第5話 穢された愛美
第五章 「穢された愛美」
夏休みが始まった。太陽が愛美の肌を刺すように照りつける。愛美と優は、海にいた。夏休みらしく、海水浴だった。
愛美は、大胆にビキニを着てみた。生まれて初めてのビキニだった。この日のために買った、ピンクのクロスストラップビキニだった。優は、愛美のビキニ姿を、ちゃんと見てくれるだろうかと、少し心配だった。
愛美のピンクのビキニの胸元には、ちゃんと黒い石のペンダントが揺れている。いままでの経験から、バケモノが現れるのは夜だけで、しかも屋内には現れないということが、わかってきた。とはいえ、優からプレゼントされた黒い石のペンダントは、一日中、胸にかけている。海水浴のときも、例外ではない。
海の沖の方から吹き付ける優しい風が、愛美のビキニに包まれていない部分の肌を撫で、愛美の火照った体を保冷剤のように冷ましてくれる。
愛美は肌には、たっぷりと日焼け止めクリームを塗っているので、愛美の肌を焦がそうと躍起になっている太陽光線を受けても平気だった。
愛美のビキニの背中に日焼け止めクリームを塗ってくれたのは、優だった。そのやさしい手触りは、まだ愛美の背中の記憶のなかに残っている。
優は愛美の横で、砂浜にのんびりと横たわっている。優はサングラスをかけ、まるで二十代の大人の男性に見える。優の筋肉質の引き締まった体は、無駄な肉が無い。まるで教科書で見たギリシャ彫刻を想わせて、愛美は横目で何度も見てしまう。
ふいに愛美のところへ、ビーチボールが飛んできた。風に吹かれて、迷ってきたのだろう。愛美は立ち上がると、そのビーチボールを手に取った。
「すみませ~ん」
男子高校生らしきグループが、こちらに走って来た。高校二年生ぐらいの男子が四人だった。ビーチボールの持ち主だろう。
「どうぞ」
愛美がビーチボールを手渡しすると、男子高校生たちは一様に顔を赤らめ、どぎまぎした表情になり、愛美を見ては恥ずかしそうにしていた。やがて男子高校生たちは、軽く頭を下げると、立ち去った。
「セクシー」「ラッキー」そんな声が、立ち去る男子高校生たちの口から漏れてきて、愛美の自尊心をくすぐった。優は今のできごとに気づいてないのか、何も言わずに砂浜に横たわっている。
(もう優ってば。起きてくれないと、他の男にナンパされちゃうよ)
優に見せようと着たビキニなのに、他の男子高校生たちに鑑賞されてしまった。もっと優に見て欲しいのに。
(まさか、ビキニを見るのが恥ずかしくて、眠ったふりをしている? まさかね。昨日、いきなりのキスしてきたの、優のほうだもんね)
「ねえ、泳ごうよ」
愛美は我慢ができなくなって、母親が子供を起こすかのように、優の体をゆさぶった。
「あ~あ、よく寝た」
優はサングラスを投げ捨てるように外すと、大きく伸びをした。それから目を細めて、愛美を見てくれた。
(やっと見てくれた。私のビキニに興味ないのかと、不安になったじゃん)
愛美は、体をすっぽりと預けられる大きな浮き輪を手にすると、優の手を引っ張って、海へと入った。
(冷たい)
一瞬、そう思ったが、完全に海の中に体を浸すと、愛美の体はすぐに海水の温度に順応した。大きな波が愛美を飲み込むかのように押し寄せて、愛美はジャンプして波をかわした。波をかぶりそうになると、わくわくする。
愛美は手早く浮き輪を波に浮かべると、優に体を押してもらって、浮き輪の穴に体を沈めた。優に体を押してもらったとき、優の手から電気でも出ているかのように、愛美は体が痺れたように感じた。
愛美と優は、時間を忘れて、波と戯れた。ときおり大きな波が襲ってきて、愛美が浮き輪ごと転覆すると、優が笑いながら助けてくれた。愛美も嬉しくて、心の底から笑った。
海で体が冷えた後は、海の家へと向かった。優とふたりだと、海の家も高級レストランかのように感じられる。優とふたりで、ひとつのたこ焼きの皿を分け合い、大きな紙コップのコーラに二本のストローをさして、ふたりで飲んだ。
その後は、優とふたりで波打ち際に腰を下ろし、足を波に濡らしながら、いつまでも過ごした。いいかげん、話すことも無くなったのだが、愛美と優には、もう言葉は要らなかった。
日が、海の向こうに傾いた。波打ち際を向こうの方から、小さな子供が犬と一緒にこちらに走って来る。逆光で子供の顔が見えない。子供と犬が、シルエットとなって走って来る。いつか優と私と子供と三人で、またこの海に来たい。海に沈みゆく太陽を眺めながら、愛美は未来に夢を馳せた。やがて海から吹く風が、夜の寒気をはらんできた。
愛美と優は、名残を惜しみながら、海水浴場を後にした。夏休み中は、愛美のアルバイトはシフトが早くなる。優と早く別れることになり淋しいが、アルバイトが終われば、また優と手を繋いで、夜の街をデートできる。
その日も、いつものように愛美はアルバイトを終え、いつものように優に送られて家へと帰った。そして、今夜からはハグの後に、お別れのキスが加わった。今度からはこれが、ふたりの別れのルーティンだ。
愛美は幸せな気分のまま、家に入ると、ベッドに潜り込んだ。もうバケモノのことは忘れた。マリアさんも暁も、どうでもいい。いまはただ、優だけ。優のことだけを考えていたい。愛美はそのまま、深い眠りに落ちた。
ここは、どこだろう? 野原に広がる小さな石畳の道を、愛美はひとりで歩いている。優は、どこに行ったのだろう? 愛美は草いきれを嗅ぎながら、ひとりで歩く。だんだん心細くなってきた。
前方には森が広がっている。森の手前に男の人が立っている。あれは、優だ。優がひとりで森に入って行こうとしている。
(優、待って。ひとりで行っては、ダメ)
愛美は必死で優を追いかけた。それなのに、なぜか走れない。足がもつれる。
「優」
愛美は大声で、優を呼んだ。すると優は、こちらを振り返った。淋しそうな顔だ。
(なんで淋しそうな顔なんかするの? ふたりでいれば、楽しいのに。なぜ、ひとりで森へ行こうとするの?)
「ごめんよ。今日はコロンを忘れたんだ。ほら、あの柑橘系の香りがするコロンさ。良い香りだろ。あのコロンが無いと、愛美には会えないんだ」
優は、残念そうな顔で、そうつぶやくと、ひとりで森に入って行った。
(置いていかれた。追いかけないと)
愛美は、優を追いかけようとするのだけれど、なかなか歩けない。それでも少しずつ、森へと近づいた。今なら、まだ間に合う。優を探さないと。
「行っちゃ行けない」
急に後ろから、呼び止められた。聞き覚えのある声だ。懐かしい気がする。誰の声だろう? 男か女かもわからない。
なおも愛美は、森へと向かう。
「行っちゃ行けない」
(なぜ、邪魔するの? このままでは、優を見失う。あなた、誰なの?)
だけど愛美は、後ろを振り返ることができない。
「行っちゃ行けない」
わかった。この声の主は。
愛美は、目を覚ました。寝汗をかいて、体中が汗でぐっしょりだ。涙も出ている。夢を見て、泣いたのだろう。時計を見ると、朝六時だった。愛美はベッドから起き上がると、タンスからタオルを出し、パジャマを脱ぎ捨てると、全身の汗を拭いた。
喉が渇いている。下着が濡れるほどの汗をかいたのだから、当たり前だ。愛美は下着を脱ぎ、いったん全裸になった。優がこの体を見たら、なんと言うだろう。愛美は、部屋の姿見で、自分の生まれたままの姿を映して眺めた。
自分で言うのもなんだが、まずまずのプロポーションではないだろうか。胸の形も良い。愛美は、黒い石のペンダントが邪魔にならないように、手で押さえてから、自分で自分の胸を触ってみた。マシュマロのように柔らかく、そして美味しそうだった。体を横にして、ヒップを姿見に映すと、桃のように盛り上がっている。
愛美は正面を向いて、自分の顔を姿見でしげしげと眺めた。クラスでも、美しい方だと思う。ただ左頬の痣だけが気になる。生まれつきある、十字が斜めになった黒い痣だ。でも大丈夫、優は私に夢中なはずだ。愛美は両手で自分の頬を叩いて、試合前のレスラーのように気合いを入れた。
(まだ、起きるには早い。優もまだ、寝ているはず。夏休みなんだから)
愛美は、もう一度、全身の汗をタオルでぬぐうと、新しい下着を持ってきて着用し、パジャマを着ずにベッドに潜り込んだ。パジャマも汗で濡れているからだ。まるでサウナにでも入っていたかのような汗をかいたのだ。妙な夢のせいだ。
(なんで、あんな夢を見たのかしら。まるで優との別れでも暗示しているかのような、不吉な夢ね。幸せなはずなのに。優とは、決して別れないわ。優は、探し求めていた白馬の王子だからね。王子は、姫を守るのだ。だから手放さない。結局、私を呼び止めた声の主は、誰だったのかしら? 夢の中では気づいたのだけど、目を覚ましたら忘れてしまったわ)
待ち合わせの場所に、珍しく優が遅れて来た。足取りが重そうだ。優の顔がやつれて見える。
「どうしたの? 体調でも悪いの?」
「聞いてくれ」
優は、苦しそうな表情になり、ため息をついた。
「俺のところにも、現れたんだ」
「何が?」
「バケモノだよ」
愛美は、息を飲んだ。まるで言葉を忘れたように、何を言っていいのかわからなくなった。今まで、バケモノに狙われるのは自分だけだと信じていた。優は、バケモノから自分を守ってくれる側の存在だと信じていた。その優が、バケモノに襲われたのだ。被害者の側になってしまったのだ。私のせいだ。私と関わったせいだ。愛美は、自分を責めた。
「あいつのせいだよ」
愛美がなおも言葉を出せないでいると、優が続けた。
「あの暁とかいう、青白い顔のやつ。あいつがバケモノの原因だったんだ。いきなり電話があった。暁と名乗っていた。どうやって俺の電話番号を調べたのかまでは、わからない。とにかく、愛美と別れろと言うんだ。
俺は当然、愛美と別れるなんて拒否した。すると、怪異に俺を襲わせると脅してきたんだ。あいつに言わせると、自分には生まれつき、その能力がある。今までは、怪異に愛美を襲わせて、愛美を不安にさせて、頃合いを見て愛美をバケモノから助けて、自分に振り向かせるつもりだったと言うんだ。
それなのに、俺が愛美を助けてしまって、そのまま愛美の恋人になった。あいつは、自分がそうなる計画だったんだ。だから俺を恨んでる。俺から愛美を取り上げるつもりだ。
バケモノは、すぐに二階の俺の部屋に現れた。犬のバケモノだった。犬のバケモノは、俺の喉笛を食いちぎろうとしてきた。本当に俺を殺そうとしていた。俺はなんとか、犬のバケモノを撃退した。
そして二階の窓から外を覗くと、あいつが立っていたんだ。暁で間違いない。あの青白い顔は忘れようがない。暁は、俺が睨むと、慌てて走り去った。あいつは怪異を操るしか能が無いんだ。あの貧弱な体では、俺とケンカなど出来ない。おそらく怪異を操る能力にも限界があるに違いない。続けてバケモノが現れないのは、そのせいだ」
優は、一気にまくしたてた。まるで堰が切れた川のようだ。愛美は、優の言葉を聞きながら、一連の怪異事件の真相がわかり、愕然としていた。確かにバケモノを見た後で、暁が現れることが多かった。そういう事だったのか。
「とにかく、無事だったのね。優、私のせいでごめんなさい」
愛美は、優を抱きしめるしかできなかった。そして壊れたレコーダーのように、何度も「ごめんなさい」を繰り返した。それ以外の言葉が出て来ない。
いつもの柑橘系のコロンの香りが、明け方に見た夢を思い出させた。あの不吉な淋しい夢は、このことを知らせる予知夢だったのだ。
「暁が、私に好意を寄せているのはわかっていたけど、そんな卑劣な男だとは思わなかった。バケモノは、暁の仕業だったのね。優、あなたを巻き込んだのは、私のせいよ。きっと暁を探し出して、私のことはあきらめるように説得するわ」
「無駄だよ。暁は、そんな説得になんか応じない。俺を殺してでも、愛美を自分のものにしようという男だ。あいつは幼い頃から、愛美に邪な恋心を持っていたに違いない」
「優が殺されたら、私も生きて行けない。せっかく、優が私を守ってくれるようになったのに。これからも、優に守られて生きて行きたい。バケモノとは戦えないけど、相手が人間なら話ぐらいはできる。暁は幼馴染みだし、説得してみせる」
愛美は泣きながら、胸の黒い石のペンダントを外した。優からもらったお守りのペンダントだ。
「これがあれば、バケモノから命を守れるよね。優に返すね。優に、死んでほしくないから」
愛美は涙をぬぐうこともなく、黒い石のペンダントを優の首にかけようとした。
「気持ちは嬉しいけど、これは返してもらうわけにはいかないよ」
優は穏やかな表情を浮かべると、愛美の手から、そっと黒い石のペンダントを取って、愛美の首にかけ直した。
「嫌」
愛美は、何度も首を振った。このままでは、優が殺されると思ったからだ。愛美は息苦しさを覚え、思いっきり息を吸った。
「お願い、優。私の気持を理解して。私のせいで、優をこの事件に巻き込んでしまったのよ。優にもしもの事があったら……」
言いながら愛美は、優と別れるべきなのではないか、と思い至った。優と別れる。今まで、思いつきもしなかった。優と別れたら、どうなるだろう。私は、ひとりで生きていけるだろうか。優と出会う前に戻るだけなのに、今の愛美には、それは絶望で灰色の人生を歩むことを意味していた。
急に愛美は、押しつぶされそうな気持ちになった。愛美の額からは、滝のような汗が流れ始め、汗は容赦なく愛美の目にも入り、愛美の涙と混じりあった。目が染みる。
「まさか、俺と別れようと考えているんじゃないだろうな」
「それしか、優を助ける方法が無いんだったら」
「よく考えろよ。バケモノを操っているのは、しょせん人間だ。それも、あの暁っていう、あまり強そうじゃない奴だ。バケモノと戦うんじゃなくて、暁を探し出して、叩きのめせばいい。発想を転換しろよ」
「でも、暁の家は誰も知らないよ。暁がどこに居るかなんて、どうやって突き止めるの? 暁が学校に来るのって、夏休み明けだし。まだ一ヶ月以上も先の話だよ」
「本気で、俺と別れたいかい?」
「別れたくなんか、ないよ。優は、私の生きる希望。だけど、その優が、私のせいでバケモノに襲われるなんて、耐えられない。これだったら前みたいに、私がバケモノに襲われているほうが、ましだった」
愛美は、唾が飛ぶのもお構いなしに、絶叫しながら喋ってしまった。はしたないと思う、心の余裕もなかった。そして、もう一度、黒い石のペンダントを首から外すと、優に黒い石のペンダントを渡そうとした。
「このペンダントさえあれば、バケモノを消すことができるんだよね。だったら、これで身を守って。たぶん私は、もう大丈夫だよ。暁は、もう私を狙わない。私を狙ったとしても、私を殺したりなんかしないはず。だって、暁の目的は、私と付き合うことでしょ。せいぜい、私を脅す程度よ」
「俺は、そうは思わない。愛美が殺される可能性もある。例えば、ストーカー行為をする男の中には、女性につきまとった挙げ句、相手の女性を殺す男もいる。自分の恋心が叶わないと知ったとき、男の愛情は、容易に殺意に変わる。それが、いまの暁だ」
「それでもいい。それでも、このペンダントは優に返す」
「バカ」
いきなり、優の平手が、愛美の頬を打った。弾みで愛美の手から、黒い石のペンダントが地面へと滑り落ちた。黒い石のペンダントは、地面で乾いた音を立てた。
「俺が、どれだけ本気で愛美を心配していると思っているんだ。わがままも大概にしろ。男が一度、女を守ると言ったら、それは命がけに決まっているだろ。俺は、自分の命なんか要らないんだ。愛美を守るために渡した大切なペンダント、粗末になんかするな」
優は辺りに響き渡るような大声で、愛美を睨みながら言った。その声と表情からは、優の本気がひしひしと伝わって来た。優の愛美を思う気持ちの本気さを知って、愛美からは、優に平手打ちされた頬の痛さも、消し飛んでいた。
「ごめんなさい。優の気持ちも考えないで」
優は本気で私を守ろうとしている。優は本気で、私のために命を賭けてくれている。そう思うと愛美は、優に黒い石のペンダントを返すことができなくなった。やっぱりこの人は、ずっと探し続けていた、私を守ってくれる存在なのだと、愛美は確信した。
「こんなこと言うと、また怒られるかも知れないけど。怒らないでね。えっと、以前にタロットカードのペンダントを預かってもらっていたわよね」
魔女のマリアさんからもらったタロットカードのペンダントの事だ。
「バケモノを操っているのは、暁でしょ。マリアさんは関係なかったのよね」
愛美は、マリアさんが怪異事件と無関係とわかり、心の底から安堵した。まるで迷子の子が、親に再会したかのような、ほっとした気持ちに包まれた。やはり愛美にとっては、マリアさんは母親のように慕っていた相手なので、少しでも疑って申し訳ない気がした。マリアさんに謝りたい。
「あのタロットカードのペンダントにも、バケモノから守ってくれる効果があるから、私に、あのタロットカードのペンダントを返して。タロットカードのペンダントは、私がする。この黒い石のペンダントは、優がして。そうしたら、ふたりともバケモノから守られるんじゃない?」
愛美は、我ながら良いアイディアを思いついたと感心した。これで自分も安心だし、優も助かる。愛美は心地よい風が吹いてきたかのような、爽やかな気分になった。だが、優は一瞬、困った表情を浮かべた。
「いや。あっ、そうだ。タロットカードのペンダントは俺がするよ。それでも、いいだろ。俺がプレゼントしたペンダントは、やはり愛美がしてくれ。そのためにプレゼントしたんだ」
優は、少し口ごもりながら、早口で言った。
「優が、そっちの方が良いなら、私に文句はないよ」
本当は、黒い石のペンダントのほうが強力そうだから、優には黒い石のペンダントをしてもらって、愛美は以前の通りにタロットカードのペンダントに戻そうと思っていたのだが、これ以上言うと、また優が怒るかもしれない。
「その代わり、今すぐ家に戻ってタロットカードのペンダントをしてきてね。そうじゃないと私、心配なの」
「愛美の言う通りにするけど、今日はもうデートは止めよう」
「え、なんで?」
「バケモノに襲われたせいで、気分が悪いんだ。今日は、ゆっくり休ませてくれ」
「優の家についていったら、ダメかな? 私に看病させて」
「うちは親が厳しいんだ。もちろん愛美のことは親も気に入るはずだけど、まず親に事前に了承を取ってからじゃないとね。そういう部分に厳しい親なんだ。ただ、近いうちに家に招待するよ。それまで、待っていてくれ」
「そう。わかった」
愛美は、空気の抜けた風船のような声を出した。せっかく、今日も優と一緒に過ごせると思ったのに、肩すかしだ。それもこれも、暁のせいだ。優の命まで狙うような、そんな男じゃなかったはずなのに。
(変わってしまったね、暁)
明け方の夢を思い出した。このまま、優が遠くに行くような不安な気持ちが、愛美の心の中に押し寄せてくる。
愛美は、地面に落としてしまった黒い石のペンダントを拾った。そして、黒い石のペンダントを力の入らない手で、やっと首にかけると、しばらく優を見つめた。まさか、このまま会えなくなるわけじゃあるまいし、と思いながら。
「一日中、海に入ってよ」「夏休み中、ずっと遊ぼ」小学校低学年ぐらいの男子ふたりが、楽しそうな声で、愛美と優の近くを駆ける。海水浴場に行くのだろう。白いTシャツの下は、ふたりともすでに海水パンツだ。クロックスのサンダルが脱げそうになっている。
本当だったら愛美と優も、あの子供たちのように、今から海水浴場に行くはずだった。一日中、海に入って、夏休みはずっと遊ぶつもりだったのに。
(大丈夫。明日になったら、優も元気になってるはず)
愛美は、優に手を振りながら、とぼとぼと歩いた。足が重い。まるで足が、もつれているようだ。
(ひとりで、何しよう)
愛美が力なく歩いていると、前方で小学校低学年ぐらいの男子ふたりが、しゃがんで泣いている。よく見ると、先ほど近くを楽しそうに駆けていった子たちだ。
「どうしたの?」
「走ってたら、サンダルが脱げて、足をひねった。痛くて歩けないよ」
男の子のひとりが、泣きじゃくりながら、説明した。もうひとりの男の子も、泣いている。近くにクロックスのサンダルが転がっていた。足をひねったという男の子の右足が、紫色に腫れている。可哀想に。このまま放置したら、熱中症になってしまう。
「ちょっと待ってて。病院に連れて行ってあげる」
救急車を呼ぶほどでもないので、愛美は、足をひねった男の子を背負い、もうひとりの男の子の手を引いて、歩きだした。
(この近くに、お母さんが働いている病院があったはず)
愛美は記憶を頼りに歩き出した。迷ったら、スマートフォンを見ればいい。足をひねった男の子は、愛美の背中で相変わらず泣いている。男の子が泣き声を出すたびに、男の子の息が愛美のうなじを襲った。
もうひとりの男の子はおとなしくなり、まるで母親と歩く子供のように素直だが、ときどき愛美の背中の男の子を、心配そうに見上げている。
ただでさえ暑い七月の太陽が、男の子を背負ったせいで、砂漠に照りつける太陽にでもなったかのように、威力を増して愛美に降り注いだ。
愛美の顔面は汗まみれになり、うつむいて歩くたび、額から地面へと汗が落ちる。まるで帰り道の目印でも残しているように、汗の雫が点々と道路を濡らす。
「ま~だ~」
手を引かれている男の子が、痺れを切らして叫んだ頃、ようやく病院が見えた。
「公立 星野病院」
愛美の母親が、看護師として勤務する病院だ。病院の白い建物は、道路から奥まった場所にあり、手前は駐車場だ。
愛美は炎天下の中、泣きじゃくる男の子を背負っていたせいで、熱中症の一歩手前だった。なによりも、背負った男の子が密着しているせいで、愛美の背中は不快なほど汗まみれとなり、洪水のようだった。
背負われた男の子も、同じ状況だろう。手を引かれている男の子にも、早く水分を摂らせないと。愛美も、サウナから出た直後のような喉の渇きだった。背中の男の子が、さらに泣き出す。
「もう大丈夫よ」
言いながら愛美は、足早に病院のエントランスに飛び込んだ。その瞬間、病院のクーラーの冷気を全身に浴び、蘇った気分になった。
愛美は、近くに居た看護師を呼び止めて事情を話し、ようやく男の子たちから解放された。男の子も、病院で処置をすれば、すぐに良くなるだろう。とりあえず、愛美は病院の自動販売機へ走り、冷たいミネラルウォーターを買った。
(生き返る)
愛美は喉を鳴らしながら、冷たいミネラルウォーターを胃の中に流し込んだ。これで水分補給は十分だろう。
「あなた、もしかして美馬文子さんの娘さん?」
年配の看護師の女性に話しかけられた。胸には「看護師長 山内敦子」と書かれている。
「はい。美馬文子は、私の母です。いつもお世話になっています」
「美馬さんは、長い間、真面目に働いてくれたわ。最初は准看護師だったけど、頑張って正看護師の資格を取って。ひとり娘を育てるために、必死だって言っていた。あなたが幼い頃、美馬さんがあなたを、この病院に連れて来たことがあって。その、特徴があったものだから」
「この痣ですか?」
愛美は、左頬の十字が斜めになった黒い痣に手をやった。
「気にしていたら、ごめんなさいね。お母さん、新しいお仕事は決まった?」
「え?」
愛美は息を呑んだ。
(新しいお仕事? お母さんは、この病院を辞めたってこと? なんで? 生活は、どうするの? 私の学費は?)
愛美は、とっさに愛想笑いをすると、看護師長の女性に頭を下げた。立ち去って行く看護師長の女性の背中を見ながら、愛美は深いため息をついた。
(お母さん、何やってるのよ。仕事を辞めたりして。どおりで、よく夜に家で見かけるようになったと思った。ニートだったの?)
愛美は、とぼとぼと病院を後にした。病院から一歩出ると、夏の熱気が愛美の体を焦がし始める。優の心配は、しなければいけない。自分のことも心配だ。そこにさらに、母親の仕事の心配まで加わった。愛美の心は重い。
(今日は、もう帰ろう)
愛美は家に帰ると、昼食を食べる気力も無くしていた。冷蔵庫の麦茶を飲むと、二階の部屋に入り、ベッドに潜り込んだ。
(面倒くさい。後で考えよう)
愛美がベッドに入るとすぐ、睡魔が甘い囁きで愛美を誘惑してくる。愛美は、その誘惑に負けて、すぐに意識を無くした。
どれぐらい経っただろう。窓の外は、もう暗い。夜か夜中かわからない。どうでもよかった。愛美は、全身がだるかった。起き上がる気力が無いので、寝たまま考えた。
(優のことが心配。優は大丈夫かしら。ちゃんとマリアさんのタロットカードのペンダントを、優はしたでしょうね。暁は、どこに居るんだろう。暁は、私と優を別れさせようとしているのね。
タロットカードで占ったとき、障害の位置に『悪魔』のカードの逆位置が出て、気になっていた。あれはやはり、暁のことを暗示していたのね。絶対に優とは、別れない。もし別れたとしても、暁となんか付き合わないのに。無駄なことをして。
私がバケモノに襲われるようになったのは、暁が私を振り向かせるためだったのね。私を怖がらせて、暁を頼らせようとしてたのね。だから、本気で私に危害を加えるつもりはなかった。バケモノが、最後はあっけなく消えてしまうのも、そういう理由ね。
いつまで経っても私が暁を頼ろうとしないので、痺れを切らしてバケモノに私の首を締めさせて、それで暁が私を助けに来て、私に感謝され、私と仲良くなろうとした。でも、皮肉なことに、私を助けてくれたのは優だった。
だから、あのとき暁は優に『余計なことするな』と言ったのね。本当は自分が私を助ける予定だったのに、優に先を越されてしまったから。そして私は、優と付き合った。それで暁は、優に敵意を持ったのね。
タロット占いの『悪魔』のカードの逆位置の意味は、悪意と恨みだけでなく、『殺意を抱く』の意味もあった。殺意……)
ここまで考えて、愛美はベッドから飛び起きた。「殺意」という言葉が、愛美の頭の中で渦巻き始めて、寝ていられなくなったからだ。気づくと愛美は、かなりの寝汗をかいていた。
優が心配。愛美は汗も拭かず、電灯も点けずに、手探りでスマートフォンを掴むと、震える手で優に電話をかけた。不安が、部屋の闇と共に、愛美を襲ってくる気がした。
優がなかなか、電話に出ない。スマートフォンの発信音が、虚しく部屋に響く。
(優、電話に出て。お願い)
大量の寝汗が、容赦なく愛美の体温を奪う。夏の夜のむっとした蒸し暑い空気の中で、愛美は木枯らしに吹かれたように震えていた。
(もう、ダメ)
愛美はスマートフォンを投げ捨てると、枕に顔を埋めて泣いた。泣いているのに、泣き声が出て来ない。優に、何かあったのかもしれないと、最悪の想像をしてしまう。優の家に行って、優の様子を確かめたい。だけど、優の家の場所をまだ聞いてない。なぜ、優の家の場所を確認しなかったのかと後悔した。愛美の肩が上下に震え出した。
暗闇の部屋の中で、スマートフォンが鳴り始めた。優だ。愛美は慌てて、放り投げていたスマートフォンを手に取った。
「電話があったけど?」
「優、大丈夫?」
「心配してくれてたのか」
「さっきはなんで、電話に出てくれなかったの?」
「いま、何時か知ってる? 夜中の二時だよ。さすがの俺も、眠ってたよ」
「ごめん。時計を見てなかった。あれから、何もなかった?」
愛美は、泣き声で話した。優の声は元気そうだった。少し安心した。安心したので、お腹が空いてきた。愛美の腹の虫が鳴り始める。優に聞かれたら、恥ずかしいと思った。
「何もないよ。俺は無事さ」
愛美は、以前にタロットカードで占った時の結果を優に話した。
「占いって、信じる? 信じてなくても、聞いて。やっぱり暁は、ただの恨みの感情を超えて、優に殺意を抱いてる可能性があるの。この占いの結果を思い出したら、たまらなく優のことが心配になって」
「暁が俺に殺意を持ってる事は、犬のバケモノに俺を襲わせたときに、すでにわかっているよ。だけど、俺は大丈夫だ」
「ちゃんとタロットカードのペンダントは、してくれたよね? お願い、いまから会って。あなたが心配なの」
「わかった。ただし、会うのは朝になってからだ。こんな夜中に、女の子が出歩くもんじゃない。それに胸騒ぎがする。愛美に危機が迫っているんじゃないか、そんな胸騒ぎだ。暁が、どこかで愛美を狙っているかもしれない」
「暁は、本気で私に危害を加えるつもりは無いと思う。私に対しては、脅しはあるかもしれないけど、それ以上は無いはずよ」
「暁を信用するな。あいつは腹を立てると、何をするかわからない奴だぞ。愛美にだって、牙を剥くかもしれない。俺のプレゼントしたペンダントは、絶対に体から離すなよ」
もう夜中の二時を過ぎているということで、ここで電話は終了した。一度は安心したものの、やはり優のことが心配になってくる。愛美は、不安がぬぐえなかった。
(優は、本当に大丈夫かしら)
愛美は、喉の渇きと空腹で、食堂へと行った。冷蔵庫に入っている麦茶をコップにそそぐと、一気に飲んだ。乾いた砂が水を吸い込むように、愛美の体はたちどころに水分を吸収した。そして、冷蔵庫にあったカットスイカを何個かつまみながら、愛美はため息が出るのが止められなかった。
(なんで暁に、バケモノを操る能力があるのよ。子供の頃は、そんな素振りなんてなかった。暁は病弱だったから、よくいじめられていたけど、そんな能力があれば、子供だったらバケモノを使って復讐しそうなもんだけど。暁は、黒魔術にでも、手を染めたのかしら)
ウィッチクラフトをやっている愛美にとって、黒魔術を含めた魔術は、決して摩訶不思議なものではなく、もっと身近なものだった。一九世紀の魔術師、エリファス・レヴィが魔法によって、古代ギリシャの魔術師であるアポロニウスの霊を呼び出したという記録もある。暁も魔術を使えるのなら、バケモノを召喚できるのかもしれないし、愛美はそれを否定しない。
(でも暁って、私とは幼馴染みで親友だったし、何でも打ち明けてくれたけど、そんな不思議な能力の話なんてしなかったな)
その幼馴染みで親友だった暁が、愛美と恋人の優にとっての、最大の敵となってしまった。
暁が愛美のことをあきらめない限り、この問題は解決しない。愛美は、さらにため息をついた。
(マリアさんが言っていた、私の持って生まれた運命って、暁との関係のことだったのかしら。暁と幼馴染みになったことも、私の定められた運命で、この未来は決められた道なのかしら)
家の中は静かだった。母親は居ないのだろうか? 愛美は思った。母親が病院を辞めていた。これも愛美にとっては、衝撃だった。なぜ、辞めたのだろう?
(お母さん、何か悩みがあるんだったら、私にも相談してよ。ひとりで抱え込んだりせず、もっと私を頼ってよ。お母さんの力になりたいし、お母さんと仲良くなりたい)
母親は、就職活動はしているのだろうか? 先日から、母親の様子がおかしい気がしていた。電灯も点けずに玄関に立っていたり、外にいたので声をかけたら何も言わずに家に引っ込んだり、家の明かりも点けずに居間で何かをぶつぶつつぶやいていたり、おそらく母親も精神的に不安定なのかもしれない。そっとしておいたほうがいいのか、愛美は悩んだ。
優の心配をしていたのに、いつの間にか母親のことを考えていた。母親も、愛美にとっては大切な存在なのだ。朝まで寝よう。愛美は、部屋に戻った。
愛美は部屋の電灯を消して、ベッドにもぐった。なかなか寝つけない。昼頃から夜中の二時まで眠っていたのだから、無理もなかった。それに優の心配。暁のこと。母親のこれからのこと。それらのことが、渦のように頭の中でうずまいてしまって、さらに眠れなくなる。
寝つけない愛美が、ぼーっと天井を見上げていると、天井に染みを見つけた。あんな染みがあっただろうかと、さらに愛美が見ていると、天井の染みは、まるで苦悶した老人の顔に見えることに気づいた。
よく考えると、おかしい。愛美は、部屋の電灯を消して寝ていたので、辺りは暗い。まだ夜が明けるにも早い時間だ。天井の染みが見えるはずがないのだ。
天井の、苦悶した老人の顔に見える染みは、みるみるうちに輪郭がはっきりしてきた。もう染みではなく、明らかに天井に老人の顔がある。苦悶したお爺さんだ。
その苦悶した老人の顔は、天井から盛り上がってきた。天井から出て来る。顔に続いて体も出て来た。苦悶した老人は、愛美の枕元に落ちてきた。深緑色の、肋の浮いた痩せた体をしている。死臭に似た、不吉な臭いが部屋に充満する。
(バケモノ。いままで、家の中には現れなかったのに)
愛美は、すかさず黒い石のペンダントに手を伸ばした。正確に言うと、手を伸ばそうとした。しかし愛美の体は、金縛りになったように動かない。悲鳴も上げられない。逃げることも出来ない。
愛美の体の奥底から、恐怖が吹き出てきた。
(助けて、優。お願い、助けに来て。あなたの胸騒ぎは当たっていた。狙われたのは、私のほうだった。暁は、優を狙うのをやめて、再び私に狙いを定めてきた。
暁の目的は? ただの脅し? 前にやったタロット占いでは、『悪魔』のカードの逆位置が出ていた。意味は、殺意を抱くだった。もしかしたら、暁が殺意を抱いた相手って、私なの? 私、殺されるの? もう優に会えなくなるの? お母さんとも、仲直りできないまま終わるの?)
天井から落ちてきた老人は、相変わらず苦悶の表情のまま、愛美の枕元に足を立てて座り込み、愛美の顔を眺めながら、臭い息を吐く。
金縛り状態で体が動かせない愛美が、せめて顔ぐらいは、バケモノからそむけようとしたとたん、老人の手が愛美の顔を押さえた。死人のような冷たい手だった。
(気持ち悪い)
愛美の口が、思わず開いてしまった。すかさず老人の指が、愛美の口の中に入って来る。まるで口の中で、芋虫が蠢くような気持ち悪さだ。
苦悶の表情を浮かべた老人が、愛美の顔をのぞき込む。そのとたん、老人の顔から血が噴き出してきた。血が、愛美の顔に降り注ぐ。老人の手の指で口を開けられているので、血が容赦なく愛美の口に入る。
愛美の口の中に、血の生臭さが拡がる。愛美の鼻の穴からも、どんどん血が侵入してくる。
(優! 助けて)
愛美の心の底から、優に助けを求める気持ちが湧き上がり、愛美は心の中で絶叫していた。心の中で優に助けを求めたとたん、愛美の金縛りが解けた。体が動く。愛美はとっさに、優からもらった黒い石のペンダントを握ると、老人に向けてかざした。
(優。私に力を与えて。このバケモノを消して)
老人の顔から噴き出す血が止まった。愛美の口から指を離すと、老人は苦悶の表情から、満足でもしたかのような顔に変化し、ゆっくりと立ち上がると、獣の唸り声のような声を漏らしながら、徐々に徐々に部屋の闇に溶けていった。老人は消えた。
(血を飲んでしまった。気持ち悪い)
愛美は、バケモノが消えて助かったことよりも、血を飲んでしまったことを後悔していた。愛美は、吐き気を催した。しかし、吐けない。バケモノの血が出て来ない。
(バケモノの血を飲んだけど、体は大丈夫かしら。まさか、死なないわよね)
愛美は、バケモノが消えた後も、ベッドから起きられないでいた。腰が抜けたのか、体が痙攣したように震えて動けない。
(早く、部屋の電灯を点けないと。怖い)
暁が脅しでやっているのか、本当に愛美に殺意を持ったのか、わからない。もし殺意を持っていたら、危険だ。愛美は、這うようにベッドから出ると、フローリングの床に転がり落ちた。そのまま学習机に手をつき、何とか立ち上がると、ようやく部屋の電灯を震える手で点けた。
姿見を見る。愛美の顔には、バケモノの血の跡はなかった。いつもの綺麗な顔だ。ベッドをのぞき込んでも、やはり血の跡はない。
(あの血も、バケモノが消えるときに、一緒に消えるのかしら? だとしたら、血も幻みたいなものなのかな。でも、気持ち悪い)
愛美の口の中には、バケモノの血の生臭さや生々しさが残っている。愛美は、二階の廊下にある洗面台に走ると、吐こうとした。しかし、唾液も出て来ない。愛美はうがいをしてから、めちゃくちゃに歯を磨いた。
バケモノの血を飲んでしまったことにより、自分の体が内側から穢された気分になった。
(汚い。私の体は、汚くなってしまった)
愛美は部屋に戻ると、学習机の前に座り、引き出しから消毒薬とカッターナイフを取り出して、机の上に置いた。手が震える。でも、確認しなくちゃと愛美は、左手首に消毒薬を塗った。そして、右手でカッターナイフを持った。
愛美の手は、さらに激しく震える。愛美は目を閉じて、深呼吸した。しかし、それぐらいでは心は落ち着かない。
(別に、自殺するわけじゃない。確認するだけ。まだ、優に相応しい女のままでいられるのか、それを確認するだけ。落ち着け、愛美)
愛美は目を開けると、カッターナイフで静かに、自分の左手首を切った。ずきっと痛みが走る。想像していたよりも、痛い。初めてのリストカットだった。愛美の左手首からは、赤い血が細く流れた。
(良かった。綺麗な血。私の体の中には、まだ綺麗な血が流れているのね。それに温かい。私の体は穢されてはいないのね。優に会う資格は、失ってないのね)
愛美は、左手首から流れる赤い血の温かさを感じながら、目を閉じた。閉じた瞼から、涙が落ちる。瞼を固く閉じても、涙を止めることはできなかった。
(私は、まだ人間だ。まだ穢されていない。きっと体の中に入ってしまったバケモノの血も、バケモノが消えると同時に、消えたんだわ。そうに違いない)
愛美は、自分で自分を励まして、納得した。それにしても、なぜバケモノは、愛美に血を飲ませようとするのか? 思い出すと、今まで遭遇したバケモノも、そのほとんどは愛美の顔に向けて血を噴き出した。すんでの所で血は飲まなかったが、なにか意味があるのだろうか?
愛美は、もう一度、二階の廊下にある洗面台に行って、カッターナイフで切った左手首を十分に洗ってから処置しようと、部屋の戸を開けた。
「お母さん」
愛美の部屋のすぐ外に、母親が立っていたので、愛美は面食らった。母親は、顔色の悪い神経質そうな顔をしていた。そして愛美を見ると、無言で立ち去った。
「お母さん、待って。聞きたい事があるの。どうして仕事を辞めたの? いま何をしてるの? 生活は、どうするの? 私にも、教えてよ」
愛美は、母親の背中に向かって叫んだが、母親は振り向きさえしなかった。
「お母さん。仕事を辞めたことで、悩んでるの? なんだか、挙動不審だよ」
愛美は、左手首の傷の手当てをした。しかし、眠れない。バケモノが、とうとう部屋の中で愛美を襲って来たからだ。今までは、バケモノは家の中に入ってくることは無かった。しかし、もう家の中は安全地帯ではない。
愛美は、優からもらった黒い石のペンダントを見つめた。これが愛美の命綱であることは、変わりがない。しかし、先ほどみたいに金縛りにあってしまったら、どうすればいいのか。
やはり優にそばに居てほしい。優に直接、守ってほしい。愛美は、その思いを強くした。自分ひとりでは、バケモノの恐怖に打ち克つ勇気がないからだ。愛美は、今の不安な気持ちを、誰かに聞いてほしかった。
(優に電話したい。でも、こんな時間に電話したら迷惑だろうな。優に迷惑をかけて、嫌われたくないし。優には、朝になれば会えるんだし、我慢しよう。そうだ、久しぶりにマリアさんにメールしてみよう)
マリアさんには、しばらく相談していなかった。優が、マリアさんが怪しいのではないか、マリアさんと縁を切れと言ったからだ。しかし、怪しいのは暁だった。マリアさんとの連絡を絶つ理由はもうないのだから、これからはまた、マリアさんにもいろいろ相談しようと愛美は思った。
そもそも不思議世界の話は、優よりもマリアさんに相談するほうが、相応しい気がする。なんと言っても、マリアさんは魔女なのだから。
「お久しぶりです。愛美です。夜中に、すみません。以前からお話している怪異が続いています。困ったことになりました。怪異、つまりバケモノが、いよいよ家の中にも出現したのです。私の部屋の中に現れ、襲ってきました。私は、バケモノの血を飲んでしまいました。大丈夫だとは思いますが、一応、お知らせしておきます。
私にはいま、守ってくれる男性がいます。それで、言いにくいのですが、マリアさんから頂いたタロットカードのペンダントは、その男性に渡してしまったのです。ごめんなさい。その代わり、男性から別のお守りをもらって。先ほども、そのお守りでバケモノを撃退できました。
どうやら、バケモノを操っているであろう相手もわかりました。マリアさんが指摘していたとおり、身近な人でした。でも、そいつの居場所がわからないので、どうしようもできません。
いま不安です。これから私は、どうなっていくのでしょうか? マリアさん、何かアドバイスを下さい。なんだかんだ言っても、最後に頼れるのは、マリアさんだけです」
愛美は、マリアさんにメールをすると、祭壇に向かった。女神像の絵の前で、祭壇のキャンドルに火を点け、インセンスを焚いた。インセンスはいつも、フランキンセンスを使っている。もうバケモノから解放してください、苦悩を取り去ってくださいと女神に願うため、愛美はブックオブシャドウを手に取ると、旧約聖書詩篇五九を唱えた。
わが神よ、どうか私たちをわが敵から助け出し、
私に逆らって起こりたつ者から、お守りください。
悪を行う者から私を助け出し、
血を流す人から、私をお救いください。
見よ、彼らはひそみにかくれて、私の命をうかがい
力ある人々が共に集って、私を攻めます。
主よ、私にとがも罪もなく、
私にあやまちもないのに、
彼らは走り回って備えをします。
私を助けるために目を覚まして、ごらんください。
マリアさんから返信があった。愛美はブックオブシャドウを祭壇に置くと、スマートフォンを手に取った。
「血を飲んでしまいましたか。事態は深刻です。もう猶予はありません。前に言っていた、強力なアイテムを送ります。あなたが、このアイテムを使いこなせるか不安ですが、もうそんなことを言っている時間の余裕は無いようです。
忘れないでほしいのは、あなたには、この強力なアイテムを使いこなせる資格がある、ということです。あなたが、その能力に気づいてないだけです。
怪異に襲われるということは、逆に言うと、あなたには怪異に立ち向かえる力が与えられているのです。それには武器が要ります。あなたに送る強力なアイテムは、その武器です。
タロットカードのペンダントは、あくまでも初期の段階の怪異から、あなたを守る最低限の護符でした。今度のアイテムは、積極的に敵と戦える武器です。
戦ってください。怪異の大本を叩いてください。そうしなければ、あなたはいつまでも運命に打ち克つことは出来ません。
自分の使命に気づけるかどうか、それが強力なアイテムを使いこなせる資格を得るか得られないか、その分岐点となります。
運命を変えてください。未来を自分で切り拓いてください。運命の扉の向こうへ、突き進むのです。アイテムは、なるべく速く届くようにします」
フランキンセンスの香りが部屋中に漂い、まるで荘厳な寺院にでもいるような雰囲気の中で、愛美はマリアさんからメールを何度も読み返した。
いよいよマリアさんが、かねてから言っていた強力なアイテムを送ってくれる。これで少しは安心できる。その一方で、気になることも書いてある。愛美が、強力なアイテムを使いこなせるか不安だということ。バケモノの血を飲んでしまったことを、マリアさんが深刻に捉えていること。優がしているタロットカードのペンダントは、最低限の護符だということ。そして一番気になるのが、愛美に戦うことを求めていること。
愛美が一番苦手としているのが、積極的に自分で戦うことだった。愛美は幼い頃から、人に守ってもらうことを欲していた。母親は、その役割を担ってはくれなかった。愛美は、それが不満で、母親代わりに守ってくれる人を探していた。そのひとりがマリアさんであり、恋人となって愛美を守ってくれるようになったのが、優だった。愛美は、このふたりを頼りにしていた。
しかし、マリアさんは近くには居ない。そのせいか、マリアさんは、愛美に自分で戦えなどと言う。それが嫌なのだ。やはり、最後に頼れるのは優だ。
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