天使のアイテムとやらは、ちゃんと捨てただろうな」

 優は続けて言った。優の顔からは笑顔が消え、真剣な表情に変わっていた。優はよほど、自分がプレゼントしたペンダント以外のものを嫌っているのだろう。本当に、黒い石のペンダントの効果が打ち消されるのだとしたら、愛美を心配してくれている優が、真剣になるのも頷ける。

「やだな~。捨てたに決まってるじゃん」

 自然と口から嘘が出て、愛美は罪悪感を持った。恋人の優に、平然と嘘を言っているのだ。心が痛む。ただ、神聖ゲオーメは、絶対に手放してはいけない、特別なアイテムの気がするのだ。

「ちゃんと、俺の言うことを聞いてくれたんだね。良い子、良い子」

 優は笑顔で、愛美のポニーテールの髪の毛を撫でてくれた。愛美の罪悪感が、さらに深くなった。

「ごめんね。遅くなってしまって。これ、待たせたお詫び」

 愛美は、コンビニエンスストアで買った、お菓子のプレゼントを優に渡した。優は紙袋を覗いて、中を一瞥すると、さして興味のなさそうな素振りをした。

(しまった。失敗した。もっと優の好みを勉強しておかないと。愛美のバカ)

 せっかく、遠くのコンビニエンスストアまで行って買ってきたプレゼントは、どうやら不発だったようだ。愛美は、落胆で一気に疲れが襲ってきた。朝から、ずっと歩いて来たからだ。優の家が思ったより遠かったのが、一番の疲労の原因ではあるが。

 愛美は優に案内されて、優の家に入った。なんと、優のコロンと同じ柑橘系の香りが、家の中にも漂っている。床には、赤い絨毯がひかれていた。洋風の造りの家だ。お金持ちの家という感じで、奥行きもありそうだ。愛美は、将来は自分も、この家に住むかもしれないと想像し、楽しくなった。

 玄関からすぐにらせん階段があり、優と一緒に二階に上がると、すぐに優の部屋があった。優の部屋にも、絨毯がひかれていた。ベージュで、茶色の刺繍が施された、おそらくペルシャ絨毯だろう。部屋は、わりと広い。やはり優の部屋にも、新鮮なウェルカムフルーツでも置いてあるかのような、柑橘系の香りがしている。お陰で、愛美の汗の匂いが誤魔化せそうだ。

 優の部屋は、クーラーがほどよく利いていて、汗をかいていた愛美の体を冷やしてくれた。そうはいっても、汗はすぐにはひいてくれない。汗臭くないか、愛美は心配だった。

「汗、かいちゃった」

 愛美は、わざと可愛い声を出し、優に神聖ゲオーメを見られないように気をつけながら、クラッチバッグからハンカチを取り出すと、汗をぬぐった。初めて優の部屋に来て、愛美はまだ落ち着かない。愛美は、絨毯の上に座った。

「ね、何か飲まない? さっきのプレゼント、お菓子なんだけど、食べようよ」

「何を飲む? コーヒーか紅茶かハーブティーがあるけど」

「そうね。ハーブティーがいいわ」

 優は、すぐに部屋を出て行った。ハーブティーを取りに行ったのだろう。洋風の家で、ハーブティーを飲むなんて、お洒落な気分だと愛美は思った。

 優がいない間に、愛美は優の部屋を見回した。愛美の前には、小さな白いテーブルがある。近くには広めのベッドと、高級そうな机と椅子。愛美の部屋の学習机とは比較にならない立派な机だ。デスクトップパソコンもある。マガジンラックには、無造作に洋書が入れてあった。

(優って、どんな洋書を読んでいるのかしら?)

 愛美が立ち上がって、洋書を見ようとしたとたん、優が戻ってきた。愛美の心臓は、驚いて、どきんと鳴った。愛美は、慌てて座る。優がいない間に、部屋の中をあれこれ見ていたと気づかれたくないからだ。

「リラックスしなよ」

 優は、愛美の挙動不審な様子を見て、愛美が落ち着かないと思ったのだろう。やさしい声を愛美にかけながら、白いテーブルにハーブティーを置いてくれた。薄黄色のハーブティーに口を近づけると、スペアミントの香りが、愛美の鼻に広がる。

 ハーブティーは冷たくて、氷も入れられており、味も清涼感があって、夏にはぴったりだった。喉が渇いていた愛美は、一気にカップの半分ほどを飲んでしまった。

「お菓子も食べようよ。さっきプレゼントしたやつ。もしかしたら、優の好みに合わないプレゼントだったかもしれないけど」

「愛美が家に来てくれたことが、一番のプレゼントだよ」

 優がキザな台詞を言った。聞いている愛美は照れくさくなったが、優は真顔だった。そして、テーブルの下から優の手が伸びてきて、そっと愛美の手に触れた。愛美は、思わず顔が赤くなるのを感じた。

 すぐに優は、愛美の唇を求めてきた。優の口から、スペアミントの香りがする。しばらくはテーブル越しに愛美の唇を吸っていた優だが、我慢できなくなったのか、愛美の唇から自分の唇を離すことなく、愛美の隣に移動して来た。

 優は愛美の背中に手を回すと、本格的に愛美の口の中に舌を入れてきた。これでは、お菓子を食べるどころではない。愛美も、積極的に優の求めに応じることにした。優の舌の感触が、柔らかくて気持ち良かった。

 とうとう優は、愛美を絨毯の床に倒し、愛美に体を重ねてきた。優の、いつもの柑橘系のコロンの香りが、むっと濃くなった。ノースリーブとホットパンツ姿の愛美は、その剥き出しになった無防備な腕と脚とを優にまさぐられた。嫌な気持ちはしなかった。むしろ、それを期待しての露出の多い服装だった。

 優は絨毯の上に、愛美の両腕を押さえつけ、完全に愛美の上に乗ってきた。愛美は、優に全身を押しつぶされつつ、幸せな気持ちが湧き起こって来るのを感じた。これで優は、完全に私の物になるのだ、と。

 優に上に乗られたとき、優のTシャツの首元が見えた。愛美から預かっているはずの、タロットカードのペンダントをしていない。あれは、優をバケモノから守ってくれるアイテムなのに、なぜしてないのだろうか? しかし、今はその話題をする雰囲気ではない。

 愛美の体から、またしても汗が噴き出してきた。愛美は、汗の匂いが気になった。優が汗臭い自分に、幻滅するのではないか、と。しかし、逆だった。優は、愛美の体の汗を舐め始めたのだ。

 優は、最初は愛美の首筋の汗を舐めていたが、やがてノースリーブの愛美の脇の下の汗に狙いを定めたのか、愛美の右の脇の下の汗を執拗に舐めてきた。愛美の口から、思わず甘い吐息が漏れた。それにしても、くすぐったい。

 愛美は、優に脇の下を舐められて、笑い声が漏れた。くすぐったいので、止めてもらいたいのだが、愛美の腕は優によって完全に押さえつけられ、自由にならない。腕の自由を奪われた愛美は、優に脇の下を好き勝手に舐められるしかなかった。

 優は、愛美の左側の脇の下も舐め始めた。愛美は、先ほどよりもさらにくすぐったく、身をよじりながら、笑い声を上げた。笑いが止まらなくなった。

「止めてよ。脇の下ばかり舐めて。他にすることないの? ちゃんとさせてあげるから、一度解放して。それに、ベッドでしてよ。床に押しつけられたら、たとえ絨毯でも背中が痛くなる」

愛美はくすぐったくて笑いながらも、思わず大声で抗議した。どうせならベッドの上で、ちゃんとした愛撫をしてほしかった。あまりマニアックなことばかり、されても困る。優は、されるがままだった愛美が、大声を出したせいか、冷静な顔になって、愛美に謝罪した。

「悪いけど、一度トイレに行くわ。場所を教えて」

「トイレなら、案内するよ」

「冗談言わないで。男性に、トイレについてこられたくない。年頃なのよ」

 愛美の一喝で、優はトイレの場所だけを教えてくれた。愛美は、優の部屋を出ると、らせん階段を下りた。トイレは、家の奥だ。愛美は、柑橘系の香りがする家の中を進んだ。

 愛美は、少しほっとしていた。優との進展は望んでいたし、今日こそ優と特別な関係になるのではないかと、期待もしていた。それでわざと、ノースリーブにホットパンツ姿にしたのだ。優に、女性としての愛美を意識させるためだった。

 だが、いざ優にのしかかられると、怖くなってきたのも事実だ。優が、あまりにも興奮していたからだ。乱暴にされたら、困る。

 優には、闇幽夜叉大明王の話もするつもりだった。昨日の、闇幽夜叉大明王についての報告のリポート用紙の件だ。誰が調べて教えてくれたのだろう。新しい味方でも現れたのか。また、バケモノがレベルアップしている感じなのも気がかりだ。その辺りのことを優に相談して、今後の話し合いをしたかった。

 本当は、ハーブティーを飲みながら、お菓子を食べつつ、ゆっくりと優に相談に乗ってもらいたかった。十分に話し合いをした後で、先ほどのような行為をしてくれたら、よかったのに。

 優の家は、かなり広い。それに家の奥は、ちょっと複雑な造りだ。迷いそうだ。家の通路が一本道ではなくて、途中でいくつかの部屋を通るという特殊な構造だったからだ。優もそれを心配してくれて、案内を申し出てくれたのだが、さすがにトイレについてこられるのは、恥ずかしかった。

 ようやく、トイレに到着した。愛美は、洋式のトイレに腰かけると、勢いよく放尿した。愛美の下半身からは、ローズの香りがする。出がけに、アンダーヘアに香水を振りかけたのを思い出した。どうやら今日、優はこのローズの香りを嗅ぐことになる。

 そう想像すると、愛美は自分の体が濡れているのを感じた。愛美は、恥ずかしい気持ちになった。優に、いやらしい女と思われないか、心配だ。

 愛美は、下半身を丁寧に拭いた。クラッチバッグからハンカチを出し、手洗いでハンカチを濡らして、優にしつこく舐められた脇の下も拭いた。脇の下に、優の舌の感触が、克明に記憶されてしまっている。服装の乱れを直しながら愛美は、優がタロットカードのペンダントをしていないことを思い出した。

(あのタロットカードのペンダントは、バケモノから優を守る大切なアイテム。あのペンダントをしないで、どうやってバケモノから身を守るつもりかしら。おそらく、日があるうちは、バケモノが現れないだろうから、日が暮れたらするんだろうけど。心配だわ)

 あまり優を待たせてもいられない。愛美は深呼吸をすると、優に身を任せる覚悟を決めて、トイレを後にした。

 優の部屋に戻る途中、愛美は少し迷った。

(この場所、通ったかしら?)

 愛美は、不安を覚えた。優の家で迷子なんて、シャレにならない。間違ったら、戻ればいいと開き直って、愛美は進んだ。優の家に漂う柑橘系の香りが、愛美の心を落ち着けてくれる。

 近くの部屋から、声が聞こえた気がした。両親が留守なので、この家には愛美と優のふたりしか居ないはずだ。愛美は、耳を澄ました。

「……まだか。遅いぞ」

 小さな声だが、男の声だ。男の声ならば、優以外にいない。愛美は、腹が立った。トイレには、ついてくるなと言ったのに、「まだか。遅いぞ」とは何事だ。優は愛美を待ちきれず、近くまで来てしまったのだろう。女性は、トイレでは、いろいろやることがあるのに、デリカシーが無い。愛美は、優に文句をつけてやろうと、声のした部屋の戸を開けた。

(なに、この臭い)

 柑橘系の良い香りがする家なのに、この部屋だけは、異臭がしていた。そして、部屋には誰も居ない。

(確かに、この部屋から声がしたはずなのに)

 部屋はフローリングで、大広間という感じだ。がらんどうの部屋の奥に、大きな箱状のものがある。黒い色の、木製の縦長の箱だ。その木製の縦長の箱の下には、その部分だけ、紫色の敷物が敷いてある。一見して、その黒い縦長の箱が、貴重なものだとわかる。

 もしかしたらだが、あの黒い縦長の箱は、いわゆる仏壇ではないのだろうか、と愛美は思った。愛美は、物心ついたときから、クリスチャンだった。いまはウィッカンだが、どちらにしても仏壇とは縁が無い。

 愛美は、仏壇をじっくり見た経験が無いのだ。とはいえ、よその家に行ったときに、ちらりと仏壇を見たり、テレビコマーシャルで仏壇の映像を見たこともある。あれはやはり、仏壇だと思う。

 別に優の家に仏壇があったところで、不思議ではない。問題は、この部屋に充満する異臭だ。柑橘系の良い香りで充たされた家なのに、この部屋だけが臭い。そして、その臭いの元が、あの仏壇らしかった。

 他人の家を、あれこれ覗くものじゃない。それは、わかる。だが愛美は、どうしても仏壇を確認しなければならない気がした。好奇心もあるのかもしれないが、それ以上に、あの仏壇には、なにがなんでも確認しておかなければ後悔するような秘密がある、そんな気がするのだ。

 愛美は、ゆっくりゆっくりと、仏壇に向かって歩いた。仏壇は、かなりの高さがある。仏壇に近づくにつれ、異臭が強くなる。愛美は、仏壇の扉の金具に手をかけると、仏壇の扉を開けた。

 仏壇の扉は、ギーギーと不気味な音をたてながら、徐々に開いていく。仏壇の扉は、かなり重く、開けている愛美の手が疲れてくるほどだ。永遠に開かないのではないかと思えるぐらい重い仏壇の扉が、ようやく完全に開いた。

 仏壇の中からは、獣の巣穴で食い散らかされた肉が腐敗しているかのような臭いが、一気に流れ出してきた。やはり、この部屋の異臭の元は、この仏壇だった。

 あまりの臭いに、愛美は思わず吐いた。吐き終わっても、さらに胃から酸っぱいものが、込み上げてくる。異常な臭いだ。それでも愛美は、仏壇の中から、目を離せなかった。

 仏壇の中は、漆でも塗ってあるのか、真っ黒だ。その中央に、仏像らしきものが飾ってある。等身大の黒い立像だ。憤怒の形相で、口からは大きな牙が突き出ている。赤い血のようなものが、口から流れている。

 髪は青色で逆立っていて、金色の大きな王冠をかぶっていた。大きな王冠の真ん中には、ドクロが嵌め込まれている。まるで本物の人間のドクロのようだ。

 像の体は裸体で、筋肉質に造られている。一番の特徴は、体の中央に山羊の顔が付いていることだ。その山羊の顔は、まるで悪魔でも想像させるような、禍々しさだ。

 像の手には、剣が乗せてある。白い直剣で、諸刃だった。剣の中央には、色とりどりの七つの宝玉が嵌まっている。この剣は、明らかに後から像の手の上に乗せたもので、取り外しが可能だろうと思う。

(え? この像、どこかで見たことがある)

 吐き気を催しながら、仏壇の中の像を観察していた愛美は、闇幽夜叉大明王についての報告のリポート用紙と一緒に封筒に入っていた、古ぼけたカラー写真を思い出した。あの写真に写っていた像と、いま目の前にある像は、同じものだと思う。

(あの写真、闇幽夜叉大明王についての報告と一緒に封筒に入れてあった。もしかしたら、闇幽夜叉大明王の像の写真かもしれない。だとしたら、この像って)

 優の家の仏壇に、闇幽夜叉大明王の像が飾ってあるとしたら? 愛美は、正常な判断ができなくなっていた。

(そんなバカな。優の家に、有るはずがない)

 有るはずがない闇幽夜叉大明王の像が、なぜか優の家にあるという事実。

(違う。これは闇幽夜叉大明王じゃない。きっと私が知らないだけで、仏教徒の家になら、どこにでもある仏像なんだわ)

「オー・アー・オー・イー・バー・アー・ガー・イー・オー」

 像から声が聞こえた。微かな声だったが、愛美を不安に陥れる気味の悪い声だった。愛美は驚いて、自分が吐いた汚物の散乱する床に、崩れ落ちた。

(早く、この部屋から逃げないと。いや、この家から逃げよう)

 愛美は、立ち上がろうとしたが、腰が抜けている。膝に力が入らない。気持ちは焦るが、体が思うように動いてくれない。それでも逃げなければ。愛美は、這った。

「なんで、この部屋に居るのかな?」

 いつの間にか、優が立っていた。

「ごめんなさい。私、間違えて」

 愛美の声は震えていた。そして、泣きそうな声になっている。

「だから言っただろ。トイレまで、案内するって。この部屋に入りさえしなければ、君は幸せだったんだ。俺に抱かれながら、何もわからなくなって、幸せな気持ちのまま、人生を終わっていた」

 愛美は、信じられない言葉を聞いて、優を見つめた。優の姿が、涙でぼやける。恋人だと思い、身を任せようとした男が、その正体を現しはじめた。

「今からでも遅くないよ。幸せになろう」

 優は、猫なで声を出しながら、愛美に近づいてきた。愛美は、立ち上がれない。

 優は愛美の背後に回ると、愛美の首筋に舌を這わせてきた。続けて、愛美のノースリーブの脇の部分から、愛美の胸に手を差し入れると、乱暴に愛美のブラジャーをずらして、その下の乳房を荒々しく揉んだ。

「やめて」

 愛美は、弱々しく抗議したが、優に抗う力が湧いてこない。それどころか、愛美の口からは、優の行為に応えるような声が、漏れそうになる。愛美は、声を出すまいと、必死で唇を噛んだ。

「どうだい。幸せだろ。そのうち、何もわからなくしてあげるからね」

 優は甘い声で、恐ろしいささやきをした。やがて優の手が、乳房を揉みつつ、愛美の乳首をつまむと、乳房の先端から、まるで微量の電気が流れ込んだように、愛美の全身を駆け巡った。

 愛美は、完全に優に抵抗できなくなった。それを良いことに、優の手は、愛美のホットパンツに伸びた。

(このままでは、完全におかしくなってしまう)

 いきなり、愛美の首から、黒い石のペンダントが引きちぎられた。暁だった。いつ、この家にやって来たのか、暁が立っていた。

「間に合ってよかった。このペンダントが、愛美を狂わせていたんだ」

 暁が、優しい声で、眼鏡越しに愛美を見つめた。

 暁によって、黒い石のペンダントを外された愛美は、とたんに冷静になった。優の手によって、乳房を好きに触られていることに対し、嫌悪感が湧き上がり、愛美の体に鳥肌が立った。

「きさま、邪魔するな」

 優は、愛美の乳房から手を離すと、立ち上がって暁を睨んだ。

「愛美。この優という男こそ、闇幽夜叉大明王の手先だ。愛美を闇幽夜叉大明王に生け贄として捧げようと企んでいたんだ」

「ふん。この女を探すのに苦労したよ。この女と付き合い出してわかったけど、この女は赤ん坊のときに、キリスト教の洗礼を受けている。それが、この女の消息を消していたんだ」

「ところが時が来て、ついに愛美の居場所を突き止めることができたんだな。そして、さまざまなバケモノを愛美のところに送り込み、愛美を守護していたタロットカードのペンダントを取り上げて、代わりに愛美をコントロールしやすいように、邪悪な黒い石のペンダントを付けさせた」

「お陰でこの女に、使い魔の血を飲ませることができた。あの血を飲むと、闇幽夜叉大明王様に捧げる下準備ができる。あの血は、闇幽夜叉大明王様の像の口から流れている血。

残念なのは、闇幽夜叉大明王様の像の山羊の顔をわざわざ使い魔にしたのに、この女の体の中に、闇幽夜叉大明王様の言霊を偶像化させた使い魔を入れることができなかったこと。

闇幽夜叉大明王様の言霊さえ体の中にいれてしまえば、今頃この女は、俺の言いなりだった。この女が、変なアイテムに守られたせいで失敗したが、今日は俺の体から、直接この女の体の中に、闇幽夜叉大明王様からいただいた魔の精を注ぎ入れて、操ってやるはずだった。この女は、良い気持ちになっていたぜ」

優は、下品な声で笑った。とても卑しい声だった。騙されていたとはいえ、こんな男を好きになっていたとは、と愛美は悔しかった。危うく、優に身を委ねてしまうところだった。

「暁、いままで誤解してた。ごめんなさい」

 愛美は、まだ恐怖で腰が立たず、床に伏せたまま、暁に謝った。

「いいさ。誤解されても、愛美が無事なら。ずっと、陰から愛美を守ってきた。バケモノが愛美を襲うたび、ボクのパワーでバケモノの力を弱めていた。ボクも病弱だから、ボクだけのパワーではバケモノに対抗できなくて、最終的には愛美のお守りの力に任せるしかなかったけど」

「暁って、何者なの?」

「ボクらの一族は、むかしから魔族と戦ってきた。魔族というのは、こいつらのことさ。こいつは、人間ではないんだ。ボクの両親が早くに亡くなったので、この地域にいる我らの一族は、ボクだけになってしまったけどね」

「優が、人間じゃない?」

「こいつの正体を、いままで愛美に教えなかったのには、訳がある。もし、うかつにこいつの正体を教えてしまったら、正体のばれたこいつは、愛美を攫うような強硬手段に出ただろう。一度こいつらに居場所を知られてしまったら、どこに逃げても追いかけてくる。だから、愛美を連れて逃げることは、無理だった。

 それよりも、正体を知らない振りをして、こいつを油断させたほうが、愛美を助けやすい。だからボクは、愛美には何も言わずに、黙って陰から愛美を守っていた」

「私がバケモノに襲われた後、いつも暁が近くにいたのは、私を守るためだったのね。私は優に騙されて、暁を疑ってしまった」

「魔族が生け贄を捧げるのは、新月になるタイミングと決まっている。新月になったとき、闇幽夜叉大明王のいる世界とこの世界が、もっとも近くなる。そして魔族の力がもっとも強くなるのも、新月なんだ。逆に新月の直前が、もっとも魔族の力が衰える。いまが、その時だ。

ボクは、この新月の日に備えて、パワーを高めていたんだ。今日この日を逃せば、ボクの力では魔族とは戦えない。病弱なボクでも、パワーを十分に蓄えたいまは、新月の前で力が衰えてきている魔族なら、倒すことができる。

美馬愛美、ボクは君を愛しています。だから、君のために命をかけることができるんだ。絶対に愛美を守る。生け贄になど、させない」

新月の日の今日、愛美が優の家に招待されたのは、偶然ではなかった。新月に愛美を生け贄にする計画だったのだ。新月の時刻は、一七時一七分。

床から起き上がれないまま、愛美は腕時計を見た。優の部屋で、優の愛撫を受けている間に時は流れ、いまは一六時五六分だ。あと二一分で新月だ。

「用意はまだか。遅いぞ」

 愛美が、この部屋に入るきっかけになった声が、また聞こえた。やはり、仏壇の中の像だ。地の底から響くような、不快な声だった。愛美は、耳を塞ぎたくなった。

「闇幽夜叉大明王の像だ。魔族に生け贄として捧げられる人間には、特徴がある。それは左頬に、黒い痣があることだ。十字を斜めにした形のね。愛美の左頬にある、痣のことだよ。

だから愛美がいずれ魔族に狙われ、生け贄にされることは、幼い頃から両親に聞かされていた。だが魔族には、いくつかの種族がある。魔族の種族によって、戦い方などが変わってくる。魔族の種族の特徴は、それぞれを率いる王によって変わる。愛美を生け贄として求めている王の正体を知る必要があった。

魔族の王がわからなければ、正しい対策はできない。だから、ボクも手探り状態で愛美を守ろうとしていたんだ。ある日、愛美とこいつの会話を盗み聞きしたお陰で、やっと闇幽夜叉大明王が愛美を狙う王だとわかった。

闇幽夜叉大明王は虚空世界の魔族の王だ。つまり、こいつの正体は、虚空世界の魔族だ。だから、虚空世界の魔族と戦えるパワーを、この日のためにボクは蓄えた。

ボクの一族は、いろんな魔族と戦い、長い歴史をかけて魔族を研究してきた。闇幽夜叉大明王に率いられた、虚空世界の魔族との戦い方や、そのために必要なパワーの種類もわかっている。

ちなみに闇幽夜叉大明王自体は、人間が倒すのは難しい相手だから、闇幽夜叉大明王が出現する前に、こいつを倒して生け贄の儀式を中止させる。そうすれば、大本の元凶である、闇幽夜叉大明王も、やがては生命力が衰えていくことになる。

 本当の敵が闇幽夜叉大明王とわかったので、うちの両親が残してくれた資料から、闇幽夜叉大明王について調べて、黒沼島の生け贄の風習を知った。それで、愛美が魔族に狙われる理由が、ボクには理解できた。すぐに、闇幽夜叉大明王の報告書と写真を探し出して、愛美に届けたんだ。ボクが間に合わなかった時のために、愛美にも知っておいてもらおうと思って。こいつの住処を突き止めるのに時間がかかってしまったけど、なんとか間に合ってよかった」

「あの報告書、暁だったのね」

「こいつから殴られたあの日、ボクも痛みからパワーが出せなくて、愛美を助けに行けなかった。愛美が、いつものお守りではなく、邪悪なペンダントをしていたんで、心配だった。なんとか、報告書だけは愛美の家に届けに行けたけどね」

「オー・アー・オー・イー・バー・アー・ガー・イー・オー。そろそろ用意はできたか。遅いぞ」

「闇幽夜叉大明王様、ただいま美馬愛美を捧げる準備を致します」

 優が畏れ多いためか、仏壇から離れた場所に移動して、ひざまずく。当然、移動したぶんだけ、優は愛美や暁から距離が離れた。優は立ち上がると、愛美のほうを向いて、何やら呪文を唱え始めた。

 呪文を唱える優に、暁は手を伸ばした。暁の手の先から、何かが放出されたのが、愛美には感じ取れた。とたんに優は、顔を歪めた。

「愛美は、お前の好きにはさせない。お前には、闇の世界に戻ってもらう」

 暁が、毅然とした声で言い放った。そこには、いつもの病弱な暁は、いなかった。ひとりの頼もしい男が、愛美を守るために立っていた。

「黒田暁が、闇より生まれし魔を、黒田家先祖代々の力によって、元の闇の世界に落とす」

 暁が気合いを込めると、優が苦しみ始めた。優はのたうつように苦しみ、やがて優の顔が変化した。優の整った顔は崩れ、顔を始め皮膚の色が、赤黒くただれたようになった。優の目は、倍の大きさに見開かれた。目は、血走っている。口からは、だらりと長い舌が垂れる。

 口の中には、牙が見え隠れする。髪の毛は赤くなり、逆巻いて、うねうねとうねる。耳は上が尖り、下は顎の辺りまで垂れた。優の体は、着ている服を切り裂きながら、どんどんと巨大になり、三メートルぐらいになった。指からは、太い爪が伸びる。

(これが優の正体。まるで悪魔のようね。いや、悪魔のようではなく、こいつは悪魔なんだわ。こんな気味の悪い怪物に、体を好き勝手に舐め回されていたなんて)

 床に倒れたままの愛美の体に、虫酸が走った。愛美は、全身が震えているのに気づいた。夏だというのに、震えが止まらず、愛美の歯は、がちがちと鳴った。

 魔族の正体を現した優からは、生臭い臭いが猛烈に漂いだした。魚を炎天下で、数日間ぐらい放置したような、吐き気のする腐敗臭も混じっている。

「優がいつも、柑橘系のコロンの香りをぷんぷんさせていたのは、この体臭を誤魔化すためだったのね。人間に化けても、完全に臭いを消すのは無理だもんね。この家も、そう。同じ柑橘系の香りで、この部屋の異臭に気づかせないようにしてたのね。全部、まやかしだったのね」

 愛美は、優に向かって、大声で叫んだ。愛美は、優の柑橘系のコロンの香りが好きだった。ずっと探し求めていた、自分を守ってくれる相手だと信じていた。だからこそ、裏切られた思いが、怒りへと変わり始めた。

 魔族の体となった優は、その巨大な体から、長い腕を繰り出して、暁を攻撃した。少し距離があるのだが、優の長い腕は、暁を直撃しそうになる。ただ、ほんの少しだけ距離が足らなかったので、暁をかすっただけですんだ。それでも暁は転倒し、気合いが途切れた。

 その隙に優が、素早く呪文を唱えた。優の前に、白いモヤのようなものが現れた。モヤは生き物のように動き、形を変えて、灰色の人の体に成った。しかし、顔が無い。首から上が、無いのだ。

 首の無い体だけのバケモノは、未だに立ち上がれないでいる愛美に襲いかかってきた。バケモノが愛美の腕を掴むと、バケモノの首から、たくさんの蚯蚓が湧き出してきた。蚯蚓は、愛美のノースリーブの脇や胸元から、愛美の服の中に入り、愛美の体を這い回る。

 一部の蚯蚓は、優にずらされたままのブラジャーの隙間から、愛美の胸に入り込み、胸のふくらみや、乳首の上を、気持ち悪く這った。

愛美のホットパンツの隙間からも、蚯蚓は無数に入り込み、ショーツの上を、まるで指でなぞるかのような感触で、這い始めた。

「どうだ愛美。身動きが取れないだろう。今からお前の服を脱がし、使い魔にはらわたを引きずり出させて、お前の血と内臓をやがて現れる闇幽夜叉大明王様に捧げてやる。それでも、お前は死なない。死ぬことはできない。

 生きたまま、魂を闇幽夜叉大明王様に喰われる。だが、お前の意識は消えない。お前は絶望したまま、闇幽夜叉大明王様の一部となる。そのお前の絶望や苦悩は、次の生け贄が捧げられるまで続く。百年、続くのだ。

 お前の悲しみが、闇幽夜叉大明王様の生命力を活性化させる。お前が逃げたせいで、生け贄の儀式が遅れ、闇幽夜叉大明王様の生命力は衰えてきてはいるが、代わりに十八歳の最も血の力が強い状態で、お前をお捧げすることができる。もうすぐ、新月だ。愛美よ、お別れだ。生け贄にする前に、お前の肉体を楽しませてもらおうと思ったのだが」

 優が言い終わるや、愛美の体を這いずり回っていた蚯蚓たちが、一斉に愛美の皮膚の中に潜り込んでくる感覚がした。蚯蚓が愛美の体中を這っていたのは、愛美の皮膚の侵入しやすい場所を探し回っていたからだろう。このままでは皮膚に侵入した蚯蚓によって、愛美ははらわたを引きずり出されてしまう。

 愛美の腕を押さえつけていた、灰色の顔の無い体だけのバケモノが、愛美の服を引き裂く。青色のノースリーブと、デニム生地のホットパンツが、バケモノによってたやすく布切れと化した。

 無情にも、愛美はショッキングピンクのブラジャーとショーツだけの、あられもない姿にされた。ブラジャーは、優によってずらされていたので、愛美の乳房を隠す役には立っていない。愛美はほとんど、裸体を晒しているに等しかった。

 それよりも、皮膚から侵入した蚯蚓が気になる。早くなんとかしないと、本当にはらわたを引きずり出されてしまう。

 愛美の服を引き裂いた、灰色の顔の無い体だけのバケモノが、愛美の体の上から弾き飛んだ。暁が、こちらを見て、親指を立てた。優が愛美に気を取られている隙に、暁は上手く優から距離を取り、優の直接攻撃を受けないようにして、助けてくれたのだ。

「暁、お願い。もう、あなたしか頼る相手がいないの」

「絶対に守ると言っただろ」

 暁は、愛美を襲っていた灰色の顔の無い体だけのバケモノと、優とに、同時に気合いを込めて攻撃していた。灰色の顔の無い体だけのバケモノは、暁の気合いの攻撃による直撃で、乾燥した泥の人形のように、崩れ去った。

 すると、愛美の皮膚に侵入していた蚯蚓が、一斉に愛美の皮膚から這い出してくると、愛美の裸体同然の体の上で、干からびて、塵と成って吹き飛んだ。

(助かった。もう体の中に、蚯蚓は居ない。これで、はらわたを引きずり出されることもない。暁のお陰だわ。あとは暁が、優を倒してくれるといいのだけど。暁を信じるしかないわ)

 この時、愛美の脳裏に、幼い頃の暁との思い出が蘇った。愛美が年上の男の子にいじめられたとき、暁は病弱にもかかわらず、必死に愛美を守ってくれた。暁は、自分もいじめられっ子だったのに、愛美のことは、体を張って守ってくれた。

(思い出したわ。いままで忘れていたけれど、私のことを最初に守ってくれた相手は、暁だった。私はずっと、守ってくれる誰かを探していたけれど、本当は幼い頃から、すぐ身近に守ってくれる相手がいたのね。そして、それは今も。

 私はいつも、人から守ってもらおうと思っていた。自分で自分のことを、なんとかするのは無理だと思ってた。自分の運命を人に委ねていた。マリアさんが言ってたわ。自分の運命は、自分で切り拓けって。そうよ、私はいままで、何をやっていたの。人に頼ってばかりで。

 いまも暁は、ひとりで戦っている。私を守るために。暁だけに戦わせていて、いいの? 私が、すべての原因なのよ。私が自分で戦わないで、どうするの。そうだわ、今度は私が、暁を守る番よ)

 愛美の体の奥底から、力が湧いてきた。いままで感じたことのない、激しい力だった。愛美は、ようやく床から立ち上がると、ずれて邪魔になっているショッキングピンクのブラジャーを引きちぎって捨て去った。このほうが、戦いやすい。

愛美は、持ち歩いていたクラッチバッグから、神聖ゲオーメを取り出した。

(これが私の武器よ。マリアさんのアドバイスに従って、持ってきていてよかった)

 愛美は、神聖ゲオーメを優に向けた。暁の気合いの攻撃を受けて、暁とにらみ合っていた優が、こちらを見た。

「なんだ、それは」

 優が吠える。

「これが天使のアイテムよ。あなたは、さんざん私に、この天使のアイテムを捨てるように言ったね。よっぽど、この天使のアイテムが邪魔だったんだね」

「天使か、なにか知らんが、そんなおもちゃみたいなものが、俺に通用するか」

「いま、私は目覚めた。自分の身も家族も友達も、人任せではなく、大切なものは、私自身の力で守らなければならない。これからは、私が戦う。決して逃げたりはしない。私の運命は、自分の力で切り拓く。だから天使よ。私に力を与え、この醜い魔族と戦わせ給え」

 愛美は、天に向かって、高らかに宣言した。神聖ゲオーメが、まばゆく光った。その光が、真っ直ぐな白い線となり、剣のように優を突き刺した。

優が、咆哮した。部屋全体が、大きく振動する。まるで地震のようだ。神聖ゲオーメの攻撃が、効いている証だった。

「ありがとう、愛美。君とボクとで力を合わせれば、こいつに勝てる。いいかい、新月になる前に、こいつを倒すんだ。新月になってしまうと、闇幽夜叉大明王の本体がいる世界と、この世界がもっとも近くなり、こいつの力も強くなってしまう」

 愛美は、腕時計を見た。一七時六分になっている。あと一一分だ。

「大丈夫。まだ時間はある。戦ってみてわかったけど、ボクひとりの力では、こいつを倒すのは無理だったから、新月になる前に隙を見て、愛美だけを逃がして、ボクは残って時間稼ぎをするつもりだった。

 愛美が一緒に戦ってくれるいま、こちらのほうに勝機がある。ボクの力でこいつを押さえつけるから、愛美のそのアイテムで攻撃するんだ」

「任せて」

 愛美は、神聖ゲオーメに心を合わせた。

「天使よ。私と暁を、守り給え」

 神聖ゲオーメから、真っ白で涼しげな光が放たれた。暁の気合いのせいで、身動きが取れないでいる優に、神聖ゲオーメから放たれた光が、雨のように降り注ぐ。

 魔族の正体を現している優の、醜い顔が、白い光で染められた。

「やめてくれ。このままでは、俺は無になってしまう。俺だって、嫌だったんだ。人間の世界に転生なんか、させられたくなかった。人間の世界に転生した状態で無にされたら、俺の魂は消滅してしまう。故郷の世界に戻れずに、永久に存在が消えてしまうんだ。

 闇幽夜叉大明王のせいで、俺は無理に人間の世界に転生させられたんだ。嫌だったが、俺たちは闇幽夜叉大明王には、逆らえないんだ。だから助けてくれ。どうか、俺を無にしないでくれ。頼む」

 身長三メートルはあろうかという、巨大な魔族が、愛美の放った神聖ゲオーメの光で、真っ白に染まりながら、まるで子供のように懇願を始めた。

「だけど、優を助けたら、私が生け贄にされるんだろ。せっかく、お母さんが必死で私を守ってくれたんだ。だから、私は生きる。母が産んでくれた私という存在を、自分で守るんだ」

 神聖ゲオーメから放たれる光が、いっそう輝きを増し、優に激しく降り注ぐ。優の全身が、真っ白に光った。

「助けて」

 優が、か細い声を出した。哀れな怪物が、その最期の刻を迎えようとしていた。優の体が陽炎のように揺らめき、消え始めた。

「勝った」

 愛美は確信した。愛美は自分の運命を、自分の手で変えることに成功したのだ。むろん、暁の協力なしには、優には勝てなかっただろう。

「うっ」

 暁が、突然、倒れた。

 消えかかっていた優の体が、ゆっくりと元に戻ってゆく。あと一歩のところだった。

 愛美は、倒れている暁のもとへ走って、暁を抱き起こした。暁の顔は、蒼白になっている。

「ごめん。ボクはもう、体力の限界だ。あと少しだったのに、申し訳ない。ボクの体が、もっと健康だったら、あいつを倒せたんだが。この日のために、パワーを蓄えたけど、そのパワーを使い切るには、ボクの体では弱すぎた。新月まで、あと何分ある?」

「暁、しっかりして。後は、私ひとりで戦うわ。暁は、隠れていて」

「愛美だけでは、あいつに勝てないよ。ボクの力が必要だ。愛美、君の健康な体なら、ボクのパワーを使い切ることができる。愛美の能力と、ボクのパワーが合わされば、あいつに勝てるよ。ボクのパワーを受け取ってくれ」

「暁のパワーを受け取ったら、暁はどうなるの?」

「残念ながら、ボクの命は終わる」

「死ぬなんてダメ。生きて。私のためにも、生きて。暁はいままでずっと、私を見守ってくれてたんだよね。ようやく、その事に気づいたのに、死ぬなんて嫌。気づくのが遅くて、ごめんなさい」

 暁の蒼白な顔に、水滴が落ちた。気づくと、愛美の目から涙がこぼれている。愛美の涙は、暁の顔に、落ちては流れていく。

「言っただろ。君のために命をかけることができるって。絶対に、愛美を守るって」

「なんで、私のために、そこまでしてくれるの? 自分だけ、逃げることもできたのに」

「愛美が好きだからだよ。幼い頃から、ずっとね。愛する人のためになら、命なんかいらない」

「暁。私も、暁の気持ちには気づいていたわ。それなのに私は、暁を遠ざけていた。それどころか愚かな私は、優と付き合ってしまった。そんな私を、それでも愛してくれるの」

 愛美は、暁の顔が見えなくなった。涙が、洪水のように溢れ出たからだ。愛美は涙を拭うことなく、暁の手を握った。暁も愛美の手を握り返した。

「ボクの命のエネルギーが、流れていくのがわかるかい」

 暁が、そっと言った。暁の手から、温かく優しいエネルギーが、愛美の体に流れ込んでくるのが、わかった。愛美は、温かく優しいエネルギーで充たされた。

「これが、暁の命なのね」

 愛美は、暁の顔に自分の顔を近づけると、そっと口づけをした。暁との、最初で最後のキスだった。暁は、すでに冷たくなっていた。

(暁の命、決して無駄にはしない)

 愛美は立ち上がると、神聖ゲオーメを優に向けた。新月まで、残り八分だった。

「させるか」

 優が大音声で叫ぶと、両手を愛美のほうに伸ばした。愛美の全身に、衝撃が走った。優の放った衝撃波だった。

 愛美は吹き飛ばされ、弾みで神聖ゲオーメが手から落ちて、床の向こうに転がっていった。

(あれがないと)

 考える暇を与えず、第二弾、第三弾の衝撃波が、愛美を襲う。愛美は、全身が痺れて起き上がれない。愛美は、体力の限界を迎えようとしていた。愛美の意識が遠くなりかけた。愛美の脳裏に、幼い頃の思い出が浮かんできた。幼馴染みの暁との、楽しかった思い出。

(このままでは、暁の死を無駄にしてしまう。優さえいなければ、暁は死ぬことはなかった)

 愛美の心に、激しい怒りの炎が燃え上がった。愛美は、気力で立ち上がった。

「優の好きにはさせない。暁の命のエネルギーが、私の哀しみと怒りのエネルギーが、お前に勝つ」

 愛美の全身から、気が一気に放出された。気は愛美の体を、バリヤのように覆う。優から放たれる衝撃波が、愛美の気のバリヤで跳ね返された。

「バカな」

「これが、暁が命と引き換えに、私に与えてくれた力」

 愛美は、そう言い放つと、ゆっくりと歩いて、神聖ゲオーメを床から拾い上げた。

「終わりよ」

 愛美が神聖ゲオーメを優に向けると、神聖ゲオーメは金色に輝き始めた。神聖ゲオーメの金色の輝きは、やがて稲妻のような目がくらむほどの光の剣となって、優の心臓を貫いた。

 優は声を上げることもなく、枯れ木が朽ちるようにして、床の上に倒れた。優はもう、動かない。

 すべては、終わった。

 愛美は、暁のところに駆け寄った。

「勝ったよ。暁が、勝たせてくれた。助けられなくて、ごめんね。でも、これで私は自由になった。私は生きるよ。暁のぶんも生きる。だから、暁は安らかに眠ってね」

 愛美は、目を見開いたままだった暁の瞼を、そっと手で閉じた。そして愛美も目を閉じると、暁の前で黙祷した。

 愛美は、不意に首筋を掴まれた。首が折れるぐらいの力だ。

「とどめを刺すのを忘れていたようだな。お陰で、助かった」

 優だった。

 不覚だった。てっきり、優は死んだと思い込んでいた。神聖ゲオーメの攻撃が、あまりにも強烈だったからだ。

「愛美よ。お前は、夜持つ狭間に連れて行ってやろう」

 愛美の周りの空間が歪んだ。愛美のショーツだけの体に、寒い風が吹き付けた。凍えそうだ。

 次の瞬間、愛美は奇妙な場所にいた。まるで宇宙空間を思わせるような空間で、体が宙に浮くのではないか、と思うほど体が軽く感じられる。暗い空間だ。

(ここが、夜持つ狭間? なんなの、ここは?)

 未知の世界に連れてこられた愛美は、本能的な恐怖に震えつつも、神聖ゲオーメを落とさないように、しっかりと握りしめた。この神聖ゲオーメさえあれば、勝機はある。

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