第8話 最終決戦

 第八章 「最終決戦」


 優が立っている。魔族の正体を現したままだ。暗い空間なのに、優が立っているのは、はっきり見える。愛美は、神聖ゲオーメを構えた。

「無駄だ。そのアイテムの力の源泉は、光だ。そのアイテムは、電灯の光でも、わずかな月明かりでも、星の光であっても、それらの光が雲でさえぎられていたとしても、人間の世界であれば光をエネルギーに変える。だが、ここは闇の空間。もう、そのアイテムの効力は無い」

「嘘だ」

 愛美は、必死に神聖ゲオーメに念を込めたが、優の言うとおりだった。どれだけ念を込めようとも、神聖ゲオーメは光ろうとしない。神聖ゲオーメの力は、失われてしまったのだ。

「もうすぐ新月の時刻だ。新月になると、この、夜持つ狭間に、闇幽夜叉大明王様のいらっしゃる世界との道ができ、闇幽夜叉大明王様がお出ましになる。生け贄を受け取るためだ。本当は、人間の世界で生け贄の儀式をする用意を整えていたが、もうどうでもいい。ここからは、逃げられないぞ。それまで、お前を苦しめてやる。先ほどの、お返しだ」

 神聖ゲオーメが使えないのならば、もう優とは戦う術がない。愛美は腕時計を見た。新月まで、あと六分。もう助からない。愛美を絶望が襲う。

(暁、ごめんなさい。私も頑張ってみたけど、ダメだった。こんなことなら、暁が死ぬ必要はなかった。最初からおとなしく、私が犠牲になるべきだった。暁を犬死にさせてしまったね。そもそも、私は生まれてこなかったらよかったのかもしれない)

 愛美が泣き崩れていると、愛美の周りで火が燃え広がった。火が、愛美の体を焼く。愛美の体が、火で焼け爛れる。唯一、愛美の体に残されていた、ショッキングピンクのショーツも、火で燃やされてしまった。肉の焦げる臭いがする。

(熱い。助けて。死ぬ)

 愛美の意識が遠くなった。私は、このままここで、焼け死ぬのだ。

 だが、次の瞬間、愛美の体は凍えた。先ほどとは、真逆の感覚だ。見ると、周りは吹雪だった。愛美の全裸の体は、寒さを通り越して、痛い。体中が、凍える。愛美は、眠くなった。このまま眠って、凍死するんだわ。

 やがて愛美は、息ができなくなった。気づくと愛美は、いつの間にか水中にいる。もう息が続かない。苦しい。死ぬ。

「惑わされないで」

 愛美の耳に、声が響いた。優しい女性の声だ。聞き覚えがある。この声は、お母さん。

 目の前に、茶色いローブ姿の女性が現れた。フードをかぶっているので、顔はわからない。光の無い闇の空間だが、見たいものは見えるようだ。

「お母さんなの?」

 フードの下から、顔が見えた。まさしく、愛美の母親だった。フードを脱いだ母親は、優しい顔をして、愛美に微笑んだ。

「ここは、観念の世界。すべては、幻よ。だから、惑わされないで。魔族は、愛美の絶望を利用して、あなたを幻で苦しめているの。この世界では、苦しいと思うから、苦しくなるのよ」

 母親の言葉を聞いて、愛美が周りを見渡すと、ただ闇が広がっているだけだった。もともと、何も無かったのだ。

「あなたに秘密にしていた事があるわ。魔女のマリアというのは、実は私なの。あなたをウィッカンにしたのも、私が仕組んだことよ。あなたが十八歳になれば、闇幽夜叉大明王の血の力が旺盛になり、遅かれ早かれ闇幽夜叉大明王に居場所が知られることを知っていたので、クリスチャンでいるよりも、ウィッカンになったほうが、あなたは戦えるだろうと思ったからよ」

 愛美は、母親の言葉を聞いて、優の正体を知って以来の衝撃を受けた。

「マリアさんて、お母さんだったの。なんで隠してたの?」

 母親は、愛美の質問には答えずに、続けた。

「私は、あなたには逃げずに、運命と戦ってほしかった。でもあなたは、積極的に怪異と戦う勇気を持っていなかった。いつも人を頼っていた。神聖ゲオーメをすぐに与えなかったのも、あなたに自分で戦う覚悟が無かったからよ。自分で戦う覚悟がないと、神聖ゲオーメは本当の力を発揮しないわ」

 母親は、落ち着いた静かな口調ながら、力強く話している。

「あなたがウィッカンの女神として拝んでいたのは、実は神聖ゲオーメを人間界にもたらした天使の絵だったの。あなたはウィッカンとして、知らず知らずのうちに、天使との関係を深めていたのよ。むろん、あなたがいずれ神聖ゲオーメを手にするときのために、母さんがマリアとして、あなたに渡したんだけど。だから後は、あなたが自分で戦う覚悟を持つことだけが必要だった」

 愛美が毎日のように拝んでいた女神像の絵は、女神ではなく、天使だった。つまり、愛美は、日々、天使との関係を深めていたわけだ。それならば、なぜ天使の絵を女神の絵だと偽る必要があったのか? 愛美には謎だった。

「最初に渡した、タロットカードのソードのエースのペンダントは、あなたが神聖ゲオーメを使う資格、つまり自分で戦う覚悟に目覚めるまでの、いわば『つなぎ』だった。むろん、タロットカードのペンダントを使うにも、多少の勇気が必要だったのだけど。でも、あのペンダントは、よくあなたを守ってくれたわ。あなたが怪異に襲われたとき、あなたの勇気がまだ足りないときは、私も遠くから、タロットカードのペンダントに力を送っていたけどね」

 母親は、マリアさんとして、愛美の相談相手になってくれていただけでなく、遠くから愛美に力を貸してくれていたのだ。そういえば、バケモノに襲われた後、母親を見かけたことが、何度かあった。

「なんで、いままで黙ってたの? お母さんは、秘密が多すぎるよ。なんでも私に、打ち明けてくれたらよかったのに。親子でしょ。マリアさんのふりをして、メールでやりとりなんて、回りくどいよ」

「ちゃんと理由があるんだよ。私がまだ若かったとき、看護師として身寄りのないお年寄りの女性を介護していた。その女性は、私を孫のように可愛がってくれていた。その女性が亡くなる数日前に、形見として神聖ゲオーメと天使の絵を授けてくれたんだよ。私には、これを受け継がせる子供はいないと言って。

 その女性は、代々、神聖ゲオーメと天使の絵を継承する家の出身だった。そして、ウィッカンの司祭であり、特別な能力を持って、天使と交流できる女性だった。私は、その女性に黒沼島でのことをすべて打ち明けていた。

愛美が十八歳になるまでは、クリスチャンの洗礼を受けたことで、なんとか闇幽夜叉大明王の目を誤魔化すこともできるかもしれないが、十八歳になれば、愛美の血の力が旺盛になってしまい、居場所を隠し通すことはできない。そうなれば、もう戦うしかない運命だと教えられた。そして十八歳になったときの愛美には、もう戦う力が芽生えていると」

 母親は、何度も髪をかき上げながら、淡々と続けた。

「愛美に戦う力が芽生えるとはいっても、危険な目に遭うのには、かわりがない。私は、そのウィッカンの司祭であり、特別な能力を持った女性に頼み、ウィッカンにしてもらった上で、天使と契約した。その女性が、天使と交流ができるから、契約が可能だったんだよ。その司祭の女性と知り合えて、本当に幸運だったと思う。これも、運命だったのかね。

 天使との契約というのは、娘の命が危うくなったときは、私の命を身代わりにするので、娘を助けてください、というものさ。その天使との契約の代償として、今後は娘とは疎遠にして、一定の距離を保ち、決して母親としての愛情を表に出しません。そして、娘の出生の秘密に関することは、今後は人には口外しません。ただし時が熟せば、出生の秘密は娘にだけは話させてください。その時も、娘とは最低限の会話にだけとどめ、心の距離は保ったままにします。また、娘が神聖ゲオーメを使えるようになるまでは、娘には天使の存在も秘密にします、と誓った。

 この天使との契約があったから、あなたとは仲良くできなかったんだよ。私にとっても辛い契約だったけど、あなたはもっと辛かったよね。でも母さんは、あなたに冷たくするしかなかった。

 ウィッカンの司祭の女性は、私の契約を聞いていて、ひとつだけ特別な契約を付け加えて、天使に認めさせてくれた。その特別な契約は、本当に必要となったときにしか、人には言えない約束だけどね。

愛美に出生の秘密を教えた日、私は天使との契約を破ってしまった。あなたと親しくし過ぎてしまった。でも、久しぶりに愛美と親子らしい会話が出来て、お母さんも嬉しかった。でも、天使との契約は破ってしまったから、もう私は、あなたの身代わりには、なれなくなってしまった。ごめんよ」

「お母さん、そういう理由だったのね。お母さんは、お母さんなりに、私のことを守ってくれていたのね。育ててくれて、ありがとう」

 愛美は、母親を真っ直ぐに見ながら言った。もしかしたら、これが母親との最後の会話になるかもしれない、そう覚悟しながら。

「親子の会話を、そのまま続ければいいんだぜ。お前たちが喋ってる間に、新月になる。だから俺は、邪魔せずにお前たちの会話を聞いていたんだ。もうすぐ、あのお方がやってくる」

 優がいつの間にか後ろに立っていた。優は嬉しそうに、醜い顔で笑っていた。

(しまった。お母さんとの会話に夢中になりすぎた)

 愛美が腕時計を見ると、一七時一五分だった。新月まで、二分。もうすぐ、タイムリミットだ。

 夜持つ狭間と言われる暗い空間の上空に、さらに黒い漆黒の空間が現れた。その空間は小さいが、少しずつ広がり始めた。

「ついに、いらっしゃった。あの空間が完全に広がったとき、お前は闇幽夜叉大明王様の生け贄となる。もともとお前は、そのために生まれてきたんだ。運命からは、逃げられないんだよ」

 優が、勝ち誇ったように言った。おそらく、あの漆黒の空間の中に、闇幽夜叉大明王がいるのだろう。闇幽夜叉大明王が出てくれば、おそらく勝ち目はない。

「私は、運命を変えてみせる。そうでないと、私を生かすために命をかけてくれた暁に、顔向けができない」

「運命を変えるだと。ここでは、あの天使のアイテムとやらは使えないぞ。武器を持たない人間に、何ができる。どうやって、運命を変えるつもりだ?」

「こうやってさ」

 母親が優に向かって叫ぶと、ローブから何かを取り出して、愛美に手渡した。

 それは、剣だった。白い直剣で諸刃。剣の中央には、色とりどりの七つの宝玉。

「この剣は?」

「あなたを追いかけて、この、夜持つ狭間に来る前に、闇幽夜叉大明王の像から持ち出してきたんだよ。この剣こそは、魔族が闇幽夜叉大明王のご神体として、崇めているものさ。あなたが家の食卓の上に置いておいてくれた、闇幽夜叉大明王についての報告に書いてあったから、気づけたのさ」

「お母さん、ありがとう。闇幽夜叉大明王が天界から盗み出して、魔族を従えたという降魔の天剣ね。この降魔の天剣こそ、魔族を殺すことのできる武器」

 愛美は、降魔の天剣の柄を両手で握ると、その切っ先を優に向けた。

「残念だったな。その剣は、天界の住人でないと使えない。お前が使っても、ただの棒さ。宝の持ち腐れだ」

「残念なのは、そっちよ。私の体の中には、闇幽夜叉大明王の血も流れているのよ。闇幽夜叉大明王は、もともと天界の住人。つまり、私には天界の住人の血が流れている。この剣を使う資格が、十分にあるのよ。迂闊だったわね。この剣を使える人間は、どうせいないと高をくくっていたから、この剣を警戒もせずに、ご神体として置いておいたようね」

 優はしまったという表情をしながら、怯えた目で愛美を見た。

「私の中の闇幽夜叉大明王の血は、十八歳で旺盛になる。つまり、今の私は、闇幽夜叉大明王に負けないパワーで、この降魔の天剣を使うことができるのよ」

「あと少しなんだ。あと少しで俺の役割は終わり、元の世界に戻れるんだ。こんなところで、消えるわけにはいかない」

 優の胸の辺りから、無数の触手が伸びてきた。触手は透明で、濡れてぬめぬめと光って見える。その触手の先端からは、黄色い液体がしたたっていた。

 愛美は、優から伸びてくる触手を、降魔の天剣で斬ろうとしたが、それよりも早く、触手が愛美の裸体に絡みついた。

 愛美の、なにひとつ身にまとっていない、全裸の肉体に絡みついた触手は、愛美の全身に、その先端からしたたっている黄色い液体で、絵でも描くかのように動き出した。

 愛美の全身が痺れはじめた。と同時に、愛美の肉体にいままで体験したことのない、とろけるような快感が走った。愛美は無意識に、裸体をくねらせてしまった。快感が止まらない。体に力が入らない。

(これでは、戦えない。でも、このまま、この快感を味わっていたい)

 愛美の全身から汗が噴き出し、愛美の裸体の上を、まるで川のように流れ始めた。愛美の手から、触手が降魔の天剣を奪い取ろうとしていた。

「ここは、観念の世界だと教えたでしょう。あなたが裸体を触られたことによって、無意識に湧き起こった性の衝動が、あなたの体の自由を奪っているだけよ。醜い姿の怪物の触手など、気持ち悪いだけだと観念しなさい」

 母親が厳しい声で、愛美を叱った。

 母親の声で正気を取り戻した愛美からは、肉体的な快感が消え去っていた。それどころか、愛美の肉体を弄ぼうとした優に対し、さらに憎悪が湧いた。

愛美は降魔の天剣を握り直し、降魔の天剣を奪おうとした触手が絡みついたまま、降魔の天剣を無理矢理に振りかぶると、降魔の天剣は青く輝き始めた。その降魔の天剣の青い光に照らされただけで、優の触手は塵となって消えた。これが降魔の天剣の威力だった。

 夜持つ狭間の上空の、漆黒の空間は広がりを増し、その漆黒の空間の中に、さらに虚空が広がっているのが見えた。

(もう時間が無い。おそらく、新月の時刻まで、一分を切ってる。あの漆黒の空間が、完全に広がったら、もう逃げられない。優を一撃で仕留める)

 愛美は、自分のどこからこんな声が出てくるのかと、自分でも驚くような大声で気合いを出しながら、逃げようと後ろを向いた優を、背後から降魔の天剣で、袈裟斬りに斬って捨てた。一瞬で、決着をつけた。

優は、断末魔の悲鳴を上げ、その三メートルはある体を、降魔の天剣によって、斜めに切断された。優の胴体は、上半身と下半身に、完全に分離された。

すべては、終わった。生け贄の儀式を執り行うはずだった優がいなくなれば、闇幽夜叉大明王もあきらめて去っていくだろう。

しかし、漆黒の空間は消えなかった。漆黒の空間は、ほぼ完全に広がり、いままさに闇幽夜叉大明王のいる虚空が、この、夜持つ狭間の空間と融合しようとしていた。

「なぜ消えないの?」

「お前では、降魔の天剣を使いこなせなかったんだよ。いくら、闇幽夜叉大明王様の血が混じっているとはいえ、しょせんは人間なのさ」

 分離されたはずの、優の上半身と下半身が、結合していく。優は、死んではいなかった。

やはり愛美は人間なのだ。いくら闇幽夜叉大明王の血が混じっているとはいえ、降魔の天

剣の本当の威力を引き出すことはできなかった。降魔の天剣が役に立たないとわかった以上、もう優を倒す手段はない。愛美は、生け贄にされるしかなかった。

「愛美。お母さんを、その剣で刺して」

「なにを言い出すの、お母さん?」

「さっき、少し話しただろ。司祭の女性が、天使との特別な契約を結んでくれたって。それは、母さんが愛美のために命を捧げる決心をしたとき、愛美の手で母さんの命が奪われるのならば、愛美に天使の力が加わり、天使の加護がある、というものさ。お母さんの命と引き換えに、あなたは天使の力を得る。

 愛美の中の、闇幽夜叉大明王の血と、天使の力を合わせれば、降魔の天剣の本当の威力を発揮できる。天使も闇幽夜叉大明王も、天界の住人だからね。そして、今度は降魔の天剣で、魔族の首を切断するんだよ。首以外を斬っても、ダメだからね」

「そんなことできない。いままで育ててくれて、ずっと守ってくれていた、お母さんを自分の手で殺すなんて、できるわけがない」

 愛美は、涙声で言った。

「お母さんの言うことを聞きなさい。お母さんは、あなたを産んでから今日まで、あなたを闇幽夜叉大明王の生け贄にしないことだけを考えて生きてきた。だから、お母さんの最後の頼みだと思って、お母さんの言うとおりにしなさい。お願いだよ。あなたが助かるとわかったら、お母さんは安心して死んでいける。このチャンスを逃したら、もうあなたが助かる道は、ないよ」

 愛美は、母親の頼みを聞きながらも、動けないでいた。

 漆黒の空間は、とうとう完全に広がりきり、その中の虚空から、あの闇幽夜叉大明王の像と同じ姿の、異形の邪神が姿を覗かせた。

「お母さんが、いままで愛美に頼みごとをしたことがあるかい。最初で最後の頼みだ。ためらわずに、お母さんを刺すんだ」

 母親は、愛美に向かって、泣きながら叫んだ。鬼気迫る声だった。母親は愛美の手を持って、降魔の天剣を自分に向けさせた。

「お母さん、許して」

 降魔の天剣で、愛美は母親の胸を刺した。降魔の天剣が白く輝き始め、夜持つ狭間の、闇の空間すべてを明るく照らした。まぶしくて、愛美は前を見るのがやっとだ。

 優が、まぶしさに目がくらんだのか、少し離れた場所で、動きを止めていた。

「お前らが悪いんだ。お前らのせいで、お母さんも暁も死んだ。私は、お前らを決して許さない。お母さんの命と引き換えに、天使の力が宿りし、この降魔の天剣で、優、お前の息の根を止める」

 愛美は、人間では考えられないほどの大ジャンプをした。いまの愛美には、天使の力が宿っているからだ。走って優の所まで行っていては、もう時間が無かった。愛美は大ジャンプで、瞬時に優の場所まで飛び、降魔の天剣で優の首を切断した。

 優は、夜持つ狭間の空間が震動するほどの、咆哮を発した。それは優の、断末魔の悲鳴だった。優の首は、咆哮したまま十メートルほど飛んで、地面に転がった。

優の首の咆哮がやむと、夜持つ狭間を白く照らした降魔の天剣の輝きも、徐々に消えた。辺りが、また闇と静寂に包まれた。首を切断された優の体は、土くれとなり、ぼろぼろと崩れた。地面に転がった優の首は、闇に溶けるようにして、消えて行った。今度こそ、優は死んだのだ。

 優の死を合図にしたかのように、夜持つ狭間の上空の漆黒の空間は徐々に縮み出した。愛美が腕時計を見ると、ちょうどいま新月の時刻になったところだ。危機一髪だった。漆黒の空間は、愛美が腕時計に目をやっている間に、幻だったかのように消え去ってしまった。

 終わった。すべて終わった。愛美が生まれたときから始まった、生け贄の運命が、母親と暁を犠牲にしつつも、終わりを告げた。

 愛美は助かったが、これでよかったのだろうか? 愛美の心を淋しさが襲う。

「愛美や」

 母親の、息絶え絶えの声が聞こえた。まだ生きていたのだ。

「お母さん、無事だったのね」

 愛美は、倒れている母親のもとに駆け寄り、母親を抱き起こした。

「あなたに、言い残すことがあったので、天使に猶予をもらったのさ。この、夜持つ狭間では、神聖ゲオーメは武器としての役目は果たさない。ただ、この特殊な世界でだけ使える、神聖ゲオーメのもうひとつの大切な役割があるんだよ。

 それは、あなたの体の中に、天界の住人の血が流れているから使えることなんだけどね。この夜持つ狭間という世界は、あの世とこの世の狭間なんだよ。失われた命は、あの世に行く前に、必ずこの夜持つ狭間にしばらく留まるのさ。

神聖ゲオーメは、夜持つ狭間でだけ、留まっている状態の命ならば、ひとつだけ呼び戻すことができるんだよ。呼び戻した命を、神聖ゲオーメを器として、死体に吹き込むことができるのさ。

 ただし、この使い方をすると、神聖ゲオーメは永久に力を失ってしまう。でも、もういいんだよ。もう神聖ゲオーメを使わなくても、あなたを襲う者はいない。

 闇幽夜叉大明王は、あなたを生け贄にできなかったから、このまま生命力が衰え、もう、あの漆黒の空間から出てくることは、できなくなるだろう。そうすると、黒沼島の娘に子供を産ませることもできなくなり、最終的には黒沼島の人間に、お告げをすることもできなくなる。

 長い間に渡って黒沼島を支配していた、闇幽夜叉大明王への信仰は廃れ、生け贄の風習はなくなるだろう。あなたが、黒沼島の人間を生け贄の風習から解放したんだよ。黒沼島に生まれたお母さんも、嬉しいよ。あなたを産んで、良かった」

 母親は、息も絶え絶えに、涙を流しながら愛美の手を握った。愛美も、母親の手を握り返した。

「お母さんの命を、呼び戻すね。お母さん、これからずっとふたりで暮らそう。いつまでも、幸せにね」

「もっと、大切な人を忘れてないかい。暁くんだよ。暁くんのご両親が生きているとき、暁くんを、あなたの幼馴染みにしてくれと頼んだのは、お母さんだよ。天使との契約があったから、詳しい事情は説明できなかったけど、暁くんのご両親は、察してくれたようだ。

 暁くんは、命をかけて、愛美を守ってくれたんだろ。本当に、あなたのことが好きじゃないと、そこまではできないよ。どうだい、これからの人生を暁くんと共に過ごす気は、ないかい。ふたりが一緒になってくれたら、お母さんは嬉しいよ」

「でも、そうしたら、お母さんはどうなるの? せっかく、やっと親子らしくなれたばかりなのに。もっとお母さんと一緒に、暮らしたい」

「お母さんはね、さっき死んだんだよ。そう思っておくれ。子供を守るという、母親として一番大切な使命を果たせたんだ。このまま死んで、本望だよ。あなたには未来がある。あなたは、自分の力で、運命の扉の向こうに立ったんだ。そして、やっと平和な未来を手に入れることができたんだよ。だから、未来を共にできる相手を選んでおくれ」

「違うよ、お母さん。私が、運命の扉の向こうに行けたのは、自分の力なんかじゃない。お母さんと暁が、命をかけて守ってくれたからだよ。私ひとりでは、何もできなかった。みんなのお陰だよ」

 愛美の目から落ちた涙が、母親の顔にかかった。だが、もう母親は、顔にかかった涙を拭うことはなかった。ただ、静かに横たわっていた。

 愛美の母親は、愛美を産んで、その一生をかけて愛美を愛し、愛美を守り続けた。そして愛美のために、喜んで自分の命を犠牲にした。必死に子供を守り抜いた、最高の母親だった。愛美は、その母親の願いを無視することはできなかった。

「お母さん、ごめんね。お母さんを助けられなくて。いままで、ずっと守ってくれて、ありがとう。お母さんの娘に生まれて、幸せだったよ。産んでくれて、ありがとうございます」

 愛美は、冷たくなって横たわっている、安らかな母親の顔に一礼をすると、神聖ゲオーメを握りしめた。

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