蝶々
尾八原ジュージ
蝶々
ピアノ教師のザミラン先生は自分の屋敷に「
町外れにある、まるで何百年も昔に建てられたお化け屋敷みたいなところに、先生はひとりで暮らし、近隣から少年少女を呼んでピアノを教えていた。辺鄙なところにも関わらず、なぜか先生を訪ねる門下生は後を絶たなかった。おれもそのひとりだ。
先生がどこからきたのか、何歳なのか誰も知らない。ただ呼び鈴を鳴らしもしないうちから玄関ドアを開け、「いらっしゃい」とおれを招き入れる手は大層白くてほっそりとして、男ながら蝋細工のようにうつくしい。銀のカップに注がれる紅茶からは他所では嗅いだことのない香りが漂って、なんというのか、身体の中心がいつもより三センチほど地べたから離れるような気分になる。
レッスン室に置かれたグランドピアノは、それ自体命を持っているかのようによく響き、よく歌う。ザミラン先生は、門下生の中のみならず今まで聞いた中で一番、おれの弾くピアノが好きだという。だから蝶々などくれる気になったのだろう。
「その蝶々というのが双子で、まるでおんなじ見た目なものですから、きみにひとつ差し上げようかと思って」
レッスンのあと、先生はそう言って一匹の蝶々が入った籠を持ってきた。
なるほどそれは確かに蝶々で、そしてとても綺麗だった。籠の中にいた身長15センチほどの小人は、一見おれとさほど年恰好の変わらない少年のように見えた。ぬけるような色白で、金色の巻き毛を艶々と背中に垂らし、一見すると名画のなかの天使が絵から逃げ出してきたみたいだった。しかしよくよく見れば表情などは明らかに人間ではなく、顔をみるだけでああこれは虫だなという感じがした。通常の手足のほかに横腹からもう一対の腕が生えているのも、いかにも昆虫である。
そして、背中には螺鈿細工で拵えたような羽根が生えている。蝶々が羽根をゆっくり動かすと、鱗粉がきらきらと舞った。
「いつだったか、きみも自分のヴンダーカンマーを作りたいと言っていたでしょう。だったら、これくらいの蒐集品がなくては格好がつかない」
先生の声が遠くの方で聞こえた。それくらいおれはひとめ見ただけで蝶々を気に入ってしまい、青や白や緑に輝く羽根に見惚れながら「おれのヴンダーカンマー」と譫言のように呟いた。ふと息遣いを感じて視線を上げると、ザミラン先生の仮面のように整った白い顔がすぐ目の前にあった。
「お持ちになるでしょう?」
先生が尋ねた。
「はい」
おれは答えた。
「お返しは? いただいてもいい?」
「はい」
ザミラン先生の赤い目が爛々とかがやいた。先生はおれのシャツの釦を上からみっつ目まで外し、やにわに首筋に噛みついて血を吸い始めた。おれはいつのまにか昏倒した。
目を覚まし、先生の屋敷から虫籠を抱えて帰ったときには、すっかり夜になっていた。
蝶々は人間の顔をしているものの、人間のように話すわけでも何でもない。やはり蝶々は蝶々で、だまって花の蜜など吸っている。
おれがもっと大きな籠に入れてやると、蝶々は羽根をひらひらと動かしてその中を飛んだ。螺鈿細工のような羽根が動き鱗粉が舞う。これは確かに、いずれ作る予定のおれのヴンダーカンマーに入れるのに相応しい逸品だと思った。
それにしても蝶々は何をしてやれば喜ぶのやら、よくわからない。新鮮な花を入れてやっても、いい匂いのする苔のついた枝を入れてやっても、相変わらず虫の顔で平然としているように見える。そうやっているのがまた綺麗なので、こんなに綺麗ならきっと自分の姿くらい見たかろうと小さな鏡を入れてやったら、なんとこれに大層喜んだ。
蝶々は日がな一日鏡の前から離れず、四本の腕で鏡の表面をさすったり、首を傾げて己の顔をまじまじと見つめたりしている。
おれは最初、蝶々は自分の姿を見るのが楽しいのだろうと思っていた。しかし日が経つにつれて(蝶々は生き別れた自分のきょうだいを探しているのではなかろうか)と考えるようになった。
ザミラン先生は言っていたではないか。蝶々は双子で、見た目はまるで同じようだったと。おれの蝶々は双子の片割れを恋しがり、鏡像をそれと思って可愛がっているのに違いなかった。
ちょうど次のレッスンの日が近づいていた。おれは先生の機嫌がよくなるよう、いつもより念入りにピアノを練習しておいて、ザミラン先生の家に向かった。森の中の小道を歩くと、周囲の木々はいつもより騒がしく、おれの頭の上でざわざわとざわめきあった。
「いらっしゃい」
先生は呼び鈴も鳴らさないうちに扉を開け、仮面のような顔で笑った。
レッスンを終えると、おれはさっそく蝶々のことを切り出した。二匹しかいない蝶々を両方ともよこせというのだからずいぶん図々しい話だけれど、この際どう思われてもかまわないと思った。おれの蝶々がそれで喜ぶのなら、安いものではないか。
先生は肘掛椅子に座っておれの話を聞いていたが、
「そういうことでしたら仕方ない、特別に差し上げましょう」
そう言って立ち上がった。それから、この広い屋敷のどこかにあるヴンダーカンマーへ向かうべく、レッスン室を出ていった。
おれは蝶々がどんなに喜ぶだろうかと思うと、胸が破裂しそうなほどどきどきした。二匹も飼うのなら、もっと大きな籠か、いっそ檻にでも移してやらねばならないかもしれない。檻の中には鉢植えの木や花を入れて、日光がよく当たるように向きを調整してやらねばなるまい。二匹の蝶々が睦み合うようにひらひらと飛ぶさまを早く見たい。蝶々はどんなに喜ぶだろう。おれの蝶々は。
少しして、先生が木箱を手に戻ってきた。虫籠にしてはすこし小さいような気がした。
「これが双子の片割れですよ」
ガラスの蓋の向こうに、おれの蝶々とまるで同じ見た目をした美しい蝶々の死骸が、白い台紙の上に羽根を広げて横たわっていた。二対の手を身体の前でそれぞれ組み、両目を静かに閉じている。白い胸にはふかぶかとピンが刺さっていた。
「あいにく、もう標本にしてしまいました」
先生は平然とそう言った。
おれが呆然としていると、目の前にいつのまにか先生の顔があった。吐く息に血の匂いが混じっていた。
「どうします?」
爛々と輝く瞳に、おれの顔が映っていた。先生はおれの両肩をぐっと掴み、耳元に口を寄せて囁いた。
「持っていかれますか?」
おれは「はい」と答えた。悪夢に酔っぱらったような気分だった。
「お礼は? いただいても?」
「はい」
先生は薄い唇の両端を吊り上げるようにして笑い、おれのシャツの釦を上からみっつ外して首筋にかじりついた。おれは自分の血液が吸われる音を聞きながら、いつかおれのヴンダーカンマーに吸血鬼の首を飾ってやる、と思った。
家に着いた頃にはもう深夜だった。家族はおれがザミラン先生の家からどんなに遅くなっても気にしないため、すでに窓の灯りは消えている。
おれはひとりで部屋に戻った。窓から月光が差し込むなか、蝶々は鏡にくっついて眠っていた。
標本が崩れるのを恐れたおれは、木箱からガラスの上蓋をとると、箱ごと蝶々の片割れを籠の中に入れてやった。籠の戸を閉めたとき、眠っていたはずのおれの蝶々がふいに目を覚ました。そして自分の片割れが戻ってきたことに気づいた。
蝶々は羽根をひらひらと動かし、鏡を離れてあっという間に木箱のところへ飛んでくると、もう動かない片割れの顔をまじまじと見つめた。それからきゅうくつそうにしながらも木箱の中に入り、死骸の上に折り重なるように横になって目を閉じた。
おれは眠っている蝶々を、息を殺して、いつまでも見つめていた。
蝶々 尾八原ジュージ @zi-yon
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