第4部:その終焉は、命の終わりか、それとも総ての終着か

     最終章:禪(ゼン)・浮沈


【最後のその一瞬が始まるまで、ゆずり預かる運命の流れは、只々不安定のままに】



        1



運命の日。 夕方、昨年末の冬至から比べると、冬の日暮れが少し伸びた。


だが、まだ午後6時を前にして、もう辺りは暗い。 黒い煙の様な曇り空は、何か舞台でも用意するかの様に。 この緊張感が満ちた日に、更なる恐怖を引き立てるセットが出来上がった様で在る。


目を覚ました木葉刑事は、ベッドの上で身体を起こした。


(嗚呼、掻い摘んで、随分と寝たな)


余計な雑念を捨て、全ての目的を一点の事にと念頭に置いた木葉刑事は、もはや雑念が消え掛かっていた。 スマホを丸いテーブルで充電していたが。 それを手繰り寄せてディスプレイを光らせれば、100件近い通話やメールの着信が。


(一課長・・班長か。 それと、越智水先生に、順子さん)


着信をざっくりと確かめていると、其処には詩織からのメールが在る。



‐ 木葉さん。


さっき、お父さんからメールが来ました。


今日、母の仇を討つと…。


私、そんな事はどうでもいいっ!!


お父さんを、止めて下さい。



      お願い  詩織‐



そのメールに、木葉刑事は短く返した。


‐ 解ってるよ ‐


その一言に、全てを集約した木葉刑事。


その時、木葉刑事と古川を捜す捜査の手は、日昼に渋谷から新宿を終えて。 朝に、2人の目撃情報が有ったと云う豊島区や、中央区に移っていた。


実は、古川が夕方に、中央区で見掛けられた為。 木葉刑事も彼の後を追っていると、どちらかを捕まえ様としていた。


然し、その捜索する人員は、想像以上に少ない。 一人は、勝手に捜している三住刑事。 他の数人は、捜査一課所属の一班が、一課長の命令を受けただけ。


一方、渋谷署の刑事課は、昨夜に殺された若者の身柄を洗い出した。


麻薬の売人で、他の闇組織とは繋がって無い。 また、個人的に売人グループを作ろうとしていた、とても危険な人物だった。


然も、その関係者は、近年に新しく国として成ったばかりの国、3・4ヶ国の外国人家族を巻き込み。 麻薬の隠し場所は大使の息子の元で、治外法権の中だから絶対に見つからないと。 飲みに行った高級店にて、女性の接客スタッフに漏らしていた。


また、良く出没すると云う場所の防犯カメラの映像も取り寄せれば、麻薬らしきものを売る様子まで確認する事が出来た。


“これは、令状が取れるっ!! こっから突っ込めば、古川刑事の奥さんの仇討ちが出来るぞっ”


別の所轄の事件だが。 この首無し殺人事件を切っ掛けにして、古川の奥さんの事件に切り込めると踏んだ刑事達。


大使の息子まで、違法薬物の繋がりが証明出来れば、確実に本人の逮捕状も取れると踏んだ刑事達。 水面下で、両刑事課の課長が連絡を取り合い、情報共有をする事と成っていた。


この話の一端は昼過ぎに、或る刑事から古川刑事へ、こっそり流れていた。 その情報は、先程に描いた場面にて、大使にぶつけられる事に成った訳だが…。


身を起した木葉刑事は、用意していたサングラスを掛けて、廊下に出ると。 其処には、茉莉隊員が部屋の前で腕組みして、待ち構える様に立っていた。


前を素通りした木葉刑事に、腕組みを解く茉莉隊員が。


「もう夜の7時前だ。 これから、どうする?」


だが、狭い階段を下りる木葉刑事は、


「佐貫さんに、習った通りにします。 食い納め・・、何がいいかな」


と、降りて行く。


木葉刑事と佐貫刑事がコンビで動いていた時から、茉莉隊員は尾行と盗聴をしていた。


(まさか、渋谷で寿司や鰻? 下手に構えのイイ店へ入ったら、赤坂の時の倍は取られわよ)


と、思う。


然し、仕方無いので後を着いて行く事にした。


一方、同時刻。


病院を出た越智水医師は、人手不足の所為で夜勤番の応援に回った順子を置いて。 さっさと大学病院を出て行った。


越智水医師が電車に乗る頃は、既に7時前。 場所は、ある程度知っていたが。 連絡先も知らない寡黙神主の元に、そのまま急行していた。


既に、都会の影へ埋没した神社。 ネットで検索しても、紹介が少なく。 電話番号の書かれた貼り紙が悪戯か、スプレーで塗り潰されていた。


さいたま市の南側から、新宿へ移動してまた電車で1時間程。 上手く乗り繋げなければ、9時近く成るだろうか。


(木葉君が一人で、あの悪霊と対峙するのは危険極まりない。 私も、付け焼き刃でも対処を聴いて…)


コートにマフラーを首へ回した越智水医師が、ほぼ満員と云う電車に乗った。


然し、立って窓から外を見ていると、胸でバイブレーションが…。


(木葉君かっ?)


慌ててスマホを取り出すと。


(え゛っ?)


ディスプレイには、‘古川’の文字。 以前に木葉刑事と一緒に広縞のマンションを訪ねた時に、通信機能で交換したメールアドレス。 彼が入院していた際も、2・3度はメールで意見を交わしたが。 それ以来と成ろうか、古川刑事からメールの着信が有った。


(古川さんっ、娘さんを置いて何処に?)


慌ててメールを見ると…。



‐ 先生どうも、古川です。


先生、先日は娘の所に来て頂いて、とても有り難う御座います。


また、妻に線香を上げて頂き。 更には、色々と木葉共々に娘への相談に乗って頂いたとか。


実は、心残りとして唯ひとつは、娘を一人で残すのが偲び無いのです。


ですが、妻を轢き逃げした犯人の事を聴いた夜に、憎しみや怨みから犯人を殺してくれと願い。 あの悪霊を呼び寄せた時から、一緒に居て娘へ悪影響を与えたらと怯え。 仕事を理由にして帰らず、義理の父親の元へ預けて突け離したのです。


その事を心苦しく想いながらも、仇を取れる事が嬉しく。


毎夜、悪霊が犯人の元へ向かって行くのが、楽しみで楽しみで仕方なかった…。 ‐



其処までの内容を見た越智水医師は、


(嗚呼・・嗚呼…。 木葉君のっ、予想通りだったか! だがっ、古川さん・・アナタの気持ちは痛いほど解る。 然しっ、あんないいお嬢さんを、一人にする気ですか!!!)


何処かに、その怨みの連鎖を断ち切る場が無かったのかと。 最初から事件に関わって居ながらに、悔やみ悔やまれた。 心が軋むほどの虚しさや悲しみが、越智水医師の心に重くのし掛かる。


だが、まだ現在進行形で、事態が進んでいる。


(古川さん)


目をグッと凝らして、続きを読む。



‐ 然し、先生。 不思議なものですね。


最悪の場合にならぬ様にと、木葉に情報を与えられたらと。 毎夜、視える映像を文字にして書くのですが。 恐怖よりも、後悔よりも、妻の元へ逝ける事が幸いの様に。 夜毎、ジワジワと期待が湧き上がって来るんですよ。


さて、先生。 もう、ニュースでもやってますが。 渋谷警察署で昨夜に亡くなった若者は、妻を轢き逃げした車に同乗していた奴らしいです。


然し、若者を殺害した悪霊は、


“まだ、あと一人居る”


と、言いました。


今、内心では仇を取れる事が嬉しくも在りながら。 一方、願うだけで、委託殺人が自分の命と引き換えで成立する事に。 非常に強い、恐怖を感じてます。


今夜、木葉に何とかして貰おうと思ってますが。


先生、貴方に頼みたいのは、偶に娘の顔を見てやって下さい。


私は、警察官として有るまじき行為をしてしまいました。 その責めを取り、今夜で終わりますが。 先生、木葉と娘を頼みます。


      古川より ‐



メールを読み終わり。 愕然とした越智水医師は、無力な自分を思い知る。


(何て・・、何て事だっ)


今夜、もう一人、誰かが悪霊に殺されるらしい。 その日に、古川刑事がこんなメールを送って来ると云う事は、彼もその現場の間近に居て。 悪霊に殺され様としていると、越智水医師でも解る。


それを思う越智水医師は、もう思考が回らないままに。 とにかく神社へと行こうとしていた。


然し、電車を乗り換えるべく、乗り場から別の乗り場へと歩く途中にて。


(あ゛っ、木葉君に連絡して…)


と、思うのだが。


また、直ぐに。


(いやいや、古川さんを捕まえても…)


然し、また。


(いや、現場から引き離すだけでも、古川さんの死は遅らせる事が出来るだろうっ)


慌てて、帰宅する人の流れの中で止まり。 電話を掛けてみるのだが、電話が通じない。


(くっ、電源を落としているのか。 GPSで、居場所を知られたく無いのかな)


困った越智水医師は、仕方無く地下鉄に乗り換えた。


さて、その頃。


所は、変わり。 警視庁の或る会議室にて。


パイプ椅子に座る刑事部長こと、今回は特別に捜査本部を預かる本部長が。 長テーブルを挟んで、やって来た鵲参事官と面会していた。


「刑事部長、呼んだと聴いたよ」


誰も中に入れず、入り口のドアに見張りの特殊警護部が立つ。


刑事部長は、鵲参事官を相手に。


「鵲参事官。 私達は、事件を解決する為に奔走している。 なのに、貴方は捜査情報を隠し。 然も、現場の刑事を暴走させているっ!! 一体、何の権限が在ってっ、その様な事をするんですかっ」


普段の様子とは一変し、珍しく怒鳴る刑事部長だが。


鵲参事官は、さして驚く事も無く。


「理解の出来ない事をして居る・・と?」


「そうですっ!!」


「ならば・・、こう言おうか」


“私は、官房長官の依頼で参事官に就任し。 只今は、長官付きと成った。 在る特定の事件にのみ、首を突っ込んで捜査を仕切る。 今回は、その特定の事件に当たり。 唯一、使える人材を遣っている”


と、ざっくりした説明をする。


すると、鵲参事官を見詰める刑事部長は、ザワザワと背中に走るムズ痒さに顔を顰める。


「随分と、分かり難い説明ですな。 その特定の事件は、一体どんな事件ですかっ?」


更に怒る刑事部長に、鵲参事官が。


「どうして、それが知りたいのかね。 元々、余りにも破滅的な情報の為に、歴代の警察庁長官・官房長官が恐ろしいと、闇に封印したデータだ。 高々、警視庁の刑事部長が知って、どう対処するのかね」


そう聴いた刑事部長は、眼をギョロリと見開き。


「鵲参事官っ、それは・・まさかっ!!」


「さて、ね。 だが、貴方も、木葉の叔父で在る恭二の事は、十分に知っている筈。 その最後も、確か知っている筈では?」


其処まで聴いた刑事部長は、椅子を突き飛ばすほどに強く立ち上がる。


「そんなっ!! まさ、ままっ、まさかっ、木葉刑事を犠牲に、幕引きを…」


驚愕と云う顔をした刑事部長だが。


相手を見る鵲参事官は、異常なまでに涼しげで。


「刑事部長。 彼が望まないのに、そんな真似はさせないさ。 だが、叔父さん同様の才が在る彼は、同じ轍を踏みたいらしい」


そう説明した鵲参事官だが。


「嘘だっ!! 木葉刑事が死にたいだのっ、想う訳が無いっ!」


強い語尾で、言い切った刑事部長。


然し、下らない話だと呆れた顔の鵲参事官で。


「‘死にたい’、のでは無いよ。 奴は、‘救いたい’、のだ。 そして、今日まで続くこの事件を、自分で食い止めたいのだよ。 既に亡くなった被害者にさえ、木葉は酷く同情している。 木葉とは、そうゆう人間だ」


ゆっくり指摘され、言葉が返せなくなった刑事部長。


だが、鵲参事官は、


「刑事部長。 貴方が、本件の捜査員を遣って、木葉刑事を捜させるのは自由だ。 私も、妨害されない限り、妨害はしない」


と、述べる。


然し、朧気ながら経緯を推察する事が出来たのか。 ぼんやりし始めた刑事部長の眼。


「鵲参事官・・木葉は、一体・何を・・・出来たんですか?」


すると、鵲参事官が初めて眉を顰め。


「恭二も、木葉も、何が視えていたのか。 それを科学的に証明する事が出来たなら。 我々は、恭二も、木葉も、失わずに済んだ。 然し、その能力や視えていた物を、我々と云う一般人が見えない以上は、全て闇に伏すしかない」


刑事部長は力無く座ろうとして、椅子が無く腰砕けとなり。 その場にドサッと、倒れる様に崩れ落ちた。


床に、片膝を立て座る形と成った刑事部長へ、鵲参事官が。


「刑事部長、大丈夫ですか?」


と、問うと。


普段は、堂々たる存在感が在る彼の表情が、只の年配男性のぼんやりしたものに成ったまま。


「参事官・・、さ・佐貫も・・・まさか」


「あ。 思い出せば、刑事部長は所轄時代の彼とは、昵懇でしたな。 付き合っていた娼婦を交通事故で亡くした彼に、陰ながら助力をしていた」


座ったままに、鵲参事官を見る刑事部長が。


「さ・佐貫は、木葉と関わって亡くなったのか? だから、バラバラに? 木葉の叔父と同じく…」


「勘違いはしないで頂きたい。 私は、木葉が為す事を見届けて、無駄死にしそうなら止めろと言った。 だが、・・佐貫は木葉と関わって、叔父の恭二に持っていた蟠りを消した」


その話は、刑事部長には解らないものでは無かった。


木葉刑事と、叔父の恭二。 血縁が在りながら、似ている様でまた違う。


然し、亡くなった恭二を軸に、もし記憶を交換したならば…。


刑事部長の想像が、朧気に細部へと及ぶ中。


時計を見る鵲参事官は、


「木葉を知った所為か。 殺人を犯す幽霊を知った所為か・・。 この事件を止める事が出来るのは、木葉以外には居ない・・と佐貫は見込んだらしい。 だから、木葉の自殺行為に付き合い。 尚且つ、アイツに後を託して・・身代わった。 今の木葉は、佐貫の死を背負って、少し焦り過ぎている」


すると、刑事部長が涙を流した。


「あの2人は、素晴らしい刑事だった…」


と、鵲参事官を見上げたままに。


「鵲・・参事官。 これからも、貴方の出向く事件では、誰か彼かと刑事が玉砕の相討ちと・・なるのですか?」


実に、耳に痛くなる問い掛けで、流石に俯いた鵲参事官。


「・・さぁ。 もし、木葉が生きて、事件を解決する方法さえ見つけたならば。 強いる犠牲は、格段に減らせるでしょうな…」


全く、可能性の無い物言いで。 聞いた刑事部長はその場にひれ伏した。


“刑事って云うのは、時々だがな。 理解不能な、不思議な事に出会す時がある。 そんな時は、闇だけには近付くな。 見えない闇に潜むその見えない奴は、何でか知らないが。 人間を嫌うんだ”


まだ、昭和の中頃。 刑事部長が、青臭い若い刑事だった時に。 やっぱり、後に理解不能な形で亡くなった先輩刑事に教えられた事。


理解不能な事件に挑む木葉刑事に、鵲参事官は全てを託す。


(木葉、頼むから独りぼっちで死ぬなよ。 お前がしようとした事すら、後に続く者の道に成る。 その取っ掛かりを残したんだ。 散る前に、もっと情報を寄越せっ)


今の犠牲を強いる遣り方が、他に無いから正攻法と成ったのだ。 他に方法が在るならば、鵲参事官とて犠牲の少ない方法を選ぶ。 もし、木葉刑事の行う遣り方が、犠牲を減らせる可能性を持つならば…。


鵲参事官が欲するのは、


“一、この連続殺人事件の集結。”


“二、今までの玉砕的な対処では無い対処方法が在るならば。 その対処方法の情報収集。”


と、この二つだった。


そして、時はまた少し過ぎ。 夜の8時を回った。


古川刑事の奥さんを轢き逃げした犯人は、或る国の大使の息子。


その大使館の地下室には、特殊な地下室となる大部屋が在る。 完全防音で、センサーの類も無効にするらしいのだが。 今は、豪華な部屋と成っている。


その中心辺りには、トリプルサイズと言って良いぐらいの大きさの寝具が在り。 其処には、耳や鼻にピアスを開けた若者が、大画面でゲームをして遊んでいた。


金髪をロン毛にして、目つきも鋭く、顔も端正な若者。 だが、そのやる気の無いヘラヘラした笑みは、薬漬けの若者らしく。 何処か、正気を喪失していそうな、フラフラした有り様だ。


「オラオラ~、ゾンビ共よ死ねぇぇぇ~」


今や、最高級の4Kテレビ。 その中でも、90インチの大画面でゲームをする若者は、ゾンビと云う人型の敵を蹴散らして遊んでいる。


だが、その部屋の真上。 大使が使う応接間にて。 素晴らしい刺繍の入った、赤いペルシア絨毯の上では。 大使が電話を片手に、電話先の相手へ、必死に説明している。


「義父よ。 既に、事件は切迫しているっ! もし、息子が復讐で殺されれば、我が国と日本の関係が揺らぎますっ!! これが、レジスタンスに知れるならば、日本で爆弾テロを起こし、犯行声明を出すでしょう。 そうすれば、せっかく漕ぎ着けた援助の保障も、立ち消えになる」


電話先では、老いた男の怒鳴り声にて。 其処をどうにかしろと、激しく言って来るのだが…。


「解っています。 ですから、息子が其方へ行く許可だけ下さいっ! 国外に出て終えば、後は自由にして結構だっ! 母親の甘やかす所為で、ゴミに成り下がった子供など必要無いっ!!」


また、電話の向こうでは、大使の男性を詰る老いた男の声がする。


然し、今夜の大使は、普段の言いなりに成っている彼では無かった。


「義父よっ、今はもう妻の意思のどうこうでは済まないっ!」


それでも、大使の奥さんで在る自分の娘を可愛がる為か。 電話先の老人は、大使の裁量でどうにかしろと言って来た。


だが。


「貴方の親バカもっ、この一連の罪だっ! それに義父よ。 子供など、まだ下に何人も居るぞっ! どうしてもアレの代わりが欲しいならっ、もう一人産めばイイ話だっ」


普段とは違って、此方が威圧しても大使が全く折れない事で、電話先の老人も切迫感を感じたのだろうか。 理由を深く知りたいと、大使に聴いてきた。


「いいか、義父よ。 今、一番の問題は、此方の警察でも対応しきれない或る殺人事件が起こり。 その標的に、息子が成った可能性が有る事ですっ! もし、不法な手段で逃がす事に失敗して警察に息子が捕まれば。 息子の過去やこれまでの悪行が知れ渡り、日本での我が国の印象が地に堕ちるっ。 あのバカの所為で、此方が滅ぶのだっ」


大使の話に、電話先の老人が遂に。


“孫を今すぐに殺せっ!”


と、命令して来る。


然し、日本の捜査機関を始め、マスコミにも見張られている今。 殺した後始末は、大使でも難しい。


だから…。


「義父よっ、それが可能ならば、既にやっているっ!! 遺体だろうがっ、生身だろうが関係ないっ! とにかく、あの子の存在がっ、この国から消えればいいっ! それで、こっちはいいんですっ!!!!!」


すると、電話先の老いた男の声が、漸く折れ始めた。


それを聞いた大使は、善は急げと。


「今夜、其方に息子を向かわせます! 一家で行く様相を呈して、息子だけ向かわせますっ!! だから、速い許可をっ」


電話先では、その遣り方を受け入れるとした老いた男の声が、少し時間を欲しいと告げて来た。


「えぇ、えぇ。 解っています。 とにかく、あのバカが、レジスタンスに殺されなければどんな形でもいいですっ。 妻は、絶対に行かせません。 はい、お願いします」


スマホの通話を切った大使は、先程から鳴り響いているドアを開く。


「何だ?」


第一秘書にして、義父の寄越した‘年配’を超えた執事が顔を見せて来て。


「あの、旦那様。 先程から、奥様が向こうで喚き散らしておいでですが…」


然し、遂に必要な話が通ったと、強気を取り戻す大使で。


(もう、俺は言いなりじゃ無いぞぉ!)


と、思いながら。


「今、私が会う」


完全な防音の仕様となる部屋を出た。


すると、中東系ヨーロッパ人で、金髪の妖艶な50歳前後の妻が、慌てて大使の前にやって来た。


“息子の身柄を、何時まで隠せば良いのか。 また、民間人の1人や2人を殺したぐらいで、何を大袈裟に”


と、事件当初から言い張る事を平気で繰り返す。


大使の悩みの種は、この妻の存在だ。 反政府ゲリラを率いる、中東からアフリカに名の知られた権力者の娘にて。 なまじ、本人も紛争地域で育った所為か。 バカ息子と同様に、先進国の文化について行けない、頭の悪い人格形成をしている。


然し、大使はこの妻と一緒に成る事で、己の野望を叶えようとしている。


“良く聞け。 話は決まった。 本国に、先ず息子を1人で返し。 安全な国に、本国からまた行かせるから。 お前は、息子の向かう安全な国に、後から向かいなさい”


と、大使は妻を説得する。


彼には、この妻との間にまだ複数の子供が居る。 役に立たない長男など、居ない方が楽だった。


大使の野望は、次の国連監視下に因る統一選挙で、某暫定政権の初代大統領に成る事。 邪魔な者は、息子でも排除すると決めた。


息子を手元から放したく無い母親。 それは嫌だと喚くが、大使も現状を強気で説明する。 息子を失わずに安全を優先させる為には、一度は外に出国させるしか無いと理解した。 それが出来ない場合は、母親の父親の命令で暗殺も有り得ると説得する。


だが、そんな事が可能なのか。 普通の空港からでは、隠してもバレる恐れが在る。 然し、大使故の奥の手が在った。 それは、大使の特権で出国する手続きをして、息子だけを特別機に乗せて飛ばそうと云う事だ。


セレブリティを気取る妻に、息子のほとぼりが冷めるまでは、揉め事を起こすのは良く無いと説明した大使。


“親が親ならば、子も子だ”


正に、そんな親子の代表が此処に居た。



        2



午後9時前。


(ちっ、竹林だっ)


家にも帰らなかった越智水医師が遂に、‘烏神神社’の参道前に辿り着いた。


常に携帯するLEDライトを点けて、参道に踏み込んで行く越智水医師。


その頭の中は、


“木葉刑事と古川刑事が死ぬ。 何とかしなければっ”


と、それだけだった。


鳥居が短い間隔で連なる事も、その鳥居の左右の足下には、地蔵様が居る事すら目に入らない。 耳に入るのは、左側のブロック塀を越えた先に、コンビニや民家の並びに沿う車道が在るが。 そこをひっきりなしに走る車の走行音と。 揺れ動いてギィギィ・キュッキュッと鳴る竹林の音。


足を進める越智水医師は、急いて急いて急いて…。 それは、あっという間に、参道を抜けて社と販売所の前に来た。


(あ゛っ!! 明かりが見えるっ)


社の中に、弱々しくもぼんやりとした明かりが見える。 社へ走って近寄る越智水医師。


「あのっ、すみませんっ!」


声を出して近付けば、障子戸の向こうで人影が蠢いた。


「どなた様かな?」


自分より老いた感じの声だと、越智水医師は思った。


「寡黙(ことなし)さん。 私は、木葉君の友人で、医師の越智水と言います。 どうか、お話だけでも聞いて頂けませんかっ?」


動いた人影は、内側の障子戸を開き。 廊下を跨いで、外の障子戸を引いた。


「木葉さんから、貴方の事は聞いて居ました。 その、焦る声からしますと、木葉さんは1人で、あの悪霊を鎮める気ですね」


こう言って現れた寡黙神主は、白い衣に青い袴を穿き。 神職としての姿を守っていた。


社の袂に歩み寄った越智水医師は、


「寡黙さん。 木葉君は、今夜に決着を付ける気ですが。 彼1人で、あの強力な悪霊を鎮められましょうか? 彼を、あの様にまで駆り立ててしまったのは。 元を正せば私が、経験を語ったが為です。 どうか、私にも何か手伝える様に、知恵を授けて頂きたい」


切羽詰まって縋る様に、寡黙神主へ願う越智水医師。


既に、佐貫刑事と云う犠牲が出ている。 木葉刑事が、その二の舞と成る事を想像するのは、難しくない事だった。


然し、厳しい顔をしたままの寡黙神主は、


「それは、とても難しい事ですよ」


と、のみ。


「何故ですかっ。 私も、視えるんですよっ?」


すると、寡黙神主は踵を返し。 半面で越智水医師を見て。


「とにかく、中へお上がり下さい。 この場で立ち話は、身体に堪える」


言われた越智水医師の視界の中。 寡黙神主は、社の中へと消えて行く。


時間が差し迫る中で、仕方無く中へ入った越智水医師だった。


さて、社の中に入った越智水医師は、御神体を祀る場を囲う。 外の廊下を側面にまで回り。 拝殿を越えた先の本殿を見て、その形に目を見張った。


「此処は・・・凄い」


傍目から見えた小さな社は、拝殿のみだったらしい。 拝殿裏には、床の間と下り階段が見え。 下り階段の下には、蝋燭の火に照らされし本殿の一部が見えていた。


四角い‘コの字’階段の途中に佇む寡黙神主が、越智水医師を見上げて。


「さ、此方の本殿へ」


と、更に下へ向かって行く。


立派な木の手摺りに手を掛け、下に降りて行く越智水医師は見た。 朱色と漆黒の二体の鳥が、一体は南、一体は東に向いて、黒光りする床を前に鎮座する。


「寡黙さん。 この神社は・・このっ鳥が、御神体なのですか?」


階段を降りて、北側に御神体を見た越智水医師だが。 二体の御神体を眺めると、霊厳なる威圧感を感じる。


身の丈3メートルは、軽く超えると思われた御神体。 その前に立つ寡黙神主が手を出しては。


「この右側、東の方角を向くのは、‘八咫烏’様で御座います。 赤い眼に黒い身体ながら、過去に天皇様を助けて道案内をされた、三本足の烏神様です」


その底無しに黒い漆の色に染められた霊鳥の神を、見上げて頷く越智水医師。


すると寡黙神主は、その次に、隣に見える南向きの朱い鳥の御神体に、逆の手を差し伸べ。


「此方は、‘四聖獣’とも、‘四方神獣’とも云われた、‘朱雀’様で御座います」


その朱く美しい色合いに、越智水医師は燃え盛る紅蓮の炎を想像した。


〔焔の鳳〕(ほのおのおおとり)、〔不死鳥〕と名を持つ、伝説に語られる神々しさすら窺わせる姿で在る。


「素晴らしい・・。 然も、かなり古そうな像ですね」


越智水医師の素直な感想に。


「如何にも」


と、応えた寡黙神主。


そして、その御神体の両脇となる間に控えて、寡黙神主が座ると。


「この2つの御神体は、数えるも難しい程に古き頃。 片や京、片や九州に在ったものらしいです。 然し、戦国の戦乱の世に盗まれ、明治を過ぎた辺りで発見され。 歴史の波に埋もれてしまった為、この二体は表に出さず。 拝殿に、小さい御神体の模造を飾るのです」


さて、その寡黙神主の前に膝を折る越智水医師。


「寡黙さん。 どうして、私では、木葉君の助けに成らないのですか?」


神妙な面持ちを崩さずに、寡黙神主は、越智水医師を見返すと。


「越智水さん。 あの悪霊と成り変わった女性ですが。 まだ、その体内の何処かに、微かだけ。 本当に微かでしょうが、人の時の記憶が宿っている、と思われますよ」


「は?」


「木葉さんと、昨年末に亡くなった刑事さんが、悪霊と変わった彼女に触れた時。 その体内で嘆く魂達の奥底で、‘助けて’と叫ぶ女性の声を聴いたと」


初めて聞く話だ。 越智水医師は、眉間にシワを寄せる程に目を凝らし。


「あの悪霊の中には、怨み以外の思念が・・在るのですか?」


目で、‘そうだ’と云う寡黙神主。


「然も、その彼女の感情は、木葉さんの心と、どうやら繋がって居るらしいのですよ」


「そっ、それは…」


「貴方がご理解頂けないのも、無理は在りませんよ。 私も、彼からその話を聴くまで、それは想像もしませんでしたから…」


「寡黙さん。 ですがっ、・・本当に?」


「恐らく・・、ですが。 強い霊視能力を持つ彼が、後から触れた刑事さんより先に、本来ならばバラバラにされて然るべき。 能力が強い分、瘴気を受け止める幅も広い」


「あ・・、そうゆう意味ですか」


「左様。 ですが、実際に亡くなられたのは、後から触れた刑事さんで在り。 木葉さんは、何故か生き延びた。 強い同情と鎮魂の念を持つ木葉さんに、彼女の微かに残る心が反応し。 怨念の力が彼に及ぶ影響を、‘手加減’するかの如く、弱めていたと想えるのです」


寡黙神主の説明に、越智水医師は納得が行く。


「この一件に関する彼は、まるで自己犠牲も厭わず。 また、広縞に殺された彼女へ、強くも優しい悲哀の念を持って居ました。 確かに、私は信じますよ」


すると、寡黙神主が。


「ですから、我々では触れたら最後。 もう、とてつもなく強い怨みの思念の力に、木葉さんの様な怪我では済まない」


「で、ですが。 何かっ」


膝を近付ける越智水医師に、寡黙神主は首を左右に動かし。


「彼には、素人でも出来る、或る秘術を授けて在ります。 また、古来より受け継がれた、神職の血筋を引く彼は。 恐らく差し違えても、一定の効果を出すでしょう。 その後、私が悪霊を捜し出し、此処で鎮魂を試みます」


「そんな…」


「いや、越智水さん。 これは、適材適所で在り。 また、彼が望んだ事です」


こう説明された越智水医師は、疑問に思う。 どうして、木葉刑事は其処までして、悪霊と成った彼女を助けたがるのか。


「解らない・・、嗚呼っ! 私には、木葉君のあの慈悲が、何処から来るのか・・・解らない」


処が、だ。 徐に、御神体を見上げて、寡黙神主が口を開く。


「それはね、越智水さん。 彼の背後に居る母親の存在が、彼にそうさせるのだと思いますよ」


顔を上げ、寡黙神主を見る越智水医師。


「‘母親’・・ですか?」


「えぇ。 刑事に成った彼は、自分から母親を捜したそうでしてね。 結論から云うと、彼の母親は或る男性と、無理心中をしたのですよ」


「木葉君の母親は、・・ふ・不倫相手と、心中を?」


だが、その意見を否定する寡黙神主。


「いや、いやいや。 そうでは在りませんよ。 彼が、母親の事を周りに語らなかったのは、母親たる人物が人殺しだからです」


驚くべき事実に、越智水医師は目を限界まで見開き。


「まさかっ! そ・・そんな事が有る訳だ、な・無いっ!!」


感情の昂りから声が上ずり、思わず大声を上げてしまった越智水医師。


だが、自分の近くまで来て、驚きから震える様に、顔を左右に動かす越智水医師に。 寡黙神主は、数少ない理解者のこの人物だから・・・と。


「木葉さんの母親と云う方は、どうやら岐阜か長野方面にて。 神職に携わる家柄に生まれた女性らしいのですよ。 古い家にして、由緒有る銅像や彫刻を保有していたのですが。 悪い心を持った人間に、それらを狙われたらしいのです。 或る夜に、その文化遺産とも云える物品を狙って、強盗が押し入って来た様です…」


「なっ! なんとっ」


酷い話だと想う寡黙神主だが。 守護霊として宿る記憶から見たその光景は、慈悲も加護も無い惨状で。


「木葉さんの母親は、その時に強盗に捕まって、数人の男からから寄って集られ…」


「嗚呼・・、嗚呼! そんなっ、そんな事がっ!!」


聴くだけで酷い事と悔しく、俯いた越智水医師。 普段からの木葉刑事には、女性に対する不思議な潔癖性が見えたが。 その意味が、漸くに解り始めて来た。


さて、御神体から目を離し、寡黙神主は宙を見ると。


「父親や母親の、惨殺されし遺体が転がり。 夥しい血が流れ、その臭いが家に立ち込める中に於いての、その最中です。 欲望の手込めにされながらに、犯人が離した刃物を取り。 彼女は、強盗の一人の首を刺しては殺めて、その隙に逃げ出した」


自身も2人の娘を持つ為か、そんな現状を想像して涙を流す越智水医師は、


「それは・・、せい・正当防衛では?」


ゆっくり、一つ頷いた寡黙神主。


「そうですな。 然し・・。 逃げ出した彼女は、東京に流れ着き。 其処で、数年に渡って身分を偽り。 水商売や風俗業で、隠れて生きていた」


越智水医師には、それが哀れ過ぎると黙るしか無い。


「だが、犯人からすると彼女は、唯一の生き証人でも在る。 犯人の一人は、彼女を捜して遂に、東京までやって来た…」


「それはまるで、加害者側の逃走者の様だ…」


「越智水さん、左様ですよ。 そして、その存在を知った彼女が逃げた先が、東北で在り。 其処で、木葉さんのお父さんに出逢う」


「では、身を隠した先で、木葉君が生まれた…」


「左様。 ですが、その安らぎも、束の間。 三年ほどして、其処にも犯人の手が伸びた様です」


まるで救いの無い話に、越智水医師は愕然とする。


「木葉さんの母親は、夫と木葉さんを守ろうとした様で。 遂に、その追ってきた犯人を誘う様に、実家の在る中部地方の地元に戻り。 追い掛けて来た犯人と、無理心中を図った」


「ひ・酷い・・、そんなっ、酷過ぎる!」


絶望に打ち拉がれた越智水医師。


だが、話は其処で終わらない。


「だが、越智水さん。 その、亡くなったお母さんの思念を見つけ出したのは、どうやら彼の叔父さんの様でして。 その情報を元にして、地元の警察が事件を解決した様です」


「なるほど・・、彼が叔父さんを追うのは、その過去から…。 そうか・・、そんな事が…」


「彼も、刑事に成るまでは、その事実を知らなかった様ですが。 死んだ事を知らずに、叔父さんを尋ねて来た地方の刑事さんから、その事実を知った様です。 そっと、打ち捨てられた母親の実家で、古い髪の毛などを採取し。 民間の科学捜査研究所を頼ってDNA鑑定を使って、事実確認をしたみたいですな」


涙が止まらない越智水医師は、二体の御神体を見上げて。


「嗚呼、神様・・どうか、どうか彼を御守り下さいっ。 彼には、その存在を必要とする人が居ます! どうか、どうかっ…」


拝み、ひれ伏した越智水医師。


その姿を見る寡黙神主は、何とも労しいと思う。


(何と、皮肉だ。 成長して、漸く貶められた母親の真実と愛情を知り。 その所為か、無条件で自己犠牲をしてでも、哀れな霊魂を助けたいと想う。 彼の様な者ほど、生きていて欲しいと願われるのに…)


だが、覚悟を持った木葉刑事の落ち着きは、既に神職の者すら超えている。 寡黙神主は、それを知り得て彼に託したのだ。


(八咫の烏様。 あの者の成す道に、どうか一条の光を御差し伸べ下さい。 朱雀様。 あの者の成す行為に、浄化の炎の助けを御与え下さい。 そして、哀れな怨みの力に支配されし御霊に、救いの静寂を御与え下さりませ…)


祈り始めた寡黙神主は、木葉刑事が見事に念願を成就する事が出来る様に。 2つの御神体に、祈りを捧げるのだった…。


さて、事態を憂う越智水医師が、木葉刑事の過去を知り。 彼に持った不思議な印象の答えを、寡黙神主を通じて知り始めた。


無論、木葉刑事の性格を構成すると云う要因は、母親の真実のみでは無いが…。


今、悪霊を軸にして動く、2人の男性が居て。 それを取り巻く周り者の時間は、


“待ってくれっ、もう少し猶予をっ”


と、云いたいほどに早く流れる。


越智水医師もそうだろうし。 捜し回る刑事達も、そうだろう。


処が…。


その渦中に居て、互いに意識する2人の刑事と元刑事は、寧ろ緩慢とした時間を過ごしている。


さて、先に目を向けるのは、古川刑事からだ。


既に、前日で妻の和世へ手を合わせ、別れを告げた古川刑事だから。 悪霊に襲われる時に、娘にだけは会わない様にと考えてか。 大使と会った後は、渋谷区へ行かない様に、ホテルに態と泊まった。


品川駅から程近い、ちょっと割高な高級ホテルにて。 8階のシングルルームに入って、夜までのんびり過ごした古川刑事。


旅立つ前に妻、和世との思い出を振り返れば、時間などあっという間に過ぎて行く。


また、不思議な縁か。 妻が好きだったからと、木葉刑事と同じく。 最後の晩餐を、ホテル内の寿司屋で済ませた。


間接照明の効いた自室に戻り。 シャワーを浴びて、下着を改める彼。


部屋代と冷蔵庫から取り出した酒代を含めて、テーブルの上に置き。 真っ暗闇の空と電気の光が絶えない品川駅周辺を、窓からぼんやりと見る古川刑事は、漸く娘の事を想う。


(詩織、ゴメンな。 お父さんは、母さんを失っては生きて行けないんだ。 俺に全く似ないお前で、時々に浮気を囁かれたがな。 どんな形で在れ、俺を一途に選んでくれた母さんの仇を取らなきゃ…)


今日、何度目か解らないが。 また、感極まって、目頭が熱く成る。


さて、夜の11時を過ぎた頃。


追跡をされない様に、越智水医師へのメールを送信する以外は電源を入れなかったスマホだったが。


(さて、俺の死に水を取る馬鹿に、メールでもくれてやるか)


木葉刑事へ、全ての経緯を書いたメールを送る。 全ては下書きがしてあり。 それをメールに添付して送るだけだ。


(これで、託せたな)


そして、また電源を切って、スーツの上着の内ポケットに入れ。 コートを羽織り、外へ出て行く。


渋谷へ向かう為に、品川駅へゆっくりと向かう歩みの中で。


(そう云えば…)


古川刑事はふと、木葉刑事と初めて組んだ、或る一時を思い返した。


それは、古川刑事の所属する警察署の管轄内にて、一家3人が殺された事件だ。


発生当初、貴金属から財布まで盗られている処から、強盗目的で押し入った犯人と目された。


だが、1課に配属された木葉刑事と組む古川刑事は、不思議な者を見た気がした事を思い出した。 若い彼が思い込みをせず、捜査本部の指示を鵜呑みにする事も無く。 また、関係者、友人、近所の人と、具に聞き込みをして足を使い。 無駄の様な捜査を、決して愚痴る事も無かった。


然し、この捜査は、不思議と暗礁に乗り上げそうになった。 強盗に押し入られた形跡が、全く無かったのだ。 内部から誰かがドアを開き、丸で貴金属や金を有る所を知っていて取った様な感じなのだった。 また、不思議な事に、殺された一家の身体から下着が取られていた。 性的な暴行も考えたが、どうもそれが死後に行われると云う不自然さが浮かぶ。


この一件で先ず、木葉刑事が新しい証拠を見つけ出したのは、犯人が玄関から出入りしたと云う事。


玄関から部屋に入った左側には、靴を仕舞う収納棚が在った。 最初の鑑識作業にて、此処に第三者の指紋が在った。


然し、木葉刑事は、古川刑事と所轄の鑑識員の矢沢氏を伴い。 勝手に近いが、もう一度の鑑識作業を頼んだ。


此処で、更に不思議な事に、トイレや風呂や居間の一部。 強盗が触りそうも無い場所から、同じ指紋を探し出した。


此処までは、完全に無駄足の様なものだ。


然し、遂に。 殺された3人の家族の内で、母親以外の2人の娘には親しく付き合っていた彼氏の他に、過去にストーキングしていた教師の存在を知る。


また、教師の足取り捜査をする過程で、防犯カメラの映像からこれまた不思議な事に。 亡くなった娘2人とは従兄妹と云う、アルバイト生活をする人物が。 そのストーキングをしていたと云う教師と、ネットカフェで落ち合う様子を確認した。


この事実まで辿り着くのに、一週間を要したが。


捜査本部主導で双方に事情聴取をすると。 従兄妹の若者には、明らかな挙動不審が見えた。 質問にオドオドしては、頑なに震えて口を閉ざすのである。


捜査一課長から捜査本部を託された管理官は、ガサ入れは早いと二の足を踏んだが。


彼を事情聴取の為に迎えに行った木葉刑事が、


“窓から覗いて、女性の下着らしきものを見た”


と、古川刑事も吃驚仰天の嘘を言う。


この切っ掛けを従兄妹本人に聴けば。


“嘘だっ! 見える所に隠して無いっ!!”


と、切羽詰まった焦りより怒鳴り散らす。


マジックミラーからそれを聴いた管理官は、篠田班長や係長を交えて古川刑事の所属する刑事課の課長や主任と話し合い。 家宅捜索、通称の‘ガサ入れ’を決めた。


そして、刑事達と鑑識員がこの若者の部屋を捜せば、女性の下着が出るわ出るわ…。 然も、殺害された母娘の穿いていた下着まで…。


この従兄妹が、突き付けられた証拠からアッサリ陥落。 そして、事件は明るみと成る。


娘2人をストーキングしていた教師は、それを相談された弁護士より訴えられる手前で引いた様に見せたが。  その本心では、やり方を変えたのだ。


然も、時々に盗撮目的で、血縁者を理由にして従兄妹のアパートを訪れる若者の存在を知り。 また、この若者が、下着泥棒をする現場を見る事で、或る計画を思い付いた。


従兄妹と成る若者が泊まった夜に、彼の手引きで教師がマンションへと侵入し。 強盗の様に見せ掛けながら母娘のレイプ映像を撮影すると云う、酷い計画で在る。


然し、そんなもので幾ら女性3人だろうと、みんなみんな脅され言いなりに成るなど妄想か、本の中の出来過ぎた話だろうが…。


結局、従兄妹が玄関の鍵を開けて、侵入するまでは上手く行った。 然し、若い娘ともなれば、遅くまで起きる事も在ろうに。 欲望が先走った2人は、杜撰なやり方で脅す予定が、騒がれ黙らせる事に切羽詰まった。


先に、高校生の下の妹を黙らせ様と、暴力を振るった従兄妹が。 感情を昂らせ過ぎて、彼女の頭を床に叩き付け過ぎて殺す。


その後は、その物音に起きた姉が騒ごうとするのを、ナイフを持った教師が脅したが。 変装した教師を姉は鋭く見破った。 そして、此方も黙らせ様とすれど。 黙らない姉の行動に焦った教師が、勢い余って刺殺。


強姦する目的の娘2人を殺害してしまい、計画が破綻したと困った従兄弟と教師の元に。 酔っ払った母親が起きて来て、最後の殺人が行われた。


だが、これで終わりでは無い。 従兄弟の若者は、死んだ従姉妹の身体を触り始め。 また、3人から下着

を剥ぎ取った。 教師が、特定の出来る物を残すなと言った為。 この従兄弟は触るだけに留めたが、死体を弄くり回す彼には。


“本当の気狂いは、アイツだ。 死体をレイプしそうだったからな”


と、後に捕まった教師は呟いた。


被疑者の自白として聞いた古川刑事は、身勝手極まりない酷い事件と怒り狂いそうだったが…。


思い返してみれば、度々に事件の現状へ足を運んだ木葉刑事が、一番の不可解な人物。


然も、その証拠や証言を集めたのは、彼なのに。 話した経過から手柄は、古川刑事のものに成っていた。


木葉刑事の変人ぶりは、捜査本部が立ち上がった頃に聞いた古川刑事だが。


(ひょっとして・・、噂はアイツのカモフラージュか?)


と、察する。


そして、ハッと思い出す。


(そう・・いやぁ…)


木葉刑事は、時折に誰も居ない場所を見ていたり。 誰かに誘われる様に、証拠や証言へと近付く事が在った。


また、その光景の中で1・2度。 乱れた衣服姿の女性を、古川刑事も何となくだが見たと記憶する。


(ちょっと・・まっ、・・・いやいや、そんな筈がっ!)


本当に、光景もぼんやりしていて、‘目撃した’と云う様な感覚では無い。 だが、明らかに、夜の人気も無い通りの電信柱の影で。 話を聴く彼の前には、被害者と似た服装の女性が居た様な…。


背筋に冷や汗を覚える古川刑事は、捜査本部の解散前に、木葉刑事へその事を確かめ様とした。


が。 祝いの一時も早々と去る木葉刑事は、何故かその足で母娘の殺害された現場に。 小さな花の束と線香を供える彼の前に、殺害された3人の女性達を視てしまう古川刑事だった…。


さて、その後。 二度目に組んだ時は、通り魔連続殺人だ。


夜の10時前後に、帰宅する会社員が4人も殺された。 犯行日は、どれも10日ほどの間を空けての事。


捜査一課・篠田班と組むと成り。 古川刑事は、木葉刑事を見て身構えた。


だが、前回の事件解決が、明らかに作用したのだろう。


“古川さん。 悪いが、また若い刑事と組んでくれ”


と、木葉刑事を押し付けられた。


“俺はっ、幽霊なんぞ信じネェ!!”


こう内心に息巻いて、嫌々に組んだ古川刑事だったが…。


現場を見回る過程で、夜の捜査を打診して来た木葉刑事。


“幽霊なんかに頼るな゛っ!!”


と、内心で言った古川刑事。


然し、木葉刑事は、雨の日なのに。


「事件の全ては、深夜間近。 人通りの少ない夜ですが、犯人の行動から考えるならば。 犯行時間に合わせて、聴き込みをさせて下さい」


と、刑事らしい事を云う。


また、この時間帯の聴き込みは、事件発覚時に絞ったもので普通に行われる。 だから、古川刑事も一緒に、捜査本部の管理者となる者へ頼む。


“確かに、それは承知している。 では、聴き込みを二回に分ける”


と、一課長が許可してくれた。


その夜。 聴き込みが空振りする中、木葉刑事は誰かを捜して居る様子。


古川刑事は、前回の事も在るからと…。


“寒いから、珈琲を買って来る”


とか。


“スマンが、妻に連絡を入れる”


と、木葉刑事を1人にした。


すると、また誰も居ない場所で聴き込みをしたり。 明らかにボヤケた死体の様な者と、密かに会って会話をするではないか。


(アイツっ、ヤッパリかっ!)


異常な捜査は、真面目な古川刑事の得意では無い。 また、こんな捜査の手柄を貰っても、嬉しくは無いと思う。


然し、それを木葉刑事に切り出せば。


「事件を解決する。 それは、刑事の仕事で在り。 また、一般人の安心を守る事です。 ですが、古川刑事。 一番に無念なのは、亡くなった被害者です。 亡くなった被害者の無念を晴らす事は、霊魂が成仏する一番の近道。 被害者の無念を晴らすと、我々刑事は良く言いますが。 遺族と被害者の為に、出来うる事をしてはダメですか? ‘手柄’など、我々と云う警察機構が勝手に生んだ功績・点数で。 被害者、遺族、一般人には、全く関係が無いッスよ」


とても客観的な意見を返され、古川刑事の中の無駄な自尊心がヘシ折られた。


この経緯からか、古川刑事が家族に語る木葉刑事の様子が変わり。 また、悪態ながら口にする数が増えて存在が深まった。 その所為か、興味を惹かれた妻の和世の求めも在り、詩織と和世に木葉刑事が出逢う。


すると、古川刑事の予想に反し。 娘と妻は、何故か木葉刑事を気に入るのだ。 寧ろ、恐縮して状況に困っていたのは、木葉刑事の方で在った。


さて、此処で木葉刑事が教えた“茄子の味噌炒め”が、古川刑事の好物と変わる要因が生まれた。


それから次の日。 聴き込みに回る中で木葉刑事は、幽霊から得た情報の中でも、或る部分に気を取られていた。


“硬い音を立てて、走って・・逃げる”


この証言は、殺害された4人の被害者、全てに共通する表現だ。


最初、古川刑事は、


「‘硬い音’なぁ…。 高級な革靴とか、スパイクの金具の音とか…」


こんな予想を立てる。


然し、木葉刑事はしっくり来なかったのか。


「なぁ~んか、ヘンな表現ですよねぇ~」


処が、次の日に。 聴き込みを続ける木葉刑事は。


「古川さん」


「ん」


「今回の犯人は、物取りでも無ければ、偶然に4つの殺人事件が重なった訳でも無いんですよね」


「本庁の管理官や、お前の上司の班長さんがそう言うんだ。 多分、そうなんじゃ~ないか?」


「でも、防犯カメラには、証言や幽霊が言う様な足音をする人影すら…」


「‘防犯カメラ’は、半分は抑止力の為に、これ見よがしに着けてる。 計画的犯罪を犯すならば、防犯カメラの位置ぐらいは、前もって見るだろうよ」


「でも、そうなると…。 殺害された4人に、共通点でも在るンですかね。 男性、会社員風、帰宅が遅く、帰宅時を狙われている」


其処まで聴いた古川刑事は、全く面倒な事件だと。


「家族の為、アクセク働いている中年を狙うなんざ。 犯人も、帰りが遅いとキレる女房みたいだな。 ま、ウチの和世は、その辺の理解が在って助かるが、よ」


すると、木葉刑事は急に考え込んだ。


そして、もう一度、事件の現場四カ所を回り。 それから二日間で、或る事実を発見する。


マンションやアパートと、一戸建ての多い住宅地の一角を中心に、二キロ圏内で発生している。 三方には、二キロ内に地下鉄や都内に乗り入れる駅が近く。 どうやら、その通勤者が狙われている訳だが…。


幽霊は、自分達を刺した相手が、黒いレインコートの様なモノを着ていたと云う。 そして、その刺された4人は、何れも地道な色合いのスーツを着ていて。 ちょっと長身で、眼鏡をして、インテリ風の男性で在り。 頭髪も、ヘアジェルやスプレーを使った処は無く。 普通の良く在りふれたカットのもの。


それなのに狙われてたのは、逆にそうゆう者を狙うと云う事。


そして、殺害現場から防犯カメラを避けて逃げると。 アパートの敷地内やマンションの裏路を抜け、四カ所の全てに行ける事を突き止める。


この事実を教えられた古川刑事は、木葉刑事を伴って捜査本部に戻りこの情報を伝える。


それから、木葉刑事は、


「犯行に使用されたナイフは、刃渡りの長い包丁とか。 男女の区別無く、被疑者について捜査しましょう」


と、意味深な事を云う。


“女が犯人?”


捜査報告に戻って聴いていた刑事達は、そう思う。


篠田班長は、木葉刑事に。


「木葉、思い付きか?」


と、笑ったが。


「はい」


笑って即答する木葉刑事だが…。


その時に担当していた男性の管理官は、


「いや、強ちハズレでもないぞ。 殺害された男性は、何れも抵抗が少なく。 事件現場から見ても、道の角が近い。 もし、出合い頭の当たった相手が女性ならば、中年で家族も居る男性からすると。 真っ先にするのは、謝ったり、道を譲ったり…」


と、分析。


古川刑事も、その後に続いて。


「不意の隙が生まれてますな。 其処を腹部へ一突きされたら、痛みや混乱から不意打ちと同じに成る」


と、続く。


管理官は、存在する可能性は調べようと。


「事件現場の周辺に在るアパートやマンションを回り。 敷地内や建物内を撮影する防犯カメラの映像の入手、及びチェックもしよう」


と、突っ込んだ指示を出す。


この日、夜を早めに帰った古川刑事は、和世が作った茄子の味噌炒めを食べて。


「カレハめ、遣りおるわい。 美味いな、これ」


詩織と2人して分け合う様に、和世の作ったものを平らげた。


次の日。


「古川刑事、木葉刑事、見込みが当たりましたよ。 或るマンションの住人で、怪しい女性が居ます」


と、夜勤明けの刑事から報告を受ける。


その女性は、地味な印象の40代。 さほどに太い印象も無いが、ゴルフやフットサルをやっていた事も在ると言う。


鑑識が、被疑者の留守中に作業を展開してマンションの入り口付近を調べれば、点状の少ない血痕が在る。 マンション前は、アスファルトで人の歩きから、血液反応が有るぐらいとしか解らないが。 マンションの住人が出入りする入り口の絨毯には、しっかりと血痕が残り。 採取された血液は、被害者の一人と一致する。


その一致した被害者は、このマンションの住人では無い事は勿論の事で。 容疑は固まったと、聴き込みを展開するのだ。


さて、その被疑者を確保する為に、木葉刑事と2人して捜査する古川刑事は。 美味い料理を教えて貰ったと、木葉刑事を誉めた。


そんな2人が捕まえたのは、今は運送業の事務に勤める女性だった。 事情聴取にて、もう確保の時より観念していたその女性は、取り調べも淡々と応じた。


彼女の犯行の動機は、漠然とした男性への恨みからで在る。 20代後半から、大阪に本社の在る大手の企業で会社員として勤めていた彼女だが。 最初に半同棲まで至った男性は、単身赴任して来た別の課の年上だった。 妻子が居るのに、単身赴任が終わるまでの淋しさや性欲を満たす愛人にされたらしい。


その男性と捨てられる様に別れた後、それからは。


“妻子の在る男性とは、付き合わない”


と、決めたらしいが…。


彼女のちょっと影が有る印象が、そうさせるのだろうか。 次々と付き合う男性は、自分に嘘を吐いて、恋人と愛人をすり替える人物ばかりだったらしい。


一見すると、地味な見た目と言うか。 サラリーマンの典型的な姿をしながら、恋愛感情と性欲を満たす相手には嘘を並べる。 そんな異性に度々引っ掛かり、絶望する間に会社が東京支部を潰した。


退職金を抱えて、第二の職場を飲食店に求めたが。


其処で、客として通う或る男性から告白されて付き合うが。 その男性も、妻子の在る人物だった。


“結婚して、普通の家庭が築けたらそれで良かったのに…”


会社員の頃の同僚との関係が切れた為か、騙された事を他人へ相談する事が出来なかった彼女は、今の運送業に転職した。


然し、遅い勤務から帰る時。 何時も目にするのは、自分を騙した様な男性ばかり。 沸々と、米粒を積み上げて行く様に不満が、彼女の心を浸食して行ったとか。


事件は、彼女の逮捕を転機に、すんなり解決へと向かった…。


木葉刑事は、また殺害現場に花束を手向けだが。 その寂しそうな顔は、明らかに犯人の女性にも一抹の同情を持ったものだった…。


そして、それから少し経った或る時。 広縞の起こした連続強姦殺人事件が、始まった頃か…。


“ねぇ、アナタ。 詩織が、木葉さんに会いたがってるの。 今、お仕事は忙しいのかしら”


と、和世が言った事が在る。


警視庁の捜査一課の刑事が、事件に関わって居て忙しくない訳が無い。 それを解っていた古川刑事だから。


“木葉なんか呼んで、何をするんだ?”


“いいじゃない。 私達には、詩織しか家族が居ないのよ。 時には、木葉さんみたいなお客様が、私は欲しいわ”


随分と待ち遠しい様に、和世は言った。


珍しい事も在るものだと、古川刑事は。


“何だ。 俺の顔が見飽きたかよ”


他の刑事の事はイマイチ好かない娘と妻が、こんな風に逢いたがるので。 父親として、夫として、家族想いの古川刑事も、珍しくヒネた言い方をすれば。


“あら、アナタを見飽きたなら、私は首を吊って死にますよ”


と、とんでもない返しが来る。


半分不意打ち気味に聞いた所為か、ビールを吹き掛けた古川刑事。


一方、台所に立って居ながらに、酒の肴を作る和世は。


“若い男の子とか、そうじゃなくてね。 何か・・こう、息子が出来たみたいなんだもの。 木葉さんって…”


その意見に、古川刑事は目を細める。 もう1人か2人、子供が欲しかった和世で。 古川刑事も若い頃は、夫として結構頑張った。 然し、蓋を開けて見れば、和世は子宮に先天的に難が在ったらしく。 詩織がまだ小学生だった頃には腫瘍が産まれ、泣く泣く摘出手術を受けていた。


“お前、‘息子’って…”


思わず、困った言い方をした古川刑事だが。


“勘違いしないで、アナタ。 そうじゃなくて、木葉さんって…何処か寂しそうなの”


“ふぅん”


下着姿で居間に居る、‘昭和のオヤジ’みたいな古川刑事だが。 その和世の意見には、何処かすんなり理解が行く。


さて、この時は既に、何度も木葉刑事と組んだ事が有る古川刑事だったが。 互いにちょっとした息抜きと、故郷や親の話をすれども。 彼は、なんとなくはぐらかし。 盆暮れ正月も、実家に帰った試しが無いらしい。


また、これが不思議だったが。 女性の職種に差別視をせずに、人に対しては温かくも。 一方、それでいて。 家族や恋人を見る時には、何処か物悲しさを背負う様な…。 そんな背中を魅せる時が在り。


更には、被害者や遺族に対する気遣いの細やかさは、年齢に似つかわしく無い程の配慮が有ると感じていた。


その事を最も強く感じた時とは、或るこんな事件に関わった時の事だ。


広縞の事件が継続している中だ。 高級マンションの駐車場にて。 有名会社の役員をして居る中年男性が、何者かに刺し殺された。


然し、犯人は監視カメラの場所を知っていて、明らかに回避した形跡が在り。 1課長が篠田班を投入するとして捜査本部が立ち上がっての捜査が始まった。


最初、物取りと視られたが。 財布は盗られたのに、携帯からカードまで、売られたり使われた経過がまるで無い事が解る。 当然、立ち上がった帳場(捜査本部)の会議で、怨恨や痴情の縺れも視野に入れられた。


そして、真っ先に疑われたのは、その男性の後妻で在る年齢の離れた妻だった。 何せ、最初の事情聴取にて得たアリバイは、裏を取ってみると口裏を合わせた嘘と解ったのだ。


この事件当時の担当となる古川刑事は、老練な別の同僚刑事と木葉刑事に加え。 もう1人、警視庁捜査一課に来たての若い刑事を連れて。 後妻の女性に再度、事情聴取を求めに向かった。


向かう車の車内にて、4人で意見交換をする過程で古川刑事は、嘘を吐いた理由を含めてもう一度、裏取をするまでは後妻の彼女を犯人と断定する気は無いと、見解を言った。


だが、古川刑事の同僚は、彼女を最重要容疑者に定めると言った。


不思議だったのは、ヘラヘラしたままに穏やかで在り。 意見をのらくらさせる木葉刑事の存在で。


一方。 一課の刑事に成り立ての血気盛んな若い刑事は、


“浮気をして、邪魔に成った亭主を殺したんですよ。 犯人は後妻で決まりですっ”


と、頭ごなしに言った。


ま、嘘を吐かれたのだから、確かに疑いたくなるのも、古川刑事は理解する事が出来た。


また、後妻の女性と云う人物は、色艶が際立つ女性で在り。 水商売で働いていた経緯も在れば、貢ぐ客をカモにしで密接し過ぎてか、ストーカー行為を受けた事も解っていた。


心象は黒い。 犯行現場の地上となる被害者の住んでいたマンションにて。 昼寝していた彼女を起こして、事情聴取を開始すれば…。


古川刑事や年配の刑事を差し置き開口一番、血気盛んな若い刑事は、完全にこの後妻を犯人と決め付けた物言いにて。 非常に高圧的な物言いや態度を現し、逸脱した憶測をぶつけて事情聴取をする。


その態度に、後妻の彼女も怒り。 これ以上は、弁護士を介さなければ話はしないと言い出した。


古川刑事や木葉刑事や年配の刑事が、非礼を詫びて彼女を説得したのだが。 相手も言われ方が酷かった為、意固地に成ってしまい。 事情聴取そのものが、決裂し掛けた。


流石に、一課の刑事に成り立てなのに、気負って言った彼の態度は非常に悪い。 古川刑事は、捜査一課の刑事を相手ながらに若者を叱りつけ。 同僚の老いた刑事に、喧嘩の火種の元と成るからと若い刑事を車に連れて行かせた。


古川刑事は、それまで終始とほぼ黙っていた木葉刑事と2人。 改めて謝罪をしてから、必要な事だと説得をする共に、事情聴取に応じて貰える様に依頼した。


然し、既に言葉の拳を使って、思いっ切り殴りつけ合ったも同じ。 後妻の女性は、一歩も引く気が無い姿勢と少ない言葉で気持ちを示した。


困った古川刑事に、此処で木葉刑事が小声にて。


(スイマセンが…。 一か八か、自分にも話し合いさせて貰えませんか?)


と、言って来た。


もう、仕方無く諦めて帰る気だったので、それを許可した古川刑事。 一応、下に遣った若い刑事とは、木葉刑事が全く違う性格で在り。 これまでの付き合いの経緯から、木葉刑事を買い始めていたからだろうが…。


そして、後に考えると。 これからの経緯は、恐らくこの女性が本当に無実で。 また、最高潮まで怒り心頭した後だから、とても効果が有ったのだろうと。 思い返す古川刑事は、再考するのだが…。


窓側に向いて、此方を無視していた女性へ。 木葉刑事は、先ずこう言った。


“ご主人が亡くならければ、月が代わった今月は、結婚記念日が控えていたんですね”


その話の突然さは、後妻の人物の心を逆撫でた。


“何を疑うのか!”


と、思ったのか。 窓側から首を巡らせた鋭い目つきの彼女は、木葉刑事に怒鳴ろうとした。


だが、その先手を差す様に。


“お祝いは、ディナーでも為さる予定だったんですか?”


と、木葉刑事は穏やかに言う。


奇妙な話の流れに、彼女はちょっと面食らった様で。 喉まで来た罵詈雑言を吐き出せずに、木葉刑事を見る。


一方の木葉刑事は、出された紅茶を啜ってから。


“ほら、カレンダーには記しが入ってますし。 奥様は、旦那さんが亡くなられた今も、2人分の指輪をしてらっしゃる。 旦那さんの指輪がズレない様に、旦那さんの指輪をした後から、ご自分の指輪を為さってる。 ずっと何日も為さってるから、指の付け根が赤く成ってますね”


変な処に目を付けられた、と彼女は恥ずかしがる様に指を隠した。


事件当夜と相変わらず、濃いめの化粧をする彼女だが。 不意打ちの指摘で指輪を隠した、その仕草を視た古川刑事は。


(これ見よがしに、じゃなくて。 恥ずかしがる様に隠したぞ…)


と、不思議に感じる。


さて、その指摘を受けた彼女は、先程に去った2人の刑事と、木葉刑事は若干違うと感じたのか。


“プロポーズされた葉山のレストランで、一泊する予定だったわ”


その声、その態度には、つい今時分まで怒り心頭していた様子が、含まれていなかった。


さて、その話を聴いた木葉刑事が、こう返す。


“失礼ですが・・、奥さん。 毎夜、泣いてるみたいですね。 外に出て行く時は、派手な姿で噂が出てますが…。 その赤い目や髪の毛の乱れ方からして、眠れないのですか?”


これは、幽霊と成った旦那が木葉刑事に。


“妻が心配で仕方ない”


と、言ったからだ。


然し、言い当てられてしまったのか。 疲れた顔を見せる彼女は、


“あの人とは、親子みたいに歳は離れてたわ。 でも、とても優しい人だったの…。 世間は、私や夫の仲なんか知らないから・・。 陰では、色々と言われてるって・・・解ってたわ”


と、諦めすら見える気持ちを吐いた。


この様子を黙って視ていた古川刑事は、脇目に木葉刑事を見ると。


(完全に、火消ししやがった・・。 コイツ、外見は30でも、中身は50歳ぐらいに見えらぁ・・・。 幽霊が視えるだけじゃなく、中身も生半じゃ無ぇ)


と、また木葉刑事を見直した。


さて、此処からが、木葉刑事の本領発揮で在る。 彼は、徐にする間合いを以てから。


“処で、お2人の間に、御子様は? 彼処に、ランドセルの箱が在る様な…”


こう言って、明らかに一見するとランドセルの入れ物とは解らないソレを指差して聴いて行く。


後妻の女性は、


“あ゛・・あれは…”


と、一旦は口を濁したが。


自分の目の中で、古川刑事が箱を確かめてしまったものだから。


“実は、ウチの人には隠し子が居て。 それも、まだ幼いのよ。 子供が大好きな義姉夫婦がちゃんと籍も入れて引き取っては、育ててるんだけど・・。 その夫婦も、共働きでね。 2人して医療や介護関係の仕事だから、時々は勤務が重なって遅く成るの。 私は、親戚のお姉さんとして、時々に迎えをしてる訳よ”


と、説明して来た。


然し、表面上に一見すると、嫌々やっていると言う感じで、語る彼女だが…。


木葉刑事は、穏やかに頷いて。


“そうなると、まだ園児か・・小学校に上がったばかりなんですね。 生意気になり始めですが、まだ可愛いでしょうね”


一般的な意見の様に言えば、何とも複雑な表情で頷いた彼女。


“隠し子が居る”


それだけでも、古川刑事には大収穫。


然し、子供の話をするのは嫌々だが。 子供の事自体には、何処か女性らしく好いて居る様な様子を見受けられ。


(一体、何がどーなってやがるっ?)


と、困惑した。


処が、此処で。 彼女へ、木葉刑事はズバリ聴く。


“貴女には、その御子様に対する優しさが見えますが。 その、お子さんとは、もしかすると・・貴女の血縁に当たる方の子供では?”


こう問われた瞬間の彼女は、今日一番の明らかなる動揺を見せる。 慌てて否定するその様子は、


“げっ、読みが当たったのか?”


正直、席を立ち上がりそうな程に驚く古川刑事。


また、更なる木葉刑事の指摘に対しては、殻へと閉じ籠もる様に口を噤んだ彼女。


古川刑事は、これだけでも大変な収穫で。 調べる手掛かりと、次の行動方針を決め掛けた。


だが、此処で。 少なく成った紅茶を啜ってから木葉刑事は、彼女に向かってゆっくりと言う。


“処で、ちょっと変わった事を、御訊ねしますね。 奥さん、自分の事を解ります?”


と、自分を指差した木葉刑事。


今度は、とんでもない的外れの質問に展開が変わる。


“は?”


と、彼女は呆れ。


古川刑事も、もう引き上げ様と。 木葉刑事に声を掛け様とする。


処が、微笑む木葉刑事は、完全に意図が解らないと言いたげの彼女に言う。


“当然ですよね。 お互いに、全く見ず知らずの他人同士なんですから”


これは、余りにも当たり前の事で、彼女は返って笑ってしまい。


“変わった刑事さんね。 なぁに、私を口説きたい訳ぇ?”


誘惑じみた流し目を向けて、木葉刑事を見上げる様にして来た。


この時の女性の服装はノーブラなのか、柔らかい胸元がまる見えと成るもの。 対面と座る木葉刑事には、恐らく中々に立派な谷間がバッチリ見えた筈で在る。


その様子を見る古川刑事は、この後がどう成るのか。 それが怖くなり。


(おいおいおいおいっ、お前は何をする気だぁ?)


と、木葉刑事に苛立ち始めた。


だが、木葉刑事は寧ろ更に穏やかに笑って。


“貴女の心には、まだ亡くなられた旦那さんが居ます。 そんな馬鹿な真似は、しませんよ。 それに…”


と、古川刑事を見る木葉刑事で在り。


“此方の古川刑事は、姿に似合わず美人の奥様をお持ちの愛妻家。 そんな真似を自分がしようものなら、ボコボコにされて東京湾に不法投棄されます”


個人的な事を言われ、古川刑事も素の顔が現れた。


誘惑の体が漂った彼女だが、こんな話になれば身を戻し。 厳つい顔の禿げ刑事を見て。


“まぁ、怖い”


と、笑い出す。


此処で、頷いた木葉刑事は、全く話に入れない古川刑事から彼女へと顔を戻し。


“ですが、本当に。 我々と云う刑事も人ですから、其処は貴女と同じなんですよ”


気遣いを受けつつ、真面目な本音の様な話に変わり。 だが、その言っている意味が解らない。 疑われ、先程は激昂した彼女もまた、木葉刑事の話へ引き込まれ。


“言ってる意味が、良く解らないわよ”


聴いた木葉刑事は、にこやかに頷いた。


“我々は、事件が起これば現場にて、先ず被害者を視ます。 そして、被害者のご遺族から、仕事・・友人関係に近所関係まで、様々な人間関係を聴き込む訳ですよ”


と、語るではないか。


だが、ドラマでも観ていれば、それは容易に解る事だ。


“テレビのドラマと、其処は同じね”


“はい。 ドラマを観れば、大凡で解ると思いますが。 我々は、事件にどの人間関係が関わり、何が関わらないのか。 証拠や詳言の裏を取り、一つ一つ必要の無い線を消して行くんですよ”


その説明に、彼女も大変な仕事と感じたのか。


“パソコンで調べて、ハイ終了・・って訳には、行かないわよね”


“えぇ、そうです。 それに、人には社会で生きて行く為に、家と外では態度や様子が違う。 云わば鎧の様な、建前や世間体を纏いますし。 また、その為に秘密を守りたいと、自然に嘘を吐きます”


急に、人間臭い話と成り。 彼女も、俯き加減と成った。


其処へ、淡々とした語り口ながら、何処か諭す様な雰囲気を纏わせて。 木葉刑事は、後妻の彼女に言うのだ。


“我々、刑事が聴いて、調べて、詳言が嘘と解ると。 今度は、どうして嘘を吐く必要が有るのか・・と、疑問を持ちます。 其処へ、不利な詳言や事実が絡めば、相手の事を知りませんから疑いを掛けざる得ないのですよ”


彼の説明を聴く彼女は、古川刑事も不思議に思う程に穏やかな顔をして。


“確かに、そうね。 お仕事だし、‘疑わないで’ってだけ言われても、困るわよね”


ほろ苦く笑って、頷く木葉刑事。


“はい、その通りです。 ま、確かに仕事・・、その通りですがね。 奥さん、我々は貴女の旦那さんを殺した犯人を、本気で捕まえたいと思って行動しているのも、事実です”


こう聴く彼女は、何度も素直に頷いた。


木葉刑事は、紅茶を飲み干して。 其処で、何故か席を立つ。


“貴女も、大人の人間です。 また、女性でも在る。 もしかしたら、隠して居る事それは、他人に仰いたくない恥ずかしい事かも知れません。 また、必要な捜査の為にとは云え、無実を明らかにする為には、嫌な過去をほじくり返されるかも知れません。 ですが、無実の人に容疑を掛けるのは、お互いに疲れてしまい。 悪戯に、貴重な時間を費やしてしまいます。 どうか、話せる決心がつきましたら、事件当時の行動をお聴かせ願えませんか?”


と、頭を下げた。


彼女が、その素直な眼差しで、頭を下げた木葉刑事を見上げると。


“今日は、無礼な事を含めて長居をしたので、お疲れでしょうから。 後日、改めて参ります”


と、木葉刑事は言うではないか。


まだ、30前後の青年刑事の彼を見て、古川刑事は目を凝らし。


(コイツ・・ホント何者だ? そこらのガキとは、心の練れ方がだいぶ違う。 一体、どんな経験を積んで来てるんだ?)


こんな疑問を抱える事と成る。


さて、引き上げる古川刑事と木葉刑事を玄関先まで見送りに来た彼女は。


“お気遣い、ありがとうね。 明日、此方から、其方に出向かせて貰うわ”


と、彼女は言った。


その後、戻った所轄の帳場にて。 事情を聴いた管理官は、他の捜査員を遣って彼女を張り込ませたが。


次の日、彼女は自分から古川刑事の名刺を頼りにしては、警察署に訪れて来た。


この彼女への事情聴取は、彼女から望まれて木葉刑事と古川刑事が担当する。


あの、強引な物言いをした若い刑事は、直談判をして加わろうとしたが。


その所に立ち会った古川刑事は、


“バカ野郎っ! 昨日の今日で、お前に何が出来やがるっ!! 折角、相手が話す気に為ったんだっ。 喚くしか能の無いガキは、裏にスッ込んでろっ!!!!!”


と、大喝した。


事件を担当する管理官や係長は驚いたが。 本件の捜査本部にずっと列席していた警察署の所長、本部を任されていた理事官なる年配男性は、昨日の事を報告として聴いていた為。 若い刑事の談判など片手で払う様に拒否し。 古川刑事と木葉刑事に任せて来た。


さて、彼女の秘める秘密とは、一体どうゆう事なのか・・と。 取り調べ室の隣、マジックミラーの向こうには、捜査関係者が溢れそうな程に詰めたが…。


この警察署に来た後妻と云う女性は、実は義姉夫婦が預かる男の子の姉で在る。 詰まり、殺された被害者と不倫して子供を産んだのは、彼女の母親だったのだ。


この後妻となる女性の母親は、一時の不倫で出来た子供を産んだが。 子供は引き取るが、関係は解消すると云う殺害された被害者に怒った。


一方、男性にだらしない母親に、これまで長年に亘り振り回されていた娘の彼女だが。 自分でお腹を痛めて産んだ子供を、金に成らないなら川に捨てると言った母親と喧嘩し。 赤子を必死に守ろうとした過程で勢い余って、思いっ切り母親を突き飛ばしてしまった。 押し飛ばされた母親は、酔っ払っていた所為か防御行動が取れず。 強かに後頭部を床へ強打、何とそのまま死んでしまったのだ。


母親を殺した事に、娘の彼女は動揺の極みに達した。 そして、生後2ヶ月に満たない赤子を抱えて、彼女は被害者のマンションを訪れた。 赤子を彼へと引き渡し、警察に自首するつもりだったのだ。


然し。 彼女を見た被害者は、その場で結婚して妻に成ってくれと、娘の彼女に申し出た。


この話に、捜査本部の関係者は、絶対に嘘と確信し掛けた。


だが、実際の処。 当時既に、前妻との離婚は何とか決まり掛けているのだが。 被害者は、進行性の悪性腫瘍が在り、その告知を受けたので在る。


被害者は、生前に余命申告を受けると受け取れる保険金と、死後に支払われる保険金を彼女が相続し。 自分の姉夫婦の引き取らせたい我が子を、最後まで見守って欲しいと。 彼女は、そう託されのだ。


彼女の殺した母親の遺体は、表向き夫となる被害者が始末し。 数ヶ月後には、肉体関係の無い夫婦が此処に出来上がった。


この女性は、生まれてこれまでに、側に居る父親は成人するまでに5人居て。 とても良い家庭環境では無かった経緯から。 自分を守る被害者を、実の父親の様に慕っていたとか。


さて、話は事件の当日に移る。


偽りの夫と云う被害者を残しマンションを出た彼女は、自分で殺した母親の墓参りをし。 その後、自分の父親違いの弟を幼稚園に迎えに行ったのだ。


一つの隠蔽された事件が明るみと成り。 捜査は、急展開を見せる。


会社役員だった被害者だが。 被害者の隠していた病気の事を知っていたのは、別れた前妻も同様だった。


“若い後妻の為に、高額な保険金を掛けた”


この事実を前妻も、密かに探偵を使って調べ上げたらしい。


犯人は、前妻とその愛人で。 隠し子が居る事まで知らなかった前妻は、保険金を後妻に相続させた後。 自分の子供に保険金を相続させる為に、後々に後妻の彼女を殺そうと企んでいた事が解る。


さて、真犯人が解った後。 警察の調べで、在る事実が判明した。


母親を殺してしまった、娘の彼女だが。 その現場のアパートは、後片付けだけしたが。 犯行がバレる事を恐れて、ずっと被害者が借りたままにしていた。


これが、在る事実を浮かび上がらせる。


掘り返された遺体の病理解剖の結果。 土葬された彼女の母親は、鎮静剤と似た効果の脱法ハーブを吸っていた可能性が在ると出た。


また、妊娠中は、その脱法ハーブを止めていたらしいが。 掛かり付けと成る男性医師を見付けると、娘に殺された母親だが。 その精神的な一部に、奇妙な行動が在ったと解る。


平常時は、優しくされると非常に好色となりつつも。 相手の家庭を壊してでも、相手を手に入れ様とする理知的な一面と共に。 反面、薬物やアルコール依存症の癖も在り。 一度、精神的に不安定と成れば、酔っ払って何でもかんでも放埒と成る。 そんな病的な精神疾患が在ったらしい。


木葉刑事は、自分の知り合いでは無いが。 叔父の恭二の知り合いと成る弁護士を、後妻を演じていた彼女に紹介した。


さて、裁判で推測ながら明らかに成ったのは、後妻を演じていた彼女の母親が。 もしかすると、乖離性同一性障害では無かったか・・と、こう云う疑問で在り。 後に、それは様々な関係者からの証言や医師の判断から、実際にそうだったと証明される。


また、保存された母親の死んだ部屋からは、使用された脱法ハーブの残留物と未使用の物も見つかっているし。 子供を助けたのは、経過から事実と読み取る事が出来ると成る。


そして、この娘の彼女の行動は、過剰防衛なのか、障害致死なのかと。 裁判所も、裁判員も、特別なレアケースの為か揺れに揺れた。


結局、警察に出頭せずに隠蔽した事実を踏まえ、障害致死と成ったが。 その刑期は、予想外に軽いものだった。


さて、この裁判が始まる前の事だが。 帳場(捜査本部)の解散が為された日。


木葉刑事が、一人で事件現場に向かっていた。


其処に、古川刑事が遣って来たのだが…。


現場に花を手向けた木葉刑事が、被害者と思しき男性と話すのをハッキリと視た古川刑事。


(あの馬鹿め…。 また、幽霊に絡まれたな。 生きて無い奴なんざ、無視すりゃいいのによぉ。 馬鹿真面目に、亡くなった人間の話や願いを聴き込みやがって・・。 死人の供述なんざ、調書に書けねぇ~し、証拠能力も無ぇ。 苦悩して無駄汗を掻くのは、解りきってるだろうに…)


と、思う。


然し、一方では。 木葉刑事の持つ異能の存在を改めて認識し。 その矛盾と立ち向かいながら、必死に被害者やのそ遺族を助けようとする彼を、一人前と認める事に成る。 だから、他の一課の刑事がどう言おうが。 古川刑事は、木葉刑事を悪く云うのは、表面上の茶化し程度で在る。


ま、娘の詩織が、木葉刑事を兄の様に思う素振りには、本当に苦虫を噛む思いだったが…。


品川駅に向かいながら妻の事を思い出しつつ。 物思いに耽って立ち止まったりしながら、そんな事まで思い出した古川刑事。


確かに、古川刑事が一人者の木葉刑事を、我が家の様なアパートへ呼んだ時に。 娘の詩織と妻の和世は、木葉刑事を家族の様に受け入れる雰囲気を見せた。


その前にも、同僚の新米刑事を呼んだりした事は、幾度か在ったし。 後には、三住刑事も呼んだ。 だが、誰の時でも、木葉刑事の様な溶け込み方は決してしなかった。


(ヘッ。 アイツが、息子な…。 娘の詩織すら、俺の子供にしては出来過ぎた子だし。 ちょっと変わっちゃいるが、アイツが息子なんて、過分だろうよ…)


品川駅に入って、様子を窺って時間を潰す間。 そんな事まで想い、我ながら微笑した古川刑事。 相棒として、この数年を一緒にする事が多かった三住刑事より。 やはり最後を託せるのは、木葉刑事だと思った。


駅構内にて、自動改札をSuicaで越える。 目指すは、渋谷駅。 ホームに立つ古川刑事は、深夜12時前には電車に乗り込むのだった…。



        3



悪霊が現れるまで、残りの時は短い。


然し、この間に様々な出来事が目まぐるしく動く。


古川刑事が、品川駅で電車を待つ頃か。


既に、渋谷駅の宮下公園へ一時的にと身を隠している木葉刑事は。


「スミマセンが、茉莉さん。 大使の肉親の方は、もう空港へ?」


近くでは、スケボーを転がす音やセグウェイの走る音を聴く茉莉隊員。


「警備状況から確認するに、まだ出発していないな。 一体、何をやっているんだか…」


と、2人は話し合うのだが…。


一方、その頃。


某暫定政府の大使館では、駐車場に直結する大使館内裏側の両開きの出口前にて。 遂に、親子の修羅場が起こっていた。


「ふぇべべっ、ばぎゃいあっ」


古川刑事の奥さんを轢き逃げした息子は、髪の毛を父親に掴まれ。 開いた口に、黒い拳銃の銃口を突っ込まれていた。


「止めてっ!! アナタっ、止めてぇっ!!」


と、夫人は泣き喚くが。


黙って彼女を押さえるのは、傭兵上がりで秘書兼護衛のあの大柄男性だ。


一体、何が在ったのか…。


然し、その理由は至極情けない事からだ。


父親は、最後の機会だと、国外に出ろと言うのに。 下らない理由を並べて拒否した息子へ、父親の大使が遂に本気でブチ切れたのだ。


この大使も元は、軍隊を金を派遣する傭兵派遣会社での、実質上のブローカー的存在をしていた。 そんな彼だから、いざとなれば人殺しも出来る。


愛想の尽きたバカ息子へ、既に親子としての情など捨てたらしく。 ギラギラとした殺気を含めた眼を向けて、大使は言う。


「いいか、バカ野郎。 お前がヘマばかりする所為で、俺の夢は何時も危険に晒されるっ。 言う事が聞けねぇなら、この国の警察に捕まって、死刑に成るか? あぁっ?!!!」


生まれ始めて父親の、怒りを超えて狂気に踏み込む怖い本音を見た息子。 甘やかす母親の機嫌を窺う普段の父親は、目の前に居なかった。


「あう゛っ、ああ゛ぅ…」


床に跪き。 痣の在る目元から涙を流し。 右側の鼻からは、血と鼻水を交えた物体を垂らし。 初めて味わう恐怖から失禁までしている息子は、必死に何か解らない声を上げて。 顔を縦に振っている。


拳銃を口から引き抜く父親は、上から息子の眼を射抜く様に睨み付け。


「血の繋がった子供だがら、今回は最後として逃がしてやる。 だが、余所の国で、今回と似たような失態をやらかすなら。 私も、祖父も、お前を見捨て殺してやるぞっ!!」


見下していた父親に恐ろしい逆襲をされて。


「は、はいぃっ、ごめんなざいぃぃ…」


と、辛うじて謝る息子。


頭から手を離す父親だが、まだ拳銃を息子に構えていて。


「いいかっ!! 我が国が、今や国家として立つ大事な時に。 我儘でその道を潰すなぞ、国賊のレジスタンスと同じっ! それに子供は、お前一人じゃ無いんだ。 そろそろ眼だけは覚まして於け、大馬鹿者めっ」


こう言った大使は、オロオロして居る執事兼第一秘書を睨むと。


「公用車は、もう準備できているのか?」


「あ゛あ゛あ゛・・、はっ、はい」


「よし、直ぐにこの馬鹿者を乗せて、私が連れて行く。 お前は、妻と留守を守れ。 息子が殺した女の亭主が来ても、絶対に中へ入れるなよ」


余りの大使の変わり様に、頷くしか出来ない彼。


護衛の私設秘書とその部下の2人に、


“息子を公用車に乗せろ”


と、命令した大使。


そして、彼は泣いて悲しむ妻に。


「幾ら、お前と私の子供でもな。 あの義父は、使えないバカ者なんぞ、老いる最後までの面倒は看ないぞっ。 自分の子供が、死ぬほどに可愛いならば。 あの義父の怒りに触れない程度には、物事を理解する頭ぐらいは持たせろっ。 この次は、暗殺されると思え!」


と、叱り飛ばし。


振り返ると同時に、グズってヨロヨロとした息子のケツをかなり強く蹴った。


「早く乗れっ! 死にたいかぁっ!!!!」


「ひぎぃぃっ!」


余りの痛みに悲鳴を上げた息子だ。


そして、真夜中の12時過ぎか…。 漸く、予定より15分を押して。 大使と息子を乗せた車が、羽田に向けて走り出た。


それを確認するのは、日本政府側として安全を見守る特殊警備班と。 古川刑事が現れるのではないかと、危惧して見張る刑事達。


また、茉莉隊員の連絡が元にて、古川刑事捜索の網が張られ。 古川刑事が大使館に近付くのは、非常に困難と成った。


その頃。


渋谷では、宮下公園付近にて。


(フルさん、今更にこんな情報を貰っても、ね)


古川刑事から送られたメールを軽く読み返した木葉刑事だったが。 その内容は、既に知っていた事の確認だと、真っ暗闇の空を見上げる。


ちょっと前、傍らに居る茉莉隊員とも話し合ったのだが。


“今夜は、確実に両方が殺される”


“木葉刑事、どうしてそう言い切れるの?”


“空に、悪霊の力が蟠ってる。 凄い、うっすらと人の顔が浮かんでるかも”


見上げても、霊を視えない茉莉隊員には、普通の黒々とした雪雲の様に見えるのだが…。


木葉刑事には視える。 煙の様な細かい雲が、空の壁にせき止められて。 充満するかの様に満ちているのが、ハッキリと解るのだ。


この空の異様さは、越智水医師や寡黙神主も感じる事で解るが。 木葉刑事ほどハッキリ視える者は殆ど居ないだろう。


そんな見上げる木葉刑事を見る茉莉隊員は、サングラスの向こう側に在る眼を少し緩くし。


(見えている景色が違うのは、辛い事なんだろうか。 話も合わず、気分も合わない。 ずっと、孤独なんだろうか…)


古川刑事のメールを転送して貰った茉莉隊員は、自分達に指令を出す情報統制部にメールを転送したが…。


処が、今の茉莉隊員にも、一つ不思議に思う事が在る。 それは、渋谷駅のコインロッカーに隠していた、木葉刑事の荷物だ。


(ビジネスバックみたい・・、そこそこ膨らんでいる。 一体、何が入ってるか?)


寿司屋で、最後の晩餐とのんびり過ごした後で。 渋谷駅構内に向かった木葉刑事が、急に取り出して来たもので在る。


中身を聴いても、


“必要なものさ。 同じものが欲しいなら、神社やお寺に行けばいい。 国の機関なら、その庁の存在は知るでしょうが”


と、この返しのみ。


そして、深夜12時を回る頃。


ぼんやりする木葉刑事は、止む事の無い車の走行音や、若者達の笑い声を耳にしつつ。


「来た」


と、バックを片手に立ち上がる。


茉莉隊員は、辺りを見回しながら。


「誰が? まだ12時を回ったばかりだぞ」


宮下公園を出るべく歩き始めた木葉刑事は、彼女を見返す事も無く。


「フルさん」


「古川刑事、やっぱり来たのね?」


頷くだけの木葉刑事は、その足で明治通り沿いを歩いて南下。 渋谷駅の東口前に来ると、駅から出る人を見回した。


バス乗り場を背に、駅構舎の庇の下で見ている木葉刑事。


その横に来た茉莉隊員が、同じく人が出て来る東口構内を見ながら。


「もう来て居るの?」


と、尋ねれば。


「えぇ」


確信を持った様子で、頷いた木葉刑事。


「何処?」


「今、ちょうど眼が合いまして、駅構内に戻って行きました。 出口を変えるんでしょうね」


古川刑事の姿を見付けられない茉莉隊員は、前に出ながら。


「格好は?」


「黒のコートに、黒い帽子を被ってますね」


少し、駅構内へ歩く茉莉隊員。 その耳に装着したマイクからは、


‐ 此方、指令部。 情報は了解。 警察に、情報を流す ‐


と、返って来た。


「茉莉、了解しました。 処で、動きの無かった大使の方は、どう成りましたか?」


‐ 今、本国との遣り取りが終わった様だ。 01:00時以降に、大使専用車が到着し次第。 羽田からプライベートジェットが飛ぶ。 総理以下、外務省の上層部は了承済みだ。 ‐


「解りました。 飛び立ってしまえば、後は国内の問題を処理すればいいだけですね」


- 恐らくは、な -


新しい情報を入れた茉莉隊員は、


(悪霊の出現が早まれば、ニアミスも在りそうだけど・・。 運が見方すれば、大使の息子は襲われる前に、羽田へ着く)


と、考えた。


そして、木葉刑事の尾行に戻る事にしようと、振り返ると。


「ん?」


彼の存在が、其処に無い事に気付く。


(あのバカっ、何してるっ!)


今更に自分を撒いても、どうせ行き着く先は大使館だと。


‐ 此方、茉莉。 追跡対象者の木葉刑事が逃走した模様。 恐らくは、大使館に向かったと思われる。 ‐


と、一報を入れつつ。


(目的が明るみなら、逃げられる訳が無いだろうにっ)


木葉刑事の衣服に付けた発信機から出る、追跡電波を追うべく。 茉莉隊員は、スマホを取り出した。


直ぐにサーチ機能を使えば、歩道橋を走る様にして警察署方面に向かっている電波が在る。


(向こうか)


先回りも含めて、連絡を取り合いながら追う事にする。


追跡電波を追いながら、茉莉隊員が渋谷警察署前を走る時。 木葉刑事から発せられた位置は、大手保険会社のビルの脇に入り。 稲荷神社や日昼に訪れた、八幡宮付近に居た。


(ん? 止まった)


その辺りで電波の動きが止まったのを見て。 木葉刑事は、何かでも追い掛けたのかと思ったが…。


六本木通りから別の隊員が挟み撃つ様に遣って来て。 茉莉隊員と2人、その電波を発する場所まで来ると…。


稲荷神社の境内前に木葉刑事の着ていた服一式、無造作に脱ぎ捨てて在った。


丸坊主のガタイの良い隊員は、逃げられたと慌てる。


然し、裸では遠くまで行ける訳が無いと、茉莉隊員は辺りを捜し出すのだった。


処が…。


薄い生地のジャージ上下をスーツの下に着込んでいた木葉刑事は、その姿のままに歩き。 明治通りと六本木通りを繋ぐ道路に出た所で、コンビニの駐車場を出て来た白いSUVに横付けされ。 何故か、その車内へと乗り込んだ。


「ま~ったく、ギリギリから無茶するわ」


運転席に座るちょっとイケた様な格好をした云う感じのスカートやら上着を着た女性が、乗り込んだ木葉刑事をバックミラーで見てこう言った。


ゆっくりドアを閉めた木葉刑事が。


「助かりました、里谷さん」


と。


車を走らせる女性は、音楽を掛けつつ頷いて。


「夕方前にメールを貰った時は、目を疑ったわよ」


だが、真剣な表情の木葉刑事で。


「何が起こるか、予測不可能なんで。 フルさんの事と大使館の方は、彼方に任せるのがいいと思いました」


さて、普段の里谷捜査員がこういう衣服なのかは、木葉刑事は知らないが。 セレブのパーティーで見そうな女性用の衣服に身を包む里谷捜査員。


「んで? 何処で降ろせばいいの?」


「はい。 このまま明治通りを下って、渋谷橋の交差点へ。 其処から、広尾と恵比寿の境と成る川沿いの、日比谷線が地下を走る道なりに。 左側にコンビニを過ぎた先には、学校が在りますから。 その辺りで、降ろして下さい」


「はいはい、解ったわ~」


この里谷捜査員が本部長より命令を受けて、警視庁を出たのは夕方前の3時頃。


抜け目の無い情報収集屋で在る、寺嶋班長を警戒して。 必要な物を個人的な私物で揃えようと。 備品と入れ替える間、ダメ元で木葉刑事にメールを入れたら。 全く違うアドレスで、返信が来た。


‐ 今夜、尾行を撒いて、悪霊と向かい合います。 出来たら、協力願えませんかね。 ‐


ホテルで寝ている間。 実は、退院後の飛び込みで買った新しい使い捨てスマホで、里谷捜査員と遣り取りをしていたのだった。


然し、夜の8時過ぎ。


本部長から里谷捜査員に連絡が入った。


‐ 出来たら、見届けるぐらいでいい。 木葉刑事の事は、後に回してくれ。 最重要は、古川刑事に絞る。 ‐


一体、何事かと。 或る駅の公衆電話から親しい捜査員に話を聴けば…。


“鵲参事官が来た”


と、聞いて。


(はぁ~ん、丸め込まれたのね)


と、理解する。


さて、木葉刑事を乗せた里谷捜査員の運転する車が、何事も無い様に走り出して行く。


だが、同時刻。


渋谷駅で、タクシーに乗る古川刑事が居る。


草臥れた感じの漂う年配女性のドライバーが、道玄坂を旧山手通りに向けて走らせながら。


「お客さん、何処まで?」


外の雪雲を見上げる古川刑事は、動揺した素振りを隠して。


「旧山手通りを、駒沢通りに向かって下さい。 代官山駅の奥、恵比寿西の中に行きたいんですよ」


「はぁ~い」


走るタクシーの中でカバンを抱える古川刑事は、木葉刑事の姿が脳裏から離れない。


(アイツ、何で先回りが…)


渋谷駅にて、木葉刑事を見た古川刑事は、東口から出るのを諦めて。 ハチ公やモヤイ像の在る西口に回り。 人ごみに紛れ、迂回しようとした。


然し、明らかに不審な黒服の男が、誰かを捜しているのを見て愕然とする。


この時は既に、雪が降ると予報が出ていて。 タクシーを捕まえ始める人の様子は、顕著に現れていた。


(不味い。 無線で情報が回ってたら、俺は目立つからバレるか…)


だが、此処で捕まっては仕方ないと。


“道玄坂の中程まで、そっと歩いて向かってから。 桜丘町を回って、鉢山町と鶯谷町の間をこそこそと縫って行き。 代官山駅から恵比寿に向かって、渋谷橋を渡って大使館へと向かおう”


とも、考えた古川刑事だが。


歩いて行くにしても、心配は尽きない。 自分を捜す刑事達のメールが、目立って多く届いていた事も考える。


“もし、人海戦術で刑事や警官が投入されたら、俺の足では無理だ”


念願が絶たれると感じた。


憎い犯人が、既に羽田空港に向かって大使館を出て行った事を知らない古川刑事。


“えぇいっ、一か八かだっ”


タクシーを呼び止めた後、覚悟を決めて乗り込んのだ。


さて、木葉刑事が里谷捜査員の助けを借り。 大使館近くにて、悪霊が出ようとする場所に先回りしている事すら。 古川刑事には、知る事が出来ないが…。


ドライバーの年配女性が。


「お客さん、ラジオを点けてイイですか?」


「あ・あぁ。 全然、構いませんよ」


「スイマセンね、お客さん。 今夜、サッカーの代表が決まるかどうか、息子が気にしてて」


「あの、日本での試合は、もう終わったんじゃ…」


「はい、引き分けですよ。 でも、競ってるもう一チームが負けると、勝ち点差で代表に成れるらしいんです」


「はぁ~」


ラジオが点いて、中東で行われる試合が流れる。 日本と競ってる国は、1点差で負けていた。


古川刑事は、


(負けろ。 スクランブル交差点が、ファンで埋まれっ)


渋谷駅に集まる若者達が多いのを見た古川刑事だから、少しでも目くらましに成る事は歓迎だった。


さて、わざわざ旧山手通りと駒沢通りの交わる信号まで来たタクシーを、恵比寿西に入るまで走らせた古川刑事。


恵比寿公園も近い場所で降りた古川刑事は、雪が降り始めたのを見る。 


(降って来やがった…。 今、悪霊はっ?)


コンビニ前向かい。 店から漏れる明かりで、バックから取り出した手鏡を見る古川刑事。


(不味い・・不味いっ、そろそろ悪霊が現れる頃だ。 木葉は、化け物の居場所が解る。 犯人が殺されるまで、邪魔をされたら…)


仇を討てるか心配に成り。 妻の使っていた、丸い桐の漆塗りの枠をした手鏡を取り出して。 ゴミ箱に身を隠しながら、鏡を覗く。


然し、まだ悪霊が見えていない。


(時間はっ?)


腕時計を見れば、12時30分過ぎ。 タクシーで走って来た分だけ、大回りでもなんとか大使館に近付けると。 古川刑事は、目処を付けたのだが…。


その頃。


警察庁の或る一室にて。 モニターやPCに加えて、何やら変わった機械までが備わり。 何処かの秘密基地の様に成る広い部屋にて。


茉莉隊員、他の隊員が寄越す情報や、古川刑事を捜す刑事の入れる情報。 また、例の大使とその息子の情報と、全ての情報を集めて居る場所が此処だ。


その部屋の一角。 映像が映るモニターの明かりで、暗い部屋に姿を浮かび上がった鵲参事官が居る。


(木葉の奴め、自分の犠牲は許容しても、他人の犠牲は拒否する気か。 お前がどう戦うか、後に続く玉砕の駒の命運も握ると云うのに…)


眉間にシワを寄せる鵲参事官は、木葉刑事と悪霊の間に。 特別な‘絆’にも似た繋がりが在るとは、全く知らない。


茉莉隊員を付けさせたのは、彼が悪霊に対して行う行為を見て知り、今後に利用する為だ。


だが、木葉刑事が逃げ出した事で、漸く今日にその手段を知れようと云う期待が、微塵にも打ち砕かれた。


(さて、どうするべきか…)


考える鵲参事官には、また一つの手段が在る。


それは…。


“悪霊が、怨みを晴らす事を完了する前に。 怨んで呪われた者を殺す”


そう、これだ。


その効果が有るのか、無いのか。 確かめる意味で、今が絶好の機会とも言えよう。 殺人をしようとしている古川刑事を、職務上の防衛策として射殺する。 茉莉隊員は、射撃の腕も一流。 万が一の為に、小口径の銃を持たせている。


(木葉の行方が解らずして、古川刑事を見つけ出したなら…)


試す機会が在るのなら、その答えを知るのもデータ収集だ。


椅子に腰掛け、モニターを見る鵲参事官は、どんどんと恵比寿周辺へ向かう捜査の様子を見詰める。


(木葉、どうする? 私に、古川刑事を殺させるか?)


木葉刑事が、茉莉隊員に敢えて言わなかった方法。 成就が成立する前に、呪って呪われた者を消す事。


やはり、それを察した鵲参事官は、冷徹にも手段の一つに入れていた。


が。


鵲参事官の胸で、スマホが揺れ動く。


(誰だ?)


取り出すスマホのディスプレイ画面には、“木葉”の文字が。


「っ!」


メールの着信が在り。 それを開けば…。



‐ 鵲参事官へ


鵲参事官、木葉です。


やはり、強力な悪霊に対して、人が為せる事は少ない様です。


その道を知る人に尋ねましたが。


“呪って呪われた者を殺しても、その呪いが成就した契約に関わる死体が減る可能性が在る”


と、云うだけだそうです。


詰まり、古川刑事を殺しても、大使の家族が助かる確証は有りません。


また、寧ろ。 悪霊の作った手順を破壊する事で。 悪霊側に新たなる変化を促し、変異への加速を促す事に成ると分かりました。 ‐



此処まで読んだ鵲参事官は、その目を鋭くして。


(だったらっ、どうするのだっ!! 木葉ぁぁぁぁぁぁぁっ!)


遣り様が無いのでは、亡くなった木葉刑事の叔父、恭二や。 佐貫刑事と同じ者を、今後もダラダラと増やすしか無いのだ。


鵲参事官の脳裏にも、佐貫刑事と同じ姿に化した木葉恭二の様子が。 まるで昨日の事の様に、鮮明にしておののく程に、強く焼き付いていた。


鵲参事官の背後では、様々な通信の遣り取りをする黒服のスタッフが、茉莉隊員や大使を見張る隊員と通信を交わす。


同じく、12時30分を過ぎた時計を、スマホの画面上の片隅に確認する鵲参事官。


(木葉っ、お前が退治する事が出来ないならっ! 変化の時間を貰ってでも、古川なる刑事を消すっ!)


強権を厭わない覚悟にて、メールの続きに目を移す。


然し、其処には、木葉刑事と悪霊と化した女性の事が記して在った。


それを読む鵲参事官は、寧ろその事が異常だと。


(バカなっ! 悪霊との間に、情が交わされただとっ?!! そんなふざけた事がっ、在って堪るかっ!)


悪霊は、木葉恭二、佐貫刑事を奪った敵で在り。 これまで、鵲参事官が知る事例だけでも、100名を超える相殺犠牲者が出ていた。 それを知るからこそ、こんな甘い話をされては、口から憤りが出そうに成る鵲参事官だが…。


一方の木葉刑事は、相殺要員で在り。 夢の中で、佐貫刑事の霊に魂の救済を頼まれた彼だ。



‐ 鵲参事官。 俺は、佐貫さんと共に、逝きます。


ですが、これだけは断言して於きます。


悪霊とて元々は、身勝手に殺された哀れな魂も在ります。 生者の一方的な対処の流れで掻き消そうとしても、消える訳では有りません。


もし、貴方が古川刑事を殺したとしても、叔父や佐貫さんや俺の後を追う者は、少しも減りません。


では、彼女悪霊の鎮魂を試みます。



PS。 自分の事を茉莉隊員達に捜させるのは、止めて下さい。


下手すると死体が増えて、後処理が大変ですから。



        木葉 ‐



諭されて居る様で、眼をガッと開く鵲参事官は、


「木葉からメールが来たっ! 奴が何処に居るのかっ、今すぐに調べろっ!!」


と、珍しく怒鳴った。


だが、これはプリペイドスマホで。 然も、タイマーで時間指定された、新型機能に因るもの。 調べても、茉莉隊員がさっき居た辺りからの送信としか解らない。


一方、その木葉刑事は…。


様々な思惑が交錯するが。 木葉刑事の目的は、只一つ。


12時35分過ぎ。


大使館より少し離れた小学校付近で脇道に車を停めて貰い、其処で降りた木葉刑事。 運転席の里谷捜査員と、開けた窓越しに顔を合わせると。


「では、もう関わらない様に、この場から去って下さい。 里谷さん、さようなら」


別れの挨拶とは、里谷捜査員も目を困らせ。


「嫌な台詞。 せっかくこんな変装までして来て、手伝ったのに…」


すると、ビジネスバックを片手に、先へ行き掛けた木葉刑事だが。 里谷捜査員の言葉を聴いては、ちょっと足を戻して。


「‘変装’ッスか。 似合ってるから、普段にデートの時にでも着る服かと思いましたよ」


「え゛っ。 アタシって、こんなのが似合う訳ぇ?」


黒いスキニーデニムを穿いて、上着はスタイリッシュなレザーのジャンパーコート。 その下には、胸元を出して首の後ろで結び留めるチュニック型の黒いブラウスを着る。 スタイルが良く無ければ、とても着こなせるものでは無いだろう。 また、前髪にデザイン性を感じさせる様な手が入り。 後ろは、結い上げて纏める形で、今までの里谷捜査員がした事の無い形だった。


「ブランドのセレクトショップをやってる友人に、アタシらしく無い様にしてって・・言ったんだけどな~」


ちょっと困った様子を見せた里谷捜査員に、木葉刑事は背を向けて。


「もう、巻き込まれ無い様に、里谷さんは引いていいッスよ。 後始末は、鵲参事官がしますから」


こう言って、闇に消え行く木葉刑事の背。


この時、ハッと思った事が有る里谷捜査員は、


“美人の女医さんに、何か伝言は?”


と、言い留めたかったのだが。


「………」


喉元まで来た言葉が口から出ないのは…。


(・・アタシ、ちょっと妬いたのかな)


顔が良くても浮気者と理解して、一応は真面目に付き合った彼氏が、今の頭に無く。 今の木葉刑事を見て、女医の順子が馴れ馴れしいのが、今更に少しウザく想える。


いや、孤独と肩を組む木葉刑事には、そうゆう相手が必要な気がするのだが…。


消えた木葉刑事の背を闇に追い掛けて、ぼんやりした里谷捜査員だが。


「ハァ~、寒っ」


開けっ放しにした窓の所為で、暖房の意味が無くなっていたと。 寒さに因って正気に成れば…。


「あ、ゆ・・き?」


はらり・・はらりと、雪が落ちて来ていた。


(マジで?)


降ると知っていたのだが。 丁度、今かと思う。


だが、次の瞬間に。


(え、チョット・・何、この雪? く・・く、黒い?)


フロントガラスに落ちた雪が、夜にしても妙に黒い。


「何で?」


窓側から手を伸ばして、手の平に受け止めて見ると。


「ウソ。 これ・・混じってるのは、血?」


生臭い匂いがして、直ぐに溶ける雪から或る物が放つ特有の臭いがする。


(なにコレっ、チョットっ!!)


異変を感じ、慌てて車を飛び出した里谷捜査員。 木葉刑事を追って、小学校脇の道を闇の中に向かったのだが。


「ぐぅっ!」


音こそしないものの、ガツンと何か壁の様なものに激突した彼女。 額を強く打ち付けた所為か、車の前輪辺りに尻餅を突く様に倒れてしまう。


「痛ぁ~い、何よ」


ぶつけた額を抑えながら、雪を被りつつ前を見れば。


「え? え゛っ?」


渦巻く様な古い血の色となる闇が、里谷捜査員のぶつかった辺りで壁の如く蟠っている。


(何コレ、この奥に木葉刑事が行った訳っ?)


それはまるで、おとぎ話に出て来る別世界に、木葉刑事が踏み込んだ様な…。


立ち上がる里谷捜査員は、怪我をした時の大学病院の事を思い出す。


(そう云えば…。 以前のあの時は、蟠る闇の中に悪霊が向かっていた。 もしかして、これが出て来る時の…)


止む様相を見せない雪は、粉雪の様なのにドカドカと落ちる。


異臭にまみれた里谷捜査員は、それだけでも気持ち悪い。


然し、この身体中に湧き上がって来る別の感覚は、一体何なのだろうか。 恐怖と云うべきなのか、畏怖と云うべきなのか。


“この先には、行くべきでは無い”


身体の感覚が、そう問い掛けて来る様な。 そんな想いが、吐き気の如き感覚でジワジワと湧き上がっていた。


(何か、凄くヤバい気がするぅっ! 木葉刑事は、一体どうするつもり?)


逃げる様に車に戻って、木葉刑事の為と用意していたタオルを使い、異臭のする身体をざっと拭いた。


(全然足らないっ)


勢いに任せ、噎せて嗚咽しながら車を後退させると。 大通りに出る。


すると、道路まで離れると、赤黒い雪は普通の雪に戻り。 明らかに積もりそうな勢いにて道路に落ちてゆく。


木葉刑事の向かった場所は、里谷捜査員には良く解らない。 然し、其処では呪われた犠牲者を求めて、悪霊が現れ始めている。


深夜12時44分を過ぎた頃か。 遂に、異変が顕著に現れた。


その頃、古川刑事は…。


恵比寿の駅を越えようとした古川刑事。 然し、線路から渋谷方面に入ると。


(あ゛)


この街に似つかわしくない黒いスーツ姿にサングラスをした者が。 通行人を装いつつも、店の中を覗いたりしているではないか。


遠目の街灯で、そんな光景を見つけた古川刑事は闇に紛れ込んで、脇道を行こうとするのだが…。


その、怪しい者を避ける様に、逃げる形で道を南下し。 袋小路に成っているのかも解らない、細い路地の闇に目を向けた古川刑事。


処が、其処で、だ。


‐ なぁぁぁぜぇぇぇ…。 ‐


と、不気味な声を聞いた。


その濁った様な悪霊の声に、慌てて近くの街灯へと忍び寄って。 また、震える手で手鏡を出して中を見れば…。


「あ"っ!! こ・・の、は」


古川刑事は、驚きと観念を同時に込めて、震える声でそう言った。





     最終章:護(ご)・鎮魂



【再び対峙する二人。 鎮める者と暴れる者は、その意志と怨念を秤に掛ける】



古川刑事の手鏡の中では、強い風が吹き荒れる辺りと。 地面が剥き出して、灌木に囲まれた何処かの庭が映り。


そして、悪霊の視点からだろうが。 闇の渦巻く空間から、丁度這いずり出た悪霊を前にして。 白い衣に袴を纏う木葉刑事が、悪霊を待ち構えている姿が見えた。


さて、悪霊が張った、不思議な磁場の様な場所。 これも言い換えるなら、‘結界’と云う不思議な力の中か。


何時の間にか着替えた木葉刑事は、辺りの木の枝や幹に、烏神神社の御札を散らして在り。


「フルさん、いい加減に目を覚まして下さいよ。 詩織ちゃんが、幾ら出来の良い娘さんだからって。 お母さんに継いで、父親が亡くなり。 その父親が復讐をしただなんて、そんな酷い事実を与えるんスか?」


こう喋った木葉刑事は、髪の毛を振り乱して佇む悪霊を見据えているが。 恐らくは、この様子を何処からか古川刑事が見ていると、そう信じている様だった。


今、ビジネスバックをまだ片手にしている木葉刑事は、その中へ手を差し入れる。 そして、ゆっくりと引き抜くと、御札の束が持たれていた。


「さぁ、もう鎮まろう」


悪霊を見据える今の木葉刑事は、この恐怖の塊と言えたものと対峙しても全く動じて居なかった。


あの時、広縞に殺害された彼女の遺体が発見された現場にて。 最初に、‘怨霊’と化した彼女を視た時、震えて思う様に動けなかった。


また、次は大学病院にて。 一人、悪霊へと変わった彼女を止めようとした時は、恐怖に震える心を無視する為。 ヤケクソに近い、がむしゃらの勢いで手を掛けただけだった。


その後。 漸く、恐怖を受け止められたのは、佐貫刑事の亡くなった時だったが…。


竜巻の中心の様な風の所為か。 綺麗に成った地面へ、木葉刑事は御札を一枚・・一枚と、落とし始めながら。


「これ以上、貴女を殺しの道具には遣わせない。 憎しみや怨みを吸い、呪う側と呪われた側を葬り。 その両者の業を溜めて、祟りと為す。 そんな祟り神には、絶対にさせない」


木葉刑事の話を受けた様に、悪霊は飛び出した目をひん剥いて、徐に一歩を前に踏み出そうとする。


然し、木葉刑事が左手で、束の御札を数枚ばかり抜き取り。 悪霊の踏み出した足へと投げ撒けば。


突如、見えない衝撃波を受けた様に、悪霊の身体が右側後方に突き飛ばされた。


ちょっと不思議なのは、枯れ葉すら風で舞い上がるのに。 木葉刑事の撒いた御札は、地面に吸い付く様に落ちたままと云う事。


さて、木葉刑事はまた御札をバックの中から掴み取って、吹っ飛ばされた悪霊へと投げた。


焦る様に退く悪霊だったが…。


先に来た木葉刑事が、周りを囲む庭木の彼方此方に撒いた御札が在り。 そして、後ろに退いた悪霊の髪の毛、右手、背中が、御札の引っ掛かった葉や枝に当たると…。 ジュっと、不気味な焼け焦げる様な音と共に、その場へ悪霊を繋ぎ留めた。


はりつけにされた様に動けなく成る悪霊は、


‐ のぉろぉぉぉい゛っ! ‐


暴れて、動かせる部分の振り乱す髪の毛の一部を木葉刑事へ針の如く伸ばした。


対する木葉刑事は、あの身体に巻いて瘴気しょうきを吸い出した、大御札の一枚をバックから左手に持ち。 飛ばされた髪の毛を掴み束ねる様に、右側へ勢いを逸らした。


手鏡の中で。 木葉刑事と悪霊の闘いを見る古川刑事は、髪の毛を束ねて無力化する様子を見て。


(あのっ、神主の与えた知恵は、・・此処まで偉大だったのかっ。 ぐっ、か・和世…)


雪が落ちる路上に崩れ、跪く古川刑事。 握り締める鏡の中では、悪霊に近付いた木葉刑事が。 動けなく成った悪霊の胸元に、束ねた髪の毛を投げ返し。 そして、更に普通の大きさの御札を辺りに撒いて。 その御札の敷かれた中に身を入れると、何かを懐から取り出した。


(な・何だ・・)


古川刑事が見詰める中。 トントン相撲で使う紙人形の様な、白い人形ひとかたを地に置いた木葉刑事。


さて、人形を置いた木葉刑事の、その脳裏に浮かぶのは、烏神神社の神主で在る寡黙神主の言葉だ。


“永らく過ぎる時の中で、一部の神道と陰陽道と修験道が噛み合わさり。 独特の〔祓い儀〕《はらえのぎ》が、色々と生まれて来たのです。 そして、この〔形代の鎮魂祓えの儀〕《かたしろのちんこんはらえのぎ》は、そうした中で異端の者が使った、所謂の〔悪霊払い〕《エクソシズム》の一つ”


寡黙神主は、昔から続く神職の一族にて。 古い文献を幾つも持っていた。 その中から、木葉刑事でも使える術を選び抜いたのが・・、この秘術らしい。


そして、その儀法を示した上で、更に続けて。


“ですがね、木葉さん。 今に、この秘術が使われ無いのは、理由が在るのですよ”


退院後、初日の夜に、寡黙神主に話を聴いた木葉刑事は。


“今に使われないと云う事は、文化的な意味からですか? 様々な‘道’《どう》を混ぜたものならば、内容が歴史的にそぐわないからですか?”


すると、真剣かつ沈痛な面持ちの寡黙神主は、呼吸を整える間合いを空けると。


“木葉さん。 今は、神主だからと云うだけで、霊を視えると云う訳では無く。 誰彼と、陰陽道や神道を会得しても、霊体に対して扱える訳では在りません”


“確かに…”


“実は、木葉さん。 この儀は、己の霊魂を天秤に掛ける、命そのものを引き換えにすると云う。 云わば、命懸けの一面を持つのですよ”


“寡黙さん。 もしかして、使われ無くなった理由と云うのは…”


“左様。 この秘術は、霊視能力を持つ者で、神道や陰陽道の初歩的な知識を持つ者ならば、誰でも使える。 一方、反対から言えば、扱った者の大半が力不足から死に至る。 非常に危険な、不完全な秘術なのです”


木葉刑事も、その秘術が使われなくなった理由を、はっきりと理解した。 悪霊にこの秘術を使ったら最後。 相手を鎮める事が出来るか、自分が死ぬか。 そのどちらかしか、結果は無いと云う事になる。


“寡黙さん、それ程に強い秘術を使うしか、対処の手立てが無い訳ですね?”


“左様。 ・・ですが、木葉さん。 この秘術を最初から使ってしまったら、志半ばで死んでしまいます。 だから、これを使うのは、強烈にして悪霊の母体を創る怨霊の7体となる霊魂へ、それのみとして下さい”


“最初からは、ダメなんですか?”


“左様です。 あの悪霊の中には、貴方が以前に触れた折り、感じて見た通りに。 怨霊が悪霊に変異してから、呪いと云う形で殺められた全ての霊魂が、怨みの力と共に捕らわれており。 その全てを吐き出させない限り。 母体の怨念には、辿り着く事も、触れて‘鎮魂の儀’をする事も出来ません”


“まるで、鎧の様だ…”


“確かに。 ですから、先に取り込まれた魂を悪霊から吐き出させなさい。 ですが、最後の戦いまでに貴方が倒れたら・・、全ては終わりですよ”


その対話を思い返しつつ、バックより御札の束を掴み取って、白い衣の胸に差し込む。 バックもひっくり返して、中身を地面に落とすと。 神道に在る、〔大祓詞〕を口ずさみ繰り返す木葉刑事。


(どちらの想いが、強いのか。 全ては、自分と・・、彼女の根比べ…)


腹を決める木葉刑事が、祓いの詞を述べれば。 御札に縛られた悪霊は、ぶるぶると震えて痙攣する。


そして、木葉刑事は、となう…。



「還り 戻り また、還る御霊よ


怨み 憎しみ 妬み 怒り


しばる想いにたま捕わられ 暴るる威霊へ糾わる


その契り


この汝 慈しむ言霊にて


いざ 縒り解かん」



右手中指と人差し指を交差させ、紙の人形を指し示す木葉刑事。


すると、一人でに。 その折り立てられた人形が、何やら言葉の掛かれた内側を悪霊に向かって開いてみせたではないか。


打ち震える悪霊と、開いた人形が向き合えば。


木葉刑事は、寡黙神主から教えられた、〔霊鎮めの詞〕を唱え。 その独唱が終わる後に。



「殺められた 哀れな御霊よ


この形代に 深く 深く 堕ちて行け


八百万の神々の庇護により


静かなる常世へ 誘われん


執る器を 出り来よ


苛み 憤り 悶え 嘆きを於け


言霊の導きの末 静寂の安らぎ在り」



不思議な詞を口ずさみ。 そして、また〔霊鎮めの詞〕を唱え繰り返す。


そして、その2つの詞が、三回ほど繰り返された時だ。


- ガバァァッ! -


何かに突き動かされる様に、真上を向いた悪霊の口より。 仄暗く燃える火のたまが、噴き出る様に吐き出された。 ポ~ンと高く、宙へ上がった火の霊。


然し、上がったその火の霊は、その勢いの頂点まで到達すると。 フワフワと降りながら、或る一点を目指していた。


悪霊の視点から見る古川刑事だから、その火の霊が何か解らないが。


目を凝らして詞を唱える木葉刑事の眼には、阿鼻叫喚の形相を浮かべた人の顔が浮かぶ火の霊が見えていた。 顔は歪み、その表情は読み取り難いが。 恐らくは、老婆と思われた。


さて、木葉刑事の唱える詞が繰り返されて行くと。 悪霊は、一つ、また一つと。 口から火の霊を吐き出した。


だが…。


その吐き出された火の霊が、6つ目と成った時。


「ん゛ん…」


木葉刑事の口ずさむ詞の声が、何故か途切れる。


声が聞こえなく成り。 鏡を凝視して覗いていた古川刑事は、


「木葉っ? どうしたっ?」


と、感じるままに声を掛ける。


同時に、その様子を見つけ出した茉莉隊員。


(居た。 鏡を見ている? 木葉刑事が言っていた、写るもので観ると云う事か? くっ、どうやら戦いの現場には、間に合わなかったか…)


此処で、腕時計に目をやれば。 既に、深夜1時を目前にしている。


集まる他の隊員に、彼女は‘包囲’の指示だけ出した。


さて、脱げ落ちた帽子の中、肩、頭にも落ちる雪だが。 然し、それを構わない古川刑事は、明らかに一心不乱だ。


古川刑事に、そっと背後より近付く茉莉隊員は。


「此方、茉莉」


すると、彼女の耳の特殊なイヤホンからは、男性の声で。


‐ 此方、統制部。 茉莉隊員、どうぞ ‐


「行方不明の古川刑事を発見。 それから、監視範囲から出た相殺対象者は、既に警戒対象‘G’と、コード‘A’の模様。 追跡を諦めて、経過を観察する」


‐ 報告、了解。 情報は、チーフに伝えます ‐


「茉莉、了解。 それから、警察、鑑識、救急車の出動が必要かもしれない。 素早く出動が出来る様に、ダミーラインの用意を求む」


‘偽の封鎖線’を示せば、この道を、極めた範囲で封鎖し。 事故や事件でも起こったかの様に、通行人を排除して置ける。


‐ 了解 ‐


その報告をした茉莉隊員は、これまでの情報を頭の中で整理する。


∴木葉刑事と佐貫刑事の会話に因り。 犯人は、広縞と云う凶悪犯に殺された、或る女性の幽霊だと云う事。


∴木葉刑事は、幽霊を視る事が可能で。 何度も接触を試みる過程で、その能力が強く成っていた。 そして、年末に木葉刑事が二度目の入院をして。 越智水医師、清水順子、古川刑事の3人が来た事で。


∴悪霊と呪いを介して契約に至った者は、悪霊が呪われた者を殺すまで。 そして、呪った者を殺すまで。 何らかの形で、呪った者に映像を見せる事。 然し、不思議な事に。 何故か、木葉刑事と着物姿の初老の人物との会話は、通信に入らなかった。 これは、里谷捜査員に頼み、木葉刑事が盗聴器の在処を探して貰い。 その盗聴器を無効化にする機械を、密かに調達して貰ったからだ。


さて、茉莉隊員は、鏡を覗く古川刑事の背後に来た。


其処で、


‐ 茉莉、聞こえるか。 ‐


と、通信が入る。


(鵲参事官…)


鵲参事官の、珍しく強ばった感のする威圧的な声がする。


「此方、茉莉。 何でしょうか」


‐ 緊急措置だ。 今すぐ、古川刑事を殺せ。 ‐


遠巻きにして、逃げ道を塞ぐ様に周りに居る黒服の隊員が、茉莉隊員より驚いて古川刑事を見る。


「・・・」


黙った茉莉隊員は、


(古川刑事の退職願は、まだ所轄課長の所で止まっている。 現職の刑事を、言い訳が立つからと殺せ・・と?)


こう思う茉莉隊員は、以前に話し合った木葉刑事の事を思い出した。


“話したく無い、鵲参事官も既に知っている対処方法”


(そうか・・、そう言う事か)


怨んだ側と、怨まれた側が存在して、悪霊との契約は成立する。 ならば、どちらか一方を殺される前に消せば…。


理由を察した茉莉隊員だが。 古川刑事に、背を向ける様に顔を逸らすと。


「それは、現場判断から致しますと、承知し兼ねます」


と、彼女は冷静に対応する。


‐ 何だとっ、茉莉っ! 命令に逆らうのかっ!! ‐


鵲参事官の怒声を聞いて、茉莉隊員は更に覚めて行く。


「失礼ですが、鵲参事官」


‐ 何だぁぁぁぁっ?!! ‐


「古川刑事は、此処までタクシーで逃げ。 今、防犯カメラ二台に映る場所に居ます。 近くには、コンビニや飲食店も在り。 サッカーの試合の経過は解りませんが。 渋谷駅方面に向かう者も、向かいの通りに居ます。 こんな場所で発砲すれば、顔も見られた彼を殺すのですから、後始末は困難を極めます」


‐ ぐぅっ! ‐


返答を詰まらせる鵲参事官へ、茉莉隊員は更に。


「また、既に木葉刑事は警戒対象の‘G’と接触し、対処に動いている模様。 此処でこの人物を消し、その対処を失敗させた場合。 更なる被害者を出す事に成りましょう。 また、今に彼を消して時間を稼げる可能性は、どれほどでしょうか?」


‐ 何ぃ? ‐


「契約は、既に成立して居ます。 依頼者を消したとして、警戒対象‘G’が暴走したり、怨恨の対象者を殺害せずと猶予を得る可能はどれほどですか? もし回避したとして、次の事件までどれほどの時間が稼げる可能性が見込まれるのですか?」


‐ ………。 ‐


「鵲参事官。 木葉刑事が対処を失敗し、彼が亡くなって警戒対象‘G’が暴れるのと。 我々が殺人を犯し、事態を引き伸ばすのでは、どちらが最善ですか?」


覚めた小声ながら、茉莉隊員の話に鵲参事官が反応しない。


(やはり、感情的に成って、判断を焦っている)


茉莉隊員は、鵲参事官が焦りから殺す事を決めたと察した。


「鵲参事官、本当に時間稼ぎに意味が在るならば、今すぐ消しますが。 生存した時に木葉刑事が、我々から遠ざかる事も考慮しても、この処置は必要ですか? 必要ならば、再度に再考の末に命令を」


茉莉隊員は、サプレッサー付き小型拳銃の在る懐へ静かに手を伸ばす。


これまで女性として茉莉隊員を見下していた坊主頭の大柄隊員は、


(アイツ、本気で刑事を消す気か?)


と、目を見張る。


処が…。


‐ 此方、警察庁長官の太原だ。 ‐


その威厳の在る低い声に、緊張した隊員達が驚きを込めて身を正す。


「此方、現場の茉莉です」


‐ 警戒対象‘G’と、木葉なる捜査員が接触しているのかね。 ‐


「はい。 警戒対象‘G’に暗殺を依頼した人物が、その模様をどうやら観ています。 残念ながら、我々には見えない模様。」


‐ そうか、ならば経過観察に務めよ。 無駄な殺人は、控えろ ‐


「はい」


拳銃から手を離した茉莉隊員は、周囲の警戒を指で示す。 だが、その内心では驚きが渦巻く。


(何故、長官が直々に出て来た? 鵲参事官が、長官付き参事官と成ったのは、長官の肝煎り?)


現職の警察庁長官の太原は、これまでに一度もこの特殊事案で出張った試しが無い。 この‘G’事件には、鵲参事官が最高責任者で。 データ管理や存在隠蔽には、三叉局長が口出しする程度なのに…。


その後、直ぐに黒いSUVが二台到着して、古川刑事と茉莉隊員の姿を隠す。


さて。 周りで、自分を生かすか、殺すかと云う相談をされているのに。 それに気付かない程の真剣さで、古川刑事は手に持った手鏡を食らいつく様に見る。


彼の持つ手鏡の中では、木葉刑事と悪霊の根比べは、まだ続いている。


この短い間に、また70以上の火の霊を吐き出させて居る。 東京の拘置所、刑務所で殺害された者。 また、振り込め詐欺の被害者と加害者達の魂を吐き出させるだけで。 見る見る彼が疲れて行くのが、目に見えて解る。


今は、額に血管を薄っすら浮かべ。 頬を伝う幾重もの汗の筋が顎に集まって滴り落ちる木葉刑事。 時折、声がくぐもったり。 また、疲労を感じる苦しみからか、詞を唱える声が途切れ掛けるが。


「ハァ・・ハァ・・ハァァァァァ…」


乱れた呼吸を整え、大きく深呼吸をして。 再度、気力を持ち直し、また詞を唱え始める。


その頃、一方では。


烏神神社の本殿にて、手で印を結ぶ寡黙神主が慰霊祭などで唱える詞を唱う。


本殿の中に設けられた円陣は、御札と蝋燭に因り築かれている。


処が。 蝋燭に灯る火が、風も無くぶれて動く。


一緒に居る越智水医師は、その様子の他。 御札がピラピラと震えたり。 本殿が、震度の小さい地震に襲われたりと。 ある種の怪奇現象ともとれるものに襲われているのを見ていた。


(強い怨念の力が、地霊慰霊の儀式をする寡黙神主に、刃向かっているのか。 嗚呼っ、木葉君は、大丈夫なのだろうかっ!)


改めて怨念の強さを感じ、木葉刑事が心配に成る越智水医師。


然し、詞を唱う寡黙神主は、脂汗を落としながら。


「やはり、あの木葉さんを置いてほ・他に、この作業を出来る者は、知る限りに居りません」


と、喋るではないか。


「寡黙神主。 木葉君には、それほどの力が?」


額を手の甲で拭い頷いた寡黙神主は、何故か黒く変色した南東側の御札に、新たなる御札を乗せながら。


「潜在的な力もそうですが。 あの悪霊の中に取り込まれた魂の一部は、彼を知っている者が居る」


と、言った直後。


「あっ! また、数多くの魂が、悪霊の中から出た…」


木葉刑事が悪霊を鎮め様としている方を見て、寡黙神主が続けて言った。


それに合わせ、越智水医師もその方向を見る。


(木葉君、私も此処から祈って居るぞ。 何の助けにも、成らないかも知れないが。 君の為す事の成就を、祈る)


と、念仏を唱えるのだった…。


さて、寡黙神主の言う通り。 木葉刑事の祈りは、また悪霊から魂を吐き出させる。 新たに吐き出されたのは、七海医師等。 順子や越智水医師が居る大学病院にて、悪霊に殺された3人の医師の魂だ。


その様子は、恰もこれまでの事件を遡る様で。 3つもの火の霊が飛び出した事で、膝がフラつく木葉刑事だ。


然し…。


(ま・まだぁ・・・まだ彼女まで・・、終わってないっ!)


と、気持ちを奮い起こした木葉刑事だが。


それは、怨念の放つ力なのか…。 木葉刑事を囲う地面に配った御札が、ジワリジワリと黒焦げる様に。 書かれた詞を掻き消す様に、見えぬ何かの力で変色してしまう。


悪霊の彼女を封じた木葉刑事だが。 その力は、木葉刑事が口ずさむ詞と、彼の霊能力がそのまま関わっているらしい。 木葉刑事が感じる圧力は、悪霊の持つ怨念が精神を責めるからで在り。 彼の身体に感じる緊張感は、木葉刑事を殺そうとする悪霊の殺意とせめぎ合うからだ。


火の霊を一つ出させる度に、木葉刑事も力を削り取られる様な、脱力感と疲労感を受ける。


だが。


(佐貫さんと、約束したんだっ! この彼女を助けなければ、広縞の事件を終わらせた事には・・成らないっ。 哀れな霊を、こんな悲しみに縛らせたままでは、ダメだ。 か・母さんの様に、永く泣かせる訳には・・・行かないっ)


この命を捨てる覚悟は、出来ている。 然し、やはり死ぬほどの絶望と、命を奪われる怒りや悲しみは、並大抵のものでは無い。 木葉刑事の能力が潜在的に強かろうとも。 呪いの力に取り込まれた魂を引っ張り出す為には、強い信念と覚悟を朦朧とさせる程の代償が必要ならしい。


そして、新たに懐から御札を出して、色の変わった御札の上へ撒くと。 荒く成る呼吸を整えて、腹へ力を込めると。 強く念じる様に、詞を唱える。


さて、それから願いながら、幾度も詞を繰り返し口ずさむと。 また、悪霊の身体がブルブルと震え、火の霊を吐いた。 それは、詩織も入学した‘聖凛学園’の生徒にして。 苛められた横川なる生徒と、苛めていた生徒の魂が併せて4つ、次々に吐き出される。


その魂が、紙の人形に次々と吸い込まれると…。


「ハァァァ…」


憔悴する顔が物語る様に、意識が朦朧として力が抜け、崩れ落ちそうに跪き掛けた木葉刑事。


(ま・まだぁ・・、残って・・・るぅ・の・・にぃ)


気を失いそうになり。 退院したばかりの身体を酷使するツケが、彼の意識を闇に引きずり込もうとする。


処が。


悪霊を、片目が潰れそうな開き加減にて、何とか見詰める木葉刑事の左側に。 ボワっと、仄かに蒼い炎が燃え上がる様な光が…。


(え?)


重く、何かが圧し掛かったかの様な首を動かし、顔を何とか向けた木葉刑事。


だが、その光を見た瞬間だ。 あれほどに、開くのが辛かったはずの片目が…。


(なっ・・何で?)


ガッと開いたその視界には、一時だけ嫌でも顔を突き付けていた、木葉刑事の‘相棒’が立って居る。


「ゴルァァァっ、木葉ぁぁぁっ! これぐらいで、オメェはくたばる気かっ?!! 〔命懸け〕って言葉を一番にナメてんのは、テメェじゃねぇかっ!!!!!!」


その怒鳴り声は、とても懐かしい声だ。


「さぬ・さ・・佐貫さん」


思わず涙が浮かぶ木葉刑事に、亡くなる前の姿の佐貫刑事が。


「馬鹿っ。 男が男に泣いてどうすんだっ! 女じゃあるまいしっ、さっさと立てっ」


相も変わらずの物言いで叱られた木葉刑事。 歯を食いしばって立つと、佐貫刑事も隣に浮かび上がって。


「全く、何時までも独り立ちしねぇ~ガキだぜ。 お前が、さっさと始末を着けねぇ~と。 俺は、あの世でアイツにも逢えねぇゼ」


少し、気恥ずかしそうに、最後の言葉を言う佐貫刑事は、その顔を悪霊に向け。


「木葉。 先ずは、あの彼女から助けたれ。 まだ、中には厄介な魂が居る。 さ、俺が手を貸してやる。 相棒だから・・仕方ねぇ」


その声を聴くだけで、木葉刑事の意識が澄んで行く。


頷いた木葉刑事は、額の汗や目に溜まる涙を袖で拭いながら。


(願わくば、もう一度、逢いたかったと思ったけど。 まだ、助けられてたンスね)


弱々しく苦笑いした木葉刑事は、気を失い掛けた事で萎れる様に変色した、指に挟まれた御札を落とし。 新たな御札を懐より手にして指に挟み込む。


また、祓詞と鎮魂の詞を繰り返し始め木葉刑事。


その木葉刑事を抱え支える様に、傍に立つ佐貫刑事。


すると・・また。 悪霊の身体が激しく震え、喘ぐ様に、悶える様に、苦しむ様に、足掻く様に成り。


‐ ごぼぼぼぼ・・げぇっ!!!!!!!! ‐


苦しむ悪霊の口から、2つの火の霊が飛び出して来る。


一つの火の霊は、スルッと紙の人形へと吸い込まれて行くが。


もう一つの火の霊は、木葉刑事の面前に留まった。


木葉刑事の視界には、助け様としたのに、助けられなかった女性の霊が居る。


「わる・かった・・ね。 あの時、びょっ・病院の外まで・・・来てたんだ…」


結婚詐欺の被害に遭った事で。 怨みの念を持って、悪霊を呼び寄せてしまった彼女。 その魂の中の彼女は、非常に物憂げな顔ながら。


“知ってる。 来てくれて、有り難う。 刑事さんに、謝れなくてごめんなさい”


と。 霞む様な、ぼんやりした声音で伝わった来た彼女の言葉。


弱々しくも、頭を左右に振った木葉刑事。


「な・にも出来ず、こっちこそ・・ごめん。 さ・・さ、人形の・中へ。 後で、神職の・方が、や・やすらげる様に・・して・くれる・・・から」


微かに頷いた彼女は、消え行く様に紙人形へ。


然し、依然として佐貫刑事の顔も、木葉刑事の顔も、真剣そのもの。


「さぁ、木葉。 こっからは、只の魂じゃねぇぞ」


頷いた木葉刑事は、先程に御札と共に地面へ出した水のペットボトルを拾い、零す事も厭わず飲んでから。 何度も、何度も深呼吸をして…。


「はい・・佐貫さん。 広縞の、ぎ・犠牲者の遺族は、既に・・怨霊。 はぁ・はぁ…。 此処からはぁ、更なる別の詞で・・祓います」


と、言うと。


大きく呼吸を吸って、ゆっくりと吐き出し。 細かく吸って、ゆっくりと吐き出し。 徐々に、その呼吸を整えると…。


「佐貫さん、遣ります。 強烈な・・・反撃も在りましょうが。 この命を懸け、試みます」


そして、御札を挟む指を握り、瞑目すると。


「あま・・てらしますすめおおみかみ…」


と、口ずさむ詞。 己の身体の感覚を清め高める、そうゆう祝詞なのだと云うもの。


怨霊と化した魂は、浄化を拒み。 その昔から鎮魂へ導こうとする術者に、襲い掛かると云う。


その怨霊から身を守り。 気持ちを揺らがない様にと、昔に叔父の恭二がこの詞を教えてくれた。


唱え終える木葉刑事は、以前に唱えた事の在る。 ‘鎮魂歌’と云うものを、悪霊に御札を持つ指を向けて唱え始めた。



「アメチ オオオ オオオ オオオ


天地ニキ揺ラカスハ


サ揺ユラカス


神ワカモ


神コソハ


キネキコウ


キ揺ラナラハ…」



木葉刑事が詞を口ずさむと。 遂に、激しく暴れ出した悪霊は、一度は屈して上向けた顔をまた木葉刑事へ戻した。 そして、その汚い血の唾液を垂れ流す口を開き、木葉刑事を睨む様に凝視した。


その後、刹那して。 突如、地面の表面を剥ぐ様な、見えない力の波が木葉刑事へと襲い掛かった。


「ぶぅぅぅぅーーーーーっ!!!!!!」


全身に鉄板でも投げつけられた様に。 気張る為に吸った空気を衝撃を受けた所為でか。 全身から吐き出しては、大きく体勢を崩してヨロめく木葉刑事。


「ちきしょうめっ!!」


一方、二人して飛ばされまいと、彼を支える佐貫刑事が。 一瞬、消し飛びそうな程に霞んだ。


だが、フラフラっと体勢を整える木葉刑事は、鼻血を流し始めたが。


「ア・メチ・・ オ・オオ オオ・・オ オオオ…


石ノ上・・


布瑠社ノ


太刀モガト


ねが・・願フ、其ノ児ニ


其ノ奉ル…」


と、唱え始めた歌を止めない。


‐ やめ・・やぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁめっ・ろぉぉっ!!!!!!!!!!!!!! ‐


今度は、耳をつんざく大音量の、恐ろしい声を張り上げて。 また見えない力を、辺りにバラ撒く様に飛ばした悪霊。



木葉刑事の肩を掠めた力は、衣の一部を千切り飛ばして、皮膚も削り。 耳の上を掠めては、髪の毛を千切り、耳の先を1センチほど切り割った。


周りに飛ぶ力は、この結界と化す領域に入っている木々をヘシ折り。 石で出来た灯籠も、水の溜まる石の手水場をも粉々にした。


木葉刑事が詞を唱うと。 何故か苦しむ様に悪霊は暴れ、力を飛ばして来る。


“これは、効果が有る。 だから、悪霊もこんなに逆らって反応するんだ”


そう理解した佐貫刑事は、木葉刑事を支えながら。 時には見えない力に身体を張り、その力を別方向にねじ曲げる。


だが、どうやら幽霊と云う存在にも、何らかの力の限界が有るらしい。 木葉刑事を守る佐貫刑事の姿が、見えない力を追いやる度に、一瞬霞んでから次第にぼやけて行く。


さて、木葉刑事が鎮魂歌を終えて、新たな詞に入ろうとした時に。


‐ そぉぉれぇぇぇばっやぁぁぁぁぁめぇぇぇぇぇぇぇぇろ゛ぉぉぉぉぉぉぉぉぉっ!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!! ‐


呪うと云う念が、おぞましい響きの叫び声に変わった時。 爆発的な見えない力が、辺り一面へ無差別的に飛ばされる。


「不味いっ!!」


直線的に飛んでくる力のとても強い波動を感じた木葉刑事は、思わず佐貫刑事と人形を守って、前に踏み出し手を出した。


ギリギリ結界の中に入るブロック塀を粉々にして、5メートルを超える木をバラバラにする、見えない力。


それを直接受け止めるなど、生身の人間では自殺行為。


「バカっ、木葉っ!」


姿の薄く成る佐貫刑事が、庇った木葉刑事を退かそうとした。


処が、だ。


“木葉がぶっ飛ばされる!”


と、佐貫刑事は掴み掛かったのに。


「・・あ?」


木葉刑事は、何故か飛ばされず。 直線的に飛ばされた見えない力は、2人の少し前で四方に勢いを分散させる。


“一体、何事か”


と、刑事の2人が前を見れば…。


何と、木葉刑事と佐貫刑事の目の前には、もう1人のぼやけた霊体が現れていた。


切れ長く細い目、長身の上に痩せ形。 黒髪を真ん中分けにして、妙に長めにする中年男性が2人の前に立っていた。


ぼやけた佐貫刑事だが、その人物を見ては驚く顔をして見せて。


「え? あ・アンタ・・恭二さん・・か?」


一方、相手が誰か、後ろ姿で解る木葉刑事。


「お・・じさん」


と、その男性を呼んだ。


何処か物憂げな、それでいてニヒルさが漂った中年男性は、身体を半身にして2人を見ると。


「舜〔しゅん〕。 こんな強大な霊体に、お前まで関わってしまったのか」


と。


昔から、木葉刑事の名前を呼ぶ数少ない人物は、動けずとも強い瘴気を撒き散らす悪霊を一瞥。


「この霊体は、このままでは東京の街を呪うだろう。 舜、早く〔魂鎮めの詞〕を遣いなさい。 お前の潜在的な力を持っても、全てを浄化する事が出来るかどうか、それは解らないが…」


こう言った中年男性が佐貫刑事を見ると、間を空けた形から。


「私と彼で、その間のお前を守ろう」


と、言った。


その言葉に、存在が薄く成った佐貫刑事は、ニヤリとしたが。


「木葉。 だが、残された時間は少ないぞ。 成仏させるまで、死んでも気張れっ」


佐貫刑事も、悪霊を縛る鎖とも云うべき御札が、暴れる事で千切れ様としていると解った。


悪霊に、御札を挟む指を向けた木葉刑事は、


「叔父さん、有り難う。 では、さ・佐貫さん。 肩を・・借ります」


そして、気を張る為に集中すべく。 瞑目する木葉刑事は、痛みや疲労で疲弊する身体を圧し。 再度、呼吸を整えると・・。 いきなり、強く見開いた眼を凝らして。


「青龍っ


百虎っ


朱雀っ


玄武っ


空珍っ


南儒っ


北斗っ


三態っ


玉如っ!」


鋭く裂帛した声で、悪霊の身を斬る様に指を動かす。


暴れる悪霊だが、木葉刑事のその指の動き一つ一つに因り。 まるで時間を止められる様な、磔にされて行く様な動きを見せた。


然し、弱りながらも、悪霊は暴れる。


次の動作へ移る木葉刑事へ飛ぶ見えない力は、新たに現れた叔父の恭二と佐貫刑事が振り払う。


短い闘いで、また悪霊が動けなくなる。


すると、悪霊へ近付いた木葉刑事。 既に、男女の区別が無い、躯の様な身体の悪霊だが。 対面して握手も出来る程に近付いては、その悪霊の腹に掌を当てた。


そして、


(彼女に、まだ・・塵の様でも心が在るならば…)


寡黙神主が、唯一の希望と言ったもの。 佐貫刑事も聞こえなかった、木葉刑事のみが聴いた言葉。 木葉刑事と、悪霊にまで変化した彼女の間で、互いにその存在を知ったが故に生まれた、小さな繋がり。


それが、木葉刑事を此処まで奮い立たせる、小さく幽かな一条の光に照らされた、最後の希望を見た道だった。


大きく、息を吸い込んで。 小さく、短く吐く。 小さく、短く息を何度か吸い込んで。 深く、吐く。 最後に、強く長く、三度の息を吸ってから。


(絶対に、鎮めるっ!)


命を賭す気合いを想い、その口を開いた。



「憎む御霊よ 迷える御霊よ


どうか そのみみを貸し給え


めいどへ逝くこと 拒むなかれ


冥へ還ること 否するなかれ


冥へ立つ旅 頑な拒むもの


憎怨のさわりに魂委ね


慰み偲ぶ声 何故に退け様か


暫く 暫く あい待たれ


平に 平に 思にひた


末は総て 静寂しじまへ下る


黄泉平坂へ 深淵へ


呪うなかれ 縛られるなかれ 集うなかれ 聴を鬱ぐなかれ


手を捕り賜え 声を聴き賜え 想い汲み捕り賜え 歩み依りを拒むなかれ」



この、木葉刑事が唱えるのは、〔形代の鎮魂祓えの儀〕《かたしろのちんこんはらえのぎ》の中でも、いち早く古き頃に野へ埋もれた術らしい。


実は、破戒僧や破門の陰陽師が生み出した術の中には、強い作用の代わりに。 術者の魂と敵と成る亡者を天秤に掛ける。 〔破邪・魂引換ノ法〕《はじゃ・たまいんかんのほう》と云う禁忌の術が在る。


〔祓えの儀〕の中でも、闇に埋もれた異端の秘術だ。 この秘術の利点は、潜在的な能力を持つ素人でも、術の成立が可能だが。 一方で、身を守り定められた流れを無視し、敵対する相手と魂を掛けてヤリ合うと云う。 命を常に失う危険に、身を置く必要が在る。


此処までで、幾度も厳しい緊張を強いられた彼だ。 普段の彼からすると今は、10歳は老けて見える木葉刑事。 頬に血色が無く、目じりに隈を浮かべ。 頬や耳や肩には、怪我が在る。 既に、全身が疲労困憊と言って良かった。


それでも、抉り出された様な赤い眼の悪霊を見据えて、木葉刑事も眼をギュッと厳しくし。


「絶対に、貴女を助ける。 貴女の‘助けて’は、俺の心に届いたよ」


と、声を掛ける。


そして再度、九字の法を繰り返す木葉刑事は、また震え出す悪霊へ語り掛ける様に。 再び手を彼女の腹に当てて、‘破邪・魂引換ノ法’を唱った。


すると、木葉刑事の右手が悪霊の腹部より動かなく成り。


「さぁ、この身体より出よっ! 怨みに拘り、祟りを為す哀れな魂よっ!」


と、また鎮魂歌を口ずさみ始める。


然し、また異変は直ぐに起こる…。


木葉刑事が、一つの区切りまで口ずさむ時。 一瞬だが、悪霊の全身が強く揺さぶられ。


‐ やぁぁっめぇろぉぉぉ… ‐


と、苦しみ暴れると。


「う゛ぐっ」


木葉刑事も何故か殴られたかの如く、フラついては呻くではないか。


その後も、鎮魂歌を口ずさむ木葉刑事と、悪霊の奇妙な蠢きが続く。


御札の撒かれた結界の中にて、それを見ている佐貫刑事は、次第にフラフラする木葉刑事の様子に何か嫌な違和感を覚えて。


「おい、木葉?」


と、掠れる曖昧な響きの声を掛けた。


だが、叔父の恭二が。


「佐貫、もう何を言っても無駄だ」


彼を見る佐貫刑事は、


「恭二さんよ。 どうゆうこった?」


と、問い返した。


木葉刑事の背を、鋭い視線で見る叔父の恭二で。


「舜の遣った術は、どうやら悪霊と自分の魂を突き付け合い。 どちらか一方が潰れるまで、殴り合う様な・・そんな両刃の術の様だ」


「潰れるまで・・な゛っ! 何だとぉっ?」


霞む霊体の姿をそのままに、恭二は木葉刑事の後ろを厳しい眼で見続けながら。


「もはや、舜と悪霊の繋がりは、そう易々と切れない。 もしもの時は、私と君の2人で、潰される舜の肩代わりをするしかない」


「ふんっ! 上等だ」


意気込みを見せた佐貫刑事だが。


目を瞑る恭二。


「佐貫。 もし潰される肩代わりをしたら、我々の様に弱った魂は、その場で消し飛ぶ。 冥界に堕ちても、思念すら遺らないぞ。 私は、誰に会いたいだの無いが。 君は、それでいいのか?」


すると、それは生前の様に、適当な笑みを浮かべた佐貫刑事。


「あの時、病院で木葉に付き合った時点で、そんな淡い期待は捨てた。 第一、アイツにあの化け物の始末を頼んだ、この俺だ。 出来る限り、アイツの今を助けなきゃならんさ」


すると、恭二も目を開き。


「性格は、お互いに違うのに。 舜にしてしまった事は、同じみたいだな」


「あ? ‘同じ’ぃ?」


「あぁ。 幽霊の視える舜に、ついつい余計な事を教え過ぎた。 彼の母親に、頼まれて居る様で…」


その言葉に、佐貫刑事も目を細めて。


「アンタ。 木葉の母親の事が・・視えていたのか?」


静かに、頷いた恭二。


「舜は、嘘を君に教えた。 それは、彼が刑事と成って真相を知るまでは、父親と同様に居なくなった母親を、心の何処かで憎んでいたからだ」


「おまっ・・お前! 何でっ、死ぬ前に早く教えなかったっ。 アイツは・・、永らく苦しんだだろうがよっ!」


すると、また頷いた恭二。


「正直・・迷って・・・迷い抜いたよ。 舜には、真実を知る権利が在る」


「そうだっ」


2人の話の中で、木葉刑事と悪霊の精神的な魂の殴り合いは続く。


仕掛ける木葉刑事は、悪霊の中に居る被害遺族の怨念を外に吐き出させようとし。


既に、怨霊と変わっている遺族等は、木葉刑事の魂を責めて苛なませる。


“もう、広縞は亡くなった。 あなた方が怨むべき相手は、居ないのだっ”


と、想いながら問う木葉刑事。


鎮魂歌を口ずさんで居ながらに、怒り狂った霊達を宥める。


然し、怨霊達は、


“憎いっ! 広縞もっ! 世間もっ!”


“恨めしい・・・、生きている全てがっ!”


“広縞っ! 広縞っ! それだけじゃない・・、警察もっ。 マスコミもっ!! 世間も憎いぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃ”


と、木葉刑事へ咎め立てる。


そんな木葉刑事を見詰める恭二は、当時を思い出して。


「兄に‘後ぞえ’が出来る前から、舜の事を兄が嫌ってしまった。 その後、後妻に入った女性が、舜と腹違いの弟を身籠もった時。 舜の生活は、一変した」


聴いて居る佐貫刑事は、非常にやるせない。


「裏切られたと思ってちゃ、なまじ半分血が繋がってるだけに。 可愛さが転じて、憎しみに変わったってか・・。 チッ」


「あぁ。 全ての事情を、去る前の舜の母親から聴いて、唯一知っていた祖父と。 後に、その彼女が関わった凄惨なる事件を、調べて終わらせた私以外。 亡くなった舜の母親の事実を知る周りの者は、誰も居なかった」


木葉刑事の母親が巻き込まれた事件と、彼女が夫と子供を守る為に命を捨てた事件を聴く佐貫刑事は。 何故、木葉刑事があんなにも事件に対して冷静だったのか、漸くその答えを見た気がした。


「恭二さん、何でっ・・木葉にそれを早く言わなかった? 例え人殺しだろうと、それは変えられない事実だろうが。 逆に、命懸けで男と子供を守った、1人の人間だった筈だろうがよっ」


頷く叔父の恭二は、酷く虚しい顔をする。


「・・確かに。 だが、言えなかった…。 舜を見守る、彼女の霊を見る度に。 嘘を吐いてまで、1人であの犯人に立ち向かった彼女を、舜にどう説明していいか…」


すると、自身もヤワな人生を送って来た訳でも無い佐貫刑事だから、何となく解り始めて来る。


「事実を伝えりゃ、木葉が苦しむ・・か」


「あぁ。 周りに、理解者がほぼ居ない日常で、その事実を伝えても…」


「チッ」


舌打ちして、木葉刑事を見守る佐貫刑事。


(何て話だっ! 事実が殺しじゃ、浮気で消えようが、守る為に消えようが。 木葉以外には、大して変わらねぇ。 いや、感じは後者の方がいいが。 罪を問うなら、前者の方がありふれてて楽だ。 木葉の奴、ガキの頃は羞恥に晒され。 大人に成って事実を知り、テメェの憎んだ罪に苛んだのか。 道理で、若い割には内面が練れてる訳だ。 然も、幽霊なんてモノが視えりゃ、そりゃ~考える事も研かれるわな! クソっ)


こう考える佐貫刑事だが・・ふと、恭二を見る。


(コイツも、そう考えると・・似た部類か。 知らなきゃ解らんが。 知ると、自分の空回り感がマジで恥ずかしいな)


そんな2人の兄貴分が見守る中で。



木葉刑事は、悪霊の胸元辺りから怨みに歪んだ顔を張り出す様に、掴み掛かって来た老婆へ。


“あんな風に亡くなった、お孫さんですよっ! そんな彼女を遺して、何時まで此処に居る気ですかっ? お孫さんは、まだ・・あの現場で泣いている。 憎むべき相手は、既に消えました。 貴女も、逝くべき所に、逝かなければ…。 お孫さんを、待って遣らなければ…”


こうして、木葉刑事が一人一人に諭す事で。 暴れる六人の遺族は、此処に命を奪われた自分の身内が居ない事を、ゆっくりと悟って行く事に成る。


遂に、足下がグラグラする木葉刑事を前にして。 悪霊からの反発が、ほぼ消えて震えるのみと成る。


(今だ)


心臓が傷む程の、強い緊張感と重圧。 それでも、この者達を、罪にのみ責めては成らないと。 まだ、彼が見守って遣らなければ成らない大切な存在が、遺っていると。 諭し慰める想いを込めて、鎮魂歌を口ずさむ木葉刑事。


すると。


(ん?)


佐貫刑事は、辺りを取り巻く闇の力に因る領域に、小さな変化が起こったのを見た。


辺りの闇色の結界が、竜巻が渦巻く様な光景から、砂塵が吹き荒れる様に少し収まって行く。


この変化に、木葉刑事を見守っていた恭二が。


「舜がやったぞっ! 怨霊達が、悪霊の身体から出るっ」


その言葉に、佐貫刑事も目を凝らす。


すると、もがいて震える悪霊の身体からヌルヌルっと滑り出す様に。 呪いの儀式をして、変死を遂げた被害者遺族達が、吸い出される様に抜け出て来た。


その魂とも云うべき霊体の姿は、只々に無念そうで。 1人・・1人と、紙の人形に吸い込まれて行く。


そして、遂に。


‐ おおおのぉぉぉれぇぇぇっ!! 何でぇっ、私の邪魔をするのぉっ!!!!!!!!!!!!!!!!!!!! ‐


人間の女性の声ながら、激しい怒りや怨みの籠もった言葉が共鳴して爆発する様に聞こえた。


悪霊の中に残された最後の魂が、上向いた顔を前を向けさせたのだ。


然し、此処に来て。 全身で息をして、その場に跪いてしまった木葉刑事。 彼は、大粒の汗を流して、衣から袴まで湿らせる程に、疲弊し切ってしまった。


一方、やや元の人の姿に戻った悪霊は、力が抜けた木葉刑事に襲い掛かる。


それを見た霊魂の佐貫刑事と、叔父の恭二は慌てふためく。


「おいっ、恭二っ!」


「佐貫、慌てるなっ! 魂が同化して、無理には引き剥がせないっ。 舜にっ、引き離させるしかないぞ!」


「わ゛っ、解ったっ!」


2人が、対処を確認し合うのだが。


一方の悪霊も、最後の抵抗をする。 御札で繋ぎ留められた手を引き剥がし、木葉刑事に掴み掛かった悪霊は。 髪の毛を木葉刑事の身体に絡ませ始めつつ、その彼の首に両手を掛けた。


木葉刑事の顔を上向かせながら、顔と顔を突き合わせた悪霊の彼女。


これは、既に〔鎮魂〕は失敗したと。 木葉刑事へ間近にと迫る、佐貫刑事と叔父の恭二。


だが、異常に伸びて絡まる髪の毛に包まれた木葉刑事の右手が力強くパッと開いて。 叔父と佐貫刑事に差し出された。


‘待て’


そのサインに、2人が思わず止まる。


そして、顔を突き合わせた悪霊へ、木葉刑事はグッと抱き付いた。


「木葉っ」


「舜っ」


2人の霊体が、その行動で驚く中。


悪霊の彼女へと抱き付いた木葉刑事は、


「君でっ、最後だった…。 広縞に殺された遺体は、君が…」


と、泣き声に近い声で言う。


木葉刑事は、広縞の行った事件の犠牲者を、全て遺体や写真で見ている。 どの女性の姿も無惨で、其処に犯人が向けた物は、欲望や狂暴性ばかりだった。


そして、最後の被害者が、この彼女で在る。 まさか、怨霊に成るとは思わなかったが。 あの歪みきった顔を見て、広縞と云う見えない犯人を捕まえなければと・・、切に思った。


然し、木葉刑事の無念や懺悔を前にしても、赤いビー玉の様な目は木葉刑事を睨み付け。 その首を絞める手や異常に伸びて、木葉刑事に巻き付く髪の毛は、止まる気配が無い。


事態は、急を要する。


だが、その心に、嘗て亡くなった或る女性を想う木葉刑事。 不思議な程にハッキリとした口調にて、まだ言い続ける。


「葉月 美桜さん。 君の霊を視た時、最悪の事態を・・想定したんだ。 その想定は、現実に成ってしまったっ。 貴女を助けたくて、広縞を捜したのに・・。 無能な自分は、貴女に先を越されてしまった…。 貴女にっ、う・怨まれなければ成らないのは、誰よりも自分が、先だ…」


この、木葉刑事の話に、佐貫刑事は心底から驚いた。


「何を言ってんだっ、この青二才っ!! そんな事を言ったら、俺なんざ10回は殺されなきゃなんねぇぞっ!」


叫ぶ佐貫刑事に対して、黙る恭二。


(舜、お前は・・。 まだ、許せてないのか。 母親を恨んだ自分を、一時なりとも父親の怒りに流された、自分自身を…)


冷静だが、自分に負い目を背負い込みがちに成る木葉刑事。 その性格の根本には、やはり両親の影響が潜んでいるのか。


木葉刑事の首に絞まる手が、ギュッと力を込めた。


然し、それでも木葉刑事は、まだ繋がる片手に気持ちを込めて。


「まだ・・、貴女の声が・き・・聞こえ・る。 てっ、手を・・。 助けるから、・・手を取れぇ…」


苦しみながらも、まだ彼女を思っているらしい。


そして、それは只の思い込みでも無い。 何故ならば、木葉刑事の片手に伝わる、悪霊の彼女の中からの音には。 何処か、幽かに遠く。 遥か遠くから、


‘助けて’


と、云う声が聞こえていた。


(美桜さんっ! て・手を・・手を掴んでくれぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇっ!!!!!!!!!)


心から大声を掛ける木葉刑事。


「木葉っ、何をやってんだっ」


慌て飛び付く佐貫刑事は、木葉刑事の全身を包もうとする悪霊から伸びた髪の毛を、藪でも掻き分ける様に剥がそうとする。


然し、全てを悟った様に佇む恭二が。


「佐貫っ、もう・・無駄だ」


と、諦めるのだが…。


「あ゛っ? 何が、‘無駄’だっ!!!!!! コイツ以外にっ、誰がこの女を助けられンだっ!」


佐貫刑事は、がむしゃらに怒鳴り返す。


やはり、これも経験や性格だろうか。 一度は、刑事を辞めてでも好いた女性を取ろうとした男は、実に熱かった。


「チキショウっ、チキショウっ!!!! テメェの魂を助ける為にっ、此処まで命張っる男をよぉ! この期に及んでっ、逆恨みで絞め殺すッてかぁっ?!! おいっ、女ぁぁっ! この優し過ぎるっ、バカ木葉の声をっ、聴けぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇっ!!!!!!!!!!!!」


髪の毛を掻き分け、首に掛かる手を探す佐貫刑事。 悪霊の瘴気しょうきと触れ合う佐貫刑事の身体は、火花を生む様に少しずつ削れて行く様に成る。


その様子を見た恭二は、


(佐貫・・お前…)


生前は、余りやる気の無い彼ばかりを見ていた叔父の恭二からすると、この様子は驚くべき変わり様だ。


一方、一心不乱に慌てる佐貫刑事は、木葉刑事の首に回る手を掴むと。


「木葉ぁっ! 有りっ丈の力でっ、叫べぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇっ!!!!!!!!!」


自分が、


“この幽霊をどうにかしろと”


と、去り際に言った佐貫刑事。


今、木葉刑事の心情を新たに知り。 また、悪霊の中で泣き叫ぶ、哀れな魂の悲鳴を聴いていたからか。 彼もまた、木葉刑事同様に、何とかして救ってやりたいと思う。


そして、この佐貫刑事の怒号は、気を失いそうな木葉刑事には、何よりも強い気付け薬で。 また、絞まる手が緩められた事で、木葉刑事の意識は起こる。


「みおっ・・美桜さんっ! て・をっ。 俺の手をっ、取ってくれぇーーーーーーーーーっ!!!!!」


喉を潰さんばかりに、大絶叫を上げた木葉刑事。


その時だ。 悪霊の腹に押し当てる木葉刑事の手が、ゼリーの中に手を突っ込む様に、ズブズブっと入り込んだ。


(な・んだ?)


どうしたのかと、木葉刑事は手を見る時。 その手に、仄かな温もりを感じるものが、ギュッと強く握られた。


(きっ、来たぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁっ!)


その感触を知った木葉刑事は、これが最後のチャンスと信じて疑わなかった。


「佐貫さぁんっ! 引っ張り出しますよぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉっ」


その掠れ始めて割れ掛けの声で。 首に回る悪霊の手を引き剥がそうとしていた佐貫刑事は、事態を悟る。


「任せとけぇっ!」


此処が正念場と、悟る佐貫刑事は振り向き。


「恭二さんよぉっ、手を貸せやっ!!!!!」


と、悪霊の手を引き離しに掛かる。


この時、木葉刑事の背後に来ていた恭二は、


「解った」


と、言うと同時に。


落ちていた一枚の御札を手にして。 木葉刑事の身体を取り巻く、悪霊から伸びた髪の毛を斬る様に動かしながら。



「鎮まれ 威霊の御霊よ


赦し賜え 咎人の怨念を


此処に口ずさむは


平穏


静寂


安楽


常世


八百万の神々より賜りし 鎮魂の御心を表する言霊…」


叔父の恭二が唱える詞は、触れた髪の毛の動きを止め。 絡み合う力が抜けて行く。


(今だっ)


思いっきり、握った手を引っ張った木葉刑事。


悪霊の腹部より抜けた木葉刑事の手は、誰かの手を握っていて。


そして、グイグイと引っ張ると、木葉刑事の手と共に外へと出て来る誰かの腕が在る。


だが、異変が起こっていたのは、その手だけではない。 悪霊の身体が、何故か動きを止め。 虚空を見詰める様に固まったのだ。


そして、髪の毛が身体から離れた木葉刑事は、足に力を込めて踏ん張り。 その、自分の手を握る主を引っ張り出した。


また、同時に。


「どぅあっ!」


弾き返される様な反発を受けて、悪霊の手より身を離す佐貫刑事。 存在する霊体としての力を失い掛けた身は、仄かな存在で透けるのみ。


叔父の恭二も、御札を落とした。 既に、持てるだけの力が無かったのだ。


さて、木葉刑事が引き抜いた手は、青白く光っている。 見上げる高さに居る者と、木葉刑事の顔が向き合っていた。


「・・・」


目を瞑り、木葉刑事に手を取られているのは、河川敷にて広縞に殺害された女性だった…。


その顔が悲痛で、無念そうなのは、広縞に殺された所で、記憶が止まってしまったからだろうか。


息の荒い木葉刑事だが、彼女を見る眼差しは柔らかく。


「さ・・、あ・貴女も、人形へ…。 神主さんの所で、安らか・に・・眠って下さい。 その身に宿る怨念が・うっ・薄らげば・・、自然とまた・・・廻る時の中に・か・かえ・・還れるでしょう」


と、掠れる声で言う。


その一部始終の様子を手鏡で見ていた古川刑事は、


「やった・・木葉の奴めっ、あの化け物を鎮めやがった…。 やった・・やった…」


と、鏡を抱えて泣き出した。


彼の後方近くにまで近寄り、立って居た茉莉隊員はインカムに手をやり。


「統制部、聞こえますか? 此方、現場の茉莉」


‐ 此方、情報統制部。 何か、進展が? ‐


「今、仮の情報ですが。 警戒対象‘G’に、何らかの制御が届いた模様。 保護・観察指定対象者、古川刑事と。 相殺監視対象者の木葉刑事を補足次第に、双方から詳細な説明を求めます」


‐ 報告、了解。 此方からとしては、某大使の家族は、時間を少し前倒しして、無事にフライトしました。 日本時間の02:10時には、領海を出て行くと思われます ‐


「茉莉、了解しました」


通信を終えた茉莉隊員は、自分や他の隊員を濡らす雪を見上げ。


(私には、初めての‘G’が殺人に絡む事件だったが。 これで、全ては終わりみたいね)


と、安堵した。


これから、事件の収束を諮ると思われる鵲参事官だが。 太原長官が間近に居る以上は、総指揮は長官に成ると思われた。


そして、其処に。


‐ 此方、長官の太原だ。 ‘G’に制御が利いたならば、古川刑事を保護下に収容し。 木葉刑事を捜せ。 ‐


長官から、直々に命令が来た。


聞いた茉莉隊員は、


‐ 此方、茉莉。 命令、承りました。 ‐


他の隊員と見合う茉莉隊員は、頷いて確かめ合った。


然し、茉莉隊員には、不安が残る。 木葉刑事に、甘い行動を取った自分には、どんな処分を下すのか。 茉莉隊員の心配は、其処に向いた。



    ‐ epilogue ‐




【一つの終わりとは、新たなる一つの始まりと云う理】


      ‐ 外側 ‐



悪霊と成っていた被害者の女性は、木葉刑事の心により助け出された。 その様子を見ていた古川刑事の反応に因って、安心感を得た者が多い今。


だが。


「此処もっ? 一体っ、何がどう成ってる訳っ?」


闇の力に支配された在る一角。 その中の状況が解らないままに、その一角の周りを車で回り。 木葉刑事の居場所を、どうにかして把握しようとした者が居る。


それは、里谷捜査員だ。


然し、辺り周辺の脇道などに入っても、闇色の砂嵐の様な光景が阻む境目には、劣化した血の混じる雪が止んでいない事を知るのだ。


(中がどう成ってるのっ? 木葉さんが中に入って2時間近い。 これって、ちょっとでヤバくない?)


運転席に座って、色の変わったタオルで頭を拭きつつ。 車の時計を見れば、既に深夜2時を回っていた。


‘事態は、急を要する’


と、覚悟を決めた彼女。


仕方なく、木葉刑事から教わった茉莉隊員への連絡先に、連絡を入れる事にした。


一方で。


“そろそろ、古川刑事を連行しよう”


と、行動を起こす気に成った茉莉隊員。


先程、海外でのサッカーの試合が決着し、日本が代表として決まった今だ。 渋谷のスクランブル交差点に騒ぎが集中し。 終電も去った今時分では、人の往来も疎らに在る夜道にて。


(ん?)


自分の専用スマホに、振動が入ったのを知る。


(この連絡先を知っているのは、限られた者だけ…)


スーツの内ポケットより取り出せば、‘ジェーン・ドゥ’と云う相手先が見えた。


(‘身元不明’の女性名・・、質の悪い謝りの連絡?)


関係者で知るのは、木葉刑事だ。 その木葉刑事から、


“謝罪と報告が来たのでは?”


と、思い。 振動するスマホを操作して、


「もしもし?」


と、少し無機質な感じを込めて応えると。


「もしもし? 貴女、木葉刑事の公的ストーカーさんでしょ?」


と、聞き覚えの在る女性の声が。


「誰?」


声を低めて、探る様に問う茉莉隊員だが。


「こっちは、警視庁警護課の里谷よ」


相手が誰か察した事で、木葉刑事の協力者が直ぐに解った。


「貴女か。 彼に手を貸したのは…」


やや警戒心を強く持った茉莉隊員だが。


片や、少し興奮気味と云うか、焦っている里谷捜査員。


「それ処じゃないのよ。 木葉刑事を、彼の言った場所に連れて行ったんだけど…」


「何処?」


「それより。 彼が向かった所が、黒い闇の壁に囲まれてて、近付けないのっ」


「・・・何?」


意味の解らない茉莉隊員だ。 彼女には、霊感が無いので。 木葉刑事の行った場所がどんな所か、全く想像も出来ていないのだ。


だが、その眼で見ている里谷捜査員は、


「冗談じゃないのよっ! 然も、彼の行った場所の周りだけ、古い血の混じった雪が降ってるし。 この辺りだけ、誰も近付きたがらないのっ!」


と、現状を簡潔に伝えようとする。


然し、それはかなり一方通行な話だから。


「ちょっと、待て。 どうゆう意味だ?」


「いいから、貴女を迎えに行く。 すぐ近くだから、渋谷川の橋が掛かる先に、大きな交差点が在るでしょ?」


「其処に行けばいいのか?」


「そ。 ただ、木葉刑事の行った場所の中の情報は、私も何も無いからね。 命の危険は、覚悟してよ」


と、通話が切れる。


通話が切れたスマホを見る茉莉隊員は、


(木葉刑事の居る場所が・・何らかの影響で封鎖されている訳か。 その中を知る手掛かりが無いから、向こうは慌ててる・・。 ふむ、それならば、こっちの方が…)


その行けない中を、手鏡で見える古川刑事と云う存在が居る分だけ。 情報の質と量は、此方が上だと判断し掛けた彼女。


だが、其処に。


「木葉っ、どうした? こっちを見ろっ! また、悪霊が動き始めたぞっ!!!!!!」


突然、手鏡を覗いていた古川刑事が、何かを見てこう叫ぶ。


その古川刑事の声に目をギュッと凝らした茉莉隊員が、勢い良く振り返った。


「どうしたのっ」


鋭く問うのだが…。


何故か此処で、丸坊主の大柄な隊員が路上の先へと振り返る。


此方に走って来る車の光を感じて、茉莉隊員も片側一車線の道路の先を見た。


(アレは・・、我々の覆面車両?)


内装側の加工だが。 防音・防弾加工を施し、装甲護送車に改良した黒いワゴン車が、何故か此方へと向かって来ていた。



      ‐ 内側 ‐



さて、古川刑事の覗いている鏡の中・・。 詰まりは、悪霊の張った結界の中にて。


最後の魂を他の魂も宿る形代として用意した、紙の人形に誘おうとする木葉刑事。


然し、其処へ。 在る重大な疑問が呈された。


「処で、舜。 この悪霊に閉じ込められた魂は、この彼女で最後なのかね?」


と、叔父の恭二が問うた。


この瞬間に。


「え゛っ?」


何か、何かを感じたのだ。 救い出した女性の霊魂を見ていた彼だが、スゥ~っと焦点が定まらなくなり。 宙を見た木葉刑事。


然し、その内心では、


(な・何なんだ・・。 この、圧倒的な心配は…)


叔父の恭二からそう問い掛けられた時に。 木葉刑事の心臓が、有り得ない程に強く脈打った。


その鼓動から続いて湧き上がるのは、不安感・悪寒・気味悪さ・恐怖感など。 ビクッと身震いし、様々な負の感覚を覚えるあまりに。 ゾクッと背筋に走る震えが、そのままゾクゾクと止まらなくなり。 ガタガタと、小刻みに足へと伝わる。


そう、それはある種の恐怖感。 生まれて初めて、強い怨念を持つ霊体を見た時の様な…。


「まっ、ままま・まさ・・か?」


木葉刑事の記憶に、或る人物が浮かんだ。 だから、震えている。 そう、怨念達に殺されながら、まだ姿の見えない或る魂…。


恐る恐ると、悪霊の方へと振り返えろうとする木葉刑事の耳に。 叔父の、トドメを刺す様な言葉が入る。


「どうして、まだ悪霊の姿なのだろうか。 ‘威霊’のみと成るならば、ハッキリとした容姿など無くなる筈なんだが…」


振り返る途中で、それが耳に入って固まる木葉刑事。


(い゛・い・・居る。 もう一人、おおおおお・・・怨霊に殺された・・魂がっ)


その存在に確証を持った直後。 一気に、悪霊へと木葉刑事は振り返った。


この、彼の動作と同時に。


動かなく成っていた悪霊の顔。 その醜い表情の表面が、泥で作った仮面でも剥ぐかの如く、ボロボロっと崩れ落ちたではないか。


木葉刑事が振り返った時に、その崩れ落ちた後から現れた相手の表情を、しっかりと見た。


一方、悪霊の表情の崩れ落ちた後から木葉刑事を見返す新たな顔。


その、新たに見えた顔には、忘れたくとも忘れられない程に、見覚えの有った木葉刑事。 疲労困憊などと云う以上に、完全なまでに疲弊しきった彼なのに。 その眼を限界まで見開いたと共に、身体に残る有りっ丈の全身全霊の限りで。


「ひぃぃぃぃぃぃぃぃぃろぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉじぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃまぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁっ!」


“魂からの”、と云うべき怒号を吐いて。 砂だらけの御札を手に握り、ヨロヨロと走り出す。


処が。 悪霊の身体を繋ぎ留めていた御札が、一瞬にして灰と化し。 そして、被害者女性の魂を母体として居た前の悪霊の身体を、土偶でも割って飛び出すかの様に。 新たな顔を得た悪霊は、仄黒い息を吐いて空へ飛び上がった。


一方、


‘広縞’


この名に、霊体の身体が薄れる佐貫刑事も驚いて身を起こす。


「何だってぇっ? 奴がっ、どうしてっ?」


霞み、ブレる声ながらも、異常事態が起こったと察した。


一方、相手に驚き、空を見上げた恭二は。 その悪霊が、人間の完全体としての姿を持つのを、霊体ながら目の当たりにし。


「な゛・何と云う、酷いあ・あっ、悪意だっ。 怨みや憎しみではない、純然たる・・人間の欲望から来る悪意の塊だ!」


赤い光を眼に宿して宙に浮いた広縞は、あの醜い顔をニタニタさせて。


「イイもの、みぃ~つけた」


と、南側の空を向いて。


「〔怨み〕を殺人で晴らす途中ねぇ~。 ふん、試しに殺してみるか」


と、暗闇の中へ飛び消えた。


「あ゛っ」


「待てっ、広縞っ!!」


佐貫刑事と木葉刑事が、彼を追おうとするが。


恭二は、此処までの木葉刑事が負った疲労は、既に動き回る事など無理と知っていた。


「舜っ、もう動くな!」


と、鋭い言葉を放つ。


何を言うのか、と木葉刑事が叔父を見返す時。


「お・じ・・あ゛っ…」


辺りを包む暗闇の壁が、まるで霧が晴れる様に霞んで行く中で。 木葉刑事の全身に‘ドン!’と爆発する様に、痛みや疲労感が溢れ出す。


同じく、振り返った佐貫刑事の前で、地面に傾いて行く木葉刑事が居る。


「………」


白眼を剥いて、地面に突っ伏した木葉刑事。


「お、おい。 木葉・・、こっ木葉っ?!」


倒れた木葉刑事を心配しながら、消えた広縞の事が恐ろしく、焦る声を掛ける佐貫刑事だが。


「佐貫。 もう舜には、これ以上の戦いは無理だ」


叔父の恭二が、悔やむ声ながらに言う。


「あ゛っ? だがっ、奴が逃げちまったぞっ?!!」


言う佐貫刑事は、広縞らしき者が消えた空を指差した。


木葉刑事の脇に来て屈む、薄い姿しか残らない叔父の恭二は。 白眼を剥いて倒れた木葉刑事を見下ろしながら、佐貫刑事へ言った。


「この、悪霊が生む〔死界〕とか〔異界〕と云う場所は、酷く時の流れが緩慢と成るらしい」


「‘緩慢’? 時間の経過が、鈍く成るのかよ」


「あぁ。 それは、幽体のみが踏み込める、裏側の世界と半分だけ繋がるからだ。 その不思議な世界の中では、人の身体は疲労感や痛みを感じ難く成る。 だが、一度でもその世界が解ければ、蓄積したものが堤防の堰を切った様に、一気に襲い掛かって来るのだよ」


「チッ!」


木葉刑事と恭二を見て、舌打つ佐貫刑事。 また、既に自分も現れているのが限界と知る彼は、広縞の消えた方を向いて。


「木葉以外で、あの化け物を追える奴なんか居るかっ!! まさか、あの広縞の魂が居ただなんて…」


立ち上がる恭二も、人形の傍に佇む被害者の美桜を見ると。


「君を殺した男は、ある種の‘精神異常者’だったらしいね。 怨霊に殺されても、魂を砕かれ無い程に強い悪意を、その内部に持っていたのか…」


もうどうする事も出来ずに、悲しみに暮れる顔をするだけの美桜。


然し、雪が降って来る空を見上げた佐貫刑事は、


「き・・きょ・じ、もうダメだ。 俺達も、限界・・だ。 なんてこっ・・た・・・ひ・・ろ…」


語る途中から、姿が消えて行く佐貫刑事。


消えかかる恭二は、美桜へ。


「さ、君も・・人形・・・に。 これ以上・・しゅ・んを…」


頷く彼女は、光の粒に変わりながら人形へと消えて行く。


彼女まで吸い込んだ紙の人形は、其処で地面に溶け込む様に消えた。


学校近くに在る、小さいお寺。 その参道前の土地に横たわる木葉刑事を残して、あらゆるものが消えていった…。




‐ 内と外の境界が消えて…。 ‐




さて、悪霊の生み出した異界も、血の混じった雪も、威霊と広縞の霊魂も消えた。


然し、唯一と言って良い。 怪奇な現象が消えて無いのは、古川刑事の持つ手鏡の中。 其処に映る映像で在る。


(此処はっ、どっ、何処だっ?)


古川刑事の覗く手鏡の中には、洋画などで見る西洋風の館の中。 そんな場所が映っている。 食い入る様に手鏡を覗きながら、何故消えないのかと云う恐怖に手を震わせ、映像の中の音に耳を澄ませる。


(木葉の奴、最後に・な゛っ、何て言った? ‘ひろじま’。 倒れる前に、‘ひろじま’って言ったのか?)


悪霊にまで成り変わった、広縞の起こした事件の最後の犠牲者。 彼女の関わった事件以前から、広縞の事件には所轄の一員として関わり。 広縞がバラバラにされた後は、彼の写真を手に捜査一課の応援要請に応えて、聴き込みもした古川刑事である。 広縞に対する知識は、週刊誌で読む以上は知り得ていた。


だから…。


(あ゛っ、そうかっ! 悪霊に成る前に、怨霊の時に殺され奴だっ。 その魂も、悪霊の中に取り込まれ潜んでやがったのかっ)


何故か、不思議と腑に落ちる。


古川刑事の異変に、茉莉隊員は声を掛ける。


然し、古川刑事は、それ処では無い。


「消せっ、その映像を消せっ!」


この時、近付いて来た黒いワゴン車が、茉莉隊員達の使う黒いSUV車の間近で停車。 直ぐに、ガラッとドアがスライドして、降りて来たのは何と…。


(ん? あれは、三叉局長…)


‘秘匿情報管理局’と云う、警察庁内部の暗部に居るハズの三叉局長が。 何故か、ワゴン車から降りて来た。 そのワゴン車は、密かに特定人物を護送する為に。 鵲参事官の命令にて、外国並みにレベルの高い護送専用の改造が成されていた。


茉莉隊員が、サングラスの奥で眼を驚かせる時。


丸坊主頭にて体格がかなり立派な隊員が、三叉局長に近付く。


或る意味、三叉局長の登場などは霞隊員にすればイレギュラーに近い感覚に成る。


「此方、現場の茉莉。 統制部、どうぞ」


‐ 此方、統制部。 茉莉隊員、何か進展でも? ‐


「いや、専用護送車のワゴン車が到着。 然し、中から三叉局長が出て来た」


茉莉隊員の報告で、統制部からの通信が無言に成る。


この時に、丸坊主頭の隊員と三叉局長が合流した。


「あの・・三叉局長。 何故に、此処へ?」


恰幅な身体に、ごり押しで高級なスーツとコートを重ね着する男。 三叉局長は、進路を塞ぐ様に立たれた丸坊主頭の隊員へ。


「私が現場に来て、何が悪い? 私は、お前達の様な者と違い、これでも霊体の存在を感じる事が出来る。 其処に、警戒対象‘G’に関わる者が居るんだろう?」


「え?」


いきなりの話で、丸坊主頭の隊員は三叉局長から古川刑事へと視線を逸らした。


この時、古川刑事は…。


「不味いっ、馬鹿っ! 奴が侵入するぞっ」


と、声を出す。


古川刑事の覗き込んだ手鏡の映像が、洋館の内部へと踏み込んだのだ。


この、古川刑事の異変に気付いた茉莉隊員は、不審に思って声を掛ける。


然し、古川刑事には聞こえない。 切迫する事態を観ている彼には、それ処では無いからだ。


「消せっ、その映像を消せっ!」


と、押し殺した声を強くしてこう言う。


何故ならば。 何処かの洋館風な内装をした内部に入った映像では、機内のシートを殆ど取っ払って。 プライベート用に内装を大幅に変えられた、飛行機の機内らしき場所の映像が、大型モニターに映し出されて見えていたのだ。


一方、政府をヒヤヒヤさせたあの某暫定政権の大使館内では。


「あの子が空港に着くまでっ、この映像はこのままにしてぇっ!! イヤっ、絶対に切ったらイヤなんだからっ!!!!!」


ヒステリックに叫ぶのは、空港に連れて行かれた息子の母親だ。 夫と祖父の行動が気掛かりで、機内の映像中継をさせ続けろと言い張る。


「奥様っ、解っております。 さ、奥様のお部屋にて、向こうでご覧下さいませ。 此処では、窓から覗けてしまいますっ」


遣わされた執事兼秘書の初老男性は、大広間の大型モニターでは、外から客が来た時に見られると説得して。 ‘映像を切るな’、とヒステリックに喚く奥様を彼女の私室に誘導する。


が、其処へ。


「あ~らら・・」


大使館内に現れた、広縞の姿をした悪霊は。


“切れっ! 映像を切れ!!”


と、必死に言う古川刑事の声が聞こえるのを知ってか。


「おいおい、殺人の依頼主サマよぉ~。 自分から殺せと願って於いて。 今更に止めろとは、ムシが良すぎるぞ。 さぁ、ヒトゴロシの、御時間だぜぇ」


人の感情を逆撫でする様な声でこう言うと、大型モニターに飛び込んだ。


「あ゛っ、あぁっ!!」


手鏡を覗いてそれを見た為に、一層慌てる古川刑事。


見ている茉莉隊員は、近寄って来た三叉局長と他の隊員の前で。 古川刑事の傍らに屈み。 彼の手鏡を覗くが、何も映ってない。


だが、古川刑事の震えは、尋常なものではなくなっていた…。


さて。 同時刻。


日本の領土海域から隣国の海域へと近付く航空機が在る。


それは、シンガポール経由で行く、プライベートジェット機だ。 最新型の超速度旅客機は、1時間とちょっとで、既に日本の領土上空を抜け出した。


この機内は、例の大使の個人専用機として。 機内は、大幅に改造されていた。


先ず、操縦席と、彼等のトイレなどが在る場所を過ぎた先には、ホテルのリビングルームの様な場所が在り。 室内は、白亜の一色。 ゆったり座れる、6人掛けのシートは、真珠色のシーツが掛けられ。 テーブル、40インチのTVなど。 機内設備が充実していた。


この他に、ベッドルーム、シアタールーム、シャワールームなど。 空の旅では、必要性が微妙なもの思えるモノばかり目に付く、贅沢な機内だった。


然し、最後尾のスタッフ専用ルームまでの間にて。 機内真ん中のベットルームには、白いベットの上に足を投げ出して寝る、大使の息子が居た。


彼は、一人で今だにグズっている。 父親が、あんなに恐ろしく。 父親より上だと思っていた母親が、全く手出だし出来なかった先程の状態が、衝撃的で恐ろしかった。


この息子は、既に親戚や祖父母からには、完全に自分が見放されていると事を重々に承知していた。


だが、権力者で在る祖父母の子供でも、一番のお気に入りで。 父親も気を遣って頭の上がらない母親が居る限り。 “自分は、何をやっても許される”、とそう認識していたのだ。


だが、その思惑は、塵と消える。


今、彼の他の乗員は、パイロット2名。 それから、怖い顔をしたお守りの黒服エージェント2名。 その他、以外は自分だけの機内。


これが普通の旅行とかなら、自分の指名したメイドが乗り込み。 母親の目を盗んでは、支配的に弄ぶ処なのだが。


(サイアクだっ。 オヤジが、あんなにキレるなんて…。 高々、ジャパニーズを1人か2人、轢き逃げしただけじゃないか。 祖国では、子供5・6人をジープで轢いたって、誰も騒ぎゃしないのにっ!!)


薄く黒い、シースルーのカーテンの中。 シルバー色のシルク地のシーツが掛かる白いベッドの上で寝転ぶ彼は、大量の麻薬を大使館に置き去りにして来た事を頻りに悔やんでいた。


だが、彼が横向きに寝て、苛々を募らせる時。


「よぉ、クソガキ。 お前、これから殺されるぞ」


日本人の、日本語に因る物言いで、突然にこう耳元に囁かれた。


「だれっ」


‘誰だ’


と、怒鳴りつけるつもりだったが。


振り返って突き合わせる顔を見た瞬間。


(あれっ、コイツ・・どっかで…)


その、振り返った目の前に居る男は、ニュースなど自分から決して見ない彼ですら、うろ覚えながらに記憶する顔だった。


その男。 面長の顔は、顔の輪郭として立派だが。 捲れた唇は、怪我でもしたのではないかと感じる程に歪で。 その右側は、捻くれた様になり。 高い鼻は、筋が通っていそうなのに。 鼻頭が何故か上目に向いて、鼻の穴が丸見えとなる。 そして、垂れ下がった目の奥に潜む瞳は、獣的と云うより、狡猾にして意地の悪そうな。 根っからの悪人と感じられる、不気味な目つきをしていた。


だが、不思議なのは、カラーコンタクトでも、こんなモノが在るのかと思う程に。 赤く光る目には、黒々とした靄が渦巻き。 また、捲れた唇の隅からは、仄黒い息が溢れている。


(な゛んだぁっ、コイツ・・ゲームに出て来るモンスターみたいじゃんかっ!!)


驚きながら、見れば見る程に違和感の在る姿をする相手だ。 傷だらけの顔や手は、傷口が腐って腐敗している様にも見えて。 着ている衣服は、汚れた感じの男性用の夏服だった。


さて、何処からともなく現れた男を見て、後退りした息子は。


「あ゛っ!!」


少し引いた瞬間に、何かを思い出した。


その表情を見た広縞は、ニタリと微笑み。


「へぇ~、俺も有名人に成ったモンだ。 異国の大使の子供ガキにまで、顔を覚えられたなんてな~」


と、息子に襲い掛かった。


「来るな゛っ、ぶぅっ!!」


暴れ様とした息子を、瞬く間に近寄って思いっきり殴った広縞。 全ての怨念の魂が抜け出た威霊に彼は宿ったのだが。 殴った一撃で、息子の顎が砕け散って。


「あ゛ばっ、あ゛あ゛あ゛あ゛ーーーーっ!!!!!!!」


顎を砕かれ、血まみれの口で叫ぶ息子。 痛みや恐怖に駆られ叫ぶその声は、人のものと云うより、獣の悲鳴と言って良かった。


その息子へと馬乗りに成る広縞は、


「うはははははっ! 何て力だよっ、こらっ! うらっ! 痛いか? おらっ!」


息子の顔を殴り、胸を殴り、腹を殴る。


すると、殴られた処の骨を砕かれ、更に内出血が起こってショック状態となる大使の息子。


人間がショック状態と成るなど、複数人で暴行を加えるとか、事故にでも遭わないと中々難しいが…。


「うっう゛う゛う゛…」


小刻みに震え、口回りを血だらけにし。 瞳孔が開きっ放しと成ってしまった彼は、広縞に喉を掴まれた。


この状態で、何故に、誰も来ないのか…。


この部屋は、完全防音加工され。 尚且つ、父親の意向で、‘到着まで構うな’と指示が出されている。


また、一緒に着いて行く屈強な体格をした秘書は、向こうで祖父の許可を得たならば、この息子を暗殺する予定なので。 もう、気遣いをする気が無かった。


‘無視’


と、云う檻の中で。


大使の息子は、新なる呪いの狩人‘広縞’により。 その首をへし折られ、力任せに・・もがれた。 船内のルームスペースとなるこの場に、大量の血の臭いが溢れ出す。 この臭いには、外に居る監視と護衛を兼ねる見張りも直ぐに気付くだろう。


さて、首を手に入れる広縞は、強い衝動と束縛の意志に支配される。 この飛行機に乗る全員を殺してみたかったが、その意思、行動に移ろうとすると朦朧となり。


「ぐぅ。 手を・・く・下せるのは、呪われた者と・・・呪った奴。 その・いっ命を奪うまでの・・周りのみ・か…」


と、呟くと。


自分の視点で、死体を見下ろす古川刑事にグッと覗き込む様に成り。


「おい、呪った奴。 見ろ、首を取ったぞ。 今度は、お前の番だ」


鏡を覗いて、それまで茉莉隊員や他の者に尋ねられても、


“止めろっ、もういいっ! お前に頼んでいないっ、止めろっ!”


と、一心不乱に手鏡へ喚き掛けていた古川刑事。


だが、広縞から見返されて、彼の話を聞いた古川刑事は、


「おいっ、おいぃぃっ!!!!」


と、雪に塗れて喚き出す。


その傍に寄る茉莉隊員は、


「古川刑事、どうした? ‘ひろじま’って、あの・・去年に死んだ広縞?」


と、問うのだが。


目を見開き、ブルブルと震える古川刑事は、茉莉隊員に手鏡を見せて。


「ころ、こっ・殺されたっ! あの大使の息子がっ、ひひひっ広縞にっ」


(え?)


とんでもない事を言う古川刑事。 驚く茉莉隊員が、周りに来た黒服の隊員達や三叉局長を見上げるのだが…。


「・・・」


黙って傍らに屈む三叉局長はその手鏡を覗くと、何も映ってないと理解。


然し、手鏡自体から、只ならぬ気配と云うか、怨念の力が凝縮されている様な感覚を受け。


“連れ出せ、護送車に乗せろ”


と、茉莉隊員に顔で示す。


三叉局長の強張った顔を見た茉莉隊員は、手鏡を見て彼が変わったと感じ。 自身でも手鏡を覗くと、何も不自然なものが映ってないと見るや。


(適性も無いし、当事者でも無いから、此方には見えない・・か)


と、思うと。


(仕方ない、木葉刑事を呼ぶしかないか)


屈めた膝を立たせ。 周りを固める隊員に、手合図を送ると。


「木葉刑事を連れて来るから、貴方は向こうの車に。 何時までも此処に居ては、ずっと不自然な通行止めをして於く必要が在って。 通行人が、不自然に思う。 だから、あの車に乗って」


こう言われて、ガクンガクンと頷く古川刑事。 だが、古川刑事は、この茉莉隊員が何者なのかは、良く理解していない。 だが、政府関係者か、捜査機関の誰かとは理解していた。


三叉局長が、手鏡を抱いて立ち上がる古川刑事の脇に沿い、道沿いに駐車した黒いワゴン車へと誘導する。


一方、丸坊主頭の隊員に近付く茉莉隊員は、三叉局長の登場が余りに不気味で。


「私は、これから木葉刑事を捜して連れて来る。 そっちは、三叉局長のワゴン車に後ろから着いて行き。 鵲参事官か、長官の指示を仰いでくれ」


丸坊主頭の隊員は、


「然し…」


と、三叉局長と古川刑事を見返すが。


茉莉隊員は、三叉局長と云う異物に近い人物が現れて。 尚且つ、〔広縞〕と云う、予想だにしない不安定要素が古川刑事の口から出た事に、強い不安感と違和感を抱く。


「疑問は、私も同じ。 だが、これだけのイレギュラーが出ては、班一つでイレギュラーのどれかに対応するべきじゃない。 車一台と、数人の隊員は連れて行ってくれ。 三叉局長が来た事が、実に不気味だ」


茉莉隊員の話に、丸坊主頭の隊員も理解が行く。 三叉局長は、鵲参事官の仕事を自分が遣るべきと、他の隊員に大声で漏らしたと聴いた事が有った。 霊感・霊視が少しばかり出来るだけで、鵲参事官に取って代わろうと云うらしい。


「解った。 茉莉、そっちは現場を頼むぞ」


「あぁ。 副班長には、車内で話を通してくれ」


「了解」


丸坊主頭の隊員は、若い配属されたばかりの隊員と。 部下として所属する下部組織の隊員を数名呼ぶ。


茉莉隊員は、里谷捜査員に呼び出された場所に走り出す。 そして、渋谷橋へと走る茉莉隊員は、街灯が並ぶ大通りへと曲がって行く過程で。


「此方、茉莉っ。 統制部っ、聞こえますかっ?」


「此方、統制部。 茉莉隊員、何か?」


古川刑事が見たと云う事実を伝え、木葉刑事を回収して事情を聴くと言った茉莉隊員。


然し、この時。


黒服の屈強な男性と黒いスーツやコートを羽織る三叉局長に促されて。 ワゴン車に乗り込む古川刑事は、手鏡からする声を聴く。


「おやおや?」


広縞の肉声は、古川刑事も知らないが。 違和感や悪寒を呼ぶ、男の低い声に。


(いやな・・胸騒ぎがしやがる・・。 木葉、済まないっ)


刑事として得たこれまでの経験は、伊達に長く積んでいる訳では無い古川刑事だ。 己の五感に走る感覚で、何となくこれから起こる悪夢が、何か。 直感として、脳裏に湧いた。


虚ろな目で、後部シートに座って手鏡を見る。


「どうやら、テリトリーの中に居るみたいだな~。 おい、禿げた爺さん、そっちに行くぞ」


と、声がする。


この時、一緒に同じ列へ同乗したのは三叉局長のみ。 屈強な護衛役の黒服のエージェントを、金属製の網目格子の壁の先。 中間シートに行かせた彼だった。


その閉まるドアの外では、丸坊主頭の隊員が黒服のエージェントに掛け合う。


同じく、ワゴン車のスライドドアが閉められた時。 三叉局長も、手鏡の中の広縞が言った言葉を、通り縋りに聴く他人の話の様に、曖昧気味ながら耳にする。


(何だ? 今の声は・・。 この古川刑事のものじゃ無いぞ)


其処に合わせて、広縞の顔が手鏡の向こう側にへばり付いた。 そして、いとも容易く、手鏡から広縞が飛び出して来た。


「うわ゛ぁっ!」


三叉局長は、手鏡から湧き出す広縞がうっすらと見えた。


然し、広縞の目と合うのは、古川刑事の目。 狭い車内で、対面する様に見合う。


「ホラ、ご所望の首だぜ」


と、古川刑事の足元に、大使の息子の首を落とす広縞。


「おまっ」


掴み掛かろうとした古川刑事だが。 腹部で爆弾でも爆発したかの様な、痛みを超えた衝撃が走った。


「ぐ・ぶっ・・ひぃ・ろ…」


途切れる声を絞り出した古川刑事だが。


「ウルセェっ」


吐き捨てる様に言った広縞は、古川刑事の腹に突っ込んだ手を抜き。 体内から腸を引きずり出した。


車の中で血の臭いが溢れ。 古川刑事が、奇妙な最後の声を発する。


「ひぎゃあ!」


喚いた三叉局長がドアにぶつかる事で、ワゴン車が揺れ動いた。


これからの対処を長官判断に委ねようとさせる丸坊主頭の隊員と。 三叉局長の命令で、古川刑事を預かると言い張る黒服のエージェント。


2人の話し合いが平行線に成ろうか、と云う処だったが。 ワゴン車が揺れ動いた事で、丸坊主頭の隊員も、黒服のエージェントも、遣り取りを中断する。


「オイ、車が揺れたぞ」


と、丸坊主頭の隊員が言う。


視界の片隅で、それを見てしまった黒服のエージェントなだけに。


「・・・」


暴行でも在っては、この後が面倒と。


「三叉局長。 どうか、なさい・・」


然し、閉めたドアに話し掛ける最中にて、黒いフィルムの張られたドアの窓に、ドバッと液体が飛び散る。


「オイっ!」


丸坊主頭の隊員が鋭い声を掛け。


「チッ」


舌打ちした黒服のエージェントは、ドアをスライドさせて開いた。


この時に受けた衝撃は、誰もが如何様にも言い表せないものだと思う。


ズルンと体重の重みのみで、路上に落ちる三叉局長の顔は。 見るのも無惨なまでに壊された様な、酷い有り様に潰れていた。


そして、その車内では。 内臓を引きずり出されて死ぬ古川刑事が、シートに血だらけで横たわり。 また、彼の左側の足下には、中列シートとの境目に在る金網の壁と、古川刑事の足に挟まれる格好で。 外国人の若者の生首が、何故か存在していた。


然し、車内に広縞の姿は、在る訳が無い。


「あ・・あぁっ」


遅れて驚く黒服のエージェント2人。


然し、丸坊主頭の隊員は、何とか気を保って統制部へと連絡を入れた。


“古川刑事並びに、三叉局長が殺害された模様。 それから、殺害現場のワゴン車内には、大使の息子と思われる外国人の若者の頭部のみが存在する”


情報を統制する本部にて、その情報を聴いた鵲参事官と太原長官の驚き様は、青天の霹靂が起こったとしか無いもの。


俄に、情報統制部と太原長官が、忙しく遣り取りをし始めた。


さて。 一方、渋谷橋にて。


里谷捜査員の運転する車の助手席に座る霞隊員は、劣化した血の臭いに気付き。


「貴女、臭うわよ」


車を出す里谷捜査員は、それ処では無いと運転に集中しながら。


「誰も、好きでこんなモノを浴びないわよ。 木葉刑事の消えた辺りで、血の混じる雪が降ってるのよ。 四方八方、侵入が出来そうな場所を探したんだけど、何処からも入れなかった訳」


だが、里谷捜査員の格好を見る茉莉隊員は、これまでの彼女に全くない要素の服装に。


「立派な変装だ。 道理で、警戒に当たる私服の下部隊員が、貴女の事を見過ごす訳ね」


「色々と在ってね。 全くの別人に成る必要が在ったワケよ」


と、説明した里谷捜査員だが…。


「あ゛っ! 黒い闇の靄が・・晴れてる」


木葉刑事の居た場所は、遠目だと靄が掛かった様に見えていたが。 茉莉隊員を連れて来ると、靄が晴れていた。


木葉刑事を下ろした場所と同じ所に停車した里谷捜査員は、


「拳銃、持ってるわよね?」


と、茉莉隊員へ。


「その心配は、必要無い」


「じゃ、行くわよ」


美女2人して、車から降りてライトを点ける。


車を降りた場所から2人して路地の左右へと別れ。 寺の方に、身を屈めながら向かう2人。


右側の里谷捜査員は、闇色の砂嵐が舞っていた壁が無くなったと。


(消えてる…。 悪霊ってのが、居なくなった?)


と、先へ行く。


然し、着慣れないスカートや衣服が、身動き取り難く。 寒さも沁みて、面倒だった。


代わって、左側から寺に近付く茉莉隊員だが。 ライトに見える地面の雪が、赤茶けて錆色をしていると見て。


(広範囲では無いが、血の色の雪か…)


里谷捜査員の話は、嘘ではなさそうだと理解した。


だが、其処で。


‐ 此方、統制部。 茉莉隊員、聞こえますか? ‐


先に行く里谷捜査員を見た茉莉隊員だが、


「此方、茉莉。 統制部、何か?」


インカムに手を遣って話を聴く。


‐ たった今、古川刑事と三叉局長が、護送車内にて殺害された模様。 ‐


(えっ)


その場で固まる茉莉隊員の耳には、更なる声がする。


‐ 尚、ワゴン車内には、先程に国外退去した筈の大使の家族の、身体の一部も在ったと確認。 木葉刑事を最重要情報提供者と認識。 速やかに彼を確保して、詳細を聴取せよ。 ‐


「茉莉、了解しました」


そう答えた茉莉隊員だが、頭の中の混乱は最大限まで及ぶ。


(死んだ? 古川刑事と三叉局長が…。 バカな、そんな・・馬鹿な)


混乱から立ち直れず、直ぐに動けない茉莉隊員だが。


其処へ、里谷捜査員の声で。


「しっかりしろっ、木葉刑事! ちょっと、目を…」


と、聴いた瞬間。


(まさかっ! 彼まで!!)


ヘドロの様な雪が積もる路面を蹴って、茉莉隊員は走った。 細い路地を抜け、学校前の片側一車線道路にぶつかった右側に。 寺の敷地内で、土が剥き出しの場所が在る。 其処に、倒れている木葉刑事と、屈んで寄る里谷捜査員が居た。


「どうしたのっ?」


「救急車っ! 呼吸が途切れそうな程に弱いっ!!」


里谷捜査員の話で、茉莉隊員の焦りは一方的な感情へ傾き。


「此方っ、茉莉! 統制部っ、応答願うっ!! 至急っ、自分の居る場所に救急車をっ! 木葉刑事を発見っ、然し意識不明の重体っ!!!!! 直ぐにっ、救急車を要請願うっ!!!!!!!!」


深夜の2時を大きく回った頃。 倒れている木葉刑事を発見して、救急車を呼ぶ事と成る。


完全に気を失い瀕死に近く、とても息が弱い木葉刑事。 こんな様子では、状況を聴く処では無く。 古川刑事と三叉局長が死んで、大使の息子の首が在ったと聴いては。 流石の茉莉隊員も、狼狽の極みに達する。


(どうなってるっ? あのGはっ、沈静化したのでは無かったのかっ? 三叉局長に、古川捜査員に、大使の息子まで殺されたっ?!)


里谷捜査員と人命救助の行動をしながら、頭の中は完全にパニックだった。


その頃。 また、別の場所では…。


越智水医師と一緒に居た寡黙神主は、御札を底に沈めた杯型の水鏡にて。 悪霊の根元と成った女性の魂を木葉刑事が救い出す。 その一部始終を見終え。 手の中に現れた紙の人形を見下ろしつつも、苦しむ辛い顔をし。


「嗚呼っ、何と云う事かっ。 あの殺人犯の男の魂がっ! まだ、あの悪霊の中に潜んでいたとはっ、迂闊だった…」


と、憤り悔しがる。


同じく、途中から水鏡にて。 幽霊を視る様に、ややボヤケた映像が見えていた越智水医師は、もう気持ちが落ちてしまう。


「どうして、どうして終わらないんだっ。 木葉君が此処まで命を懸けたのにっ。 嗚呼っ、古川さんまでが…」


本殿の床に伏せるままに、絶望から泣き出した。 同じく娘を持つ父親として、あの詩織に何と言えば良いか。 どう謝れば良いのか。 親故に、越智水医師も混乱の極みに至る。 上着の内ポケットでは、順子の鳴らすスマートホンからの電波を受信し。 バイブレーション機能が振動している。 だが、それを取れる状態に、越智水医師の精神が無い。


さて、同時刻。


所変わり、大学病院の休憩室にて。 電話を鳴らす順子が、ヤキモキして困っていた。


(はぁ。 越智水先生ったら、御家族までほったらかして…。 奥様からのメールを読んだけど、学会から戻って来て、それからずっと塞ぎ込みがちって…。 絶対、木葉さんの事だわ)


心配が募るのは、順子も一緒。


その同時刻。


(木葉さん・・出ないな…)


所、また変わり。 東京のど真ん中とは思えない。 目黒の一角に在る庭園の中。 祖父の家に居る詩織は、木葉刑事に掛けた電話を切る。


(お父さん。 お父さんだけは、私を置いて行かないよね?)


‘時、既に遅し’


詩織に、それを知り得る力は無い。 朝方に掛かって来る電話まで、不安の海に沈むしか無かった。


この時、古川刑事を捜し回って、もう捜す場所が無いと。 警視庁に乗り込む三住刑事。


様々な人の模様が織りなす中で、絶望は続く。


命懸けで、力の全てを使い果たした木葉刑事だが。 まさかの展開に、また入院する事と成る。


視えない者には、不思議と不安と疑問が残り。


視える者には、終わらない結末と絶望感が付き纏う。


次は、消えた広縞と、木葉刑事の戦いが始まるのだろうか…。


深夜まで起きていて、窓に近付き。 まだ弱い雪の降る外を、別々の窓から眺める順子と詩織。


温かい休憩室で窓から外を眺める順子は、一ノ瀬看護士と他愛ない雑談を交わし。


明かりの届かない廊下から古い木板の廊下に立って。 ガラス戸越しに、雪の降る闇夜を眺める詩織は、寒さと同じ不安感を持って。


「ハァ…」


と、息を掛けて手を揉む。



それから、2日も降り続くこの大雪は、一体・・何を濯ぐのか…。




- 下・完 -





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A CURSE 2 蒼雲綺龍 @sounkiryu999

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