どこまでも

 私は、今キーボードに向かう私は、何を間違えたのだろうか。いや、今も間違え続けているのだろうか。それすらもわからぬまま、文章を打っていく。

「諸君、私は文芸が好きだ」

「諸君、私は文芸が大好きだ」

「小説が好きだ」

「詩が好きだ」

「戯曲が好きだ」

「随筆が好きだ」

――紀行が好きだ、伝記が好きだ、日記が好きだ。この地上に存在するありとあらゆる文芸を、私は愛している。諸君、文芸部に興味はないかね?一本の作品を書き上げ、それを部誌に載せるときは、心がおどる!文芸部は、文を愛する者にとっての居場所なのだ!文芸部と言っても二年生は私ともうひとりの二人だけだ。文芸部は今、助けを必要としている。ならばそんな高飛車な演説をするな、だって?そうはいかん、私は強烈な印象を残さなければ行けないのだ。恥も外聞もあったもんじゃない。さぁ、君たち!我と、我が文芸部に加わるんだ――!



 おかしい。自分は文芸を愛し、廃部寸前の文芸部を救うために全力を尽くして舞台に立つ、そんな恥も外聞もない言葉の戦士だと高らかに宣言したのは私じゃないか。その演説を打ち込んだところで、今更何も変わらないだろう――いや、間違いなく何も変わらない。私の体の中に染み付いた刺々しい怒りの硝煙も、禍々しい理論に埋もれた荒野も、自分を守るために背負ったいくつもの知識も、私の敗因すべてが私の中にとどまり続けている。とびきり愉快で陰気な表層も、とびきり退屈で陽気な深層も、何も変わらないままだ。


 文芸部に部員が訪れたのは、皮肉にも演説の後ではなかった。もっと戦略的に、そして魂からの叫びを調理して作り上げた動画を流した一年後だ。そのあとにした、棘を失った演説は確かに高校生一千人を高揚させ、エンターテインメントとして確立された。しかし、だ。私は同時に、魂をそのまま込めたものは大衆には受け入れられないという苦い教訓を得た。私は「戦略」だのなんだのと言って誤魔化しているが、端的に言えばそれは逃げだ。本当の自分をさらけ出さない「戦略」が本当の自分自身になるはずなどない。しかし、あの演説が私だ。あの演説が一千人の高校生たちにとっては「私」という人間をもっとも端的に言い表せる本質なのだ。自分を偽ることが、戦略以上のものになってしまった瞬間である。



 加工したら本来纏っている色味も匂いもかおも何もない、ただの赤い切り身になるまぐろのように。そんな喩えを使って説明しようとして、ふと思い当たった。

「鮪の本来の色は、切り身の赤なのか」

 鮪の表面のつやつやとした吸い込まれるような暗色と目を突き刺すように輝く乱れた白光は自らを捕らえんとする敵を抑えるための武器であり、切り身は捕食された結果である。つまり、鮪の赤い、くろがねしい味のする切り身は考えようによっては偽らない鮪の姿かもしれない。となれば鮪を捕食する側と鮪に捕食される側、もっと言えば鮪を捌く生物とそのまま食べる生物やその姿を見ながら食べられる生物では鮪の認識は違うだろう。我々は捌いた鮪を食べる。しかし、鮪を捌くことができるものが一般の人間にどれだけいるだろうか。鮪の体の構造を知っていなければ、鮪を切り身にすることもできない。


――つまり、そういうことだったのだ。


 私の纏う戦略を捌いて解体して、それを詳しく見ることができる人の前なら、本来の姿を見せることは偽りながらでも可能なのだ。そして、本来の姿は切り身として流通することもある。上々じゃないか。


 私は半年間、何をこんなくだらないことで迷っていたのか。それが文芸部からの引退の前で見えた気がした。


 そうだ。この原稿を後輩たちに、私が関わる最後の部誌に掲載してもらおう。それでいい。私はもう、本当はわかっていたのだろう。自分の本来の姿の表し方を。清々しい気持ちで私はキーボードの電源を落とし、データを送信する。



 どこまでも続く、明日のために。

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冬のエトセトラ 古井論理 @Robot10ShoHei

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