運命の扉の向こうへ

大宮一閃

第1話 始まりの夜

 第一章 「始まりの夜」 


主は私の魂を生き返らせ 御名にふさわしく、正しい道へと導かれる。

たとえ死の陰の谷を歩むとも 私は災いを恐れません。

あなたは私と共におられ あなたの鞭と杖が私を慰めるからです


美馬愛美がいつものように夜に、女神像の絵の前で旧約聖書の詩篇二十三篇を唱えていると、突然、愛美の部屋の中にまばゆい光が差し込んだ。光は窓の外からカーテンをものともせず、夏の真昼の日差しのように、強烈に愛美の部屋を照らす。愛美はカーテンを開け放して、窓の外を見た。

窓の外の空中に聖母マリアが浮いていた。愛美が手を伸ばせば、届きそうだ。聖母は幼子イエスを抱きかかえている。

 愛美は聖母の出現に戸惑ったが、自分の信仰に聖母が応えてくれたのだと、すぐに納得した。愛美は手に持ったブックオブシャドウを祭壇の上にそっと置くと、窓の外の聖母に向かい、ひざまずいた。

「奇跡が起きたのですね。私の願いをお聞き届けください。母親との関係の事です」

 愛美は一瞬、自分の顔の左頬に生まれつきある、黒い十字が斜めになった痣を消してほしいと祈りかけたが、これは高校を卒業してからレーザー治療を受ければいいと思い直し、より深刻な母親との関係を祈ることにした。 

だが、愛美が祈りを捧げ始めたとたん、聖母は愛美の部屋のすぐ外から、向こうへと移動してしまった。これでは、祈るには遠すぎる。道路の向こうの空中に、聖母マリアが輝きながら浮かんでいる。

(まだ祈りは終わっていない。どうか、私を悩みから救ってください)

 愛美は慌てて二階の部屋から飛び出すと、階段を二段飛ばしで駆け下りた。看護師の母親は夜勤で家に居ない。愛美は急いで家から出ると、玄関の戸を閉めるのも忘れて、家から少し離れた場所に浮いている聖母の前に転がるようにひざまずいた。

 七月の外の夜風はひんやりと心地よく、昼間の暑さを忘れさせる。愛美の鼓動は激しく鳴っていたが、涼しい夜の風が頬を撫でると、すぐに愛美の鼓動は平静を取り戻した。

「聖母よ。クリスチャンを辞めても、私を見捨てなかったのですね。私もあなたに対する敬愛の心は変わっていません。どうか私の悩みを聞いてください。母とはもう何年も会話がありません。母は私に関心を持ってくれず、まるで他人のようです」

 愛美が空中の聖母に向かって手を組んで祈りを捧げていると、聖母はゆっくりと愛美の前に降りてきた。聖母よ。愛美は思わず、感謝の気持ちで目を閉じた。

(なに、この臭い)

 いきなり愛美の鼻に、獣くさい臭いが流れ込んで来た。臭い。愛美はあまりの悪臭に目を開けた。そこには不気味な笑いを浮かべた聖母マリアが浮いていた。

(違う。これは聖母じゃない)

 聖母マリアと思ったそれは、だんだんと真っ黒な顔へと変わり、顔の肉がただれだした。聖母を包んでいた光も消え失せた。見ると幼子イエスと思っていた赤ん坊は、人間ではなくて犬の顔をしている。

(バケモノ)

 愛美が悲鳴を上げ立ち上がろうとしたとたん、聖母と思ったバケモノの真っ黒な顔から血が噴き出し、愛美の顔にかかる。愛美は逃げようとしたが、聖母のふりをしたバケモノの手が伸びて、愛美の片手を握って放さない。強い力で片手を押さえつけられ、愛美は立ち上がる事も出来なかった。

(誰か助けて)

 ここは閑静な住宅街。夜の人通りは少ない。あいにく、周りには誰も居ない。

(どうして誰も居ないの。私には何も出来ない。誰かが助けてくれないと、私は、このバケモノに殺されちゃう。誰か、どうにかして)

 愛美は全身が震え、鳥肌が立った。顔が青ざめるのが、わかる。目の前が暗くなる。聖母に似たバケモノに掴まれた手が、異常に冷たい。相変わらずバケモノから噴き出す血は、愛美の顔に降り注ぎ、鼻にも入りそうになって息が出来ない。口も開けられない。

(なんとかして、逃げなきゃ。このままでは死ぬ。生きたい。私は、まだ生きたい)

 愛美はバケモノに掴まれてない方の手で、胸のペンダントを握った。無意識だった。このペンダントは、信頼している魔女のマリアさんがプレゼントしてくれたものだ。マリアさんは愛美のウィッカの師匠だった。ペンダントは、タロットカードのソードのエースのカードをデザインしたもので、マリアさんが霊的守護のためにと、特別に聖別してくれたものだ。

 愛美が無我夢中でタロットカードのペンダントを掲げると、そのとたん聖母のふりをしていたバケモノがゆらゆらとゆらめき、かき消されるように消えた。

(助かった。でも、このバケモノはなに? なんで私がこんな目に遭わないといけないの? 私、何か悪いことでもした? 誰かに守ってほしい)

 愛美が地面に膝をついたまま、しばらく恐怖で震えていると、声がした。

「大丈夫?」

 見ると、幼馴染みの黒田暁が立っていた。愛美と同じ高校の同級生で、同じ三年生だ。暁は幼いときから病弱で、いまも街灯に照らされた顔が青く見える。体も細く、身長も一五八センチの愛美とあまり変わらない。無造作ヘアというより、ただのぼさぼさの髪型で、地味な眼鏡をかけている。

「暁、いまの見た?」

 愛美の問いかけに、暁は答えなかった。

「キリスト教徒を辞めて、ウィッカンになんかなったから、こんな怪異に巻き込まれるんだよ」

 暁は静かな口調で言った。暁の青白い顔が、なおいっそう青く見えた。

「なんで? なんで私がクリスチャンを辞めた事を知ってるの? なんでウィッカンになった事まで知ってるわけ? 私、誰にも言ってないよ。お母さんにだって。暁、さっきのバケモノを見てたんだよね? あれを見ても、驚かないの? なんで平気なの?」

「前から思っていたけど、愛美はボクを避けてない? ボクを避けていると、これからもこんな怪しい事件に巻き込まれるかもよ」

 暁は今度も愛美の問いかけに答えずに、気になる事を言った。これからも怪しい事件に巻き込まれる? さっきのようなバケモノが、また現れると言うの? あなた、何か知っているの? 愛美が心の中の疑問を口にする前に、暁は立ち去ってしまった。

(なんだか気味が悪い。暁がここに居たのは、偶然かしら。暁とは幼馴染みだけど、なぜか暁の家の場所を私は知らないし、周りの人に聞いても知らなかったし、暁はこの近くに住んでいるのかしら。もし近所でもないのに、こんな夜に私の家の近くをうろついていたのなら、わざとかもしれない)

 愛美と暁は、物心ついたときからの幼馴染みだった。友達のいなかった愛美にとって、暁は貴重な友達となってくれた。だから暁には感謝している。だけど暁は、中学生なったぐらいから、急に愛美を熱っぽい目で見てくるようになった。そして気づいたら愛美の背後に立っている事も多くなった。思春期になった愛美にとって暁は、病弱で頼りにならない男子という位置づけになり、物足りない相手となった。とても私を守ってくれる存在ではない、と。

 だからだんだん、暁を遠ざけるようになった。ただの友達ならいいのだけど、もし私に友達以上の感情を持っているのならと思うと、少し鬱陶しい相手になってしまったのだ。

暁が愛美と同じ高校に入学したのも、愛美が受験する高校を調べて、わざと同じ高校に入学して来たのだと思う。なぜなら暁は、愛美より遥かに成績が優秀だから、もっと上の高校を狙えたはずだからだ。

それなのに愛美を追いかけて、わざわざ高校のレベルを下げる。そういう行動をとられると、ますます暁が鬱陶しくなった。今では暁が学校で話しかけてきても、ほとんど無視している。

 愛美はゆっくりと地面から立ち上がった。さっきのはなんだったんだろう。明らかに、この世のものではないバケモノだった。

(そうだ、マリアさんに質問してみよう。マリアさんなら、何か知っているはずだ。マリアさんがくれたペンダントのお陰で助かったのだから、これからはもっとマリアさんを頼りにしよう)

 愛美はパンツのポケットからハンカチを取り出すと、そっと顔を拭った。急に暁が出現した事に気を取られ、バケモノの血を顔にかけられた事を忘れていたからだ。ハンカチには血は付かなかった。顔にも血が付いている感触は無い。

(もしかして幻覚? いや、バケモノが握った手は、まだ冷たいわ。それに幻覚だったら、暁にも見えてないはず。暁は、確実にバケモノを見たはずだわ。そうじゃないと、私にあんなことを言ってくるはずはない)

 愛美はよろよろと家に向かって歩き始めた。空には下弦の月がかかっている。先ほどの怪異を忘れさせてくれるかのような優しい夜風が吹いた。あれがただの幻覚だったら、どんなに心が楽だろう。愛美はそう考えながら、家の前に到着した。

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