第6話 愛美の出生の秘密

第六章 「愛美の出生の秘密」


「優の言うとおりだった。狙われたのは、私だった。とうとうバケモノが部屋にまで現れた。もう家の中も安心じゃない。そして私、バケモノの……」

 愛美の声が小さくなっていく。夜中のことを思い出すと、せっかく大好きな優と喋っているというのに、愛美の心は梅雨空のように晴れなかった。

「いっしょにいて、守ってやれなくて、ごめんな。怖かっただろう。俺のペンダントは、役に立たなかったのかい」

「優のペンダントが守ってくれたから、いまこうして優の前に居られる。そうじゃなきゃ私、バケモノに殺されてた。あのバケモノは、やばかった。なんだかバケモノが、前よりも強くなっている気がする」

 愛美は、つい涙声になる。

「その左手首、どうしたんだ」

 優が愛美の左手を掴み、持ち上げる。愛美の左手首には、自分でカッターナイフで切った傷を隠すための絆創膏が貼ってあった。優が目ざとく、それを見つけて、愛美の左手を持ち上げて見ている。優の手の感触は、いつもやさしい。優に触れられると、嬉しい。でも、リストカットのことは、トップシークレットだ。

「見ないでよ」

 見られたくない部分を見られて、愛美はつい、声を荒らげた。そして優の手をふりほどいて、左腕を背中に回すと、左手首を自分の背中で隠すようにした。本当は、ずっと優に触れられていたいのに。

「優には、本当のことを言ったほうがいいね」

 愛美は、言葉を詰まらせながらも、何とか喉から声を振り絞った。

「実は、バケモノの血を飲んじゃったの」

 優が、どんな反応を示すか、気持ち悪がられるか、嫌われるか、愛美は不安だった。優が口を開くまで、愛美は判決を待つ被告が、裁判官を見つめる気持ちだった。願うような気持ちで、愛美は優の顔を見つめた。

「気にするなよ。死にはしないよ」

 優は笑顔だった。明るい声だった。おそらく愛美の態度を見て、わざと笑顔を作り、明るい声を出してくれたのだろう。愛美は、救われた気持ちになった。この人に、どこまでもついて行こう、そう思わせた。

「私の事、嫌いにならない? だって、バケモノの血で体を穢されたんだよ」

「嫌いになんか、なるわけないだろ。穢されたって言うなら、俺がバケモノの血を吸い出してやる」

 言いながら優が、愛美の唇に自分の唇を重ねてきた。人通りが少ないとはいえ、公道なのに。そう思いながらも、愛美は嫌がったりせずに、自分の唇を優の好きにさせた。

優は気が済むまで、愛美の唇を吸ったのだろう。愛美の唇を自由にしたときには、優は満足そうな表情を浮かべていた。

「これでもう愛美の体は、綺麗になった。だから二度と気にするなよ。今日はもう、バケモノの話題はお仕舞い。せっかくの夏休みだ。楽しもう」

 優のやさしいキスと、思いやりの言葉を受けて、愛美は心身共に浄化された気がした。愛美は、とたんに心が軽くなった。今日は何もかも忘れて、優と思い切り楽しもうと、愛美は思った。

 愛美と優は、いつものように海へ行った。海辺の街だから、夏休みに毎日、海水浴場へと繰り出すのは、当然のことだった。まだ午前中だから、たっぷり遊べる。

 愛美は、自慢のビキニに着替えた。ピンク色のクロスストラップビキニだった。優に見せようと、わざと胸の谷間を強調するビキニだ。その胸の谷間には、優からもらった黒い石のペンダントが鈍く光る。このペンダントを外すわけにはいかない。ただ、ペンダントが揺れて邪魔なので、黒い石の部分は、愛美のビキニの下に滑り込ませ、胸とビキニの布とで押さえてある。

 優も筋肉質のモデルのような体をさらし、肌もかなり黒く焼け、精悍さを増していた。優は、海辺に集まる女性たちにも、注目されているのではないだろうか。そう思うと、愛美は優の首に自分の腕を回し、これは私の男ですというアピールを、誰に見せるでもなくした。

 愛美は、背中に日焼け止めクリームを塗ってくれるよう、優にお願いした。優がやさしい手つきで、愛美の背中に日焼け止めクリームを拡げる。愛美はまるで、優から愛撫でも受けているような気持ちになり、思わず甘い声が口から漏れそうになるのを唇を噛みしめて耐えた。

 いつかは、このビキニに隠されている部分にも、優に触れてもらいたい。愛美は日焼け止めクリームを塗られながら、そんな妄想を逞しくした。幸せだった。

 愛美と優は、浜辺で十分に日光で肌を温め、肌が温まると海へ、体が冷えると浜辺へを繰り返した。愛美は海では大きな浮き輪に乗って、波を楽しんだ。優はおそらくは、そうとう沖にまで泳げるのだろうが、愛美に合わせて浅瀬で遊んでくれる。決して、愛美を置いて、ひとりで沖になどは行かない性格だ。

 海の家で休憩しつつ、お腹も満たした。愛美と優は、午後は砂浜でゆっくりと横になった。優が砂に穴を掘り、愛美に入るように言った。愛美が砂の穴に横たわると、優はせっせっと愛美の体に砂をかける。

 愛美は顔だけを砂から出して、体は完全に砂に埋まった。砂の重さで、愛美は完全に体の自由を奪われた。すると、愛美が動けないことをいいことに、優が朝に続き、またしても愛美の唇を奪ってきた。

(もう、みんな見てるのに。優ったら、大胆ね。ま、周りに見せつけるのも、いいか)

 そう考えながら、愛美は優の熱い接吻を長時間受けているうちに、顔が赤くなってくるのを感じた。むろん、夏の昼間の日差しを浴びているせいもある。しかし、砂浜で体の自由を奪われ、男に自分の唇を好きに吸われていることに、女としての被虐を感じていた。それも、みんなに見られながらの、浜辺での大胆なキスだ。

 優の舌は、さんざん愛美の口の中で暴れてから、ようやく愛美を解放してくれた。その間に愛美は、たっぷりと優の唾液を飲み込んでいた。愛美は、バケモノの血で穢された気になっていた体が、優の唾液を飲むことで浄化されたと思った。優がやたらとキスしてくるのも、その効果を狙ってのことだろう。

「いい加減にして。エッチ」

 愛美は、わざと心にも無いことを言った。

「早く、砂から出してよ」

 このままでは、二回、三回と優に唇を奪われかねない。あまり安い女と思われても困る。愛美は、優に砂の山をどけさせた。やっと自由になった。

 夏の日差しが弱くなり、ゆっくりと海のほうに傾いている。愛美が優に体の自由を奪われ、キスをされているうちに、夕方になっていたのだ。いったい、どれだけ長く唇を重ね合わせていたのか。考えると、愛美はさらに顔が赤くなった。

 愛美は、砂の山の下にいるうちに食い込んでしまった、ビキニのヒップの布を引っ張って直しつつ、海から吹きつける、夜の空気をはらんだ風を全身に受けていた。愛美の肌に浮き出ていた汗が、風を感じて一斉に消え去っていく。汗は消えながら、体の熱を奪うので、愛美は震えた。

 震える愛美の体を、優が愛美の背後にまわって、やさしく抱きしめてくれた。優の体温が、背中から愛美の全身に伝わり、愛美の体をじんわりと温めてくれる。もう寒くない。

 愛美は、優に背後から抱きしめられた状態で、いつまでもいつまでも、太陽が海の向こうに沈んで行くのを眺めていた。

(ずっとこのまま、ここにいたい。明日の朝まで、優と)

「お~い、哲ちゃん、そろそろ帰るぞ」

 近くで親たちが、自分の子供の名前を呼んでいる声を聞いて、愛美はようやく帰る決心をした。このままでは、優も私もやがて風邪をひいてしまう。

「優、ありがとう。もういいよ。今日は優の私への愛情が、十分に伝わった」

 愛美は後ろを振り返ると、今度は自分から優へ唇を差し出した。背の高い優は、自分の顔を愛美の顔の位置まで下げて、愛美の差し出した唇を受け取ってくれた。

 海水浴場を後にした愛美は、心地良い疲労感に包まれていた。優からの愛情のプレゼントも、たくさん受け取れた。愛美は体は疲れているが、心はわくわくして軽い。このまま空まで、飛べるような気がした。

 今日もアルバイトが終わるまで優に付き合ってもらい、愛美の家まで共に歩いた。家の前で愛美は、自分から優に抱きつき、お別れのキスをねだった。本当に安い女になってしまったものだ、と愛美は苦笑した。愛美は、優の背中が見えなくなるまで、優に手を振った。

 夜空の月は、針金のように細かった。新月が、もう目の前だ。ウィッカンの愛美には、新月は満月と並んで、特別な日だった。月のパワーが弱まったいま、無数の星が月明かりの影響を受けずに、その存在を誇示していた。流れ星が一個、流れた。

(綺麗)

 愛美は、願い事をするのも忘れて、ぼーっと星空を見上げていた。UFOでも探そうかと思ったとたん、愛美の口からくしゃみが飛び出し、愛美はぶるっと震えると、おとなしく家へと入った。

「お帰りなさい」

 玄関に母親が立っていた。出迎えてくれたのだ。それは愛美にとって、予期しない、信じられない光景だった。

 母親とは、愛美が小学校に入ったぐらいから、家庭内別居が続いていた。愛美にとって家庭とは、母親が家に居ようが居まいが、ひとりで生活する場所だった。

 そんな母親との関係をなんとかしたい。仲の良い親子関係を築きたい。母親と友達のようになりたい。それが愛美の、長年の夢だった。その母親が、いま自分から愛美を出迎えてくれている。

 愛美の目から、一筋の涙がこぼれた。その涙は温かかった。温かく、愛美の頬を濡らして、落ちた。

「お母さん。私がいままで、どんな気持ちでお母さんを見ていたか、わかる?」

 愛美は嬉しいのに、思わず母親を責める言葉が、真っ先に出た。

「ごめんなさい。お母さんが、なぜあなたと距離を置いて、話をせず、仲良くしようとしなかったのか、ちゃんと理由があるの」

「どんな理由よ?」

 愛美は、ついつい口をとがらせた。本当は、いますぐ母親に抱きついて甘えたい。しかし、あまりにも長かった母親との親子関係の断絶が、愛美を素直にさせない。

「その理由は、いずれちゃんと話すよ。でもいまは、お母さんの話を聞いておくれ」

 母親は穏やかに愛美に話しかけた。その母親の目は、潤んでいるように見えた。

「お母さんは、ある島で生まれたんだよ。黒沼島という、小さな島さ。ほとんど本土とも、交流の無い島だった。たまに本土から、物質を運ぶ船が来るだけだった。

 この島は、ひとつの信仰に支配されていた。闇幽夜叉大明王という仏を拝んでいた。闇幽夜叉大明王は、ときどきお告げを祭主に下ろし、島の人間は、このお告げに従って暮らしていた。そういう島だったんだよ。黒沼島では、この信仰は絶対だった」

 母親は、いま住んでいるこの街の出身だと思っていた愛美は、実は母親が小さな島で生まれたことを知り、驚いた。そして無言でうなずきながら、母親の話に聞き入った。

「お母さんもね、黒沼島の人間として、幼い頃から熱心に、この仏を拝んでいた。それが当たり前だった。そしてお母さんが一八歳になったとき、お母さんは闇幽夜叉大明王に選ばれた。闇幽夜叉大明王の嫁になったんだよ。物心ついたときから、闇幽夜叉大明王を心から崇拝していたお母さんは、本当に嬉しかった。お嫁さんになれるって」

 闇幽夜叉大明王。聞いたことのない仏だ。もっとも、クリスチャンだった愛美は、仏の名前など、ほとんど知らないのだが。仏が人間の女を嫁にする。そんなことが、あるのだろうか?

「闇幽夜叉大明王は、百年に一度、地上に現れて、人間の娘との間に子を成す。そうしなければ、闇幽夜叉大明王と島民の関係は薄れ、やがて闇幽夜叉大明王のお告げは与えられなくなると、むかしから伝えられていた。

 お母さんは、闇幽夜叉大明王の仏像が祀られている仏殿で一晩を過ごした。新月の日の夜だったよ。その夜、まだ何も知らない娘だったお母さんは、闇幽夜叉大明王と契りを交わした。そして、一晩で身ごもった。嬉しかった。

 臨月を迎えたお母さんは、産婆さんにお願いして、自宅であなたを産んだんだよ」

「なに、それ? 私は、その闇幽夜叉大明王とかいう仏さんの子供だっていうわけ? 私が物心つく前に死んだ父さんは、本当はいなかったというの? そもそも私って、人間じゃなくて、半分は仏ってこと?」

 愛美は、頭が混乱して、くらくらして来た。めまいがする。母親の言うことが、にわかには信じがたい。私って、なに?

「お母さんは、あなたが愛しかった。愛しくて、美しい赤ちゃんだったから、愛美と名付けたんだよ」

 母親は、愛美の疑問には答えず、落ち着いた口調で、話を続けた。

「あなたは、ぜんぜん泣かない、手のかからない赤ちゃんだった。そんなある日、お母さんは夜中にふと目を覚ました。客間から、ぼそぼそと話し声がする。こんな夜中に客が来るとはおかしいと、そっと足を忍ばせて、客間の前まで行ってみた。

 そして聞いてしまったんだよ。声の主は、島の世話役の男だったと思う。あなたが一歳になった後の新月の時刻に、あなたを闇幽夜叉大明王様の生け贄にすると。これは、この黒沼島に伝わる百年に一度の掟だから、絶対に断ることは許されないと。

 お母さんは絶望した。愛しいあなたが、生け贄にされるなんて。でも、黒沼島では闇幽夜叉大明王は絶対の存在。逆らえば、島では生きていけない。我が家に、断るという選択肢など、あるわけがない。

 そして思った。生け贄を求める仏なんて、本当の仏のわけがない、と。自分が契って産ませた娘を、自分の生け贄にするとは、邪神に違いない。

 なんとか、あなたを助けないといけない。その思いでお母さんは、あなたを抱き上げると、家を飛び出して、闇夜の中を裸足のまま走った。あなたが、泣き声を上げない赤ちゃんで、助かったよ。お陰で、気づかれることはなかった。

 お母さんは、何も見えない暗闇の中を、無我夢中で港まで走った。なんとか、この島を出ないと、その一心だった。すると、本土から物資を運んで来た船が、まだ港にいた。前の日に海が荒れたので、足止めされていたそうだ。幸運だった。

 お母さんは、必死に船を出してくれるように頼んだ。船員も、お母さんのただならぬ気配と覚悟を察してくれたのだろう。船員が島の人間ではなく、本土の人間だったのも都合が良かった。船員が島の人間だったら、お母さんは島から出られなかっただろう。

 お母さんの熱意が通じて、まだ夜明け前なのに、船員が船を出してくれた。こうしてお母さんは、あなたを連れて島を逃げることができた」

 ここまで話して母親は、心の奥底に閉じ込めておいた荷物を解放したかのような、長い長いため息を漏らした。

 愛美はまるで、水の底で聞こえる声を聞いているような気分で、母親の話を聞いていた。私は、生け贄にされる運命だったのか、と。そして、必死で自分を守ってくれた母親の愛を、しっかりと感じていた。

「お母さんは、本土に身寄りが無かった。あなたを連れて、当てもなく彷徨っているとき、たまたま教会が目に入り、庇護を求めて洗礼を受けた。あなたにも、洗礼を受けさせた。私たちがクリスチャンだったのは、こういう理由さ。

 お母さんは、しばらく神父さんの家でお世話になりながら、神父さんの勧めに従って、准看護師の資格をとった。そして働きながら、看護師にステップアップした。生活のため、あなたを育てるため、必死で働いた。

 お母さんが恐れていたのは、島の人間が、あなたを取り返しに来ることだった。いつも、島の人間の影に怯えていた。

 お母さんは、看護師をやりながら、闇幽夜叉大明王について調べたけど、なかなか手がかりは無かった。ただ、一冊だけ、戦前の民俗学の本を見つけた。それは黒沼島について県が調査した、民俗風習の研究書だった。戦前は、国や県の力が強かった。だから黒沼島の人間も、県の調査を拒めなかったんだろうね。いまでは貴重な資料だよ。そこには、島独特の信仰として、闇幽夜叉大明王のことが書かれていた。


島では、仏と言われ、明王の名が付いているが、これはもともとは、仏教とは関係の無いものだろう。おそらく大航海時代に、異国の信仰が黒沼島にもたらされ、本土や他の島との交流の無い黒沼島で、独自の発展を遂げた宗教だと思われる。また、島民のあいだでは、闇幽夜叉大明王を象徴する仏具として、降魔の天剣というものが伝えられているが、実物は確認できない。


これだけの記述だったけど、闇幽夜叉大明王が、仏教の仏とは関係が無いと、はっきり書かれていた。残念ながら、生け贄の風習については書かれていなかったけど、闇幽夜叉大明王は邪神だと、お母さんは信じている。

これがお母さんの生い立ちと、あなたの出生の秘密。そして、なぜこの街で暮らしているのか。なぜクリスチャンだったのか、の理由だよ。いままで黙っていて、ごめんね。言いたくても、言えないわけがあって。そのわけについては、もう少し後で話すよ。

いつか、あなたのところに、島の人間が来るかもしれない。島の人間は、闇幽夜叉大明王に逆らえない。信仰に支配されている人間だからね。あれから十八年たったけど、闇幽夜叉大明王は、生け贄をあきらめてないはずだよ。生け贄になるのは、闇幽夜叉大明王の血が体の中に入っている、あなたじゃないとダメなんだよ。島の人間は、いつかきっと、あなたを探し出して、生け贄にしようとするだろう。

その時は、迫っている気がする。悪い予感がするんだ。お母さんが、あなたを守ってやれる時期は、もう終わったよ。島の人間に見つかったら、逃げても無駄さ。戦うんだよ。自分の命を守るためにね。そのためには、強くならないといけない。十八歳になったあなたには、もう自分で自分を守る力が芽生えて来ているはずだよ。

そのための条件は、もう揃っているはずさ。守ってくれる人もいる。でも、最後は自分の力を信じるんだよ。

闇幽夜叉大明王の生け贄にされる。それは、あなたの持って生まれた運命だった。お母さんは、その運命にあらがった。そして、その運命を終わりにするのは、他の誰でもない、あなたなんだよ。自分の運命を切り拓いて、明るい未来を手に入れておくれ」

母親の話を聞き終わったあと、しばらく愛美は動けなかった。言葉も出なかった。初めて、自分の運命がなんだったのかを知ったからだ。自分は生け贄にされるはずだった。そして、いまも狙われている。この現代に、生け贄の風習などという、物語でしか聞いたことのないような、おぞましい習慣が残っている。

愛美は、急にバケモノが自分の前に出現するようになった事実と、自分が闇幽夜叉大明王の生け贄にされる運命だった事が、もしかしたら結びつくのかもしれないと、思い始めた。 だとしたら、暁とは何者なのか? 単なる、恋愛感情のもつれだけで、愛美や優の命を狙ったのではなく、もっと深い目的があるのかもしれない。

マリアさんが言っていた、運命の扉が開いた、という言葉も気になる。マリアさんが言っていた愛美の運命とは、バケモノのことだけではなく、生け贄にされる運命のことも指していたのだろうか?

愛美は、考えれば考えるほど、頭が混乱してきた。まだまだ、わからないことだらけだ。無理もなかった。ついさっき、出生の秘密と、それにまつわる運命を教えられたばかりだ。頭の整理をするには、時間がかかりそうだ。それよりも、いまできることをしよう。母親は笑顔をたたえて、愛美の前に座っていてくれる。

「お母さん。ずっと、こうしたかった」

 愛美は、母親の正座している膝に自分の顔を埋め、声を上げて泣いた。愛美がしたくても、ずっとできずにいたこと。それは子供らしく、母親に甘えることだった。小さな頃にできなかった母親への甘えを、愛美は高校三年生になって、やっと手に入れた。

「好きなだけ、泣きなさい」

 母親は優しく愛美の髪を撫でた。永久にわかり合えないと思っていた母親と、たった一晩で愛情で結ばれたことを知った愛美には、もう言葉は要らなかった。

 母親が、どんな気持ちで愛美を育てて来たのかや、母親が、ずっと愛美の心配をしてくれていたこと。それらが理解できて、愛美は声が出なくなるまで泣いた。

 やがて、愛美の体には、十分に母親の愛情が充電できた。満たされた愛美は、母親にバケモノのことや、彼氏ができたことを、初めて報告した。

「家の中にまでバケモノが現れたの。お母さんも注意して。私のせいで、お母さんまでバケモノの巻き添えになるかもしれない」

「お母さんがバケモノに襲われることはないから、心配しなくていいよ。狙われるのは、愛美なんだよ。冷たいようだけど、お母さんはバケモノから、あなたを守ってやるだけの力は無い。娘が、命の危機に晒されているのはわかったけど、なにもできないんだよ。あなたには、闇幽夜叉大明王の血が入っている。そんなあなたは、普通の人は一生経験しない苦難を味わう事になるだろうと、あなたが赤ちゃんのときから覚悟してきたよ。

 だから、バケモノの話を聞いても、お母さんはちっとも不思議じゃない。あなたには、何が起こるかわからないからね。もうここまで来たら、お母さんはあなたの無事を祈るしかない。あなたのことを心配してないわけじゃないよ。娘がバケモノに襲われているなんて、胸が張り裂けそうさ。

 だけどあなたは、いままで何度もバケモノを撃退してきたんだろ。それを信じるしかないさ。きっとあなたを助けてくれる仲間もいるよ。だけど、最後の最後は自分の力で、自分の運命を切り拓くしか方法はないよ。それを忘れないで」

 母親は、バケモノの話を聞いても、驚きも慌てもしなかった。母親はとっくに、愛美の運命を理解していたのだろう。いつかは、愛美が危機に巻き込まれると。

「バケモノと闇幽夜叉大明王って、関係があるかな? 私の中の闇幽夜叉大明王の血が、バケモノを呼び寄せているんだろうか? 暁が、何か知っていると思う。お母さん、暁は知っているよね。私の幼馴染みの暁。本当に、暁の家は知らないの?」

「ごめんね。知らないよ」

 暁の家は、誰も知らない。でも、もしかしたら母親が覚えているのではないかと期待したのだが、ダメだった。

「バケモノから守ってくれる人なら、いるよ。さっきも言ったけど、彼氏ができたの」

「男の人とは、注意して付き合わないと、だめだよ。一時の感情ではなくて、本当に信頼できる相手かを、よく確認してから付き合うんだよ。もしかしたら、あなたにふさわしい相手は、思わぬ相手なのかもしれないからね」

 母親は、愛美に彼氏ができたことを喜んでくれると思ったのに、冷静な返事が返ってきた。魔女のマリアさんのことも、母親に報告したかったが、それでは愛美がウィッカンになったことが、母親にばれてしまう。せっかく母親が心を許してくれたのに、クリスチャンを辞めたなどと言ったら、また母親との関係が冷えるかもしれない。愛美は、マリアさんのことは、母親には秘密にすることにした。

「あなたが運命を変えるには、闇幽夜叉大明王の正体を知る必要がある。お母さんが調べた知識だけでは、まだ不足だよ。どうにかして、正体がわかればいいけど。もう、あまり時間が残されていないかもしれない。それだけが、不安材料さ」

 母親は、困った表情を浮かべた。そして、神経質そうに、指を細かく振るわせた。

「そうだ。あなたに荷物があるんだよ」

 母親は、梱包された箱を愛美に差し出した。

「今日は、もう遅いから、そろそろ部屋で休みなさい」

 愛美は、まだ母親と話していたかったが、母親の言葉に従うことにした。母親から渡された荷物を受け取ると、二階の部屋に行くことにした。

「お母さん、今日はありがとね。また、明日ね。お休みなさい」

 愛美は、懸案だった母親との和解ができて、長い間の宿題をやり遂げた気分で、満たされながら部屋に入った。

(この荷物は、何かしら?)

 荷物には宛名があり、愛美の住所と名前が印字されているが、差出人の名前はない。愛美がさっそく開けてみると、荷物の中にカードが入っていた。マリアと書いてある。

(マリアさん、さっそく強力なアイテムを送ってくれたのね)

 カードと一緒に、小さな箱が入っていた。愛美は気持ちがはやり、小さな箱をやや乱暴に開けてしまった。

 箱の中には、玉子ぐらいの大きさの楕円形の乳白色のアイテムが入っていた。そして、その楕円形のアイテムの中に、五芒星と幾何学模様の描かれた金属のようなものが内包されているのが、透けて見える。

 手紙も添えられている。マリアさんからだ。


「あなたに危機が迫っています。それは、ずっと前からあなたの事を知っていて、あなたを狙っていたのです。もう猶予はありません。天使から伝えられしアイテムを授けます。これは、最高の武器です。攻撃は最大の防御です。身を守りたかったら、戦うことです。

 このアイテムは『神聖ゲオーメ』と呼ばれます。天使に認められた者を守護します。この神聖ゲオーメを本当に使いこなせるのは天使だけですが、人間であっても、天使に愛される者は効果を得ることができます。

 この神聖ゲオーメは、決して人に話したり、見せたりしないでください。そして、肌身離さず持っていてください。あなたに天使の加護がありますように」


 マリアさんの言う、ずっと前からあなたの事を知っていて、あなたを狙っていたというのは、果たして暁のことだろうか、それとも黒沼島の島民に狙われているのだろうか。一気に、いろんな情報が入ってきたので、愛美は混乱した。

 愛美は、神聖ゲオーメをベッドの上の、すぐ手に取れるところに置くと、マリアさんにメールした。


「マリアさん。愛美です。いつも夜分に失礼します。神聖ゲオーメ、送ってくれてありがとうございます。これがあれば、もうバケモノも怖くないのですね。

 ところで質問ですけど、私って天使に愛されているのでしょうか? その資格って、私にありますか? 女神様とは、ウィッカンとして結びついているとは思いますが、天使というのが、いまひとつピンと来ないのです。

 でもマリアさんが、神聖ゲオーメを送ってくれたということは、私にも使いこなせると思ったからですよね。

 私に迫っている危機って、なんでしょう? いままで何度も襲ってきたバケモノのことでしょうか? それとも。

 私には、複雑な出生の秘密がありました。母親が、やっと教えてくれました。どうも母親の話を聞くと、私は母親の生まれた島の人間にも狙われているようです。その島の人間と、バケモノが結びつくのか、それとも別の存在なのか、私には、わかりません。

 私の出生の秘密については、いずれ詳しくお話します。今夜は遅いので、ここまでで失礼します。神聖ゲオーメ、大切にしますね」


 愛美は、マリアさんにメールをすると、ベッドに横たわった。今日は、母親と話して、母親に甘えられたことで十分だった。母親の話を聞いて、いろいろ心配も増えたけど、いままでも何とかなってきたのだし、これからも何とかなるだろうと、愛美は楽天的に考えるとことにした。

楽天的にならないと、精神がやられるからだ。いま、こうしている間にも、バケモノが襲ってくるかもしれないのだ。愛美は現実から目をそらせることによって、いままでなんとか精神の安定を、保ってきたのだ。

(お母さんが言っていた。闇幽夜叉大明王について、調べろって。もう眠い。起きてからにしよう)

 愛美は、そのまま、深い眠りへと落ちた。

 目が覚めると愛美は、すぐにスマートフォンを見た。珍しく、マリアさんからの返信はなかった。愛美はそのままスマートフォンで、闇幽夜叉大明王の検索をしたが、ヒットしない。どうやれば闇幽夜叉大明王のことを調べられるのか、愛美は途方に暮れた。

 朝食は、何年かぶりで母親と一緒に食べた。母親が食パンを焼いてくれた。母親と食卓を囲む。その何気ない日常こそ、ずっと愛美が夢見ていたものだ。

「お母さん、これからはずっと一緒に食事しよ。だって、仕事に行かなくていいんでしょ」

「愛美、なんでわかったの?」

「うん。たまたま星野病院へ行って、看護師長さんに聞いた。看護師長さん、お母さんのことを褒めてたよ」

 愛美は、母親と喋ることが嬉しくて、食パンを食べることも忘れて、母親といろんなことを喋った。今までたまっていたことを、全部喋る気だった。

「愛美、今日は出かけないのかい?」

「そうだった。彼氏と会ってくるね。でも、夕食までには帰ってくる。お母さんと食べたいもん。アルバイトも休むね」

 愛美は、上機嫌だった。食パンもホットコーヒーも冷めていたが、どうでもよかった。愛美は食パンをコーヒーで流し込むように食べると、優に会いに出かけた。

 愛美は優に会うと、息せき切って、母親から聞かされた話をかいつまんで優に聞かせた。優には、自分のことをなんでも知っておいてほしかったし、また愛美の身の回りで起きる怪異の手がかりを、優も知りたいだろうと思ったからだ。

 ただし、自分が闇幽夜叉大明王の娘であることだけは、愛美は巧妙に伏せておいた。さすがに、自分の体に人間以外の血が混じっているなどというのは、相手が優でも公表できなかった。後ろめたくはあるが、今はまだ秘密にしておこうと思った。

「この話、信じてくれる?」

「信じるに決まってるだろ。俺自身、バケモノに襲われているんだ。バケモノを目撃している以上、どんな不思議な話だって否定はしないよ」

「私、闇幽夜叉大明王ってやつの生け贄にされるかもしれないんだって」

「絶対、そんなことはさせない。俺が守ってみせる」

 優は愛美の手をしっかりと握ると、力強い言葉を愛美にプレゼントしてくれた。

「とにかく、闇幽夜叉大明王の情報がいるんだ。ネットには載ってなかった。図書館に行ったら、なにか手がかりがあるかな?」

「無駄さ。この街の信仰ならともかく、遠くの島の特殊な信仰について書いた本が、この街の図書館にあるとは思えない」

「無駄足になってもいい。図書館に付き合って」

 優は、渋々という表情で、愛美の後についてきた。すでに七月の太陽は、一億四九六〇キロメートルの距離から、愛美と優の汗を絞り尽くすには十分の熱気を届けて来る。愛美と優は、かろうじてダウンする前に図書館へと辿り着いた。

街の暑さは、海で感じる日差しの暑さの比ではなかった。図書館に飛び込むと、適度な空調が愛美と優を出迎えてくれた。図書館こそは、街のアオシスだと愛美は感じた。

 とりあえず愛美は、司書の女性に黒沼島に関する資料はないかを尋ねた。司書の女性は端末を操作しつつ、愛美に黒沼島とはどこにあるのかと聞き返してきた。当然の反応だった。

「その黒沼島について、具体的には、どのようなことをお調べになりたいんですか?」

「えっと、黒沼島の信仰についてです」

「いま蔵書を調べているのですが、当館の蔵書には、残念ながら黒沼島に関する資料は、無さそうなんですが」

「だったら、闇幽夜叉大明王について、何か資料はありますか?」

「あん? あんゆう?」

「あんゆうやしゃだいみょうおう、です。闇幽夜叉大明王」

 愛美は司書の女性に、闇幽夜叉大明王の漢字を説明した。司書の女性は、不審そうな目で愛美を見始めた。マニアックな趣味を持つ女子高生、とでも思われたのだろう。

「すみません。専門書を集めた書店でも探さないと、見つからないかもしれません。あるいは、国立国会図書館にでも行ってみるとか。当館では、国立国会図書館の蔵書の取り寄せサービスは行っていませんので、力になれず、申し訳ありません」

 司書の女性は、事務的な口調で頭を下げた。この街に図書館は、ひとつしかない。司書の女性の話では、国立国会図書館の資料は、インターネットでも検索できるとのことだが、自分でやってほしいとのことだ。

 愛美は、スマートフォンを取り出すと、国立国会図書館を検索しようとした。だが、優にスマートフォンを取り上げられた。

「なにするの?」

「実は、愛美に話したいことがあって」

「なに?」

「図書館でお喋りは禁止だよ。今日は、港に行ってみよう。デートも兼ねてね」

 優がウインクしつつ、愛美にスマートフォンを返した。愛美は、一刻も早く闇幽夜叉大明王の正体を調べたいのだが、優の彼女として、優の相手も務めないといけない。いままで愛美を支えてくれた、優への恩返しでもあった。

 港についた。海水浴場とは違う潮風が吹いている。港の潮風には、ガソリンと船乗りの汗の匂いが混じっていた。まずは、港にある小さなラーメン屋で食事をした。優は世間話はしても、なかなか本題に入らない。

 痺れを切らした愛美が催促すると、優はラーメンのスープを全部飲み干してから、店を出て桟橋へと向かった。

 港の空は、入道雲に覆われていた。そのうち、天気が崩れるのかもしれない。夕立ぐらいなら、気持ち良いのだがと、愛美は入道雲を眺めながら思った。空一面を覆う入道雲は、これからの愛美の未来を暗示しているようだ。ひと雨来た後で、晴れ渡るのか。それとも、闇雲に雲の中を突き進むことになってしまうのか。

「実は、そろそろ愛美を家に招待したい」

 優は、唐突にそう言った。ついに優が家に呼んでくれた。彼女として認められたみたいで、愛美は笑みがこぼれるのを止められなかった。このまま、明るい未来へと進んで行きたい。愛美は、入道雲を見上げながら思った。

「ご両親に、紹介してくれるのね」

「いや、明日は両親が留守なんだ。親への紹介は、いずれ必ずするよ。愛美は、大切な恋人なんだし。親に紹介する前に、一度、俺の家に来て、俺の家の雰囲気に慣れておいてほしいんだ」

「雰囲気に慣れなきゃいけないような家なの? ふふふ。大げさな感じ」

「愛美を親に紹介するときは、愛美にリラックスした状態で家に来てほしい。ただでさえ、親に紹介するなんていうと、緊張するだろ」

「そうね。優の家は、前から行ってみたかったし。楽しみだわ。優が私のことをご両親に紹介してくれたら、今度は私が優を、母親に紹介するわね」

 愛美は視線を上げて、背の高い優を見つめた。優は視線を下げて、愛美の目を見る。ふたりは無言になった。言葉を交わすことなく、しばらく見つめ合った。

 やがて優が、愛美に顔を近づけると、口づけの応酬が始まった。優は愛美の背中を、がっしりとした腕で抱きしめてきた。男らしい腕だった。優が腕に力を入れれば入れるほど、力強く抱きしめられた愛美の体からは幸せが湧き出てくる。

(もしかしたら明日、優の家でなにか進展があるかもしれない。両親の留守に家に誘われたんだもん。きっと、そうよ。優は私と、いま以上の関係を求めているんだわ。そういえば、明日は新月ね。新しいスタートには、ちょうど良い)

 愛美と優が、いつまでも抱き合うのを、海を飛ぶカモメだけが見守ってくれているのだろう。カモメの鳴き声が、潮風に乗って愛美の耳に運ばれて来る。

 長時間、優に抱きしめられ、唇を吸われて、愛美は放心状態に陥った。やっと優が解放してくれた。愛美は、酸素不足を補うため、深呼吸して空を見た。空一面の入道雲の中で、稲光が見える。やがて雷雨になるのだろう。

「ごめん。私、闇幽夜叉大明王について、もう少し時間をかけて調べてみたい。それに今日は、お母さんと夕食を食べる約束してるの」

「闇幽夜叉大明王について、何を調べる気だい?」

 優の声ではなかった。驚いて振り向くと、そこには暁がいた。眼鏡の奥の暁の目は、愛美を射抜くかのような鋭さだった。暁は、顔を神経質に歪めた。まるで重病の患者が病院から逃げ出してでも来たような、病的な表情だ。

「愛美、いつから、そんな趣味の悪いペンダントをするようになったんだ。以前は、もっと素敵なペンダントだっただろう。そのペンダントは、すぐに捨てろ」

 暁が、命令口調で愛美のペンダントにケチをつけた。優からもらった大切な黒い石のペンダントに、汚水でもかけられたような嫌な気分に愛美はなった。

 愛美の目の前で、暁の体が宙に浮き、五~六メートル後ろに吹き飛ばされた。優が、暁に殴りかかったのだ。愛美の目には、風に吹かれた木の葉のように飛んで行く暁の姿が、まるでスローモーションのように写った。

「いい加減にしろ。いつから盗み聞きしてたんだ。愛美にまとわりつくな。愛美と縁を切れ」

 暁の鼻と口からは、血が流れていた。暁の病的な顔は怒りに歪み、外れかけた眼鏡の奥に見える目には、殺意が宿っているようだ。暁は、口から血を吐き捨てて、なおも優を睨んでいる。病弱な暁と、筋肉質の優とでは、体力では勝負にならない。

「優、もう、やめて。それよりも、暁を逃がさないで。いまここで、暁に全部を話させよう。バケモノのこと。そしてさっき、闇幽夜叉大明王の話を盗み聞きしていて、暁はなんだか闇幽夜叉大明王のことを、初めて聞くわけじゃなさそうな、そんな感じだった。

だとしたら、黒沼島のことを知っている可能性もある。バケモノと黒沼島が、結びつくかもしれない。暁に聞けば、すべての謎が解けるかもしれない。それに暁を捕まえておけば、もうバケモノを操ることは出来ないはず。いまがチャンスよ」

空が暗くなった。閃光そして、雷鳴が轟く。いよいよ入道雲が、中に蓄えていたエネルギーを放出したのだ。雷に続いて、土砂降りの雨が襲ってきた。目の前が見えない。

「暁が、逃げてしまう」

 愛美は、優に向かって叫んだが、土砂降りの雨の音が、その声をかき消す。しかし優は、土砂降りの雨の中に消えた愛美の声が聞こえたのか、あるいは愛美と同じことを考えていたのか、暁に近づくと、軽々と暁を抑え込んだ。これで安心だった。

「ここら辺で、ケンカなんかするな。おいらたちの縄張りだ」

 土砂降りの雨のせいで、はっきりとは聞こえなかったが、ふたりの船乗りらしき男たちが気づかないうちに近づいていて、優を羽交い締めにして、暁から引き離した。優も筋肉質だが、船乗りらしき男たちは、優を上回る屈強な体だ。しかも、ふたりいる。優も抵抗したが、無理だった。

 稲光と雷鳴が同時におこった。稲光で、一瞬、視界が真っ白になった。愛美が視界を取り戻すと、暁が消えていた。ただでさえ、土砂降りの雨で前が見えないところに持ってきての、まばゆい稲光だった。暁が、そのチャンスを逃すはずがない。

 暁を捕まえる千載一遇の機会だった。だが、あと一歩というところで、暁を逃してしまった。暁は、ただ愛美への鬱屈した思いから、バケモノを操っているだけなのか、それとも背後に、黒沼島との関係があるのか、これでわからなくなった。

 唯一、確かなのは、暁がいるかぎり、いつバケモノが愛美や優を襲ってくるかわからないということだ。暁は、危険人物なのだ。

 雨がやんだ。あれだけ激しかった土砂降りが、嘘のように晴れ、空には虹がかかった。愛美は、白いTシャツがすっかり雨で濡れて、ブラジャーが透けて見えていることに気づいた。それに寒い。愛美は、両手を交差させて、胸を隠した。優以外の男には、見せたくない。

 優が戻ってきた。船乗りらしき男たちから、解放されたのだろう。優は、雨で濡れたTシャツを脱いで、裸になっていた。盛り上がった胸筋に、六つに割れた腹筋。逞しく、無駄の無い体が、愛美には眩しかった。

「逃げられたな」

「これでまた、バケモノが襲ってくるかもね。優に殴られたときの、暁の目つき、見た?」

「俺がプレゼントしたペンダントさえあれば、大丈夫だ。あのペンダントは、絶対に体から離すなよ。絶対にだ。俺は平気だから、心配するな」

「私、やっぱり不安だよ。暁のこともあるけど、黒沼島の人間のことも。本当に、黒沼島の人間は、私を捕まえに来るのかな? その前に、闇幽夜叉大明王についての情報を知っておきたい。お母さんにも会いたいし、今日は帰るね」

 愛美は、半裸の優に抱きしめられた。優に圧迫されて、愛美の着ているずぶ濡れのTシャツが、愛美の体に張り付く。Tシャツ越しに、優の体温が感じられた。このまま優に身を任せたいが、帰ることにする。雨上がりの虹は、ちょうど薄れゆくところだった。

 愛美は、家へと急いだ。家に帰ったらゆっくりと時間をかけて、国立国会図書館の資料をチェックしてみるつもりだった。黒沼島の信仰に関する資料か、闇幽夜叉大明王についての研究資料が見つかればいいのだが。

 愛美が家に近づいてきたところで、空が暗くなってきた。夏場なので、日暮れまでには、まだ間があるはずだ。愛美が空を見上げると、黒雲が一面を覆い、太陽を隠していた。港で土砂降りの雨に降られたばかりだというのに、ついてない。愛美のTシャツはまだ、乾いていないのに、また濡れそうだ。

 小さな公園を通れば、愛美の家への近道だ。「おかだ公園」。愛美が、この小さな公園を通っての近道を躊躇するのには、理由がある。以前にこの公園で、ネコのバケモノに遭遇しているからだ。

 雨が降る前に、早く家に帰って着替えたい気持ちと、公園でバケモノに襲われたトラウマとが、愛美の中で葛藤する。愛美の濡れたTシャツからは、まだブラジャーが透けて見えている。思春期の愛美にとって、知らない男性からブラジャーを見られるかもしれない状態で、この先の人通りの多い大通りを歩くのは、恥ずかしかった。公園を通れば、人目は少ない。

 愛美が、小さな公園の前に立ち止まって、しばらく悩んでいると、とうとう雨が降り始めた。それでも、愛美は迷う。雨は激しくなってくる。やはり、公園には入りたくない。

 愛美が、小さな公園に背を向けたとたん、いきなり雹が降ってきた。雹は、容赦なく愛美を襲う。大粒の雹が、愛美の頭を直撃した。

(痛い)

 愛美は条件反射のように、小さな公園へと走った。雹は激しい音を立てながら、地面に積もり始めた。一気に足場が悪くなる。走ると危険だが、歩くと雹から逃れるのが遅くなる。愛美は、雹の積もった地面を蹴って、家へと走った。

 愛美は、地面の雹に足を取られ、転倒した。体を地面に打ちつけ、雹が愛美の体を突き刺す。かろうじて、愛美は手を地面につくことによって顔だけは守ったが、雹に手をついたことによって、愛美の手は激痛で、しばらく使い物にならなくなった。

 雹と雨とによってぬかるんだ地面は、愛美の体温を急激に奪った。さらに次々と落ちてくる雹が、追い打ちをかける。早く起き上がって家に帰らないと、低体温症になりそうだった。愛美は起き上がろうとするが、足が動かない。

 愛美の足は、掴まれていた。地面から手が出ている。灰色の手だった。明らかにバケモノだった。愛美は、優に殴られたときの、暁の目つきを思い出した。暁が復讐に来たのだ。逃げなければいけない。

 愛美は、恐怖に駆られた。いままで何度もバケモノと遭遇して、その都度、撃退はしているが、毎回毎回、今回はやられるのではないか、今回は助からないのではないか、そういう思いで、心が支配される。何度バケモノを見ても、慣れるなどということは、ない。

 愛美は、足を掴んでいる手を振りほどきたいのだが、地面に倒れたときの衝撃で、まだ手が痛くて痺れている。仕方なく、足を滅茶苦茶に動かして、地面から出ている灰色の手から逃れようとしたが、地面から出ている手はがっちりと愛美の足を掴んで離さない。

 必死にもがく愛美の顔の前に、近くの木から何かが落ちてきた。山羊の顔だった。顔だけだ。体は無い。真っ黒で、もじゃもじゃの毛に覆われた山羊の顔が、木から落ちてきて、愛美の顔の直前で止まった。

 山羊の顔が目と鼻の先にある。愛美は、恐怖で悲鳴を上げた。山羊の顔は口を大きく開けた。山羊の顔の口から、青白く光った小さな女の顔が吐き出されてきた。これも顔だけだった。青白く光る、無表情な髪の長い女の顔は、焦点の定まらない虚ろな目をしていた。

「オー・アー・オー・イー・バー・アー・ガー・イー・オー」

 山羊の顔の口から出てきた、青白く光った小さな女の顔が、その口から不気味で意味のわからない言葉を、低い不安を覚えさせる声で吐く。恐怖で悲鳴を上げたため、無防備に開いている愛美の口の中に、青白く光った小さな女の顔が入ってきた。

 慌てた愛美は、口を閉じた。しかし、遅かった。青白く光った小さな女の顔が、すでに半分ほど愛美の口の中に入ってしまっていた。

「オー・アー・オー・イー・バー・アー・ガー・イー・オー」

 奇妙な言葉が、愛美の口から、愛美の体の奥へ侵入してくる。それと共に、青白く光った小さな女の顔も、さらに愛美の中に、ゆっくりと入ってくる。口を閉じられない愛美は、よだれを垂らしながら、顔を振っていやいやをした。

(優、助けて。このままでは愛美の体が、バケモノに乗っ取られる。優に、送ってもらうべきだった。ひとりで帰るんじゃなかった。愛美のバカ)

 愛美の痛くて痺れていた手に、感覚が戻った。手が、動かせるようになったのだ。早くしないと、バケモノが完全に体の中に入ってしまう。

 黒い石のペンダント。優からもらった、このペンダントさえかざせば、バケモノは消え去る。愛美は必死の思いで、ようやく動かせるようになった手で、乱暴に黒い石のペンダントを握ると、山羊の顔に向けた。

 だが、反応がない。慌てた愛美は、自分の口の中に入ってきている、青白く光った小さな女の顔にも、ペンダントを向けた。やはり効果がない。なぜ?

(このままでは、助からない。私の体を、バケモノに自由にされてしまう。そうしたら、私はどうなるの? 暁の奴隷にされるの? 一生、暁に好きにされるなんて、嫌。私は、私よ。バケモノに負けたくない)

 愛美の心の奥から、バケモノに対する憎しみが湧いた。それはバケモノを操って、愛美を支配しようとしている、暁の卑劣なやり方への憎悪でもあった。むろん、バケモノがやっていることが、愛美の体の中に入り、愛美をコントロールすることなのか、あるいは愛美を中から食い殺すためなのか、それはわからない。でも暁が愛美に好意を寄せている以上、バケモノの力を使って、愛美を手に入れようとしている可能性が高いと思った。

(絶対、暁の自由になんかさせない。私は、私の人生を生きる)

 それは、愛美の魂の叫び声だった。その時、愛美のパンツのポケットで、何かが振動した。

(そうだ。神聖ゲオーメをポケットに入れっぱなしにしていた)

 愛美は、黒い石のペンダントをあきらめて、パンツのポケットに手を伸ばした。早くしないと、青白く光った小さな女の顔が完全に体の中に入ってしまう。愛美が、パンツのポケットから神聖ゲオーメを取り出すや、神聖ゲオーメがまばゆく光った。

 神聖ゲオーメの光は、白い輝きで、辺りを昼のように明るく照らした。それでいて、熱は感じさせず、まるで涼しいそよ風をイメージさせる優しい光だ。

 愛美は、白く輝く神聖ゲオーメをしっかりと握りしめると、山羊の顔に向けた。山羊の顔は、神聖ゲオーメの白い輝きに照らされるや、黒かった山羊の顔が、まるで白山羊にでも変化したかのように白く輝き始めた。

山羊の顔は、悲鳴のようないななきを発すると、まるで逆再生でもするように、青白く光った小さな女の顔を愛美の口の中から、自分の口の中へと戻すと、明らかに慌てた様子で飛び上がり、そのまま上空の黒雲へと吸い込まれるかのように消えて行った。愛美の足を掴んでいた、灰色の手も、気づけばなくなっている。

「ちっ、後、少しだったのに」

 闇の中から、男の苛立った声が、微かに聞こえた。いつの間にか、夜になっていた。あれほど激しかった雹も、やんでいる。愛美は、しばし呆然としていた。先ほどまで、体のかなり奥まで、バケモノが入っていたのだ。

 愛美は、よだれを拭うと、ようやく口を閉じることができた。体が芯から冷えていた。まるで雪山で、遭難した気分だ。早く家に帰って、体温を回復させないと、このまま意識を失いかねない。

 今回のバケモノは、いままでと少し違う気がする。いままでのバケモノは、最後は幻のように消え失せたが、今回は消えたというより、逃げた感じだ。前回のバケモノには、血を飲まされた。さっきは、バケモノ自体が愛美の体に入ろうとした。バケモノのやることが、エスカレートしてきている。

 愛美は、よろよろと立ち上がると、重い足を気力で動かして、家へと向かった。家に帰ると、玄関に何かが貼り付けてある。大きめの茶色い封筒に、美馬愛美様と印字されていて、他には何も記されてない。

 愛美は、大きめの茶色い封筒を玄関から剥がすと、家に持って入った。大きめの茶色い封筒が何かよりも、いまは風呂に直行だ。風呂に行く途中の、台所のホワイトボードに、「買い物に行ってきます」の母親の文字があった。愛美は、服を脱ぎ捨てると、熱いシャワーを浴びた。

 愛美は、熱いシャワーで体の泥を落とし、体温を高めた後、バスタブに湯をためて、ゆっくりと浸かった。生き返るとは、この事だろう。

 着替えを持たずに風呂に入った愛美は、風呂を出ると、全裸で二階の部屋へと向かった。すぐに下着をつけると、ジャージを着た。母親の帰宅する音が聞こえたが、先ほどのバケモノのショックで、食欲が無い。

 愛美は下に行き、母親に正直に食欲が無いことを告げ、食事ができないことを詫びた。訳は、あとで話すことにした。母親は、愛美のことを心配してくれた。

食欲が無くても、母親といっしょに、食卓で会話はできる。しかし愛美は、先ほどのバケモノのことを、すぐにでも優に相談したい気持ちだった。愛美は部屋に戻り、スマートフォンを手にした。

「優。またバケモノが現れて。なんか違うの。いつものと違うの」

「もう少し、落ち着いて話せよ」

「ごめん。でも、あんなことされて、冷静になんかなれない」

「何をされたんだ?」

「バケモノが。気持ち悪いけど、体の中に入って来て」

「どこから入って来たんだい?」

「嫌だ、優ったら。こっちは真面目に話しているのに。恥ずかしい。口からに決まってるじゃない。思い出しただけでも、寒気がする」

「もちろん、大丈夫だったから、こうして俺に電話してるんだろ」

「優には言いにくいんだけど。あの黒い石のペンダントに、なぜだか効果が無くて。なぜかしら?」

「俺のプレゼントしたペンダントに、効果が無かった? おかしいな。それで、どうやって切り抜けたんだ?」

「もうひとつ、あったの。前に話した、マリアさんという人からもらった天使のアイテムが」

「なんだって。なんで、そんなものを持ってるんだ」

 優の語気が強くなった。愛美は、思わず首をすくめた。

「ごめんなさい」

 愛美は、わざと甘えた声を出した。優が、明らかに怒っているからだ。

「言っただろ。俺のプレゼントした黒い石のペンダントは、他の護符なんかを持っていると、効果を打ち消しあって、効果が出なくなるんだ。俺がどんな気持ちで、愛美にペンダントをプレゼントしたと思っているんだ。俺の気持ちを踏みにじる気か。バケモノに殺されてしまったら、意味がないだろ。俺以外の人間からもらったアイテムなんか、天使だかなんだか知らないが、捨てろ。そうしないと、もう会わないからな。明日、俺の家には来るな」

 優は、完全に怒っていた。愛美は、目の前で優に説教をされている気分になった。優の怒った顔が、目に浮かぶ。優は、本気で私を心配して、それで叱ってくれたのだ。そう思うと愛美は、改めて優への感謝の気持ちが湧いてきた。

「優、ごめんなさい。会わないなんて言わないで。もう、優に会えない生活なんて、考えられない。私を守ってくれる人は、あなたしかいないと思っている。明日、優の家に行けることを楽しみにしてるわ」

「俺の家に来たいなら、俺のプレゼントしたペンダント以外は、天使のアイテムだろうがなんだろうが、持ってくるなよ。捨ててしまうんだ。そもそも俺は、天使なんか嫌いなんだよ。あの黒い石のペンダントだけをしてれば、愛美は守られていたんだ。俺を信じるんだ」

「わかった。優の言うことを聞くわ。それじゃ、明日ね」

 これ以上、優と長話をすると、ますます優が怒り出して、明日の優の家に行く予定が、気まずいものなってしまう可能性が高い。そう判断して、愛美は優との電話を短く終わらせた。

 愛美は、優との電話を切ると、すぐにマリアさんにメールした。我ながら、節操が無いと思いながらも、愛美は今日のバケモノからの攻撃を思い出すと、何やら言いしれぬ不安に囚われるのだ。どうも、このままでは、取り返しがつかない危機に巻き込まれるのではないか、と。

 愛美はマリアさんに、自分の出生の秘密と、黒沼島の人間に狙われているかもしれないこと、闇幽夜叉大明王という謎の邪神のことをメールしてから、続けてメールした。


「マリアさん。続けてのメールを失礼します。今日もバケモノに襲われました。今日のバケモノは、以前までのとは違う気がします。なんだか、バケモノがレベルアップしている気がして、このままでは怖いです。

 今回のバケモノは、私の体に入ってこようとしました。私の体を乗っ取るつもりなのではないかと、恐怖を感じました。でも、マリアさんから頂いた、神聖ゲオーメが守ってくれました。神聖ゲオーメの威力って、凄いですね。あれが、天使のパワー?

 恋人からプレゼントされたお守りが、今回のバケモノには、なんの効果も無くて。恋人に言わせると、神聖ゲオーメを持っていたせいだ、と言うのですが。

 恋人は、神聖ゲオーメを捨てろ、とまで言います。捨てないにしても、恋人と会うときは、神聖ゲオーメを持って行けません。マリアさんは、どう思いますか?」


 愛美は、マリアさんにメールをすると、神聖ゲオーメを取り出して眺めた。なんとも神秘的なアイテムだ。玉子ぐらいの大きさで、乳白色の楕円形。五芒星と幾何学模様の描かれた金属が内包されている。愛美は、神聖ゲオーメをしげしげと観察してから、祭壇の上に置いた。

 そういえば、愛美宛に封筒が来ていた。大きめの茶色の封筒で、美馬愛美様とだけ書いてある。愛美は、開封してみた。なにやら、リポート用紙のようなものが入っている。

「闇幽夜叉大明王についての報告」そう書かれていた。パソコンで製作したもののようだ。愛美は、リポート用紙を持つ手が震えた。誰かが、愛美に闇幽夜叉大明王の情報を与えてくれたのだ。愛美は、むさぼるようにリポート用紙に目を通した。


「闇幽夜叉大明王についての報告。

闇幽夜叉大明王とは、孤島の黒沼島土着の信仰の対象。仏教の体をなしてはいるが、仏教とは関係が無い。大航海時代に日本に入り込み、キリスト教の禁教のあおりを受け、仏教を装って黒沼島で独自の進化を遂げた。

 闇幽夜叉大明王は、元々天界にいたものが、神の怒りに触れて地上に堕とされたもので、一種の堕天使である。闇幽夜叉大明王は、地上に堕とされたのち、虚空世界に入って、魔族のうちの、虚空世界に住む魔族を従え、王として君臨したもので、魔王と称すべきものなり。

 闇幽夜叉大明王が虚空世界の魔族を従えることができたのは、天界から地上に堕とされる前に、天界から盗み出した武器『降魔の天剣』の力によるものである。降魔の天剣を使うには、天界の住人である必要があるが、元住人であっても、降魔の天剣は十分な力を発揮する。

 降魔の天剣により、闇幽夜叉大明王に従った魔族は、闇幽夜叉大明王を神のごとくに崇めて、この降魔の天剣を闇幽夜叉大明王のご神体として祀っている。

 元々天界の住人であった闇幽夜叉大明王は、虚空世界の中では、やがて力が衰えるため、地上の人間の信仰の力を必要としている。それが黒沼島に入り込んだ理由である。人間の信仰の力だけでは足りない分は、生け贄を取り込むことで補っている。

 闇幽夜叉大明王は、百年に一度、生け贄を自分の体に取り入れることにより、生命力を復活させる。生け贄は、闇幽夜叉大明王の信者の十八歳になる女に産ませた、闇幽夜叉大明王の娘である。

 生け贄の儀式を行うのは、闇幽夜叉大明王によって、虚空世界から人間の世界に転生させられた魔族である。虚空世界から、魔族を人間の世界に転生させられるのは、一度の生け贄の儀式につき一回だけであり、この魔族が何らかの理由で死ぬと、生け贄の儀式は失敗する。

 生け贄の儀式が無事に行われなければ、闇幽夜叉大明王は徐々に生命力を失う。それは天界の住人だった者が、地上で暮らすための定めである。生け贄の娘は、通常は一歳ぐらいで闇幽夜叉大明王に捧げられるが、何らかの理由で生き延びた場合、十八歳になったときに、最も闇幽夜叉大明王の血の力が旺盛になり、十八歳を過ぎると急速に闇幽夜叉大明王の血の力は失われ、やがて普通の人間と変わりがなくなる」


 リポート用紙に書かれた、闇幽夜叉大明王についての報告は、以上だった。やけに詳しいが、誰が調べたのだろう。そして、なぜこのタイミングで、愛美に闇幽夜叉大明王の情報を伝えてくれたのか。すべては、謎だった。だが、何者かが、愛美の味方をしてくれている。愛美は、希望を感じた。

愛美は、闇幽夜叉大明王についての報告がはいっていた封筒の中に、何か残っていることに気づいた。写真だった。古ぼけた写真ではあるが、カラーだ。

 黒い像の写真だ。憤怒の形相をしている。口からは大きな牙が突き出ていて、その周りには赤い血のようなものが付いている。髪は青色で逆立って、金色の王冠をかぶっている。王冠の中央には、ドクロが飾られている。像の体は、筋肉質の裸体で、その裸体の中央には、黒い山羊の顔がある。

 愛美は、写真に写っている像の体の山羊の顔に、見覚えがある気がした。もしかしたら、先ほど愛美を襲ってきたバケモノ。あの山羊の顔と、この写真に写っている山羊の顔が、同じものである気がしてならない。

(この写真、なんの写真かしら?)

 マリアさんからの返信が来ているのに、気づいた。


「神聖ゲオーメこそは、あなたの切り札になります。神聖ゲオーメによって、怪異を撃退できたということは、あなたが神聖ゲオーメを使う資格を得たということです。

 どこへ出かけるにしても、誰と会うにしても、もちろん家の中でも、神聖ゲオーメを離さないでください。あなたは、どこで襲われるかわからないのです。その自覚を持ってください。

 あなたの話を聞いた限りでは、敵は最終段階の準備をしていると思います。気を抜かないでください。たえず神経を張りつめて、警戒してください。

 神聖ゲオーメは、天使の愛のこもったアイテムです。他のお守りの効果を消すことは、あり得ません。むしろ神聖ゲオーメは、他の善なる力をパワーアップさせるのです。

 明日は、新月ですね。明日の一七時一七分が、ちょうど新月になります。覚えておいてください」


 マリアさんによると、やはり神聖ゲオーメは持ち歩かないといけないらしい。しかし、優に見つかったら、怒られるだけでは済まないかもしれない。愛美は、そう考えながら、神聖ゲオーメを手に取った。

 マリアさんは魔女らしく、最後は新月の話題をしていた。ウィッカンにとっては、特別な日だ。愛美も、新月には儀式をするつもりだったが、優の家に招待されているし、帰る頃には新月の時刻を過ぎるだろうから、儀式は取りやめにした。 

母親に、闇幽夜叉大明王についての報告のリポート用紙を見せようかと思ったが、気づくともう夜中だ。明日にしようと、愛美は思った。

愛美は、祭壇のキャンドルに火を灯し、フランキンセンスのインセンスを焚いた。愛美は、明日、優の家に行ったら、優と進展があるようにと旧約聖書詩篇九五篇を唱えた。


さあ、われらは主に向かって歌い、

われらの救いの岩に向かって、よろこばしい声をあげよう。

われらは感謝をもって、み前に行き、

主に向かい、賛美の歌をもって、

よろこばしい声をあげよう。


今日、そのみ声を聞くように、

あなたがたは、メリバにいた時のように、

また荒野のマッサにいた日のように、

心をかたくなにしてはならない。

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