第3話 転校生

 第三章 「転校生」


 学校へ行くと、女子が騒いでいた。その答えは朝のホームルームの時間にわかった。転校生が来たのだ。イケメンの男子だった。女子がざわつく。

 転校生の男子はブレザーの制服をびしっと着こなし、整った顔立ちで目が大きく、眉毛も太く、まるで外国人のように鼻が高く、唇は薄かった。髪型は横分けの茶髪。身長は一八○センチはあるだろう。男性モデルのように均整のとれた体だ。これでは女子が騒ぐのも無理はない。

 名前は飛鳥馬(あすま)優。東京からの転校生だそうだ。席は愛美の隣になった。先生に言われて教科書を見せる。ふたりで一冊の教科書を見るため、とうぜん愛美と飛鳥馬は体を寄せ合うことになった。飛鳥馬からは、柑橘系の良い香りが漂った。コロンを付けているようだ。

 何事も無く、授業は終わった。放課後、転校生が話しかけてきた。

「今日はありがとう。名前を聞いてなかったね」

「美馬愛美」

 愛美はぶっきらぼうに言った。知らない人と話すのは、慣れてないのだ。

「愛美さん、それって痣? その左頬の十字の?」

「気にしてます」

 いきなり左頬の、斜めになった十字の痣を指摘され、愛美は頭に血が上り、顔が熱くなった。デリカシーが無い男だ。

「愛美さんて美人だね。転校早々、美人の隣の席になれて嬉しいよ。ポニーテールも似合ってるし、俺と友達になってよ。一緒に帰ろうよ」

(馴れ馴れしい。最初に見たときからキザな感じがして好きじゃなかったけど、いきなり女子を誘う男子なんて嫌い。別に顔も好みじゃないし)

「すみません。ひとりで帰ってください」

 愛美は冷たく言うと、飛鳥馬を見ないようにして席を立った。気づくと幼馴染みの暁が、いつものように青い顔をして、眼鏡越しに飛鳥馬の方を睨んでいた。

 次の日から飛鳥馬がしつこく愛美に話しかけてくるようになった。だが愛美は無視を決め込んだ。飛鳥馬は相変わらず女子には人気だ。それが気に入らない。

女子の中には露骨に愛美に嫌味を言う者もいた。愛美が、飛鳥馬に話しかけられているのが不満なのだろう。飛鳥馬が愛美に話しかけるたびに、暁は飛鳥馬を睨んでいた。

 この数日、愛美は怪異に遭遇していない。バケモノが現れなくなったのだ。愛美は女神に感謝した。ウィッカの女神が守ってくれたのだ。女神の守護がある以上、愛美にとってバケモノは、もう過去の存在だ。もう解放されたのだ。運命が変わったのだ。そう思っていないと、愛美は精神状態がもたないのだ。

 ある日の夜だった。愛美はファミリーレストランのアルバイトが終わり、家路についていた。家に帰るには小さな公園を通るのが近道なのだが、以前にネコのバケモノに襲われたのがトラウマになり、小さな公園を避けるようになっていた。

 もう大丈夫よね。愛美は思った。バケモノが現れる事は無くなったのだから、小さな公園を避ける必要はない。愛美の足は小さな公園へと向かった。

 小さな公園。ここは子供の頃からの愛美のお気に入りの場所だった。誰もいないから、落ち着いた。幼馴染みの暁も、よくやって来て愛美と遊んだ。あの頃の暁は、愛美の良き理解者だった。親友だった。

そういえば、愛美が年上の男の子にいじめられたとき、暁が抗議してくれたことがあった。それぐらい、愛美と暁は仲が良かった。それがいまでは、暁は謎めいた男になってしまった。

 暁は愛美の秘密を知っている。愛美がウィッカンになったことも知っていた。誰にも言ってない、母親さえ知らないことなのに。それだけではない。暁は愛美の運命についても言及していた。なぜ、愛美の運命のことまで暁は知っているのか?

 暁がバケモノを見ても平然としているのも不思議だった。暁はバケモノについても、何か知っているのではないか? 愛美の心の中に疑惑が湧いた。暁を問い詰めれば、何かわかるかもしれない。

 小さな公園は静まり返っていた。昼間でも人のいない公園だ。夜なら、なおさらだ。草むらから虫の声が聞こえる。平和だ。ここを通り抜ければ、家は近い。だがなぜか、愛美の足取りは重くなった。急に不安になったのだ。今夜は胸騒ぎがする。

 愛美は小さな公園を通るのを止めて、家に帰るには遠回りだが、人通りの多い道を歩くことにした。夜ではあるが、そこそこ人が歩いている。車は少ない。

 愛美の前方に男が立ち止まるのが見えた。誰だろう? 変な人じゃないといいけど。そう思い愛美も立ち止まって、前方の男の様子をうかがい見た。なんと、その男は暁だった。ちょうど良い。愛美は暁を問い詰めて、愛美について知っている事を全部白状させようと思った。

 なんだか獣くさい臭いがする。もしかして暁から臭ってくるの? 一瞬、暁の臭いのような気がしたが、暁とは距離がある。臭いがするには遠すぎる。あの距離からでは、ここまで臭いは届かないだろう。 

 背後から生温かい息のようなものが、愛美の首筋にかかった。あわてて愛美は後ろを振り返った。そこには顔があった。愛美は悲鳴を上げた。

 中年の男の顔が宙に浮いている。顔だけだ。どす黒い顔色で目は黄色く濁っている。バケモノだった。おさまったと思った怪異が、また復活したのだ。

(なに、これ? なんで私だけ、こんな目に遭わないといけないの?)

 愛美が悲鳴を上げたというのに、通行人は誰も助けに来ない。

(みんなどうしたの? 見えないの? たくさん人がいるのに、どうして助けに来てくれないの?) 

 愛美は絶望的な気持ちになり、目の前が真っ暗になった。宙に浮いた中年の男の顔から、生温かい鼻息が出て、愛美の顔にかかる。まるで満員電車の中で、気持ち悪いおじさんと体がくっついてしまい、おじさんの鼻息がかかったような気分だ。

(誰も助けてくれない。人が大勢いるのに、誰も頼りにならない) 

愛美の全身は痙攣でも起こしたように小刻みに震え出し、脚に力が入らなくなった。動けない。逃げられない。このままでは倒れる。

(そうだ。タロットカードのペンダント)

誰も助けてくれないとわかり、愛美はあわててタロットカードのペンダントを震える手で握った。愛美の手の震えに合わせて、タロットカードのペンダントも震える。

 愛美は震えながら、タロットカードのペンダントを、空中に浮いている、どす黒い中年の男の顔に向けた。

(気持ち悪い。これで消えて)祈るような気持ちだった。 

 その瞬間、空中に浮いた中年の男の顔の、血の気の無い唇が開いたかと思うと、口から片手が飛び出して来た。

 その片手が、タロットカードのペンダントを持った愛美の手をはたいた。はずみでタロットカードのペンダントのチェーンが切れて、地面に落下した。

(そんな)

 愛美の頭に絶望がよぎった。

(あのペンダントがないと助からない)

 空中に浮いた中年の男の顔。顔だけのバケモノ。その口から飛び出した片方だけの手が、愛美の首を絞めた。強い力だ。

 愛美は首を絞められて、自分の顔が蒼白になっていくのがわかった。顔だけではない。全身から血の気が引き、体に力が入らなくなった。倒れる。

(息が苦しい。息ができない。このままでは本当に死ぬ。私の人生は一八年で終わるのか。嫌だ、まだ死にたくない。まだ恋もしたことがないのに。生きて、恋人を作って、人生を謳歌したい。だから死にたくない。お願い、誰か助けて。なんで私が、こんな目に遭うの? 私、何か悪いことした? 私の持って生まれた運命のせいで、ここで死ぬの? 私の運命って、なんだったの? ねぇ教えて、マリアさん。なんでもっと強力なアイテムを送ってくれなかったの? 私、死ぬのよ。マリアさんが助けてくれなかったせいで死ぬのよ。さようならマリアさん。さようならお母さん。お母さん、最後にちょっとだけでも仲良くしたかった)

 愛美の意識が遠くなった。その微かな意識が、何かを聞いた。何か聞こえる。

「大丈夫か?」

 男の声がする。誰? 誰か来てくれたの? 愛美の顔に徐々に血の気が戻るのが感じられた。息も吸えるようになった。

 愛美の意識が戻ると、目の前に男がいた。転校生の飛鳥馬だった。飛鳥馬は必死に、空中に浮いた中年の男の口から伸びている手と格闘を始めた。

(私を助けてくれている。バケモノに襲われるようになって初めて、助けてくれる人が現れた。嬉しい)

 飛鳥馬は、空中に浮く中年の男の口から不気味に出た手を振り払うと、手に何かを握り、「消えてしまえ!」と大声で叫んだ。 

 空中に浮かんだどす黒い色の中年の男の顔は、嘘のように消えてしまった。バケモノはいつも、最後には幻のように消えてしまう。バケモノとは、なんだろう?

 助かった。愛美は心の底から安堵して、思わず涙が溢れた。

「泣かなくていいよ。怖かったね」

 飛鳥馬の優しい言葉に、愛美は泣きじゃくるしかなかった。飛鳥馬は、愛美の肩にそっと手を置いた。

「これからは、俺が守るからね」

飛鳥馬の言葉が心強かった。

(私にも、やっと守ってくれる人が現れた)

 愛美は幼い頃から、守護してくれる人を探していた。原因は母親だった。愛美の母親は昔から愛美に冷たく、なぜか愛美とは距離を置いていた。理由はわからなかった。愛情が無いのだろうか? 愛美は何度もそう思った。愛美は愛情に飢えていた。そしていつしか、誰かに守ってもらいたいと心から願うようになっていった。今、初めてその願いが叶ったと思った。

(私がずっと探していたのは、この人だったんだ)

「ありがとう。私、私……」怖かった。嬉しかった。いろんな感情が混じり合って、言葉が口から出てこなかった。

「余計なことをするな」

 ふいに声がした。ぼそっとした冷たい声だ。いつの間にか近くに暁が立っていた。いつものように青白い顔だった。その顔が怒りに満ちていた。

「これは警告だ」

暁は眼鏡を直しながら、吐き捨てるようにそう言うと、無造作ヘアをなびかせながら、夜の闇に消えて行った。

 愛美はバケモノの出現と飛鳥馬の登場で、すっかり暁の存在を忘れていたので、少し驚いてしまった。せっかく飛鳥馬と良い感じになっていたのに、暁の言葉で水を差された気分だ。

(余計なことをするなって、どういう意味? 飛鳥馬君は私を助けてくれたのよ。私が助からなければよかったってこと? 暁は私が死ねばよかったと思っているわけ?)

「なんなんだ、あいつは。俺に言ったのか?」

 飛鳥馬が不満気につぶやいた。

「あの人、暁って言って私の幼馴染みなんだけど、よくわからない人なの。私がさっきみたいにバケモノに襲われていると、決まって近くにいるの。もしかしたらバケモノについて、何か知っているかもしれない。だけど暁の家も連絡先も私は知らないの」

「幼馴染みなんだろ? なんで家を知らないの?」

「よく考えるとおかしいの。子供の頃から暁の家を知らない。私だけじゃなくて、周りのみんなも暁の家を知らない。子供だけじゃなくて、親も暁の家を知らなかった」

「まさかホームレスじゃないよな」

「まさか」

「昔から謎めいた奴だったんだな」

「今にして思えば、そうなんだけど。子供の頃は疑問に思っていなかった。むしろ仲は良かった。いつもそばに居てくれて、親友だと思ってた。ところがどうも、中学生ぐらいから怪しくなって」

「怪しいって?」

「私に気があるのかなって」

「ははは。それは中学生からじゃなくて、子供の頃からだったと思うよ。いつもそばに居たんだろ」

「子供の頃はわからないんだけど、中学生ぐらいからは私を熱っぽい目で見るようになってきて。でも暁は子供の頃から病弱だったから、頼りなくて」

「青白い顔してたもんな」

「私、飛鳥馬君みたいな頼れる男子が好きなの」

「飛鳥馬君なんて水くさい呼び方は、よせよ。これからは優と呼んでくれ」

「だったら私のことも、愛美って呼んでいいよ」

「愛美」

「優」

 ふたりは、しばらく見つめあった。愛美は自分の鼓動が早くなるのを感じた。顔が熱い。おそらく愛美の顔は真っ赤だろう。無理もなかった。男子とこんな風に見つめ合うなんて、初めてのことだ。

愛美の火照った顔を冷ますかのように、七月の夜の風がふたりの間を通り抜けていく。空では下弦の月が、静かにふたりを祝福していた。

 優からは柑橘系のコロンの良い香りが漂ってくる。その香りを嗅ぐと、愛美の心臓はどきどきと大きく、そしてさっきよりも、さらに早く鼓動した。愛美は、優に心臓の音を聞かれるのが恥ずかしくなり、顔を伏せた。すると地面に、タロットカードのペンダントが落ちているのが見えた。

「忘れてた」

 愛美は優から離れると、タロットカードのペンダントが落ちている場所まで行き、道にしゃがんでタロットカードのペンダントを拾おうとした。

「拾わなくていい。そのまま置いときなよ」

 優が突然、大きな声を出した。

「でも、大事なものなの」

「君のお守りだったんだろ」

「うん」

「そんなの、たいした効果はないよ」

「でも」

「俺が、もっと良いものをプレゼントする」

 優は自分のしているペンダントを外すと、愛美に見せた。

 二センチ四方ほどの角張った黒いツヤの無い石が、シルバーの台座に乗り、五本の爪で押さえられていた。チェーンもシルバーだ。

「これを私に?」

「これが新しい君のお守りだ。これがあれば、さっきのようなバケモノから君を守ってくれる」

「これは、どうしたの?」

「俺の家に昔から伝わっている守り石だよ。さっきのバケモノも、この石をかざしたから消えたんだ。だから、これからは、このペンダントさえしてれば大丈夫。もう他のお守りなんか、するな。俺を信じろ」

 優は力強く言うと、黒い石のペンダントを愛美の掌の上に乗せて、そっと愛美の手を握った。愛美は掌から汗をかいていたので、優に気づかれないように、黒い石のペンダントを握るふりをして誤魔化した。

 愛美は、優の家のことが気になった。なぜ、バケモノを消し去る力のある石のペンダントが、優の家に伝わっているのかということだ。特別な家なのだろうか? 

「優の家って、どんな家なの? 由緒ある家? なんでバケモノを退治できるような石が伝わっているの?」

「ちゃんと俺がプレゼントしたペンダントをかけて。そうしないと守ってもらえないよ」

 優は、愛美の質問には答えずに、黒い石のペンダントをかけるように愛美に促した。優は自分の家については、あまり教えたくないのだろうか? それとも愛美の質問が聞こえなかったのか。

おそらく愛美にペンダントをさせるのに気を取られていたのだろう。愛美は、しつこく質問を繰り返すことは躊躇われた。仲良くなったばかりなので、しつこい女と思われて嫌われたくなかったからだ。

愛美は、優からプレゼントされたペンダントをそっと首にかけた。でもやはり、マリアさんからプレゼントされたタロットカードのペンダントも、捨てたままでは帰ることはできない。そもそも今まで、バケモノから愛美を守ってくれたのは、あのタロットカードのペンダントなのだから。

「やっぱり、あのペンダントも拾って持って帰るね」

 愛美が、地面に落ちているタロットカードのペンダントを拾いに行こうと歩きかけたとたん、優に腕を掴まれた。

「俺の言うことが聞けないのか」

 優が命令口調になった。そして、掴んだ愛美の腕を引っ張った。

(え? さっきまで優しかったのに)

 愛美は少し不安を感じた。もしかしたら優は、自分の意見を押し付けるタイプの男性かもしれないと思ったからだ。優のことは好きだ。守ってくれたからだ。愛美がずっと探し求めて来た、自分の守護者であり、やっと見つけた頼れる存在だと信じている。それが優だ。

 だが、少し急ぎすぎたのかもしれない。もうちょっと、飛鳥馬優という男の性格を確認したほうがいいような気がする。今の優の命令口調で、愛美は冷静になった。

「優。助けてくれてありがとう。感謝してる。だからって、いきなり命令しないで。まだ優の彼女になったってわけじゃないのよ。勘違いしないで」

 優は露骨に、しまった、という表情になった。

「ごめんね。わけを説明するよ」

 優はやさしい声になり、話し始めた。

「俺はこれからも、君を守りたい。転校してすぐ君の隣の席になって、運命を感じたし、すぐに君に好意をもった。これは本当だ。君がやさしい性格だというのはすぐにわかったし、君が何かに悩んでるのも、すぐわかった。だから君に、友達になってと言った。俺だったら、君の悩みを聞くことができる、そう思ったからだ」

 優は愛美の目を見ながら、静かな口調でさらに続けた。

「たまたま歩いていて、君がバケモノに襲われているのを目撃した。俺だって怖かったさ。だけど、たとえ俺がどうなっても、君を守らなきゃいけないと思った。それが俺の運命だと思った。そしておそらく、このバケモノが君を悩ませている原因だと直感した。

幸い俺には、家に伝わるお守りのペンダントがあった。このペンダントさえあれば何とかなる、そう信じてバケモノと戦った。君を見捨てて逃げたりしたら、俺は一生後悔するからね。だから死んでもいいと思って、バケモノにぶつかっていったんだ」

 確かに、優が助けてくれなかったら、愛美は今頃、バケモノに首を絞められて、死んでいただろう。優が命の恩人だということを忘れて、少し喋り方が気になったというだけで、腹を立てたことを愛美は反省した。

「優も命がけだったんだね」

「必死だったよ。君を守るために」

 優はさらに、愛美の目を見つめた。

「さっきの言い訳をさせてくれ。なんで命令口調になってしまったか。俺が君にプレゼントしたお守りは、我が家に代々伝わる家宝なんだ。決して一族以外に渡してはいけない、そう言われている。その禁を犯して、俺は君にプレゼントした。そのペンダントの効果は絶大なんだが、こう言う言い伝えがある。他のお守りとは、絶対に一緒に使ってはいけない。他のお守りと一緒にすると、お互いの効果を打ち消し合い、逆に災いを招くだろう、と」

「そんな言い伝えがあるんだ」

「せっかく君を守るために、我が家の禁を犯してまで、君にペンダントをプレゼントしたのに、君が今まで通りに他のお守りにも頼っていたら、せっかくのペンダントの効果が消えてしまう。それでは君を守る事は出来ない。

さっきのバケモノが俺のペンダントの効果で、簡単に撃退できたのを君も見てただろ。それだけのパワーのあるペンダントなんだ。他のお守りのせいで、そのパワーを無にしたらもったいない。

俺のペンダントの効果を信じてくれ。これさえあれば、もう君はバケモノから解放されたと同じなんだ。だからつい、命令口調になってしまった。謝るよ。君を守りたい一心で、つい口調が厳しくなってしまった」

「そうだったの」

 優の本音がわかり、愛美は自分の態度を反省した。やはり優は、本気で愛美を守ってくれようとしている。それで口調が厳しくなっただけだ。本気の表われだ。だからこそ、家宝のペンダントを躊躇なく渡してくれたのだ。

「ごめんなさい。可愛げの無い態度をとってしまって」

「わかってくれたら、それでいい。愛美が大切なんだ」

「ただ、そこに落ちているタロットカードのペンダントも、私にとっては大切なものなの。お世話になっている人からの、特別なプレゼントなの。粗末にしていいものじゃないわ。家に持って帰って、大事に仕舞っておく。そうしないと私の心が晴れない。拾ってもいいわよね?」

 愛美はそう言いながら、地面に落ちているタロットカードのペンダントの場所まで歩き、しゃがむと、両手でタロットカードのペンダントを拾い、クラッチバッグからハンカチを出すと、丁寧に汚れを落とした。

「俺が預かるよ」

 優が、思いがけない言葉を発した。

「え? ダメよ。これは私の大事なものなの。いくら優でも、あげるわけにはいかないわ」

「くれと言ってるわけじゃないさ。預かるだけだよ。理由がある。もしかしたら、そのペンダントが悪いモノを引き寄せている可能性がある」

「そんなバカな」

「そのペンダントって、なまじ霊能力の有る人が、念を入れたものだろ。そういう中途半端なお守りが、逆に災いを引き寄せる場合があるんだ」

「私がバケモノに襲われるようになったのは、このタロットカードのペンダントのせいだと言うの? 信じられない」

「とにかく一度、身から離してみるんだよ。俺は預かるだけで、愛美が返せと言ったら、いつでも返すんだから、いいだろ。俺を信じなよ」

 愛美は黙った。タロットカードのペンダントは、信頼する魔女のマリアさんが、わざわざ聖別してくれた護符だ。マリアさんは愛美の師匠であり、母親代わりに慕っている相手だ。その一方で、優もバケモノを恐れずに命がけで愛美を守ってくれた恩人だ。

 ずっと自分を守ってくれる存在を探し求めていた愛美にとって、優は突如として現れたヒーローだった。その優が、マリアさんのくれたタロットカードのペンダントが、逆に災いを引き寄せるという。信じられない話だったが、ここで優の申し出を断れば、優との関係が気まずいものになってしまう気がした。

 愛美は、優を取るかマリアさんを取るか、二者択一を迫られた心境だ。マリアさんのくれたタロットカードのペンダントを優に渡すのは、マリアさんを裏切る気がする。しかし、マリアさんは愛美のそばにいて、愛美を守ってくれるわけではない。

 優は、愛美のそばにいて、愛美を守ってくれる存在だ。これからもずっと、優にはそばにいてほしいし、守り続けてほしい。それに優は、タロットカードのペンダントは預かるだけで、いつでも返してくれると言っている。しばらく預けるだけなら、きっとマリアさんも許してくれるだろう。

「わかった。このタロットカードのペンダントは優に預ける。その代わり、丁寧に扱ってね。そして私が返してって言ったら、すぐに返してね」

「わかってるよ。俺を信じてくれて、ありがとう」

 優は満面の笑みを浮かべると、愛美からタロットカードのペンダントを受け取り、ズボンのポケットへと、乱雑に入れた。

(ごめんなさい、マリアさん)

「それにしても、人が大勢いたのに、誰もバケモノから私を助けようとしなかった。優が来てくれなかったら、私、どうなっていたことか」

 愛美は優に体を近づけるようにしつつ、改めて優への感謝を口にした。優に体を近づけた事で、優から漂う柑橘系のコロンの香りが、さらに愛美の鼻をくすぐった。

「もしかしたら、他の人にはあのバケモノは見えないのかもな。あのバケモノが見えたのは、愛美と俺だけなのかも」

 もし優の言うように、バケモノが一般の人には見えないのだとしたら、バケモノというのは、いったいなんなのだろう? 実体の無い存在にしては、首を絞めて愛美を殺そうとしたり、現実的な力を持っているとしか思えない。

 その一方で、お守りによって幻のように消え去る。愛美の顔に血をかける事もあるが、その血もバケモノが消えると、跡形も無く消える。現実と幻の中間のような存在なのだろうか。

「そう言えば、暁にもバケモノが見えているわ」

「さっきの、愛美の幼馴染みとかいう、青白い顔の眼鏡のやつか」

 優は、吐き捨てるように言った。

愛美がバケモノに襲われるとき、必ず暁が近くに居る。もしかしたら、暁がバケモノについて、何か知っているのではないか。暁こそが、この一連の怪異事件のキーマンなのではないか。一度、じっくりと暁と話す必要がある。愛美は、そう思った。

愛美はもっと優と一緒にいたかったが、夜も遅いので帰ることにした。

「じゃ、明日、学校で」

「俺の渡したペンダント、大事にしろよ。君を守ってくれるから。気をつけて帰ってね」

 いつの間にか、夜の街から人影が消えていた。そろそろ深夜だ。愛美は夜の街に響く、自分の靴音を聞きながら家路を急いだ。今日、愛美は運命の人を見つけた。もう、バケモノについてひとりで悩む必要はない。嬉しかった。もうひとりじゃない、そう思うと愛美は、無意識に歌を歌っていた。人のいない夜の街に、愛美の歌だけが谺した。

 愛美が家に帰ると、家の前に母親が立っていた。母親は青い顔をして、神経質そうな表情を浮かべている。母親はまだ、愛美に気づいていないようだ。もしかして、愛美の帰りが遅いから心配してくれたのだろうか。だったら嬉しいと、愛美は思った。

「お母さん」

 愛美は、いつもは自分に無関心な母親が、自分を心配してくれた事が嬉しくて、弾むような声で叫んだ。

 とたんに母親は、慌てたような素振りで家の中に引っ込んだ。愛美は疑問に思った。

(私を心配して外に立っていたんじゃないとしたら、いったいお母さんは、何をしていたの?)

 せっかく声をかけたのに、返事もせずに、まるで逃げるように家に入った母親を見て、愛美は少々悲しい気持ちになった。いつか、お母さんと仲良くなれるかな、と。でも今日は、優との出会いがあった。優のことを考えると、母親のことは忘れてもいい、とも愛美は思った。


 部屋に入ると、愛美の体に疲労が押し寄せて来た。体が重い。今日は、いつになくいろんな事があった気がする。バケモノ。優との出会い。マリアさんからもらったタロットカードのペンダントとの別れ。そして暁への疑問。 

 いつもなら、マリアさんにバケモノの事をメールして相談するのだが、マリアさんからもらったタロットカードのペンダントを優に渡してしまったことが、マリアさんへのメールを躊躇わせる。マリアさんに申し訳ない気持ちが、愛美を後ろめたくさせた。

 愛美は、優からもらった黒い石のペンダントを手にとって眺めた。これからは、マリアさんからもらったタロットカードのペンダントの代わりに、この黒い石のペンダントが私を守ってくれる。

(マリアさん、ごめんなさい。でも、私はマリアさんより、優のことを選んでしまった)

 愛美は、マリアさんにメールするのは、しばらく控えようと思った。今後は優を頼りにしよう、そう思ったからだ。遠くに居るマリアさんよりも、近くに居る優だった。今日、明らかに優は愛美に好意を寄せていた。それは愛美も同じだ。しかしふたりの運命は、これからどうなるのだろう?

 愛美は、愛用しているウェイト=スミス・デッキのタロットカードを取り出した。パメラ・コールマン・スミスの描いた神秘的な絵柄が気に入って、愛美はこのタロットカードを愛用していた。愛美がウィッカンになるきっかけになったのが、占いである。アルバイト先のファミリーレストランの常連客に占われたことから、やがて魔女のマリアさんを紹介されたのだ。

 魔女のマリアさんとは、しばらく距離を置こうかと思うが、だからといってウィッカンを辞めるわけでもなく、占いをしなくなるわけでもない。

 愛美は学習机の上に、手作りのタロットクロスを広げた。手作りなので、黒一色のタロットクロスだが、愛美は気に入っていた。

 愛美は気持を鎮めると、ケルト十字法というスプレッドでタロット占いを始めた。優と愛美の今後についてだ。

 最終結果の位置に出たカードは、「恋人」のカードの正位置だった。やっぱりね。愛美は思わず笑みがこぼれた。ついに私にも、恋人が出来る。そう思うと、愛美は椅子の上で、小躍りしそうになった。

 ただ、気になることもある。障害の位置に出た、「悪魔」のカードの逆位置だ。意味は「悪意、恨み、殺意を抱く」などだ。思わず、ぞっとするカードだ。誰かが、愛美と優との関係に悪意を持っているという結果のカードだ。さすがに「殺意を抱く」というのは穏やかじゃない。

 ふと、暁の顔が思い浮かんだ。

(暁は私に好意を持っているとしか思えない。だとすると、私と優が付き合ったら、暁はどう思うだろう?) 

「殺意を抱く」。その言葉を思い浮かべると、愛美は身震いした。

 暁のことより、いまは優のことを考えよう。愛美はいつものように祭壇の前に立つと、女神像の絵の前で、祭壇用のキャンドルに火を灯し、フランキンセンスのインセンスを焚いて、ブックオブシャドウを開いた。そして、旧約聖書の雅歌八章を心を込めて唱えた。


どうか、あなたは、わが母の乳房を吸った、わが兄弟のようになってください。

私が外であなたに会うとき、あなたに口づけしても、誰も私を卑しめないでしょう。

エルサレムの娘たちよ、私はあなたがたに誓い、お願いする。

愛のおのずから起こるときまでは、

ことさらに呼び起こすことも、さますことも、しないように

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